第9話
青白い月明かりの下、俺達の通う大学の中庭。
昼間は学生たちの喧騒が届くはずのその場所は、しんと、静寂に満ちている。
俺の体から溢れ出す黒い霧が、瑞々しい芝生を腐食させ、空間そのものを歪めていく。
霊的汚染の臨界点。俺の中に溜まった「誰にも愛されてはいけない」という呪いが、物理的な破壊の力となって周囲を飲み込もうとしていた。
「……ここなら、誰も、居ないはずだ」
視界が霞む。意識が遠のく。
このまま俺が消えれば、依代としての器が壊れてしまえば、この汚染も霧散するはずだ。それが、俺にできる唯一の、そして最後の、善行だと思っていた。
だが。ゆらりと、ふたつの人影が、俺の背後から伸びてくる。
「……見つけました。陽太くん、追いかけっこはここまでですよぉ」
「こんな殺風景な場所を終焉の地に選ぶとは、美的センスのない男め」
現れたのは、息を切らした雨夜さんと、瞳に狂おしい焦燥を宿した氷室くんだった。
「……なんで……。どうして、ここが……」
「陽太くん、私の愛を甘く見ないでくださいねぇ。あなたのスマホには、超高精度GPS監視プログラムを仕込んであるんです」
雨夜さんは事もなげに、恐ろしいことを口にする。一体、いつの間に。
「それと。最悪の事態を視野に入れて、連絡しておいたんですよぉ。あなたのスマホに登録されていた……氷室さんの緊急連絡先にね」
「……貴様の周到さには、改めて反吐が出る。……だが、今回ばかりは、その病的なストーカー行為を評価せざるを得ないようだな」
氷室くんは苦々しく吐き捨てながらも、雨夜さんの隣に並び、俺を射抜くような視線を向けた。
「帰ってくれ……! 二人とも、早く!」
俺は必死に声を振り絞った。
視線を巡らせて、大学の敷地の外側を見つめる。そこには、俺の汚染に当てられて実体化した、街一つを容易に潰せるほどの特級怪異が、巨大な黒い影となってこちらに迫っていた。
「……俺の側にいたら、本当に死んでしまう! あんな化け物が来るんだ、君たちじゃ――」
「陽太、少し黙ってくれないか」
氷室くんが凛とした声で、俺の言葉を遮った。
「僕がここに来たのは、お前を助けるためではない。お前の隣、怪異溢れる地獄行きの特等席を、このドブネズミと争う為なんだ」
「えっ」
「あら、奇遇ですね。私もですよぉ。陽太くんと奈落の底で抱き合うのは私一人で十分。……氷室さん、あなたはせいぜい、その辺の浮遊霊とでも踊っていて下さぁい」
こんなにも、絶望的な状況だというのに。
二人は突如、互いに向かって武器を構えた。
氷室くんの指先からは、絶対零度の冷気が。雨夜さんの手に握られた血塗られた塩靴下の鈍器からは、禍々しい霊圧が、ほとばしりはじめる。
「……待って、二人とも……何をして――」
「陽太の隣に立つのは、僕だ!!」
「いいえ、陽太くんの隣は私のものです!!」
俺を奪い合う、本気の殺し合い。
氷室くんの氷の刃が芝生を削り、雨夜さんの打撃が衝撃波となって、空気を震わせる。
迫り来る巨大怪異をまるきり無視して。ふたりはただ、自分たちの「執着」を証明するためだけに暴れ狂っていた。
「……どけと言っているだろう。不浄な手で陽太に触れるなよ、このドブネズミが」
「嫌ですよ。……陽太くんの隣は、私の定位置なんです。昨晩、彼のベッドの下で、そう心に決めたんですから」
「ベッドの下だと……!? 貴様、また僕達のシェアハウスに不法侵入したのか! この恥知らずの下等生物が、今度こそ警察に突き出してやる!」
「あはは、上等です! たとえ留置所の中からでも、愛の念波で陽太くんを守ってみせますよぉ!」
炸裂する蒼い霊力の刃と、ぶん回される鈍器が交錯する。
「……あの、二人とも。近くにデカい怪異が来てるみたいなんだけど……」
「ちょっとだけ待っていてくれ陽太! こいつを殺してからだ!」
「この分からず屋さんをぶちのめしたらすぐ倒しますね、陽太くん!」
その時だった。
周囲の空気を引き裂くようにして、巨大な異形の腕が伸びてくる。
街中の悪意を煮詰めたような、絶望の象徴。それが、俺を飲み込もうと口を開けた瞬間――。
「――邪魔だ、下等生物がァッ!!」
「――邪魔なんですよ、雑魚がぁ!!」
息の合った。ふたりの怒号。
氷室くんの放った極大術式『永久凍結』が怪異の半身を凍結させ、直後に雨夜さんの『魂削りの物理打撃』が、その凍りついた核を粉々に粉砕した。
……え?
