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第10話 -第一部・完-

 昼下がりのオカルト研究会部室。


 あたたかな午後の日差しの中で、俺たち三人は、テーブルを囲んでいた。


 


 一人は、老舗料亭が贅を尽くした三段重の弁当を、優雅な手つきで広げて、俺にも食べるように勧めてくる、氷室雪弥。


 一人は、主食から副菜までが全て紫がかった(紫キャベツとゆかりのせいだと信じたい)手作り弁当を広げて、是非俺にも食べて欲しいと迫ってくる、雨夜雫。


 そして、その二人の間で、コンビニの鮭おにぎりと安売りの茶を手にしているのが、日浦陽太こと、俺だ。




「……こうして、誰かと昼食をとるというのも、案外、悪くないものだな」




氷室くんが、出汁巻き卵を一切れ口に運びながら、ぼそりと呟いた。




「……俺もそう思う。大学に入ってから、誰かと机を並べて昼食を摂ることって、本当になくて。今日これが初めてかもしれないよ」




「……私もです、陽太くん。私はいつも、茂みの中や天井裏で、陽太くんの咀嚼音をBGMに一人で栄養ゼリーを啜っていましたから……。こうして正面でお顔を拝見しながら咀嚼できるなんて、……あぁ、これだけで私の細胞が歓喜に震えています……!」




「……茂みは卒業してくれって言っただろ?」




 呆れ混じりに応えながらも、俺は柄にもなく胸の奥が温かくなるのを感じていた。


 傲慢な天才、狂った追跡者、そして呪われた依代。


 まともな友人関係など築けるはずもなかった欠落者たちが、今、この狭い部室で一つの食卓を囲んでいる。それは、奇跡に近い「普通」の断片だった。




******




 異変は、俺達が和やかに昼食を食べている最中に起きた。




「あ、雨夜さん。頬に米粒ついてるよ」




 俺は何気なく、彼女の白い頬に付着した一粒の白米を取ってあげようと、彼女の頬へ手を伸ばした。


 本当に、他愛のない、日常的な仕草のつもりだった。のだが。




――バチンッ!!




 乾いた音が響いた。


 俺の手が彼女に触れる直前、雨夜さんが猛烈な勢いで俺の腕を振り払ったのだ。


 彼女の目からハイライトが消え、全身が小刻みに、それでいて激しく震え始める。




「……っ! あ……申し訳、ありません……殺さないで、……痛いのは、もう、……あ……っ!!」




 雨夜さんは椅子から転げ落ちるようにして床に伏せると、そのまま、額を床に擦り付けた。


 土下座。それも、許しを請うというよりは、暴力を最小限に抑えるために急所を隠す、生物的な防衛姿勢だった。




「ごめんなさい陽太くん! 私、なんてことを……! あなたが私を叩くはずがないのに、腕が勝手に、脊髄が勝手に……! 死んでお詫びします、今すぐこの場で腹を……ッ!」




「雨夜さん!? 違うんだ、俺はただ――」




「――無様だな。いつまでそうしている、雨夜雫」




 動揺する俺を遮ったのは、箸を置いた氷室くんの、あまりにも冷徹な、けれど事実だけを突きつける声だった。




「立て。……ここにお前の父親や、中学時代にお前を囲んで弄んだ男どものような屑はいない。……日浦陽太を、あんな汚物共と一緒にするな」




 雨夜さんの体が、氷を押し当てられたように硬直した。




「氷室くん……それ、どういう……」




「……うふふっ、氷室さん。勝手に人の過去を読み取るだけでは飽き足らず、陽太くんの前でバラすの、辞めて頂けますぅ? ——殺しますよ?」




 雨夜さんが、氷室くんに本気の殺意を向けている。余程、秘密にしておきたかったことなのだろう。当の氷室くんは、悪びれた素振りも無く、昼食を食べ続けている。




「……雨夜さん」




 俺はゆっくりと、膝をついて彼女の目線に合わせる。


 


「……怖がらせて、ごめん。……次はちゃんと、言葉で伝えるよ。俺も、氷室くんも、いや氷室くんは時と場合によるかもしれないけど……君を傷つけるために手を上げることは、絶対にないから」




 俺が震える彼女の背中に、今度はゆっくりと時間をかけて触れると、雨夜さんは、困ったような笑顔を向けてくれた。とても、珍しい表情だった。




******




 落ち着きを取り戻した雨夜さんが席に戻ると、部室には再び奇妙な静寂が訪れた。


 ふと見ると、先ほどまで饒舌だった氷室くんが、どこか浮かない顔をして窓の外を見つめている。




「……氷室くん? 君こそ、どうしたんだ。さっきから全然箸が進んでないじゃないか」




「……いや、何でもない。ただ、少しばかり、生活の最適化が必要になったというだけだ」




「最適化?」




 氷室くんは自嘲気味に笑い、ネクタイを緩めた。




「……家を、捨ててきた。……正確には、勘当されたよ」




 その言葉に、俺と雨夜さんは絶句した。




「勘当って……君、氷室家の次期当主じゃなかったのか? 政府の会議にも出るような、あんなすごい地位を……」




「父上に正面から宣言したのだ。……『僕は日浦陽太という男を愛した。彼こそが、僕がこの人生で唯一選ぶ伴侶である』とな。……伝統と格式を何よりも重んじる我が家にとっては、救いようのない叛逆だったらしい」




 氷室くんは淡々と、まるで他人のニュースを読み上げるように語った。


 だが、その手には、すべてを失った人間の虚脱感ではなく、守るべきものを決めた人間の、重厚な決意が宿っていた。




「今の僕は、ただの多彩な術式が使える、世間よりはちょっと収入が多い程度の国家公務術師であり、ただの男子大学生だ。ああ、今一緒に住んでいる別邸は、僕の稼ぎで買ったものだから、追い出される心配はないぞ、安心してくれていい。……ただ、その。以前よりは羽振りの良い生活を、お前にさせてやれないかもしれない……不満か?」




「……不満なわけ、ないだろ。……馬鹿だな、本当に」




 俺は、込み上げてくる感情を抑えるように、笑った。


 雨夜さんは凄惨な過去を背負い、氷室くんは輝かしい未来を投げ打った。


 そうして、俺は。いつ怪異に襲われるかも分からない、不安定な今を生きている。


 


 三人とも、何も持っていない。


 居場所も、約束された明日も。


 


 けれど、だからこそ。


 この埃っぽい部室で囲む昼食が、俺たちにとっては、かけがえのない世界のすべてなのだ。




「……よし、決めた。二人とも、明日は俺が皆の昼飯を作って持ってくるよ。大したものは作れないけど。……普通の、最高にうまいお弁当をさ」




「陽太くんの手料理……! あぁ、これこそが真の福音……!」




「ふん……。俺の舌を満足させられると思うなよ、陽太」




 ようやく手に入れた、歪で、危うくて、けれど愛おしい安寧。


 だが、この平穏がさらなる地獄の入り口であることを、俺はまだ知らなかった。

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