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ブラックマットネイル

 王都のブティック街の一画に白壁のこじんまりとした家があり、木目の扉の上には、”リリーネイルサロン”と、看板がかかげられている。このネイルサロンのオーナーである、子爵令嬢は彼女が十六歳の時に開業し、当初は閑古鳥が鳴いていたサロンも、次々と広がった口コミから、開業から三年経った今では、多くの常連客が訪れる店に成長を遂げていた。

 その店先に、白い巫女服の様なロングドレスに、白いレースのヴェールを被った一人の女性が、数人の屈強な騎士に守られながら、ネイルサロンに入ろうとしている。

 先頭にたつ騎士が扉を開こうとしたところでゆっくりと、扉が開く。

「いらっしゃいませ。既にご予約されたお客様でいらっしゃいますか?」

 黒の執事服に肩くらいまでの銀髪を一纏めにし、すっとした顔立ちで、どんな客にも目の色一つ変えず、たずねるエド・ヴァルマは、ネイルサロンのオーナーであるリリーの信頼の厚い使用人だと聞く。

「聖女ナズナ様である」

 騎士は口上を述べる様にそう言った。

「ナズナ様………かしこまりました。中へどうぞ。ですが、護衛の方々は」

 ネイルサロンはそれほど大きな建物ではない。騎士たちが全員入って休めるスペースはないのだとエドは遠まわしに告げている。

「私一人で参りますので、外で待っていてくださる?」

「ですが」

 ナズナはそう言って悠々とサロンに入ろうとするところを、その騎士達の中では隊長格と思われる男性が、言葉で彼女を引き留める。

「大丈夫です。何度も来ておりますし、施術をしてくれる方は女性の方ですから」

 

 アンバー王国には彼女を含め、複数の聖女がいるが、その中でもポテンシャルはナズナが一番高いと言われている。また、ヴェールの向こう側の素顔は女神の様だと言われ、傾国の美女と謳わる。彼女を一度でも目にした男性は皆、彼女の虜になってしまうとも。もちろんそれは、誇張された噂であり、実際に彼女が魅了の様な魔法を使える訳ではない。現に目の前のエドは男性で、何度かナズナの素顔を目にしたことがあるが、特に何の変化もない。

 聖女ナズナの年齢は十七歳。六歳のスキル測定で聖なる力を秘めていることが判明し、そこから力の使い方についてずっと教会で修行を続けてきた。

「もし、護衛の方々がご心配だと仰られるのであれば、もう一人、女性の使用人がおりますので、その者に案内させた方がよろしいでしょうか」

 エドの他にもう一人、アリ・ミルズと言う女性の使用人がいる。彼女もリリーの厚い信頼を得ている。金髪にグレーの瞳をもつ、一見、影の薄い女性であるが、それは彼女が使用人と言う役割を徹底しているからかもしれない。

「いえ、結構よ」

 ナズナはそう言ってスタスタと中へ進む、置いてけぼりの護衛の騎士達はその様子を目で追っていたが、ナズナがサロンの中に入った所で、エドはパタリとドアを閉める。

「ごめんなさい。入り口でうるさくしてしまって」

 ナズナはエドを振り返り、ヴェールを取った。

「いえ、問題ございません。お預かりするものはございませんか?」

 ナズナがエドにヴェールを渡す。

「かしこまりました」

 丁重にそれを受け取ると、お客様用に鍵のついたクローゼットを用意しており、いくつかあるなかの”A”と書かれた扉の中にヴェールをしまう。鍵をかけて、その鍵をナズナに渡した。

 鍵は金で出来た、アクアマリンの宝石が付いた、お洒落なものだ。

「無くさぬ様お持ちください」

「ありがとう」

「では、足元に気を付けてこちらへ。もうすぐ参りますので、こちらのソファーで。お飲み物をお持ちしますが、ご希望はありますか?」

「そうね。ホットココアがいいわね」

 エドはかしこまりました、と小さく礼をして、扉を閉めて部屋をでる。

 ふうと、息を吐いて。


 キッチンに近づくと、見知った二人の声のやり取りが聞こえて、エドは流石にため息をついた。

「リリー様、お覚悟をお決めください」

「絶対いやよ。私は絶対いや」

 わざと大きな音を立てて扉を開ける。

「一体、この時間まで何をやっているんだ」

 キッチンの扉を開くと、カウンターテーブルをはさんで、このネイルサロンのオーナーである、リリー・アスセーナスと、アリ・ミルズが押し問答をしている。

「ちょうどいいところに。貴方からも、リリー様におっしゃってください。ただでさえ、激務をこなしているのだから、健康第一。好き嫌いをせず、しっかりと食事を取る様にと」

