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クリアフレンチ

 リリーネイルに訪れたのは、子猫の様な濃いブラウンの瞳を持つ、エミリー・グリスト。

 貴婦人と呼ぶにはまだ、少しあどけなさが残るも、だからと言って、少女の年代はとっくに卒業を迎えている。天真爛漫な笑顔を見るとまだ少女なのだと思われることはあるものの。

 エミリーは施術を受けながら、リリーと言葉を重ねるも時折浮かない表情を見せる。

「どうしたのですか?」

 思わずリリーはそう声に出して聞いた。

 エミリーは何も答えず、ただ首を傾げてみせる。いつもなら、ただ可愛らしいと笑って終わるけれど、今日はその瞳が何か言いたげにうつる。

「マリッジブルーですか?」

 伯爵令嬢である彼女には幼い頃から、結婚の約束をかわした青年がいる――イアン・マックリーン、彼はエミリーより五歳年上の辺境伯の子息。その彼と結婚の日取りが決まったので、ぜひ来てほしいと言われたのはつい先月のことだった――そう、リリーは思い出す。

 ほつれた前髪をかきあげる薬指にダイヤが光る。

「いえ、そんなことは」

 エミリーの表情は晴れない。

「喧嘩でもされたのですか?」

 リリーは作業の手を止めずに、言葉を続ける。

「いえ、イアンは幼い頃から私を知ってくれている良い方ですもの。私がどんなに怒っていてもそれを優しさでいさめてしまう様な人だから」

 イアン・マックリーンは朗らかで貴族らしからぬ物の見方が出来る良い青年であるとリリーの耳にも噂は届いている。もちろんアリの情報網から得たものであり、そこから二人の関係についても良好であると聞いた。だから、何かあればアリからリリーの耳に入るはずだが……今のところそんな話は何も聞いていない。

「少しだけ、話を聞いてもらってもいいですか?」

 作業のために下に向いていた顔を上げてリリーはゆっくりと頷く。

 エミリーの声は今まで聞いたことも無いような、ただならぬ気配を漂わせていた。

「今から二年ほど前の事です。孤高のピアニストと呼ばれた”サイ”と言う方の存在をご存知でしょうか?」

 リリーは逡巡しながらも、片隅からその名前を思い出し、ゆっくりと頷いた。

「ええ。確か、当時……彼は十七歳ぐらいで、彗星の如く現れた期待の新人。しかも、市井出身で、儚い容姿でファンを集めましたね」

 色素の薄い金髪は光に照らされると、月の女神の様にきらめき、淡いブルーの瞳で流し目をして見せれば、女性からため息が漏れる。すらりとした指先から奏でられる、ダイナミックな音や繊細な音。その演奏に誰もが称賛する。そんな彼であるから、高位貴族の女性からの誘いが絶えずあり、最終的にスキャンダルで音楽界を追い出されたと言う事の顛末を思い出す。

「ええ。仰る通りです。その頃の私も、夢見る乙女の一人でした。彼のピアノを聞いて、ひと目でファンになりましたの。まあ、まだほんの子供の頃ですから、あの頃に噂されていた醜聞になる様な関係性はもちろんありませんでしたよ」

 リリーは頷いて、軽く受け流す。当時のエミリーはまだ十三歳ぐらいだろう。

「ただ、あまりにも、その演奏と……彼の容姿に心を奪われてしまって、人生で初めてファンレターと言うもの書きました」

「それは記名されて?」

 エミリーは申し訳なさそうに頷く。

 ファンレターを高位の貴族が出す場合、たいてい名前を明記せず、匿名で書くのが一般的だ。それは自身を守るため、しいては手紙を悪用されないためだ。しかし、若かったエミリーはそんな所にまで考えが及ばすに、自分の感情のままに言葉を連ね、手紙を出してしまったのだろう。

「その頃の私はあまりにも幼かったのです。後先考えずに、やってしまった事については今更悔やんでも仕方のないことなのですが……サイはその後、奈落の底まで落ちてしまった。その一連の事件もご存知ですか?」

