7 田舎者は音に触れる
謎が残りながらも次の日はやって来る。
鬱憤とまではいかないが、心に残ったもやもやは面倒くさいもので、早い目覚めという形で現れた。
せっかくだ、学院を見て回ることにした。
練武棟の方は昨日見た。
なので今回は特別棟の方へ。
特別棟……確か通常授業では使わない専門的な教室ばかりあるのだとか。
朝の早い時間に歩く学園は、昨日の夕陽に染まった校舎とは違ったように見えた。特別棟は一般棟に比べ生徒の使用頻度は少ないのだろう。埃だけでなく、壁や柱にちょっとした汚れが目立った。
誰もいない校舎にはやたら音が反響する。自分の歩く音がよく聞こえる。……すると、耳に聞き覚えのない音が入って来た。
(……校舎の、中?)
音に導かれ、やって来たのは三階の特別教室……音楽室だった。音楽……いかにも貴族の通う学校らしいと一人納得していた。
静かに教室の扉を開く。小さかった音が大きく、より正確に聞こえてきた。
耳に心地いい流麗な音だった。弦だろうか?
聞いた事のない音、見たことのない楽器にも驚いたが、その演奏者にも驚かされた。
新緑を思わせる緑色の髪、肩にかかる程度の長さだ。
線の細い体躯に、色白の肌。尖った耳、その中心で光る髪色と同じ緑色の逆三角形の考玉。
この特徴は間違いなくラレシアンだ。
というか、見覚えがある。
小柄ながら堂々とした立ち姿と話し方、入学式で騒動を起こした片方のラレシアンだった。
まさか再会するなんて。思わず声を掛けようとして、
(あれは……ヴァイオリンってやつか)
手に収まる楽器の特徴と、自分の持つわずかな知識を合わせて、その楽器の名が分かった。それを手に持った弦と本体の弦を合わせ、音を鳴らす……うん、これは落ち着く音色だ。きっと自身の腕前も良いのだろうと思った。
ずっと少年は目を閉じて演奏していた。たぶん、曲が終わったのだろう。初めて少年は目を開け……ラレシアンの特徴である模様の入った瞳が見えた。彼の模様は正三角形だった。海の色を切り取ったような青い瞳の中に浮かんでいた正三角は、とても美しかった。
「……えっと?」
少年はようやくそこでこちらに気がついたようだった。音楽室を開けた瞬間に気がつかれたと思ったのだが
…かなり集中して演奏していたらしい。
「邪魔したかな? 綺麗な音だったからつい」
せっかくの音が鳴りやんで、少し寂しい気持ちは置いておいて。
「……ロビン・ダリルブラント。どうしてここに?」
入学式で一騒動あった際に、彼からしたらこちらは邪魔者だった。
憎き名と、覚えられていても仕方がない。
「音が気になったんだよ。こういう楽器、知ってても見られるものじゃなかったから」
思うところがあったのか、こちらを見据える目は厳しかったが、楽器の話題になるとその険が取れる。
「この士官学院に来るようなやつは、皆それなりの家柄だろう。本当に見たことないのか?」
「僕はかなりの例外だよ。プロクスっていうど田舎生まれさ」
「名前は知ってる。おれの故郷、フリューよりもずっと北にある街から、更に北に行ったところにある、と。
……待て、たしかその村って」
「僕が生まれ育った村に違いはないよ」
こちらとしては、当たり前の事を言ったに過ぎない。
罰が悪そうにした少年は、これ以上話を広げないようにと話題を変える。
「アルフィー・グレイハワード。見ての通りラレシアンだ」
少し警戒されてないかな? 名乗ってくれたのは嬉しいが、そんな緊張感を漂わせなくてもとロビンは苦笑する。
「ロビンって呼んでくれ。改めてよろしく」
そう言って手を差し出した。少年……アルフィーはその手を訝し気に見つめていた。……どうしたのだろうか、ひょっとして彼は握手という文化のない国の生まれなのかと思ったが、そうではなかった。
「変わっているな、お前は」
「……そうかな?」
「だが、あの獣野郎よりはずっといい」
それは、騒動を起こしたもう一人の、犬系ガレシアンのことだろうか?
少し戸惑っていたアルフィーの手を無理やり引き寄せて握手した。何を気にすることがあるのだろうか?
「それにしても綺麗な音色だったよ。いつも練習してるのか?」
「あぁ、まぁ…だいたいどの楽器でもある程度は出来るが、得意なのはヴァイオリンとピアノかな?」
「ピアノって?」
「……知らないのか? ほら」
アルフィーは丁寧にヴァイオリンを机の上に置き、指差した。……この大きくて黒い物がピアノか。彼が蓋らしきものを開けると、そこには白と黒の棒がずらりと並んでいた。
「この鍵盤を叩いて音を鳴らすんだ。こんな風に」
慣れた手つきで旋律を奏でた。単音が重なり、一節のメロディーになった。初めて聞くハッキリとした音色に、思わず声を上げてしまった。
「おぉぉ、へぇぇぇ、これがピアノか。鍵盤? が右にいくにつれて音が高くなるのか……!」
初めての物に触れると、どうも子どもみたない舞い上がってしまうなぁ。思わず何度も鍵盤を叩いてしまった。
プロクス村には太鼓みたいな楽器しかなかったから、こんな物には触れたことがなかった。力強い音には慣れているが、一音一音が余計なものを削いだような……シンプルで洗練された音に、感動してしまった。
その様子を横で見ていたアルフィーは、こちらの予想外に見せてしまった姿に笑っていた。
子どもの頃から『色んな事情』を含めて、周囲に馴染めなかったのだ。
浮世離れした優れた容姿のせいで、女は魅了され男の癇に障ってしまう。
精巧に作られた芸術品。悪気はなかったのだろうが、そう言われた褒め言葉に胸を痛めた事もあった。
「……じゃあ、こういうのはどうかな」
様子を見ていたアルフィーが、ピアノ用の椅子に腰かけた。
何をするのかと思えば、彼はふっと息を吐いた。さっきまでのロビンと話していたような、探るような雰囲気は意識的に静かにさせたようだった。
集中。
その後、アルフィーの女性かと見紛うような細く形の良い指先が、流麗に動く。
奏でられる音楽がどんな曲目かは分からない。しかし、とても荘厳だった。
白き花が咲き誇り、教会で式を挙げる時に聞こえてきそうな光景が頭に浮かぶ。
僕に優れた教養はない。ましてや芸術を学んだことは一度だってなかった。それでも、楽しかった。教養なんてなくても音を楽しめるから、音楽なのだ。
今、間違いなく僕は楽しんでいた。隣の少年が心から楽しんで演奏しているのと同じように。
きっとこの時だったのだろう。二人が友達というものになったのは。
ちなみに、熱中しすぎて二人して遅刻しかけた。担任からこっぴどく叱られた。
「大きな子どもに教えてやっていただけだ」
異様に不遜なアルフィーに面食らったのは、言うまでもない。