 リリーの前には皿があり、そこには熟れたトマトが残っている。

「はあ。もうお客様が来ているんだ。その押し問答は昼に回した方がいいと思うけど」

 リリーはエドを見ると、助かったと希望の眼差しを向けたが、昼に。と言うくだりを聞いてまたどんより肩を落とした。それを横目にエドは、お客様であるナズナの要望に答えるべく、ミルクを取りだし、鍋にかける。

「かしこまりました。いってらっしゃいませ。このお皿は私が、責任を持って管理しておりますので」

 アリの強い物言いに、リリーは言葉を返すことなく、キッチンを出て言った。

 リリーの足音が聞こえなくなった所で、

「そこまで言わなくてもいいんじゃないの?」

 エドがアリを振り返る。

「ご心配なのです。最近とみにお疲れのご様子で」

 リリーがネイルサロンを始めて三年が経つ。店が軌道にのり、お客様も増えてきたが、リリーには疲労がのしかかっていることも事実であった。

 エドは出来たてのココアを持って、ネイルの施術部屋の扉をノックし、中に入る。

「色はマットブラック。3Dアート? でしたっけ? それでリボンをつけられませんか?」

 ナズナが今回のネイルの希望を伝えている場面だった。彼女は聖女にふさわしく、まるで天上世界に住む天使が地上に舞い降りたかの様な容姿をしており、黒はそれとは相反する色だとそう感じる。リリーも同じように感じたのだろう。

「黒ですか?」

 リリーはナズナの手元に落としていた視線を上げ、そう聞き返した。

「黒はありませんか?」

「いえ、ございます。が……」

「ああ、聖女だから白を着ないといけないとか、そう言った規定はありませんから。逆に、その位は私の好きにさせて欲しいと思っているので」

 ナズナの言葉に妙な凄みを感じる。エドはゆっくりとナズナの座るソファーの隣になるサイドテーブルにココアを置いた。

「エド。扉の前に」

「かしこまりました」

 リリーがエドを横目に見る。

 護衛を中に入れない分、万が一に備える必要はある。何かあってもすぐ対応できる様に、エドは施術の邪魔にならない様に気配を消して扉の前に立つ。

 リリーは手際よく、ナズナの爪を整えて行く。

 何度も見ている光景なのだが、未だに彼女がどうやってそういしているのか、わからない。

 そもそもリリーが使っている、やすり、プッシャー、ネイルライト、筆等は自身のスキル”創造”で無からつくりだしたものであるから、エド自身にわかる余地などないのだと言われるとそれまでだけれども。

「色は黒でマット。ツヤは出ない方が良いのですね?」

「つやつやしているよりもマットの方が少し控え目でいいかと思って」

「リボンのアートはどこにします?」

「両手の薬指」

「わかりました」

 リリーはナズナの手元に視線集中させながら話しを続ける。

「でも、珍しいですね。藤色とか青とか白。今まではすっきりとした色が多かったので、黒のチョイスは意外だなって思いました」

「確かにそうかもしれないです。少しだけ、自分の中で変化したいなって。でも、すぐ前の様に戻すかもしれないです」

 ナズナは照れる様に笑う。

「なるほどですね。良いと思います。イメージチェンジしたいなって思う時は誰だってあると思いますから。でも髪の毛だったら、一度切ってしまって、やっぱり長い方がよかったなと思っても後の祭りで、でもネイルは大体月一回程度変えます。なんなら、一週間後に、やっぱり嫌だなと思って変えることもできますからね」

「そうなんです。だから、気軽に色々チャレンジできるのはいいなって。それに疲れた時、爪が綺麗なのを見ていると癒されると言うか」

「わかります。わかります。私も気が付くと、自分の爪に魅入っている時があって……でも、お客様――ナズナ様にそう言ってもらえるのは嬉しいですね。あっと、爪の形はいつも通りで大丈夫ですか?」

