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本編

「戦国に皇軍、来訪す」では、宇喜多直家や宇喜多秀家がそれなりの脇役として既に出てきています。

 そして、本編ではともかく、外伝の「田坂全慶、奔る」や「佐藤希典の回想」では宇喜多直家らの出身である宇喜多氏について、瀬戸内海、備讃地域でそれなり以上の勢力がある商人のような描写をしています。

 これについて、宇喜多氏が商人というのは、幾ら小説とはいえど盛りすぎ、嘘にも程がある描写では、という指摘を受けました。

 この辺りについて、エッセイで説明すべきと考えて、ここに書くことにします。


 さて、宇喜多氏ですが、それこそ軍記モノになりますが、「平家物語」や「太平記」等にはそれらしき姿、名前が出てこない氏族、一族になります。

 更に言えば、一次資料を探索する限りですが、鎌倉時代や室町時代前期の地頭等を始めとする武士にも宇喜多なり、宇喜多の変名、一族名として伝わる浮田なりの名前は無いとのことです。

 こうしたことからすれば、宇喜多氏は完全に室町時代後期、具体的には応仁・文明の乱以降に勃興した武士、氏族と考えるのが妥当ではないか、と私は考えられてなりません。


 実際、私が調べる限りですが、宇喜多氏の名前が確実な初出として出てくる文書、一次資料になるのは、備前西大寺に伝来する1469年、文明元年の文書とのことです。

 私の調査が及んでおらず、それ以前から備前で跋扈して勢力を誇っていた一族という可能性が宇喜多氏について皆無という訳ではありませんが、こういった文書の存在からすれば、応仁・文明の乱以降に勃興した氏族と宇喜多氏は考えるべきである、と私は考えます。


 尚、宇喜多氏の自称によれば、百済王族子孫の三宅氏族の末裔で、備前には古来から勢力を持っていた氏族とのことですが。

 三宅氏族は三宅連の後裔になると宇喜多氏は言っているモノの、三宅連は信頼性の高い「新撰姓氏録」によれば新羅王族子孫とのことで、宇喜多氏の主張には多大なる疑問があります。

 他にも宇喜多氏は、藤原北家閑院流の三条家の末裔とか、児島高徳の後裔とも自称しており、又、宇喜多能家の書状では平氏(桓武平氏なのか、他の平氏かは不明)と自称した例もあるとのことです。


 そして、更なる余談をすれば、それこそ徳川将軍家が源義家の後裔で足利一門であると自称した著名な例があるように、こういった自称がどれだけ信用できる代物かというと。

 私としては、同時代史料の裏付けが皆無の宇喜多氏のこういった様々な後裔、末裔の主張は全く信用できない気がしてなりません。


 さて、1469年の西大寺文書が、宇喜多氏に関する初出の文書という話に戻ります。

 西大寺といっても、現在では備前の地元以外では全く無名の寺のようですが、この寺は寺伝を信じるならば西暦751年創建、つまり奈良時代に創建された古刹であり、又、西暦1507年の「金陵山古本縁起」によれば、本堂や三重塔、仁王門等がある寺でもありました。

 この時代の畿内以外にある地方の寺として考えるならば、それなりどころではない寺になります。


 又、現代の地図では全くその面影が無い話になりますが。

 戦国時代の頃は、西大寺は吉井川河口に位置しており、それこそ瀬戸内海の海運と山陽道の陸運を結びつける要地となっていました。

(尚、江戸時代に備前池田家が主として進めた瀬戸内海の干拓事業等によって、西大寺は海から離れた場所になってしまいました)

 こうしたことから、西大寺は門前町ということも相まって、瀬戸内海沿岸では有数の繁栄を誇っている街でもあったのです。


 こういった背景、更にはこの後の宇喜多氏が宇喜多能家や宇喜多直家の下で勃興していった過程において、主に西大寺を中心とする上道郡に基盤を置いたことまでも考えると。

 西大寺を中心とする商業利権を背景にする武装商人が、武士化したのが宇喜多氏ではないか、と私には考えられてならないのです。


 こんなことをいうと、商人が武装したからといって武士になるか、と言われそうですが。

 ほぼ同時代に明や朝鮮を悩ませた倭寇こそが好例ではないでしょうか。

 倭寇は武装しているのが通例で、更に言えば、明や朝鮮の沿岸部の掠奪を行わなかったとは言いませんが、基本は明や朝鮮の住民との間で私貿易を行ったのが倭寇です。

 そして、時代的にも商人が自衛の為に武装するのが当然でもありました。

 こうしたことから考える程、宇喜多氏は武装した有力な商人が、この当時に播磨守護代だった浦上氏の家臣になって、活躍するようになったのではないか、と私には考えられてなりません。


