ばらし
むせ返る臭気。
吹き出す鮮血。
低い唸り声。
槍の穂先から血を振り払い、仕留めた獲物から溢れる血をただ眺める。
「武、お前、なんでそんなに手馴れてるんだよ。」
青い顔をした海次郎が手にした槍にもたれかかるようにして立っている。隣にいる幸千代は胃からせり上がるモノをなんとか抑えようと両手で口元を覆っていた。
「そりゃ経験があるからさ。お前らだって慣れれば俺みたいになるさ。慣れなければこうなるだけだ。」
噴き出る血の勢いが落ちてきた獲物を槍で小突いてそう答える。
「では仕事にかかろう。助力を願う。」
浅黒く日焼けした小柄な男が俺の横をすり抜けて獲物を撫でる。
「おう。三吉、よろしく頼むわ。」
獲物の両足を掴み、俺達は人目に付かないよう木陰へと移動した。
・・・
雪が降らなくなってから一月程が経った。雪解け水で泥濘となった道もようやく乾き、春の新芽が見え始めた時節。
俺達は一乗谷にある宋滴館の縁側で寝転がっていた。
「いい天気だな。こんな日は昼寝に限る。」
「武の意見に賛成。いくつになっても冬は苦手だ。早く川で魚が取れる時期にならないかな。」
「その前に武と海次郎は畑の開墾を手伝ってよね。薬の材料だか知らないけど、そっちに土地を取られて育てたい作物を植える場所がなくなったんだから。」
俺と海次郎、幸千代が他愛のない話をしてぼんやりと陽に当たっていると、後ろから 三人まとめてゴツンと小突かれる。振り返ると腕組みをした重光が立っていた。なにしやがる。
「このただ飯食らい共。寝てる間があれば鍛錬でもせい。」
「鍛錬って言っても…結局戦は先延ばしになってしまったし、どうにも気が抜けて。なぁ幸千代。」
「そうそう。海次郎の言う通り。雪解けと同時に戦だ!って言ってたのに戦は無くなったんでしょ?」
「阿呆。戦は無くなっておらぬ。敦賀の決起が先延ばしになったせいで大殿の側近が『もしや景豊殿が思いとどまったのでは!』なんてことを言いだしおってだな…。」
「要するに待機ってことだろ。俺達はいつでも出陣出来るよう、英気を養っているんだよ。」
重光が長々と言い訳を始めたので俺が遮ると、また拳骨が飛んできた。
『雪解けに合わせて敦賀城を急襲し、朝倉元景軍が到着する前に一気に景豊を打ち破る。』と言う作戦は、首謀者の一人である朝倉元景の「待った」ので急停止となっている。元景からの文によると『上司の細川政元の立場が危ういので、自分が越前に出陣することが出来ない。春には情勢も落ち着くはずだから一乗谷攻めはもう少し待ってほしい。』とのことだった。この密書はすぐさま大殿に伝わり、殿様は当初の予定通り雪解けと共に敦賀城を攻め落とそうと進言したのだが、大殿の取り巻きが騒ぎ立てて出陣が止まってしまった。曰く「景豊が謀反を思いとどまったのではないか。景豊を討とうとしているのは宋滴が敦賀郡司を簒奪したいからではないか。もう少し調査をすべきだ。」とのこと。もちろん、殿様は毎日のように朝倉館へ行って出陣を願い出ているし、ただ待っているだけでなく道中の城に兵や兵糧を密かに集めて戦支度を整えている。更に景豊には「一乗谷で鍛錬を行う名目で兵と兵糧を集める。」と文を送って怪しまれないように手を回しているのだから大変だ。