 ナズナはこくりと頷く。

「え、だっていつも素敵だから」

 アンバー王国の聖女様。

 そう言って崇められている彼女とは、本来であれば気さくに話すことなど許されない方。でも、今施術を受ける彼女は、年相応のどこにでもいる女性にしか見えない。

 リリーは爪の表面を拭き上げると、一旦手を離し、カラージェル等の用意をするため席を立ちあがったが、二人の会話はそのまま続けられた。

「そう言えば、最近隣国にも遠征に行かれたと。聖女様として非常に優秀な方であると、隣国の方々からも多大な賛辞があったと、そんな新聞記事を拝見いたしました」

「ああ」

 ナズナは表情を曇らせる。

「帰って来たばかりでまだ、お疲れですよね」

「いえ、二日前に帰ってきて。一週間は休みをもらっております。昨日はかなりぐっすり眠れましたし」

 ナズナは空いた手で、ココアのカップを持ち、一口、二口、口をつける。

 リリーは用意を終え、慌てて自席に座りなおす。

「お待たせいたしました。じゃあ、右手から失礼しますね。――でも、大変でしたね。隣国のラグドギアに到着してすぐに魔獣の襲来に遭われるなんて」

「ええ。出迎えてくださった沢山の方々がいる中で聖女の力を使う事になるとは思いませんでした」

「聖女様の力は、天から裁きの光をランダムに打ち付ける。と言う力でしたね」

「ええ。でも万能ではありません。裁きの光はランダムに落下します。なるべく、魔獣たちが発する負の瘴気に向けて放つ様にと念じておりますが、外してしまう場合もありますので。そうすると、やはり騎士様や魔術師様の力が必要になってい参ります。いつもは人気の無いところで力を使うのですが今回は……でも、あの時やらなければもっと大きな被害が出てしまうかもしれない。そう思ったので」

 エドも、隣国ラグドギアでの聖女ナズナの活躍は新聞記事で目にしていた。ただ新聞では小さく、聖女が放った聖なる裁きの光に、巻き込まれた国民があったと小さく掲載されていたことも。

「ナズナ様の仰る通りだと私は思います。あの状況下ではそれが最善であったと。しがないネイリストの私でもそう思いますもの。あまり気を落とさずに」

「リリーさん、ご親切に」

 ナズナとリリーは目を合わせ、お互いににっこりとほほ笑む。

「とんでもない。じゃあ、ベースジェルと塗布していくので、ライトに入れてください。硬化熱で熱いと感じた場合には無理せず、手を出していただいて構いませんから」

「わかりました」

 机は天板の下、本来引き出しがつけられている部分が空欄になっており、そこにリリーが創造でつくられた、ネイルライトなるものおかれている。

 リリーの合図で右手、左手、交互にネイルライトに入れる。

「…………リヒャルト・ゲルナー」

「ん?」

 不意に言葉を発したナズナに、作業を集中していたリリーは反射的にそう聞き返していた。

「リヒャルト・ゲルナー。今回、ラグドギア王国の魔獣騒動で亡くなった方のお名前です」

 ナズナは心痛な面持ちを見せる。

「覚えていらっしゃるのですね」

「ええ。もちろん。故意ではありませんが、やはり……丁重に葬って、そうしなければならないと」

 エドは話を聞きながら、聞き覚えのある”リヒャルト・ゲルナー”がどんな人物であったのか、考えを巡らせていた。思い出したように、ナズナの横に行き、サイドテーブルに置かれたコップを取り上げる。

「新しいお飲み物をお持ち致しますが」

 そう声をかけると、

「冷たいお水を」

 ナズナの言葉に、

「かしこまりました」

 一礼した後、部屋を出た。

 キッチンではアリが昼食の用意のためパン生地をこねている。

「なあ、リヒャルト・ゲルナー。聞き覚えがないか?」

 アリはエドの言葉に手を止めた。

「リヒャルト、リヒャルト……ああ、ラグドギア王国の貴族。そして、聖女ナズナ様の熱心なファン」

「ああ」

 それで思い出した。

「女癖が悪くて有名。でもゲルナー家は割と権力のある家だから、お咎めはないとか」

「なるほどね」

 エドはココアのコップを流しに下げると、戸棚からガラスのグラスを取り出し、水を注ぐ。リリーも愛飲しているアデレ山脈の天然水。彼女いわくミネラルたっぷりで美容に良いのだとか。