 更に言えば、宇喜多氏の急速な勃興があります。

 宇喜多直家の祖父の宇喜多能家については、宇喜多久家の子と伝わっていますが、最近の研究の深化によって、そもそも宇喜多久家と宇喜多能家が父子だったのか、疑問を呈される程に無名の存在に近かったのが、宇喜多久家です。


 何しろ宇喜多久家については断片的な同時代資料しかなく、宇喜多能家が宇喜多家の家督を継いだ後に、宇喜多久家が賀茂別雷神社の備前竹原荘についてやり取りをした形跡まであります。

 となると宇喜多久家と宇喜多能家が父子という系図が信用できるのか、と言われると。

 私も信用しかねます、としか言えません。

(隠居して家督を譲ったのならば、新当主が荘園主とやり取りをするのが当然です)


 その一方で宇喜多能家は、久家から家督を相続した直後とされる1499年の明応8年の白旗城の戦いの頃から浦上則宗の重臣としての活躍が伝わります。

(時代的制約がありますから、どこまで信用できるかと言われれば、返す言葉がありませんが)1469年の西大寺文書での初出から僅か30年で、播磨や備前で勢威を誇って畿内の政治情勢にも影響を及ぼせる浦上家の重臣に宇喜多能家がのし上がるとは。

 宇喜多能家が有能だったのは間違いありませんが。

 それなりの出自、基盤が宇喜多能家に無いとアリエナイ話ではないでしょうか。


 更にネット情報を見る限り、私の想像を膨らませるのが、宇喜多能家の子の宇喜多興家の妻妾です。

 ネットなので誤った情報の可能性は否定できませんが。

 宇喜多直家の母は備前福岡の豪商阿部善定の娘であり、宇喜多直家の異母弟の宇喜多忠家や春家は阿部善定の下女(女中)という説まであるようです。

(尚、宇喜多忠家と宇喜多春家は同一人物との説が強いのも付言しておきます)


 それこそ、この時代の有力な武士、国人の場合、同格といえる国人クラスと基本的に通婚していることからすれば、宇喜多興家の妻妾は極めて異例な関係です。

(私が思いつくのは、それこそ織田信長と生駒氏の関係(生駒氏にしても妾です)くらいです。

 更に言えば、他に豪商の娘を正室乃至は継室に、この頃の武士、国人が迎えた事例は無かった筈だ、と私が考える程の事例になります)


 となると、宇喜多氏は元は武装商人で、そこから武士に転じた。

 更に言えば、商人同士ということから、阿部善定と宇喜多能家は縁を結んだ、と私には考えられてなりません。

 そして、阿部善定はそう言った縁からも、国人でもない商人なのに、一時は没落していた宇喜多興家の子、宇喜多直家の支援をしたのではないか、と私には考えられてならないのです。

(付言すれば、宇喜多直家が浦上家に復帰した際に他の国人、武士が積極的に支援した形跡が無いのも、そういった背景、元は宇喜多氏が武士ではないからでは無いか、と考えればしっくりきます)

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[良い点]  (・Д・)ホント山家先生は真摯に歴史に取り組むなー感想欄の小さな疑問に「俺の戦国時代はこーなってんだよ」と切り捨てないでそこから一歩踏み込んで「こーゆー見方もありますよ」と細密に思考して…
[良い点] 興味深い宇喜多氏起源が商人説。 そういえば、大河ドラマの「軍師官兵衛」では、官兵衛祖父の黒田重隆は、近江から播磨に流れてきた浪人で、目薬を大々的に売り捌いて財を成した人物と描かれていまし…
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