回顧
薬師堂の扉を開ける。
綺麗に掃除されたお堂で待つのは、月明りに照らされた木彫りの仏像が一体だけ。
隠れて寝ている小坊主はいなかった。
行山は開け放たれた扉の横にドカリと腰を下ろし、持ってきた酒を椀に注ぐ。
今朝、片腕を落とされた山法師が担ぎ込まれた。なんでも坂本の町で朝倉家の武士にやられたらしい。
全く余計な事をしよって。先の焼き討ちからあちこちの大名家が延暦寺を目の敵にしていると言うのに。
聞けば武によく似た小姓がいたので誰何したところ、いきなり斬られたとか。と言うことはその小姓は武だったのだろう。朝倉家の侍と共にいたと言うことは、武士になるのか。
ふと応仁の乱を思い出す。
命に従い出陣し、敵を斬り、民を斬り、都に火を付け、全てを焼いた。
それが主命だからと疑わなかった。いや、己の行為を正当化したかったのだ。
民を逃がし、守ろうとした僧兵を前にして、己の過ちを見せつけられたような気がした。
気付けば山法師と共に延暦寺へ上っていたのだからおかしなものよ。
ザワリと木々が揺れ、風が抜ける。
武と初めて会った時、あの子はいくつだったろうか。
山法師として入山してすぐに話しかけてきた小坊主が武だった。あれは何だ、それは何だとついて回り、いくら追い払っても暫くするといつの間にか近くにいる。人懐こい子だった。
しかしその実、臆病な子だと思った。何をするにもそれは正しいことなのか、本当にそれて良いのか、誰かの許しが無いと一歩踏み出せないような、そんな弱さが垣間見えていた。
このままじゃいかんと少し厳しくしようとすれば、その気配を察してあっという間に離れていく。そして忘れた頃に寄ってくる。どうにも扱いにくいと感じていた。
しかし、人付き合いは誰よりも上手だった。気難しい松と上手くやれるのも武ぐらいだったろう。他の小坊主から避けられ、山法師からも厄介がられ、上僧からは煙たがられる松と対等に話せていたのはなぜだろうか。
皆は「武は何も考えておらんからだ。」と笑っておったが、あれは鼻が利く子だ。考えるより先に理解していたのかもしれん。
しかし巻き狩りの夜から武の様子は少し変わった。
以前より勇敢になったと言うか、行動に臆病さが無くなった。自信の無い目をしていた子が、毎日楽しそうに山を飛び回っていた。口では大変だ、面倒だと言いながらも笑うその顔は、どこか野心も垣間見える漢の顔になっていた。
以前の武であれば例の売買の件など聞きもしなかっただろう。あれで良くない繋がりを持たせてしまったことは自責の念に駆られる。しかし外を知らねば中を知れぬ。延暦寺が世の全てではない。結果として外に飛び出して行ったのだ。きっと良い選択をしたのだと信じている。
いや、これは己を正当化するための言い訳か。
夜空に浮かぶ月を見上げて椀を煽る。
いつか武と二人、並んで酒を飲んでみたかった。大人になるあの子を、見ていたかった。
・・・
夕日が差し込む部屋の中。自分だけになった部屋で、二人分の荷物を片付け終えました。
皆心様も武も、同時にいなくなりました。上僧からは不義理を働いた故に追放処分となったと聞きましたが、本当なのでしょうか。皆心様は確かに真面目とは言えませんでしたが、御仏の教えを無下にするような方では無いと思っていました。武もそうです。悪童ですが人の道から外れるようなことはしないと、心のどこかで信じていました。
それが裏切られたような気がして。心にぽっかりと穴が空いたような気がして。
たいして荷物も無いというのに、部屋の片付けにこんなにも時間をかけてしまいました。
思い返してみれば、武はどこか達観したような、諦めたような、冷めた印象のある男の子でした。色々な人と関わるけど、武の事を変えようとする人からはすぐに離れていく、そんな男の子。
私は人から嫌われます。思ったことを口にしてしまうからだ、と気づいています。ですが過ちは正さねばなりません。己の心など人には分からないのだから、伝えねばなりません。簡単なことなのに、誰も理解してくれませんでした。
武も、理解はしてくれませんでした。ですが、ただ困ったように笑って側にいてくれました。武からしたら厄介な私の世話を押し付けられた、と思っていたかもしれません。
ですがここ数ヵ月、武は人が変わったように明るくなりました。
勉強は相変わらず出来ませんが、武芸稽古に励むようになりてっきり山法師になるものだと思っていました。私に対しても、以前はただ困ったように笑うだけだったのに意見を言ってきたり、私の知らないことを教えようとしてきました。私の話しで笑い、小突いてきたのも武だけです。思い返せば、武のくせに生意気ですね。
ですが、これが友というものなのか、と少し胸が熱くなったのは本当です。
武には何を言っても許される。そんな甘えがあったのでしょうか。
武の話をもっと聞けていれば、こんなことにはなっていなかったのでしょうか。