「リヒャルト・ゲルナーも聖女ナズナ様の魅力にやられた一人。ナズナ様が平民出身なのをいいことに、”俺と結婚しろ。貴族の淑女にしてやる”とか訳の分からないことを言い出して、聖女様はかなり迷惑を被っていたと噂に聞いたわ」

「そんなことなら、今回のラグドギア行きにはひと悶着あったんだろうな」

 ナズナがリヒャルトを好いているならいいだろうが、もしそうではないのなら、わざわざ向こうのテリトリ―に飛び込んで行こうとは思わない。

「そうよ。ゲルナーは”ついに結婚だ”とか、また摩訶不思議なことを言い出して。今回のラグドギア行きについて、聖女様は本当は行きたくなかったご様子だと聞いているわ。行けば最後。どんなに滞在期間を短くしたとしても、ゲルナーは高位貴族だから、会いたいと言われれば断れない。ラグドギアの皇帝はゲルナーが何をしでかしても見て見ぬふりの様だしあるし。それに、ナズナ様を連れていくのは一介の護衛騎士でしょう? 彼らが、高位貴族相手にそこまで強くものが言えるかと言われるとそうでもないでしょうし」

 確かにそうだとエドはアリの方を見ずに頷く。

「でも、ラグドギアは最近とみに魔獣の被害に悩まされており、一刻も早く聖女の派遣を望んでいた」

 聖なる力を持つ者は世界各地にスキルや能力を有した者がランダムに現れるが、国家レベルでアンバー王国の様にしっかりとした聖女の育成・教育機関がある国は少ない。そのためアンバー王国の聖女のレベルが高いと言われる。

「かなり魔獣の被害が深刻化して、自国の聖女達だけでは対応し切れないって。かなり頭をさげられて行ったみたいよ」

「聖女ナズナ様の指名で?」

「ええ、かなり状況がよくなくて、他の聖女様なら二人か三人がかりで行かないとだめだろうと」

 アリはリリーの使用人――彼女の持っているスキルは”仮面”。このスキルは、その場所にふさわしい人物に違和感なく変装出来ると言うものだった。一般の人であれば、正直不要なスキルであろうが、彼女はこのスキルを上手く利用し、様々な場所に潜入して情報を得ている。

 だから、彼女に聞けば新以上の情報を聞くことが出来る。これも全てリリー・アスセーナス為、しいてはこのネイルサロンのためである。

「そのリヒャルト・ゲルナーは皮肉なことにナズナ様の裁きの光で死んだとか」

「ええ。その情報も知っているわ」

 エドは先程、ナズナ本人からその話を聞いた時、かなり驚いた。新聞でも死人の名前までは公表していなかったから。でもやはり、アリの所には情報が入っていたのだ。驚きよりもアリの実力に感心するしかない。

「それはお嬢も?」

 エドは内輪でリリーの事をお嬢と呼んでいた。

「もちろん。今朝、話したわ。リリー様も今日、聖女ナズナ様がお見えになることはもちろんご存知だから、聞かれたもの」

 リリーはお客様と良好な関係を築くために、なるべくネイルサロンに通ってくれるお客様については、良い面も悪い面も含めて知ろうと努力されている。アリの情報網を使って。

 エドはグラスを持ってキッチンを出る。

 浮かんできた疑問は、――なぜ、リリーは知っているなら、あえて聞きにくいラグドギア王国での話題を振ったのかと言うことだ。聖女ナズナだって、死人が出たのなら、あえて触れられたくないだろうに。

 リリーは確かに好奇心旺盛なところはあるが、他者に対して、思いやりを持てる分別のある人間だとエドは思っている。

 そんな風に考え事をしていたせいだろうか。エドは珍しく、ノックをし忘れてサロンの扉にふれた。

 エドの固有スキルは”アサシン”。

 意識しなければ、エドの存在を周囲に示すことが出来ない。

 扉を開けた瞬間に、白い電流の様なものが走る。

 それを間一髪の所で踏みとどまり、避けることに成功した。

 部屋の中では、驚いた後に申し訳なさそうな表情を浮かべたナズナの姿。

「ごめんなさい。気配を感じず、扉を開ける音がしたので驚いてしまって」

 しゅんとして方をすくめている。

「こちらこそ申し訳ございません。」

 エドは驚いたことなど、おくびにも出さず、サイドテーブルに持って来たグラスを置く。

 ふと施術のテーブルを横目にみると、ネイルは完成間近であった。

 ナズナの両手は彩度の全くない墨で染められたように真っ黒である。薬指には、彼女が希望した通り、リボンをかたどったアートがある。

 エドは一礼して、元居た扉も前までさがる。

「私の単なる好奇心なんだけど、聞いてほしいの」

 沈黙の空間を破ったのはリリーのそのひとことだった。

「なんですか?」

 ナズナは改まったリリーの物言いに首を傾げる。

「今のは、裁きの光。なのよね?」

「ええ。……ごめんなさい。とっさに発動してしまって。力を弱めたつもりではあるのだけど、もし床に傷などついてしまったら本当にごめんなさい。弁償しますので、私宛に請求書をいただければ」