しかし下っ端はたたらを踏んだようなものだ。せっかくの雪かきはやり損になり、密かに一乗谷に集まった兵も解散。いつ出陣の声がかかるか分からない状況で自宅待機を命じられている。鬼コーチ重光はそんな中でのんびりしている俺達にカチンと来たのか、青筋を浮かべてピクピクしている。
「それなら腕が訛らぬよう仕事をくれてやる。」
あ、嫌な予感がする。
「三峰城に向かう道中、大きな猪が出ているらしい。冬眠明けで気が立っているのか先日は御用商人が襲われて怪我をした。このままでは一乗谷近辺の農村が荒れかねん。被害が大きくなる前に猪を討ってこい。」
「猪狩りなんてやったことないよ!」「山狩りならもっと人数も必要だし三人じゃとても…。」と海次郎と幸千代が抗議するが、重光は腕組みをして俺達を見下ろすばかり。
「己らは少し山を走って身体を動かしてこい。ほれ、さっさと準備して行かんか!」
重光に蹴り出されるようにして荷物をまとめ、俺達三人は宋滴館の門から放り出されたのであった。
・・・
三峰城は一乗谷を出て南にしばらく歩いた場所にある城で、昼前に追い出されて昼過ぎには到着する距離だ。城主は山崎景公。山崎長時爺さんの親類で小次郎を嫌っているらしい。
そういえば長時爺さんはいつまで客分のままなのだろう。確か土地を返上して大殿の子供に仕えているんだよな。と言っても土地は一時預かりだから小次郎が手柄を上げて家督を継ぐことが認められないと土地の相続は難しいのかな。あの爺さん、頑固な見た目してたから「やっぱり土地を返してください。」なんて絶対に言わなそうだし、このまま小次郎が手柄をあげられなかったらどうするんだか。
ぼんやりと考え事をしながら俺達三人はとりあえず三峰城方面に向かって歩いていた。
「で、どうする。いきなり放られてもどうしようもないぞ。武が生意気なこと言うから…。」
「やめなよ海次郎。こうなったのは三人の責任なんだから。でも猪を狩るまで帰っちゃいけないのかな。お腹空いちゃうよ。」
不安げな二人だが心配無用。アテはある。
「腕に覚えがある奴を知っているからそいつを頼ろう。三吉って言うんだ。雪かきの時に同じ組になった男でな。小柄で足が速い猟師だ。いつもは一乗谷近辺で狩りをしているらしいが、今回の冬は雪かきをして小銭稼ぎをしていてな。ちょいと無口で無愛想な男だが悪い男じゃない。それに、自分のことを弓の名手だと言っていたぞ。」
雪かきはその日に集まった男達が複数の組に振り分けられて着手していた。組頭は武士階級で、それ以下は俺みたいな若党から商家の丁稚、農民や食いっぱぐれた浮浪者、三吉のような男まで色々だ。雪かきをするお題目としては雪解けを待たずに国内の商流を活性化させるためと謳っていたので、思ったより人数が集まってきたのだ。
雪かきは重労働だ。足元も悪いしろくな防寒具も無い中で長時間の作業は相当辛い。組単位で順に交代を取るのだが、その中でも三吉はほとんど休憩を取らずに働き続けていた。「よほど銭が欲しいのか。」と笑う連中もいたが、ペースを落とさず働き続ける小柄な男に興味を持った。
珍しく休憩を取った時に話しかけ、雪かきがひと段落する頃合いには挨拶をするくらいの関係になっていた。山で狩りをしていること、家族が戦で亡くなったこと、弓の腕に自信があること、三峰城の下にある村外れに住んでいること。一人暮らしで人と話す機会が無かったようで無口で気難しい男だったが、悪い男ではなさそうだった。