俺が、あれほど恐れていた「死の結末」が。
街一つを救いようのない絶望へ突き落とすはずだった特級怪異が。
二人の「争奪戦」の余波だけで、塵一つ残さず消滅してしまった。
「はぁ……はぁ……。さて、邪魔者は消えましたね。氷室さん、続きをやりましょうか」
「望むところだ。その薄汚い鈍器ごと、凍土に埋めてやる」
二人は、お互いの攻撃でボロボロになっていた。
氷室くんの頬からは血が流れ、雨夜さんの服はあちこちが破れている。
けれど。
その傷だらけの顔に浮かんでいるのは、絶望でも恐怖でもない。闘争心のみだ。
「……あ……」
俺は、その時初めて、心の底から理解した。
俺の依代体質という「呪い」よりも。
俺が一人で抱え込んできた「孤独」よりも。
目の前の二人の「執着」、いや「愛」の方が、遥かに、デタラメに、強いのだと。
俺がどれだけ逃げても。俺がどれだけ汚染されても。
この二人なら、きっと、笑いながら怪異を殴り飛ばし、氷漬けにして、俺の隣に立ち続けてくれる。
この人たちなら……側にいても、大丈夫かもしれない。
俺が一人で震える必要なんて、最初からなかったんだ。
「――もう、やめてくれ!」
俺は二人の間に割って入った。
氷室くんの冷たい手首を、雨夜さんの震える腕を、力一杯掴む。
「……陽太?」
「陽太くん……?」
「俺のために、これ以上傷つかないでくれ。……分かったよ。君たちの覚悟は、もう疑わない」
俺は二人の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「俺は自分勝手で、優柔不断で……君たちが思うような、いい男じゃないんだ。それでもいいなら……これから、じっくり君達のこと、どちらにするのかを選ばせてほしい」
二人が、呆然と俺を見つめる。
「君たちの隣で、俺に答えを探させてくれないか? ……どうか、俺に、君たちを愛する方法を、教えてくれ」
朝焼けの眩しい光が、大学の建物の合間から差し込み始めた。
やがて、氷室くんが不敵に口角を上げて、雨夜さんがうっとりとしたような、笑みを浮かべる。
「……ふん。いいだろう。今しばらくこの決着はお前に預けた。せいぜい迷い、そして最後に選び取るがいい。この氷室雪弥という正解の選択肢をな!」
「あはは……。陽太くん、 逃がしませんからね。絶対に、私のことを選んでもらいますから。たっぷり、愛を搾り取られる準備、して下さいよぉ」
雨夜さんが俺の腕に、逃げようのないとんでもない力で抱きついてくる。
氷室くんも、俺の反対側の肩に腕を回して強く抱き、安堵に満ちた溜息を吐いた。
朝焼けに照らされた、満身創痍の三人。
地獄よりも騒がしく、呪いよりも深い愛のデッドヒート。
俺たちの「本当の日常」は、今、ここから始まったのだった。