 リリーは頷く。

 有名なスキャンダルの話だ。

 サイは、手を出しては行けない人物――国王の愛人の一人に手を出してしまった。彼にとってはいつもの火遊びの延長線上だったのだろうが、相手が悪かった。

 二人の密会現場を、新聞紙面にすっぱ抜かれ、それが国王の目に留まると、《国家反逆罪》と言う大層な名目で投獄させられた。

 この時の世論は真っ二つに別れる。

 国王の私利私欲で青年を投獄した事についての批判。

 その国王の愛人となればそれなりの権力を持った女性である。だからこそ、サイも女性と自身の身分差から断ることが出来なかったのではないか。そんな同情の意見があった一方で、サイの節操と常識のなさ――自らが招いた、罪であるとそう意見した人もあった。

「あの事件で投獄されましたが、最近恩赦を与えられたそうなのです」

 新聞に載っていただろうかと、思い出してみるもそんな記事を見た記憶がない。だが、あの事件を見ていずれはそうなるだろうと思っていた。

「そうなのですね? 確かに、国王であろうと、権力の濫用は国家への不信を招きます。ですから、高官達の方でほとぼりの治まる頃を見計らって、恩赦を取り計らう様にするのだろうと。そんな話はずっと出ておりましたね」

 あらかじめ、そう決まっていたことなのだ。考えればすぐにわかることだと頷く。

「それから、ピアニストの彼がどうなったのか。もう会ってもおりませんし、これからどうしようと言う気も起きませんので、特に気にせず過ごしておりましたが、どこかの店でまたピアノを弾いていると風の噂で聞きました。それから………………ひどく権力者に対して、嫌悪感と反発心を持ち合わせているようで」

 つまり貴族にと彼女が言いたいのだと理解する。

「……」

 リリーはそれについて何も言わなかったが、彼の状況からそれは致し方ないことに思われる。何も知らない純粋な市井の少年がある時、天才と祭り上げられて、気が付けば闇の底まで落とされていたのだ。それも全て自分の意志とは関係なく。

「詳しいことはあまり知りませんが、以前関係のあった人達に対して良くないことをしていると聞きました。だから……」

「もしかしたら被害に遭うかもしれないと?」

 まさか、記名してしまったとは言え、何百通の中の一通のファンレターをサイが後生大事にしており、それをエサに脅しでもかけているのだろうかと、ありもしない妄想をしてみて、笑いとばそうと思ったが、目の前のエミリーが、唇をかみしめ苦い顔をするので、そんなことも言えなくなってしまった。

「もう、何か来ているのですね?」

 エミリーは神妙に頷く。

「実は私も元にも一通の手紙が届いて……その時のファンレターの事が書かれ、お金を出して買い取らなければ、婚約者のイアンに送り付けると。脅迫めいた手紙が届いて……私、一体どうしたらいいでしょう?」

――婚約者殿なら許してくれるのではないか。イアン・マックリーンがエミリーにべた惚れしているのは公然の事実である。多分気が付いていないのは目の前の本人ぐらいではないかと思うほど。むしろ、その手紙が届いて、身の危険が迫るのはサイの方ではないかと思ってしまったりするのだが、リリーはそんな無粋なことは口にしない。

「……………………一日時間をくださいませんか?」



 ○



 アリはリリーに指示され、とあるパブに向かっている。

 場所は貧民街。仕事で何度か訪れてはいるが、もう懐かしいとは思わない。ここで生きていた記憶がある。ただ、そう思うだけだ。

 風が吹き込む路上でうずくまる人――少女、老人……。顔を合わせないようにのそのそと目的地の店に急ぐ。若い女性が一人で歩くような場所ではない。特に太陽が完全に沈んでしまったこれからは一番危険な時間帯である。しかし、誰ひとりアリに目もくれない。

 彼女は今、自身のスキルを使用し、浮浪者の中年男性風の身なりをしている。むしろアリからちらり視線を向けても逆に合わせようとする者もない。


 ”パブ 赤い馬”