とりあえず頼る人間がいることに安心したのか、海次郎と幸千代は特に反対することもなく俺について歩き始めた。
一乗谷を出て南下してしばらくすると小さな村が見えてくる。三峰村だ。農作業をしている農民に聞いて三吉の家を聞くと、村の外れにある木々に囲まれた小さなあばら家が三吉の家だった。
「三吉、いるか、武だ。」
小屋の前で呼びかけると、ガタゴトと引っかかりながら小さな扉が開いた。奥の暗がりから痩せて小柄な男が顔を出した。まだまだ成長途中の俺達と同じくらいの背格好だが、痩せた体つきのせいか余計に小さく見える。怪訝そうな表情を浮かべて戸の影からこちらを見ている。
「武殿。何用か。」
「久しぶりだな、三吉。ちょいと猪狩りを手伝ってほしくてな。話しだけでも聞いてくれないか。」
三吉は怪訝そうな顔をして俺と海次郎、幸千代を見る。暫く考えるような素振りを見せたが、戸を開けたまま中に引っ込んでいった。
大丈夫みたいだ。不安げな顔の二人を連れて小屋に入ると、なんとか四人が横になれる程の広さがある一間に三吉が座っていた。俺達も適当に荷物を下ろして車座になって座る。
「急にすまんな。変わりないか。」
「ない。」
素っ気ない返事をしながら、三吉は海次郎と幸千代を上から下まで観察している。観察される二人は居心地悪そうにしているが、とりあえずは我慢しておいてもらおう。
「季節の挨拶なんで不要だろうから早速本題だ。ここいらで大型の猪が出ると聞いた。前に商人が襲われたこともあったとか。俺達はその猪の討伐に駆り出されたんだ。」
三吉は海次郎と幸千代から目を離さないまま小さく頷いている。
「で、命じられたはいいが俺達は狩りの素人でな。どうしたもんかと悩んでいたところで三吉の事を思い出したってわけよ。もちろん、猪を狩ったらいくらか褒美が出ると思うからそこは安心してくれ。ってところでどうだろう、力を貸しては貰えないか。」
ズイと身を乗り出してようやく、三吉の視線は俺に向いた。
「俺は良いが、このお武家様らはいいのか。俺みたいな下賤の男が同行するのは嫌だろう。」
三吉は海次郎と幸千代を見ながらボソボソとつぶやく。
そういえば三吉の家族は戦で死んだと言っていたな。詳しくは聞いていないが、武士に良い感情は抱いていないのかもしれない。まぁ俺も武士なんだけど。
「この二人も俺と同じ、元は孤児の成り上がり者だ。そう構えることもない。」
そう言うと二人もウンウンと頷いて三吉を見返す。緊張はしているが毛嫌いしている様子はない。これが重光や萩原爺さんだったら嫌な顔をしたかもしれないな。
「朝倉の殿様は孤児を集める趣味があると聞いたが本当だったか。こんな子供を集めて何をしようと言うのか。まぁ良い。お武家様の考えなんて俺らは分からぬからな。猪狩りは手を貸そう。ただし、その猪は俺が貰い受ける。狩った証拠に牙くらいは渡してやる。それで良いか。」
「おう。交渉成立だな。一つ頼む。」
俺が手を差し出すと、三吉はキョトンとした顔で俺の手を見つめていた。
・・・
夜。
寒風の吹き込む狭い一部屋に四人の男が座って雑炊をすすっている。
「まさか宿も無いとは思わなんだ。」
「す、すまん。米は馳走するからそれで勘弁してくれ。」
「あとこれも。山菜を味噌で漬けて麹で和えんだ。苦味が抜けて美味しいよ。」
「幸千代の飯は珍しいが外れは無いんだ。食ってみてくれ。」
