冷たい壁の調査報告
……今の声は多分、ここに来る時に通った林のミミズク。今振ったライトの光から逃げたのはネズミ。遅れてゴキブリが二匹。一匹は身を翻し、こっちに向かってきたと思えば通路の端を走っていった。
ところどころ塗装が剥げ落ち、剥き出しのコンクリートの壁。その色濃いひび割れをライトの光で追うと、天井に大きなシミ。ここは雨漏りするようだ。まあ、不思議なことではない。
窓の外は星明りだけ。真っ黒な林が見える。月が出ていない、不気味な夜だ。いや、こんなところに居れば、どんな夜だって不気味に思わずにはいられないだろう。
廃墟となった刑務所。その廊下をなんで、おれが歩いているのか。はははっ、収監されに来たんじゃない。おれは自分の意志でここに来た。
新人ライター。普段は先輩の背につき、あっちへボイスレコーダーを掲げ、こっちへまた掲げ、後は雑事。たまにしょうもないメールマガジンを書いてはミスを叱られ……と、だからおれは休日を使い、六時間も車を走らせ、ここに来たのだ。
記事のネタは自分で取ってくる。これが採用され、ウェブサイトのアクセス数を稼げれば、おれも一目置いてもらえる。
……なのだが、これに賭けるという思いで縋りついたのがオカルトネタとは我ながら悲しい。それもネットの噂の。まあ他にネタがないのだが。
「ここか……」
目的の部屋まで来た。ドアは閉まっている。重苦しい雰囲気だが、それはこっちの捉えかただろう。と、鍵がかかっているな。だがピッキングの道具を持ってきている。時間さえかければ………………と、よし。開いた。
嫌な音。錆びついているな。それに空気が悪い。窓がないからだな。光も逃げ出したくなるような殺風景な部屋だ。あるのは木のベッドとトイレ。もちろん剥き出しの。そして電球。まあ、点かないだろうが。鉄製のドアはここが閉鎖されてしばらく経つはずだが、塗装はほとんど剥げていない。部屋の壁と同色、ペンキか何かで塗られているのか。
ここが例の独房。ここに入れられた囚人は皆、死んでいるという噂の……。
「……死刑で死んだってオチじゃないよな? ははは」
と、独りごち、気まずさに苦笑いしてみるも、この確かな息苦しさは拭えない。ドアを閉めるとやはり一切光が入らない。頼りになるのは手の中のライトのみ。そして囚人はこんなものすら持っていなかっただろう。なるほど、これは確かに苦痛だ。四方が壁。圧迫感がある。ここに何日か、いや、ずっと閉じ込められると思うと発狂してもおかしくはない。
ここに入れられるのは皆、重罪人であり、そして自ら命を断ったという。噂の数字は当てにならないが(そういうもんだ)最低でも三人がここで死んでいる。それも、なんでも共通しているのが……まあ、あるわけないが
「あった……」
チョーク……チョークだ。ベッドの下に白いチョークがあった。
「……マジか。いや、誰かの悪戯だ。そうだろ?」
と、手に取りチョークに向かって話しかけてみるも何かが起きる気配はない。
そう、ここまでにいくつか落書きを見た。スプレー缶での。多分、地元の悪ガキ。そいつらの仕業だ。これもどうせ学校から持ち出し、置いたんだろう。
このチョークが連中の死と関連しているらしいのだが……何の変哲もないただのチョークにしか見えない。
だが、考えてみればこれは僥倖。一晩ここに泊まり、体験レポといくつもりだったが、今思うとなんて無計画。記事にするには今一つだ。しかし、このチョークのお陰で一気に引きができたわけだ。一応、自分で用意してきたのもあるが、でっち上げるより気分が楽だ。
さて、例の噂によると、こいつでこの壁に何か描き、それで話しかけるということだが
「……まあ、何が起きるわけでもないか」
少し悩み、おれが描いたのは目玉だ。無論、簡素簡素。記号に等しい。ラグビーボールほどの大きさと形の中に、黒目となる丸を書き、さらにその中に白丸の瞳孔を。