 目当ての店の看板を見つけると、アリは扉を開けた。ある程度何が起きても良いように覚悟をしていたつもりであるが、扉を開けると飛び込んで来たのは人々の活気ある笑い声。

 いい意味で意表を突かれる。

 店の中に入り、店内を見渡すと席の八割方はうまっている。

 ジョッキを合わせる音と、人々の声、また食器と金属が重なる音が混じりあう。外の様子とはあまりにもかけ離れていたその様子にまた驚く。

 アリがまだ幼い頃。この貧民街で暮らしていたときにはこんな活気のある店など一つもなかった。あの頃から見て変わったのは自分自身だけではなかったのかもしれない。

 しんみりとした感情を思い出しながらも、まずはここに来て自身のやるべき仕事をしなければと、気持ちを立て直して店内を見渡した。

 目当ての人物はバーカウンターの奥で店員として、酒を作り忙しそうに動いている。店はカウンターだけではなくテーブル席が多くあり、ほとんどの客はテーブルで各々の仲間達と酒を酌み交わす。

 もちろん事前に彼の情報を確認してしていたので、すぐにわかった。何気なくちらりと該当人物に視線をやる。全盛期から見ると翳りがあるものの、それでも人目を引く容姿は隠せない。スラリとのびた手足。伸びた髪の毛は一つに束ねられている。ピアニスト時代の姿絵を見た。美しいと思ったが、目が死んでいると思った。

 今、目の前にいる彼と過去の彼との相違点を挙げよと言われたとしたら、儚いと形容された雰囲気からしっかりとした雰囲気を纏うようになったこと。そして、現在の彼の瞳は以前の死んだ魚のような目ではなく生き生きと輝いているということ。そう答えるだろう。

 おもむろにカウンター席に腰を据える。サイはアリに目を止めた。

「ご注文は?」

 アリは横目にほかの客が何を飲んでいるのか目に止めて、同じものを注文した。

「はい、どうぞ。そういえば、お客さん。この辺りでは見ない顔だね」

 渡されたグラスを受け取り、口をつける。冷えたビールが喉を流れていく。

「ああ。ここいらは始めてだ」

 無愛想のキャラクターを装い、ぼそりつぶやく。アリは自身《仮面》このスキルで優れているなと思うのは、どういう原理かはわからないが、自身の思い描くキャラクターに沿って、声が変声される。だから、自身とは全くかけ離れた身なりをすればするほど安心して仕事に集中しているできるというもので。

「へえ、お客さんはどこから?」

 少し驚くのはサイが思った以上に、人懐こい性格をしていたという点だろうか。もしかしたら、アリの身なりにそれほど警戒心を抱かずに済んでいるのかもしれない。

「……まあ、それはどうでもいいだろう。それよりなんだ。この店は活気がいいな? このあたりを彷徨いていて、まさかこんな店だとは思っても見なかった」

 この中年風の浮浪者は、過去に色々あって貧民街に流れてきた男という設定だ。だから、自身の過去のことを聞かれ、少々邪険に振る舞ってみせる。

「ああ、環境推進委員会が発足しているからじゃないか? てっきりアンタもそれを聞いて来たのかと思ったよ――はい。お通し」

 サイは、ナッツの入った小さな皿を目の前に差し出す。

「環境促進委員会?」

 出されたナッツを口に頬張りながらそう聞き返す。ナッツは劣化したものかと思ったが、違った。カリカリとして美味しい。それよりも、聞きなれないその言葉がアリの脳裏をぐるぐると渦巻く。

「環境推進委員会ね。知らない? まさかお客さん、貴族の」

 サイは出かかった言葉をわざと止めた。一瞬、リリーからの密命でここに来たことがバレたのかと思ったが、冷静になってあり得ないと思う。黙っていると、サイはフッと「まさかだな」そう笑って、言葉を続ける。

「まあ、ここが初めてなら知らないか。その……名前は伏せるけど、とある革命家が店の常連さんでね。彼が、よく酒を飲みながら講演をするんだ。――まあ、講演というほど立派なものじゃない。ちょっとした演説だね。その、彼の思想に賛同して集まってくれる人がそのままこの店のお客さん、常連さんになったという訳」

「なるほど……だからここまで活気がある訳だ」

「まあ普通に考えて、この貧民街でここまで店が活気付くのはこの店の力だけでは無理さ」

 皮肉めいた笑みを浮かべる。つまり、店が単独で儲かっている訳じゃない。この店はいわば、その革命家に付随する、秘密結社であるとこの男は認めた訳だが。

「一体、その革命家はどんな思想を謳っているんだ?」

 アリは基本的に王都の情報通であると自負してした。それは、リリーのネイルサロンを支え守るための手段であるので、貧民街も含め様々な情報取集は怠らずにやってきたはずなのに、貧民街にそんな秘密結社があるなんて話は聞いたこともない。