幸千代がどこにもっていたのか、容器から山菜の味噌漬けを出して三吉に勧めている。二人とも少し仲良くなったみたいで良かった。
三吉は困り顔をしながらもそれを受け取って口に含んでいる。いきなり押しかけて来て飯まで食うことになってしまったが、食料はいくらか持参しているので許してほしい。
三人とも槍と小太刀を携え、数日分の食糧と着替えが入った木箱を抱えて来ている。これだけでも大分幅を取るので寝る時は四人とも膝を曲げて寝るしかない。ちなみに重光からもらった小太刀は置いてきた。万が一、猪を仕留めるとなった時に脂で傷んでしまうのはもったいない。狭い一室の中、小さい燭台を灯して雑炊を啜る。
「それで、三吉は噂の猪は知っているのか。」
「あぁ。しばらく前から噂にはなっていますでな。猪は夜になるとよく動く。仕掛けを用意して上手に追い込めれば勝ち筋はあるかと。」
空になった椀を置いて三吉が呟く。
「猪を仕留める仕掛けってのはどんなものなの?」
口に雑炊を含んだまま幸千代が尋ねると、三吉はまた困った顔をして燭台の灯りに目を落とす。
「落とし穴が一番。猪を探して山を走り周るのは得策じゃないでな。落とし穴の底に尖った木や竹を刺して弱らせる。」
「どこに仕掛けるか目星はついているのか?」
「それは山を周って探すしか…。」
海次郎の質問に答えようとしたその時、外から大きな叫び声が響いた。
俺と海次郎、一歩遅れて幸千代が傍にあった小太刀を握って中腰になる。叫び声は悲鳴に変わり、男と女の声が入り混じっているのが分かった。
三人とも顔を見合わせてから三吉の小屋を飛び出す。外は真っ暗だが、村の方はいくつか灯りが見える。
「武殿、持っていき!」
三吉が松明を一つ渡してくれた。その明るさに目がくらみながら、灯りを頼りに悲鳴が聞こえる方角へと走り出す。
木々にぶつからないようにしながら走り、数分もしない内にその現場へとたどり着いた。
男が一人、血まみれになって畑に倒れている。その下には震える女性が一人。幸千代に松明を渡して二人の様子を見ると、男の方は右足と右肩から出血しており、女の方は左腰付近から出血しているのが見える。
「賊か。」
抜刀した海次郎が周囲を警戒していると、遅れて三吉が駆け寄ってきた。
「三吉殿、気を付けて。まだ賊が近くに潜んでおるやも。」
周囲を警戒する海次郎が声をかけると、男女の怪我を見た
「いや、これは賊ではない。獣の噛み傷だ。」
「け、獣?」
「噂をすればなんとやら。猪でしょうな。酷いやられ様だ。すぐに手当せねば。」
三吉は男の着物を破って傷をきつく縛り上げていく。そうこうしているうちに騒ぎを聞きつけて村人たちが集まって来た。
状況を説明し、男女を抱えて村長の家に移動する頃には三吉は姿を消していた。
・・・
翌朝。
村長の家には宋滴館の侍女で隠忍術の室山秋が来ていた。
「酷い噛み傷です。処置はしましたが数日は高熱にうなされます。あまりに汗が酷い時はこれを飲ませてください。そして布は一日一度替えること。替えた時には傷口を水で洗ってこの軟膏を塗ってください。何か変化があればすぐにお知らせください。」
「おぉ、朝倉様はなんとお優しい方なのか。我らのような下々の者に対してかように貴重な薬を惜しげもなく頂けるなど…。」
村長が深々と頭を下げているがその飲み薬と塗り薬は大丈夫なヤツなんだよな?実験とかじゃないよな?薬害とか起きても知らないからな?