遠くで烏が鳴いている。あぁ、烏が鳴くと武はいつも不思議な唄を口ずさんでいました。
「かーらーすー、なぜなくのー、からすのかってでしょー。」
初めて口にしてみる。どこかの童歌か、武が作ったものなのか。聞いてみればよかった。
夕日が眩しい。
夕日が目に染みたのだ。
だから少し、涙が出たのだ。
唯一、自分の話しを正面から聞いて、笑ってくれた友を失った。
何も言わずに行ってしまった。
それが悲しいと自分で認めたくなかった。
・・・
「恐らくは朝倉家に向かったものかと。」
「恩知らずめが。まさか延暦寺を焼いた武家に靡くとは。」
「では皆心はいずこじゃ。他の山法師共はどこに消えた!誰一人見つけられぬとあっては延暦寺の名折れぞ。」
「慈明よ。お主は何をしておるのだ。坂本の関を封鎖出来ぬのであれば、都でも堺でも探して参れ。」
「…ご意見、痛み入ります。」
上僧への報告を行うが、これ以上ない無駄な時間だ。
一礼して大講堂を出ると、既に夜更けとなっていた。
付の小坊主が松明を持って宿坊まで先導する。眠気か、疲れからだろうか。その足元は危うく、一歩間違えば山道を転がり落ちるのではないかと不安になるものだった。
皆心や他の山法師はその足跡がまるでみえない。
唯一、武らしき小姓が坂本の関で見つかったが逃がしている。
腕を落とされた山法師は自業自得だが、それを知って満更でもない表情をしていた行山はどんな心境なのだろうか。
二人を牢から逃がしたのは行山とその一派ではないかと疑われているが、私はそう思わない。見張っていたのは天台座主直属の山法師達。これに逆らって延暦寺で生きてはいけない。それを知らない行山ではあるまい。
武は聡い子だ。
僧とも山法師とも距離を保ち、相手を伺い見るような子だった。相手が何を求めているか、何をして欲しいのかを察して行動する。しかし、そんな自分を変えようとする人を嫌う。
聡い子、よりも小賢しい子だったかもしれない。
そんな子は嫌いではなかった。だからあの夜、私は必死になって武を探した。武は使える子だ。あと数年かけて私の下で教えれば良い配下になる。そう確信していたからだ。
しかしその思いは見事に裏切られた。
自信なさげで、己の拠り所を探していた子はいなくなり、根拠のない自信と野心に溢れた一端の子供になってしまっていた。あれは山法師の影響だろうか。いや、生来の気質がそう簡単に変わるとも思えない。まるで生まれ変わったかのようにすら感じる。
ついには皆心と共に放逐だ。
こんなことになるとは、初夏の私は思っていもいなかった。
あぁ、無性に腹立たしい。
足を滑らせ、危うく松明を落としかけた小坊主の腕を取る。案内など不要だ。私は私の道を自分の力で歩む。
笑顔で今夜はお休みと声をかけて送り出す。
行山とその一派には悪い噂が多い。肉食に留まらず、女子を買っていると噂もある。
武も山法師に染まり、人が変わったのだろうか。
「下衆共が。」
月明りさえ届かない暗がりで思わず口にしてしまう。私もまだまだ修行が足りない。
京の時瀬家はもはや頼りにはならないだろう。新しく宮中に渡りを持つ家を探さねばならない。
それに此度の火災で救いを求める民がまた増えた。皆心や武に構っている時間などないのだ。こうしている間にも浄土真宗と日蓮宗が民の信仰を集めている。負けてはいられない。落ち人として蔑まれたこの身でも、ここで高みに上り詰めると心に決めたのだ。
「仏敵調伏。」
一つ呟いて松明を振る。
都での襲撃を思い出す。あぁ、あれは痛快だった。
私も護身のために武芸を学ぶべきだろうか。
一歩、また一歩と暗い山道を下る。
・・・
「行っちまったね。」
「あぁ。良い商売相手になると思っておったが、あっけないものよ。」
越前に向かって歩き出した一行の背中を見送る。
大人に交じって小さな背中が一つ。あんなに小さいのに、どうしてか何か賭けてみようと思ってしまう。不思議な子だった。
「しかし福よ。しばらくは女郎も使えまい。どうするかね。」
父が不安げな表情でこちらを伺い見る。男ならもっとしっかりしておくれ。だから母さんに逃げられるのさ。
「女郎にはしばらく暇を与えるよ。それくらいの蓄えはあるからね。ほとぼりが冷めたらまた行山様に渡りを付けて延暦寺に食い込むさ。それが難しいなら都にいるどこぞの大名家にでも行こうかね。」
今回の騒動、福光屋の一人勝ちだ。
皆心も武も延暦寺からいなくなり、利益の一部を渡す相手はいない。それに延暦寺から受け取った米は既に六角家の蔵の中。米の売買は完全に闇に葬られた。
思わず笑みがこぼれる。
「延暦寺にとっちゃ疫病神かもしれないが、福光屋にとっちゃ福の神だったね。」
青い帯に手をかけて胸を張る。
そういえばあの子、私にも女郎にも興味を示さなかったわね。そろそろお年頃と思ったけど。
次に会う時があれば、少し構ってみようかしら。
日が昇り始め、町が起きだす。
福光屋の暖簾を高々と掲げて、越前へ向かう一行をいつまでも見送った。