 サイはキョロキョロと店内を見渡す。

「本人が居れば直接聞いた方が早いと思ったんだけど……残念ながら今日は来ていないみたいだ。まあ、僕から説明だと色々甘い部分があるかもしれないが、一言でいうと環境問題だね。住みやすい環境をこの先の子孫に残していこうと言う様な」

「ほう」

 このパブでそんな話を聞くことになるとは思わなかった。

「まあ、俺たちはそんなに関わって来なかったが、一部のお貴族さんには耳が痛い話だろうな」

 サイの言葉にピンとくるものがある。

「それは、魔石の事か?」

 アリが投げた言葉にサイは目を見開く。

「おっさん、よく知ってるね」

「良く知っているとは失礼だ。まあ、色々……過去にそう言った話を聞いた事はあったんでね」

 このキャラクターで魔石の問題を知っていたのは、少しおかしかっただろうかと内省しながらも、その情報ソースを自分の話したくない過去にからめて有耶無耶にする。

「おっと失礼。まあ、それだけではないけれど、今一番の問題になっているのはそれだろう。使用済みの魔石について、おっさんはその使用済みの魔石がどうなっていくのか、現状どうやって処理をしているのか知っているかい?」

「エブラタル地区に流れている……嘘か本当か知らないが、そんな噂は聞いたことがあった」

「そう。これは国家で公式に発表していることだから、別に言った所で差しさわりがないと思って話を続けるが、使用済の魔石は、非常に取り扱いが危険であり、その魔石の処理をエブラタル地区で一手に引き受けているとなっている」

「魔石の処理はそんなに危険なのかい?」

「魔力が枯渇した魔石はある一定の時期をして、自爆するように発火するらしい。それだけなら、防火施設を建設し、そこに集めて処理すればいいと思うが、厄介なのは、魔石が爆発した際、人体に危害を及ぼす気体を発生すさせる。目に見えるものならばいいが、それは目に見えないもので、実際にどんな気体が発生して、人に対してどれだけの危害を及ぼすのかは、現在もまだ調査の段階だと」

 アリは静かに頷いて、エールを飲む。その話はもちろん知っていたが、改めてサイにそれを聞いたのは、彼が知る知識がどういったものかを聞いて見極めたかったという気持ちもある。恐らく、彼のその知識は先程話に出ていた、”革命家”を名乗る男から聞いたものなのだろう。その革命家の正体はわからないが、嘘や虚像を信じ込ませて崇拝させるタイプの人間なのか、純粋に社会の枠組みを変えようと動いている人間なのか。

「初めて聞く話だ。魔石なんてものは俺たちには到底そもそも縁遠いものだからな」

「そうだな。魔石ユーザーのほとんどは、貴族か金持ちの商人ばかり。自分たちが甘い蜜を吸うために使ったモノを厄介だからと、断れない人達に押し付ける。如何なものかと。そんなことをするくらいなら、魔石の使用事態を考えなければならないと思う――それを主張している」

 サイは少々身を乗り出して、そう語る。アリは何度か頷いて、少々興味がない様な素振りをしたが、内心は大分驚いている。


――ピアニストのサイは寡黙でミステリアス。


 以前はそんな風に言われていた彼だが、こんなにおしゃべりで自身の意志をこうもはっきりと持った人物であるとは想像もしていなかった。

(目の前の彼が本当に、リリー様のお客様に脅迫めいた書面を送ったのかしら?)