どこから聞きつけたのか颯爽と現れて処置を終えた室山秋を見送りながら、村長は俺達に対しても深々と頭を下げてきた。
「朝倉家の方々がいらして頂けて助かりました。」
「いえ、我らは運よく居合わせたに過ぎません。それにしてもなぜあのようなことに…。」
海次郎が小首をかしげると、村長は深いため息をついて眉間を揉みながら話し出した。
「恐らく猪による被害をどうにかしようとしたのでしょう。怪我をした夫婦は二人そろって村の力自慢でしてな。夜に畑に来た猪を追い払おうとしたのやもしれませぬ。もう無茶はしないよう、しかと申し付けますが、これ以上被害が広がると年貢にも差支えが…。」
おいチラチラと俺達を見るな。それはもう「早いとこ猪退治してくれ。」って顔だぞ。だが仕方ない。民が困っているのであればそれを助けるのがナイスガイというもの。
「心配無用。我らはそのためにここに来ている。数日の内に猪を討ち取ってみせよう!」
ドンと胸を叩いてそう宣言すると、村長は不安半分、喜び半分といった微妙な顔で俺を見ていた。
・・・
現場に戻ってみると、山から下りて来た三吉と出くわした。
「あったぞ。獣道だ。この道をずっと辿ると泥場があった。ねぐらまでは見つからなんだが、この道をよく通っているのは確かでさぁ。適当な箇所を見繕ったでな。落とし穴を掘るで。」
俺達は三吉の指示の元、獣道に二か所の落とし穴を掘った。中には竹槍を設置して殺傷能力を高め、落とし穴を隠すように茣蓙を引いてその上に落ち葉を置いてカモフラージュ。完璧な仕上がりだ。
「まだ山は実りが少ないでな。近い内にまた山から下りてこよう。」
「それなら念のために交代で見張りでもするか。」
俺の提案に海次郎と幸千代は頷いてくれたが、三吉だけは嫌な顔をしてそっぽを向いてしまった。
「三吉、なんでそんなに嫌な顔をするんだ。昨夜だって気が付いたらいなくなっていたし。」
「俺は流れ者でな。嫌われとる。皆嫌な顔をしよう。」
「三吉殿は元はどちらにいらしたので?」
海次郎が問いかけると、三吉の眉間の皺は一層深くなった。しまったと思ったのか、海次郎は「あ、いや、余計な事を…。」とモゴモゴ口ごもってしまったが、その様子が哀れに思ったのか、三吉は一つ小さなため息をついて山を見上げた。
「元は越後におりました。そこから信濃、美濃、飛騨と渡り、越中で戦に巻き込まれて家族を失いましてな。それから越前に流れて来たのです。」
「それは、なんとも。」と海次郎はまた口ごもってしまった。確かに感想を言いにくい答えだ。幸千代も何と言ったら良いのかわからないようで、指を合わせながら下を向いている。仕方ない。大人の俺が話しを変えてやろう。
「よし。それじゃ果報は寝て待て、だな。猪が出るまで待とう!」
フン、と腕組みをしてそう答えると、微妙な空気が流れた。
・・・
事が動いたのはその二日後だった。
日中、幸千代を筆頭になぜか村の畑仕事を手伝った後、襲われた畑の近くで見張りをしていると荒い呼吸が聞こえてきた。
今晩見張りに付いているのは俺と三吉のペアだ。三吉はいち早く弓に矢をつがえ、いつでも弓を引ける体制をとっている。
「三吉、来たか。」
「来た。山裾でこちらを見ておる。仕掛けは躱されたな。どうする、仕掛けるか。」
三吉が見ている方角に目を凝らしてみるが真っ暗で何も見えない。だが、先手を取られるより取る方がマシだろう。
手にした槍の穂先を闇夜に向け、腰を落とす。
「やろう。突っ込んで来たら槍を喰らわせてやる。」
「あい分かった。」
闇夜の中、三吉の口元がニヤリと歪むのが見えた。
めい一杯引き絞られた弓から、大きな破裂音と共に矢が放たれる。
一瞬の間の後、甲高い獣の叫び声が聞こえた。
「来るぞ!構えい!」
ドドドドと地面を駆ける音が突っ込んでくる。
音の方角に槍を構える。穂先を浮かせ、石突を地面に突けて柄を抱えるように握りしめる。こんな暗い中で槍を突いて避けるなんて出来ない。だったら向こうから突っ込ませるだけだ。
三吉は俺の構えをチラリと見ると俺の後ろに向かって走り出す。え、逃げるわけじゃないよね?
足音が迫る。今更作戦変更は出来ない。覚悟を決めて闇夜に向かって思いっきり睨みつける。
衝撃は一瞬だった。唐突に闇夜から飛び出した獣が槍の穂先に貫かれる。穂先は猪の左顔面を貫いたが、その衝撃で柄が真っ二つにへし折れた。猪は俺の左側に転がり、俺は衝撃を受けて真後ろに転がる。
「頭上げるな!」
三吉の怒号が響き、その直後に俺の頭上を何かが掠めた。
暗闇からまた甲高い悲鳴が聞こえる。やったか!
