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プロローグ

「……どけと言っているだろう。不浄な手で陽太に触れるなよ、このドブネズミが」




 青白い月明かりの下、俺達の通う大学の中庭。


 端正な顔を屈辱と怒りで歪ませて、氷室雪弥ひむろゆきやが呪符を構える。高級ブランドのシンボルマークがあしらわれた華やかな柄のシャツは裂け、その隙間から見える肌には、彼が「低能」と見下してきたはずの女――雨夜雫あまやしずくに付けられた、生々しい打撲跡が刻まれていた。




「嫌ですよ。……陽太くんの隣は、私の定位置なんです。昨晩、彼のベッドの下で、そう心に決めたんですから」




 対峙する雨夜さんは、ボロボロのパーカーと黒縁眼鏡を自らの血で汚し、とろりととろけるような、だが一点の曇りもない瞳で微笑んでいた。


 その右手には、清めた粗塩が靴下にギチギチに詰められた『特製・除霊用鈍器』が強く握られている。




「ベッドの下だと……!? 貴様、また僕達のシェアハウスに不法侵入したのか! この恥知らずの下等生物が、今度こそ警察に突き出してやる!」


「あはは、上等です! たとえ留置所の中からでも、愛の念波で陽太くんを守ってみせますよぉ!」




 炸裂する蒼い霊力の刃と、ぶん回される鈍器が交錯する。


 その後方で、俺――日浦陽太ひうらようたは、争う二人との間をさえぎるように張られた『過剰なまでの保護結界』の中、ただ頭を抱えていた。




「……あの、二人とも。近くにデカい怪異が来てるみたいなんだけど……」


「ちょっとだけ待っていてくれ陽太! こいつを殺してからだ!」


「この分からず屋さんをぶちのめしたらすぐ倒しますね、陽太くん!」




 ……どうしてこうなっちゃったんだ。


 


 俺達の地獄のような三角関係の始まりは、三ヶ月前の、あの出会いの日だった――。




******




 大学の片隅。古い部室棟の最上階にあるオカルト研究会の扉の前で、俺……日浦陽太は震えていた。


 背後に感じるのは、数日前から俺を付け狙ってくる、大量の眼球たち。依代体質というらしい生まれつきの特質のせいで、俺の日常は二十四時間がホラー映画の真っ只中だった。




「……た、頼む。誰でもいい、助けてくれ」




 藁にもすがる思いで、重い木製のドアを押し開ける。


 そこに広がっていたのは、部室というよりは、どこか西洋貴族の書斎のような空間だった。




「――許可なく入ってくるなよ。低能な人間の吐息で、部屋の空気が濁るだろ」




 部屋の奥、重厚な革張りの椅子に深く腰掛けた男がいた。


 氷室雪弥。この大学で知らぬ者のいない、完璧すぎる美貌を持つ天才だ。その瞳には、全人類をゴミか何かのように見下す、冷徹な光が宿っている。とても同級生だとは思えないくらいの、威圧的なオーラを、彼は身にまとっていた。




「ひ、氷室……くん? あ、あの、俺、危険度の高い怪異に追われてて、それで……」


「黙れ。不快だ」




 氷室くんは手にしていた古書を閉じると、ゆったりと立ち上がった。その一挙手一投足が、まるで絵画のように優雅で美しい。彼は俺の至近距離まで歩み寄ってくると、なんと、顎を指先で強引に掬い上げてきた。




「……ふうん。依代体質か。薄汚い世俗にも、こんなに清浄な魂が転がっていたとは。……奇跡的だな」




 至近距離で、じっくりと見つめられる。氷室の冷たい瞳に、熱い火が灯るのを俺は見た。




「気に入った。確か、日浦陽太と言ったか? 同じゼミだっただろ」


「う、うん」


「安心しろ。お前の周囲に群がる雑魚どもは、我が一族に伝わる術で塵一つ残さず消滅させてやる。今日からお前は、この僕だけが所有する『特別』だ」




 あまりに傲慢な独占宣言。だが、どうやら詳しい専門家であるらしい彼に救いを提示されて、俺が安堵しかけた――その時だった。




 ガタッ、ガタガタッ!!




 部屋の隅に置かれた、錆びついた備品棚が激しく揺れた。




「うわっ!? ま、また怪異!?」


「くっ、僕の張った結界を抜けて侵入したというのか……!?」




 氷室くんが鋭い視線で音の方向へ指先を向け、術を唱えようとした、その瞬間。


 備品棚の扉が、内側から勢いよく蹴り飛ばされた。




「……っはぁ! 陽太くんの……陽太くんの、声……やっと、近くで聞けましたぁ……!」




 棚の中から這い出してきたのは、腰までの長い黒髪を振り乱した一人の少女だった。


 確か名前は、雨夜雫。地味な黒縁眼鏡の奥で、焦点の合わない瞳が爛々と輝いている。




「あ、雨夜さん!? なんで君が棚の中から……」


「陽太くんが頼るならきっとここだろうって、信じてたから……三日前から、ずっと待ってたんです。ずっと、ずっと……」




 雨夜さんは震える手で、俺のシャツの裾をぎゅっと掴んだ。その右手には、なぜかパンパンに膨らんだ『厚手の白い靴下』が握られている。




「大丈夫ですよ、陽太くん。あなたを付け狙っていた『目』は、全部……これで叩き潰してあげますからぁ」




 彼女が掲げた靴下からは、ジャリジャリと白い物体がこぼれ出ている。粗塩だ。除霊用の塩の塊だ。




「……貴様、何のつもりだ」




 氷室くんが、これまでにない嫌悪感を露わにして雨夜さんを睨みつける。




「日浦陽太は僕が保護する。お前のような気持ちの悪い不審者が触れていい存在ではない。今すぐその薄汚い手を離せ」




 雨夜さんはゆっくりと顔を上げると、氷室くんの美貌を真っ向から、しかし可哀想なものを見るような憐憫の眼差しで一瞥した。




「……はあ、なんて愚かな男なんでしょうね。陽太くんと私の間にある純愛に気がつけないだなんて。今しがた芽生えたばかりの、貴方のちっぽけな恋心なんて、塩を詰めて燃えるゴミに出せばいいんですよぉ」




「えっ? 純愛? 恋心? ど、どういうことなの雨夜さん……」




「……言ったな、女。その不敬な舌、二度と動かせないようにしてやろうか」




「やってみたらどうですかぁ? 私は、陽太くんを守るためなら、なんだって耐えてみせますから」




 二人の間に、火花が散る。氷室くんの周囲に蒼い霊力が渦巻き、雨夜さんが塩詰め靴下をハンマーのように構える。


 俺を助けてくれるはずの二人は、今や怪異なんかそっちのけで、お互いを殺そうと睨み合っていた。




「……あの、すみません。俺、もう帰ってもいいですか?」




 俺の声は、激しい爆音と罵声にかき消された。


 依代体質としての地獄は終わったかもしれない。けれど、それ以上の「地獄の三角関係」が、今この瞬間に始まったことを、この時の俺は、まだ知らなかった。

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