 彼の瞳は、希望と未来に満ち溢れてている。

 アリは仕事上、様々な人と会って来たが、復讐を考えている人物がこんなきらきらとした表情をしていたことがあっただろうかと首をひねる。

「なるほど。それで、アンタは――失礼、ここに志を共にして集まった人々は、そんな王国の現状を変えようと立ち上がった人達だと。――立派な活動だと思う。俺は一日、自分が生きるのにも精一杯だ。世のため人のために生きるだけの余裕も頭もない」

 アリの言葉にサイは眉尻を下げる。

「確かにおっさんの言っていることもそうだ。俺だっていつもいつもこんな生き方が出来ていた訳ではない。どん底まで落ちたことだってある。その時は社会や俺以外の全てのものが、敵だと。そう思っていたこともあった。だけど、それが変わったのは、あの人に会ったからだ。何のために、これからどうやって自分が生きて行くのか、こんな道もあると教えてくれた」

「そうか。でも、道筋だけ見えても、日々の生活を生きるだけの糧がなければ難しいだろう?」

 アリが何を言わんとしているのかが分かったらしく、サイは渇いた笑みを浮かべる。

「ああ、彼が……実際、どんな仕事をしているのかはわからないが、俺たちの仲間になると言えば、衣食住――仕事は全て保証してくれる。だから、俺もこの店の仕事を任された」

 サイがそこまで話した所で、扉が大きく開き、威勢の良い声が轟く。

「兄ちゃん。また来たぜ。こっちのテーブルにジョッキ四つ。それが終わったら、また弾いてくれよ」

 サイはさくさくと、ジョッキを用意すると、テーブルに出し、どんな曲がいいのかと聞いている。別のテーブルでのやりとりだが、客の声が大きいので何を言っているのかは筒抜け状態。

 店の隅の方に大きなグランドピアノがある。

「そうだな。あれがいいな。俺がいつもリクエストする、あの曲を頼む」

 サイはそれだけ聞くと、グランドピアノに腰かけ、慣れた手つきで鍵盤蓋を開ける。椅子に浅めに腰かけると、自然と店の中はしんと静まり返る。

 

 鍵盤から音が紡がれると、ドキリとした。

 心が持って行かれるとはこういったことなのだ。

 アリは初めてそう思う。

 無視できない、心が惹かれる。

 彼に? 音色に?

 わからないけれど、アリは、気が付けば自然と背筋を伸ばして、ピアノを奏でる彼を見ていた。

 

 




 ピアニストとしての彼の存在しか知らない。歌声は初めて聞いた。

 軽やかなピアノの音に、のびやかで透明感のある声。どこかくすぐったい色香がする。



 昔の彼を知っているなら、明るいメロディは似合わない。どこか切ない音が似合う人。そう思っていた。

 でも今のサイは違う。

 

 

 演奏が終わると、どっと大きな拍手が沸き上がる。

 もちろんアリも無意識に手を叩く。

 鍵盤が仕舞われると、拍手は止んで、先ほどまでの喧騒が戻って来る、今まで、何事も無かったかの様に。

 その声に紛れて、話をし始めたことをアリは聞き逃さなかった。

「そういや、現役だったころ」

 先ほど、入って来た客がサイにチップを渡していた所だ。

「いや、まだ現役だって」

 サイは渡されたチップを受け取り冗談交じりに笑顔で答える。

「ああ、悪い。あんたが昔、大きいホールなんかで弾いていた頃は、……いや、別に悪く言うつもりはない。ただ、その時の客はアンタのピアノを聞いて、心酔していたくせに立場が変わるとすぐに手をひるがえしたとそう言っていたじゃないか。俺はアンタのためを思って、やつらに一泡吹かせてやりたいんだよ。そん時の客の名前、前に何人か教えてくれたじゃないか。他にもいれば教えてくれよ」

「アンタは俺が教えた奴らに対して何かしたのか?」

 サイの声色の変わり様に、男はぴんと背筋を伸ばして、ふるふると顔を横に振る。

「いや、やったもやっていないも、俺はアンタのためを思って……」

「別に俺は、何かやってほしいなんてこれっぽっちも思っていない。――アンタは何をやったんだ?」

 顔がキレイな人が凄むと怖い。サイの両眼に射抜かれる様に見られている男はたじたじになって、視線を彷徨わせ、若干の抵抗を試みたが最終的に自分の非を認めた。重ねた罪の重さよりも、サイに嫌われ、この店を出禁にされる方が彼にとって良くない事態であると、判断したからかもしれない。