「逃げろ、武!」
頭を振ってがむしゃらに突っ込んで来る影に弾き飛ばされた時、その言葉が耳に飛び込んで来た。
獣臭さが鼻を衝く。地面に着いた顔が冷たい。口から溢れる吐瀉物で気分が悪くなる。
遠くから声が聞こえる。俺を呼ぶ、海次郎と幸千代の声。誰かの声。
武 。
ドドド、と重い足音が俺の真横を駆けていく。生存本能かただの偶然か。俺は転がって追撃を躱していた。
態勢を起こし、暗闇に慣れた目が大きな猪を捉える。下顎と横っ腹に矢が刺さり、顔面の左からは大量に出血している。それでも尚、生を掴もうと足掻いている。
荒い息遣いと、白い呼吸。
槍は無い。腰の小太刀を抜き、下段に構える。
斬りつけたところで猪の厚い革は通らない。槍と同じように突く。
その命が潰えようとしているのか、猪は呼吸も整わないまま突っ込んでくる。
逃げるな。
右手で柄を握りしめ、姿勢を下げたまま猪へと突っ込む。
吠える猪の口目掛けて、全力で小太刀を貫いた。
・・・
「打ち身程度で済んで良かった。骨も大事なさそうですわ。」
上半身裸にされていた俺に小袖が放られる。
「武、無事で良かった。それにしてもよく正面から向かったな。俺でも腰が引けてたかもしれん。」
「無事で何よりだよ。他にどこか痛い箇所は無い?あったらちゃんと言ってね。」
海次郎と幸千代に介抱されている間に三吉は短刀を手に猪へと近づく。
「待ってくれ三吉。俺がやる。」
二人の肩を借りて起き上がる。短刀を手にした三吉は怪訝そうな顔をしたが、俺を止めることはしなかった。幸千代から槍を借りて息絶え絶えな猪へと近づく。
赤い眼がこちらを睨む。
恨んでくれるな。俺もいつかはそっち側になるんだから。
これ以上苦しまないように。一突きで心臓を貫いた。
猪は最後に一つ低く唸り、その生は終わりを迎えた。心臓から血液が良く出るように、捻ってから槍を引き抜く。
「武、お前、なんでそんなに手馴れてるんだよ。」
青い顔をした海次郎が手にした槍にもたれかかるようにして立っている。隣にいる幸千代は胃からせり上がるモノをなんとか抑えようと両手で口元を覆っていた。
「そりゃ経験があるからさ。お前らだって慣れれば俺みたいになるさ。慣れなければこうなるだけだ。」
噴き出る血の勢いが落ちてきた獲物を槍で小突いてそう答える。
猪狩りは延暦寺でもやったことがある。解体は久々だが、三吉の手を借りれば容易だろう。ただ狩って野垂れ死にさせるのではなく、食べて供養する。それが御馳走様って言葉だろ。
「では仕事にかかろう。助力を願う。」
浅黒く日焼けした小柄な男が俺の横をすり抜けて獲物を撫でる。
「おう。三吉、よろしく頼むわ。」
まだまだ夜は長い。先ほどの騒ぎで村の何人かは気が付いているだろうから、早いとこばらしておかないと。獲物を放っておけば「俺にもくれ」って連中が来るかもしれないからな。
獲物の両足を掴み、俺達は人目に付かないよう木陰へと移動した。
・・・
早朝。
身なりを整えた俺達三人は村長の家にいた。
村長が下座に座り、俺達との間には大きな獣の牙が置かれている。
「昨夜、件の猪は我らが狩った。安心しろ。」
フン、と腕を組んで自慢げに誇ると、先日の不安半分はどこにいったのか、満面の笑みで村長が頭を下げた。
「さすがは朝倉ご家中のお方々。これで安心して田を耕すことが出来ます。して、その猪の亡骸はいずこに…。」
手を揉みながら聞いてくるがそうはいかない。
毛皮は綺麗に剥いで三吉が人目に付かない場所で乾燥させている。内臓は薬になるらしいので幸千代の木箱に放った。肉は俺達の胃袋の中に少々と、残りは三吉の食糧庫。怪我をした農民は不憫だったが、その他の連中にくれてやる物はない。
