【1】
「……よなら」
口の中でもごもごと呟いて、逃げるように教室を後にする。
背中に掛けられた声もあった気はするが、自分に対するものかはわからないので振り返ることもしなかった。
これが加代子の学校での日常だ。
帰宅したら勉強して、食事して。
その後は週に三度のお楽しみが待っている。
加代子がいま人生初と言っていいほど夢中になっているもの。いや、『人』。
配信者、所謂「Vライバー」の“宙崎 星来”。
彼女の配信である『せいらのハッピーラッキーたいむ』が楽しみで日々を過ごしているといっても過言ではなかった。
──ああ、早く“星来”に会いたい。
SNSで繋がる友人もおらず、流行りの曲のMVを次々と観て回るのが習慣だった。
ある日、おすすめに表示された「LIVE中」の配信サムネイルをクリックしたのがきっかけだ。
「配信者? “宙崎 星来”って聞いたことない。“ハッピーラッキー”って、なんか脳天気だなあ」
普段ならそのまま無視しただろうが、なんの楽しみも見出せない毎日にその「ポジティブ」な配信名が眩しく感じたのだ。
可愛らしいアニメ調の少女風アバターに、高めではあるが柔らかで聴きやすい声の女性Vライバー。
フリルやレースで飾られた淡いブルーの衣装も好みだったが、何よりも露出を控えた細身のスタイルに好感を持った。
男性リスナー向けの「セクシー路線」が悪いとは思わないが、加代子の好みではない。
実際に“宙崎 星来”のリスナーには、コメントの自称では女性の方が明らかに多かった。
まだそこまで知られていないのか、チャンネル登録者も一万人に満たない。
最初の配信も同時接続人数は五十人以上が表示されていたものの、コメントはそれほど多くなかったのが印象に残っている。
たとえ反応は鈍くとも、少なくとも表面上は明るく朗らかな語り口調で話し続けていた“星来”に、いつの間にかディスプレイに向かって相槌を打っていた。
それに気づいて、加代子は慌ててコメントを入力して送る。
《初めて来ました! 星来さんの配信すごく楽しかったです》
《また絶対来ますね。チャンネル登録もしました!》
【うわあ、ありがとう! 望夢さん。星来うれし〜! また会いに来て~】
表示されたコメントが弾んだ声で読み上げられたかと思うと、彼女の言葉が続いた。
プラットフォームのアカウント名は“望夢-みゆ-”だ。
本名である、御幸 加代子の姓から取ったもの。
今風とは程遠い名は、加代子が生まれる少し前に亡くなった母方の祖母の命名だという。
しかし「子」のつく名さえ珍しい中で、加代子は「ババ臭い」とあからさまに揶揄された経験もある自分の名前を肯定的に捉えたことはなかった。
◇ ◇ ◇
予定時間前から配信画面を映すスマートフォンを握り締め、ベッドに寝転んで待つ。
待機人数は一桁。今日は少ないようだ。
ふわふわガーリーなファッションは、好きで着たい気持ちはあっても「地味な自分」を思えば気後れしてしまう。
だからこそ「そうありたい己の姿」を具現化してくれるような彼女に、より惹かれたのかもしれない。
画面が切り替わり、音楽が流れ始めて“宙崎 星来”のアバターが映し出された。
いつも通り朗らかな声で挨拶が紡がれると同時に、準備していたコメントの送信ボタンを押す。
【“望夢”ちゃん、また会いに来てくれたんだ〜。いつもありがと~】
現実世界の御幸 加代子は、まるで透明人間の如くただそこに存在するだけだ。四十人が常に詰め込まれた教室の中での孤独。
学校では誰とも言葉を交わさない日も珍しくなかった。
小学校では、少なくとも校内で話したり遊んだりする友人はいた。「みんな仲良く」が旗印だったことも大きい。
しかし中学に入った途端、せいぜい挨拶程度しか関わりがなくなってしまった。
引っ込み思案で人見知り、自分から話し掛けて行くことができない加代子は、いつの間にか孤立してしまっていた。
いじめられていたわけでも、故意に無視されていたわけでもない。授業の課題等で必要に迫られて話し掛ければ、誰もがなんの屈託もなく応じてくれた。
しかしその先が続かなかったのだ。
ただ話題を振ってくれる、構ってもらうことを待つだけの加代子など放置されて当然だったと自分でも理解はしている。
高校に進んでからもその状態は何ら変わりはなかった。
しかし“星来”の熱心なリスナーである“望夢”は、彼女にも常連リスナー仲間にも個別に認識されている。
ここでは加代子、……“望夢”は『透明』ではない。コメントすれば“星来”が拾ってくれる。
他のリスナーも配信の雰囲気に合う優しく穏やかなキャラクターが多いようだ。
《“望夢”さん、こんにちは〜》
《“望夢”ちゃんて「はぴらき」皆勤じゃない? あたしも来てる方だけど、いなかったことないよね》
そうして会話が繋がるのが嬉しくて堪らなかった。
だから加代子も、他のリスナーのコメントにはなるべく反応するようにしている。
それをきっかけに、“星来”も加わり話題が広がって行くこともよくあった。その好循環が、いまの“望夢”の立ち位置を支えている側面もあるはずだ。
実際に『せいらのハッピーラッキーたいむ』において、“望夢”はかなり「目立つ」存在になっていた。
【『せいらのハッピーラッキーたいむ』でした~。また“星来”に会いに来てね!】
ポップで明るい、しかしどこか優しい音楽に乗せて、リスナーに送られるお決まりのエンディングメッセージ。
他では聞いた覚えもない、“星来”にも配信の雰囲気にも似合いのメロディだ。
概要を見る限り、オリジナルではなくフリーサイトのものを使用しているらしい。
よくここまでぴったりの曲を、と感心するほど「“星来”のイメージミュージック」として加代子の中にインプットされていた。
彼女はとにかく失言がない。
生配信のため多少噛むことや言葉に詰まることはあっても、基本的にネガティブなことは口にしないのだ。配信名そのままに。
たとえ趣味の延長でも、彼女は配信者として「プロ」だと感じている。
【聴いてくれた人たちが「今日は嫌なことあったけど、“星来”の声聴いて明日も元気で頑張ろ〜」って思えるような、『ハッピーでラッキー』な時間にしたいの〜】
折りに触れ彼女が繰り返す、『せいらのハッピーラッキーたいむ』のモットー。
加代子の大好きな“宙崎 星来”。
モノクロを通り越してなんの色もない「透明」な日常を、カラフルに彩ってくれた憧れの偶像。
彼女に「会える」配信時間だけが、加代子の生きる意味だとさえ感じていた。
配信のたびに、現実の“星来”に会いたいという想いが溢れそうになる。
それでも、こんなつまらない自分を魅力に満ちた彼女に目に晒したくなかった。
配信の場だけなら加代子も「キラキラの女の子」でいられる。少なくとも“星来”やリスナー仲間にはそう見做されていた。
だから、壊したくない。