「ちょっと脅しただけだ。昔はアンタのことを好きだと喚き散らしていた貴族共に、ちょっと痺れる様な手紙を送っただけだ」

 その言葉にアリは人知れずため息を吐く。

 リリーから、受けた命は《サイに近づき、恐喝の原因であるエミリー様の手紙を持って帰ってくること》だったが、今のやり取りで、その手紙なんてそもそも存在していないのだということ。そして、その犯人はサイ本人でも、彼が依頼したものでもなんでもなく、彼の過去の話を聞いた、どこの誰とも知れない輩が勝手にやったことなのだと。

「それで、痺れる様な手紙で何を得たんだ? 俺の名前をだしたということは、もしあんた等のやった犯行が明るみに出ても名前の出ていないアンタ等は捕まらないが、俺が捕まると。そう言う寸法じゃないか?」

 サイの淡々とした言葉に、ついに根を上げたのか、男はちっと舌打ちをする。

「別にちょっと、小金を稼ごうとしただけだ。別に相手はお貴族様ばかりなんだから、あいつらには痛くも痒くもない金額だ。どうってことない」

「そう言う問題じゃないだろう」

 サイの言葉にそれはそうだろうとアリは内心頷いていた。サイがここまで的確に相手の所行を言い当てたということは、ここにいる男以外にも同じような悪さをした奴がいるのかもしれない。彼らは、本気で脅して、相手が乗ってきて金を出してくれれば万々歳と言う感じで、やっているのだろう。そもそも、恐喝道具の手紙の原本なんてどこにもないのだから。

「だって、手紙がアンタの元に来たのは本当だろう? その今となっては都合の悪い手紙を取り返しに金を持ってきたら、それはそれでいいじゃないか。ここの環境推進委員会の資金にもなるだろうし」

「別に、多額の金を必要とはしていない。そもそも間違っているのは、確かに手紙があった時期もある。だが、そんな手紙はもらった時点で片っ端から処分していたから、今はそんなものはない」

 サイの言葉に男はあんぐりと口をあける。言葉も出ない様だ。

「だから、そんな事が告発されれば、アンタ等は複数の罪に問われる。ありもしない手紙をでっち上げ、恐喝した。あろうことか、その罪を俺になすりつけようとした」

 男はははっとかわいた笑い声を立てる。

「いや、ちょっとした悪戯だ。冗談だよ冗談」

「まあ、それが冗談で通ればいいけれど」

 サイはすっと、表情のこわばりを解いて、カウンターに戻る。他のテーブル席の客の様子をみながら、ジョッキやグラスに飲み物の用意を始める。

「よくわからんが、災難だな」

 手際よくドリンクをつくるサイの後ろ姿に向かって、アリはそう言葉を投げかけた。

「いえ、よくある事なんですよ。だけど、こっちにまで被害が来たら厄介ですからね。これ以上色々やられても大変ですから。あれくらい強く言わないと」

「どうするんだ、もしこっちまで被害がきたら」

 サイは手を止めてこちらを振り返る。

「まあ、そうですね……ただ、事実を説明するしかないですから。それにあいつらの所行はここで今暴露しました。この店にいる人が証人になってくれるでしょう」

 そう言って、にっと笑みをつくるサイを見て、どことなく安堵の感情が湧き上がる。

「そういえば、この新聞」

 アリの座るカウンター席のちょうど隣の隣。別の客が置いて行ったのだろう、新聞が置いてある。いつからあるものか知らないが、記事を見て思わず聞いた。

「エミリー・グリスト。貴族のご令嬢がどこぞの辺境伯の子息と婚姻するようですが、この令嬢を知っているかい?」

 サイはちらりと新聞記事に目をやって、目を見開くもわざとらしく首を横に傾げる。

「さあ、全く知らないね。見たことも聞いたこともないよ。それよりも――ラグドギアでは窃盗集団が横行しているって。そっちの方がよっぽど目を引く記事だね」

 アリもその話は聞いたことがあり。お金がある屋敷に押し入り、貴金属品を奪っていく、窃盗集団で、下っ端の人間は捕まっていくが、幹部クラスの人間が捕まらず、騎士団もやきもきしていると、そんな噂だったとふと思い出した。

「それより、おっさん。見た目とは違ってキレイな爪をしているね」

 サイのにっこりとする微笑みにぎょっとする。リリーが整えてくれたネイルが艶やかに光りを帯びた。


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