「山に丁重に葬った故、心配はご無用にございます。この牙は報告のために我らが持ち帰りますが、よろしいですな。」
丁寧に、かつ圧を込めて海次郎が問いかければ、村長は渋い顔をして頷くしかない。なんだか海次郎が重光みたいになってきたな。
その後は二三言葉を交わし、昼前には荷物を纏めて村を立った。
「見送りはいらないぞ。」
「はなからそのつもりはござらん。」
あばら家の前で三吉と向き合う。
「報酬は追って届けるよ。」
「無用。こちらとて渡りを持ちたいと思っていたでな。」
ニヤリ、と三吉は浅黒い頬を吊り上げる。
あぁ、そういえば気になることがあった。どうせだから聞いておこう。
「三吉。お前さん、本当にただの猟師か。」
問いかけられた三吉はまた怪訝そうな表情を浮かべる。
「気になってたんだ。やけに周囲を気にする。夜目が効く。耳も良い。体力もある。武家に対してへりくだった態度をとりながらも口調が安定しない。」
俺に対してフランクに接するのは分からなくもない。だが海次郎と幸千代に対して話す言葉の端々に統一性が無かった。殆ど人と話さない中で、昔の癖が抜けないのではないか。ただの勘だが、どうにも匂った。
「お前、何者だ。」
敵対する意思は無かったのだが、海次郎が荷を放って小太刀に手をかける。幸千代は槍を抱えたままどうしたものかとオロオロしている。
「武殿。お主は獣のような嗅覚がありますな。小僧と思って見くびっておりました。」
三吉はボリボリと頭を掻くと渋い顔をして片膝を着いた。
「拙者、元は越後の土豪にございます。国元で争いに敗れ、越中で新たに禄を食んでおりましたが田屋川原の戦いで父が死に、家は没落してここ越前に参りました。母はこの地に流れて間もなく死に、残ったのは拙者ただ一人にございます。没落した家の男ほど惨めな者はございません。情けをかけられるくらいなら、と身分を偽っておりました。」
「それも偽りだろ。」
俺の言葉に、三吉はピクリとも動かない。
「武士ならそんな風に俺達をだまし討ちしようなんて考えないさ。その左足に仕込んであるのは手裏剣か?苦無か?毒とかは勘弁してくれ。」
頭を掻いてからしゃがむ。その動作の中で自然と目につくのは頭を掻く手だ。片膝を着く時に反対の手で足に仕込んだ武器を握り、隙を見て三人まとめて仕留める。似たような手口でスリにあった記憶がある。
迷っていた幸千代も恐る恐る槍を構え、震える穂先を三吉に向ける。
「参りました。子供とは言え、三対一では分が悪い。」
「隠忍術か。」
「伏齅と呼ばれていました。昔の話しにございます。」
伏齅ってのは初めて聞いたが、隠忍術を否定しないってことは同じ忍者ってことだろう。
「暇してるなら朝倉家に仕えたらどうだ。うちの殿様は数奇者だから雇ってくれるかもしれないぞ。」
「それは遠慮いたします。拙者のような未熟者は影の世でも役には立ちませぬ。このまま一人、好きに野山を駆けて死にまする。」
そうか、うちの忍者衆も人手不足だったから来てもらいたかったが、本人が希望しないなら仕方ない。
「分かった。俺達三人が知っているのは猟師の三吉だ。それ以上のことは知らん。二人ともそれで良いよな。」
海次郎と幸千代は三吉みたいな怪訝な表情を浮かべていたが、ここまで害を加えることもなく、猪退治を請け負ってくれた事を差し引いたのか、渋々頷いてくれた。
「忝い。」
「いいってことよ。肉が食いたくなったらまた来るわ。」
海次郎が放った木箱を担ぎ直し、歩き出す。
まだ肌寒い、春の朝だった。
こんなに長くなるなんて。