「いえ、まさか。驚かせてしまったのはこちらのミスですし、ナズナ様にその様な金額を請求するなんても、できませんわ」

 ”ミス”と言った所だけ、恨みがましい気持ちが込められていたのは気のせいだろうとエドは咳払いをする。リリーは一瞬こちらを見た気がしたが気にしない。彼女は話しを続ける。

「それに、床とラグはそのうち変えようと思っていた所だから全然かまわないのよ。それより、裁きの光と言うのは力を調整したら、自分の思う様に落下場所を決めたりすることが出来ないと聞いていたけれど」

 一般的にはそう言われている。だからこそ、聖女が裁きの光を使うのは、人気のないところで基本的には限定されている。しかし、先ほどの裁きの光はピンポイントでエドの足元を狙っていなかっただろうか。

「基本的にはそうですね」

 ナズナも言いにくいのかそう答えながらも視線を泳がせている。

「でも先ほどの様子だと、ある程度は自分の思う様に落下位置を決めることが出来る様に思われたけれど」

「……私、限定だけれど多少は」

「じゃあ、リヒャルト・ゲルナーの死についても」

 リリーがその名前を出したところで、明らかに空気が凍り付く。それはエドが肌で痛いほど感じられる程、張り詰めたものであった。

 ナズナは何も言わず、口も開けない。

 エドが持って来たドリンクに、手をつけようともしなかった。

 リリーはそんな空気を知ってか知らずか、先ほどの会話など忘れてしまったかの様に黙々と作業に集中している。

「あとは、ネイルオイルを塗ったら完成」

 そう言って、向こうの棚に置いたネイルオイルを取りに立ち上がる。

 その間もナズナは何の言葉も発さずにただ、だまって座っている。

 リリーが席に戻ると、ナズナの両手にネイルオイルを指一本、一本丁寧に塗っていく。

「はい。完成。それから安心してください。施術中に交わした雑談は守秘義務として誰かに漏らしたりしません。それは私も、私の使用人も一緒です。もし、信じられないと言うのなら、いくらでも誓約書を書きますので」

 リリーは明るい様子でそう言ったが、ナズナは反対に顔を落とし、自身の完成したネイルを見ている。それから程なくしてぼそりとつぶやいた。

「裁きの光をリヒャルト・ゲルナーにわざと当てたのは、私だわ」

 ナズナの言葉にリリーは否定も肯定も頷きもしない。

「それで、この事実を知って、どうされるのですか?」

 リリーは顔を上げて、「いえ、特に」と、言う。

「え?」

 逆にナズナの方がきょとんとした表情を見せてしまったくらい。

「私はただ、先ほどの様子を見て、もしかしたらと思っただけですから」

「でも」

「逆にどうにかして欲しいのですか?」

「いえ、そんなことは」

 強く否定しながらも、ナズナも視線を泳がせる。多分、訳が分からなくなってしまったのだろう。

「もしかしたら、その亡くなった貴族も邪な気持ちを持っていたことから、裁きの光の射程に入ってしまったのかもしれません。ただ、それだけのことだったと」

「でもあの時」

 ナズナはそう言って、言葉を切る。その時の、状況や気持ちがぶり返して来たのだろう。体を震わせ、重い口を開いた。

「……あの男は魔獣よりも、私を見ていた。あの男が隣国にいるから私はどうしても行きたくなかった。でも、あの男から隠密に書状が来たの。”どうしても来ないのなら魔獣をさらに呼び出す”と……」

 ナズナの両目からは涙がつたう。

 魔獣を故意的に呼び出すなんてそれだけで有罪だ。

「貴女はただ、自分の仕事をしただけです。聖女様」

 リリーはそう言って、ナズナの爪先にネイルオイルを塗った。

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