「さあ、どうだ?」
なにも起きない。
「……当然か。そもそも、話しかけるというのがわからない。囚人はその時点で頭がおかしくなっていたんじゃないか? 寂しさは人を狂わせると聞くしな。なあ、どう思う?」
なにも起きず。ああ、何か呪文とか、魔法陣的なやつが必要か? いや馬鹿馬鹿し――
「うご、いた?」
……今、目が動いたか? 馬鹿な、有り得ない。だが、黒目の丸の位置が
「いや、そもそもおれは器用なほうじゃない」
そうだ。中心に描いたつもりが少しずれていたのだ。それだけのこと……いや、待て待て。何か起きてくれていたほうがいいじゃないか。
「そのためにおれは、あ、あ、あ」
動いている。目が、黒目と瞳孔がおれを見ている。おれが右に動けば
「お、追うように」
ひ、左に動けば……左に。
「あ、お、落ち着け。こ、これは、一大スクープだ。あは、ははは」
しかし、信じて貰えるだろうか、こんなこと。と、馬鹿かおれは、カメラだ。カメラ。証拠を。
「……よし。おお、撮れてる、いい、いい、よし、よし、はははは!」
全体が動いている。ぎょろぎょろと。他にも
「他にも描いたら……よし、動く、ああ、動いているぞ。はははは! 目が! 目が、おれを見てる! いいぞ! もっと、おれを見て、ははははは! もっとだ、もっと」
この
「このチョーク、それとも壁が特別なのか? ああ、ふふふっ、声。声か! 声に反応するんだな! 人の声が好きなのか? じゃあ、これはここで一人寂しく死んだ囚人の霊の仕業なのか? どうなんだ? ん? さあほら、口も描いてやったぞ。喋ってくれよ。まあ、さすがに無理かぁ……え? ふふふっ、そうなのか? そうか、友達か。ああ、嬉しいよぉ……おれはな、有名になりたいんだ。記者として名を上げて、それで、注目されたい。街中で話しかけられたり、ああ、ふふっそうだな。でも信じられないよ。こんなことがあるんだなぁ。何か合理的な……え、ああ、描くよ。ああ、ほら、どうだ? 壁に床に、ドアに、ああ、廊下にも描いてやろうか、ああ、おれは囚人じゃないんだ。自由さ。ああ、しかし、すごいな。よく動いて、あん? これは……小さい……あ、あ、あ、あ、あ、あ、ああぁぁぁぁ!」
その虫は極小の白い粒のようで、普段は寄り集まり、白いチョークのような棒を形成し、冬眠状態にある。
人の息に反応し、活動が活発になると酩酊状態を引き起こすフェロモンを出し、獲物を操る。と言うよりは獲物が勝手に踊ると言ったほうが正しい。
太陽光を極端に嫌い、無風、やや湿度は高めで先のフェロモンのこともあり、密室が好ましい環境である。肉食性。皮膚から侵すように食らいつき、獲物は最終的に壊死性の感染患者のような姿になるがその間、強くフェロモンを放出(あるいは虫の唾液に含まれているのか)するため獲物は徐々に抵抗をやめ、陶酔状態に。
記者が現場となった廃墟に忍び込んだ少年たちに発見された時には虫の姿はどこにもなかった。
ドアは開いていた。記者がまるで逃げようと力を振り絞ったかのように、手を内から挟み入れるかたちで。そのお陰で少年たちに見つけられたわけだが、復帰する見込みはないだろう。たとえ、皮膚移植が成功してもこの人間社会には。
あの部屋は元々、その虫を封じ込めるためにあったのではという見方もあるが、その元刑務所の関係者は何も知らないという。
ただ、確か城か屋敷の跡地に作られた、再利用したとか……と話している。
いずれにせよ、例の記者と同じ症状の者が複数件、確認され、どれも虫の話をしている。
これは終わりの始まりなのか。オカルト話など楽観視せず注視すべきではないだろうか。そう、筆者は強く懸念している。
いかがだっただろうか。さらに詳しい話、及び続報はメールマガジンにて配信予定である。