夜空の夕映えネイル 5
翌朝、ドロシアに見たことも聞いたこともない人物が訪ねて来た。
「無事に結婚され、伯爵夫人になられたのですね。お久ぶりです」
アダム・ルイスと名乗る男は伯爵家に突然訪れた。
彼を取り次いだ、パメラの説明によると『ドロシア様の幼馴染だからと言えばわかるから』と、あまりにも押しの強い、ルイスを応接室に案内したのだと説明した。
『もし、本当に奥様のかねてからのお知り合いならば無碍にしてはと、思いましたので』
ドロシアはその話を聞いて、自分の人生の中にアダム・ルイスと言う男が存在していただろうかと記憶をたどってみたが、一向に思い当たる人物はない。
いつもなら、そんな人物は知らないと一刀両断して、終わりそうなものだが、昨日とのリリーとの話もあり、”いよいよ来たか”と言う気持ちの方が大きかった。
パメラには案内してくれてありがとうと伝え応接室に向かう。
「やあ、ドロシア。いつぶりだろう」
ドロシアが部屋に入るなり、ルイスは立ち上がり両手を広げる。
金髪の細面で優男風の顔。悪く言えばありふれた容姿。背が高くその身のこなしから軍人ではないかとドロシアは予想した。
「ええ、お久ぶりね」
そう言って微笑むが、やっぱり記憶にない。だからこそこの男が何の目的を持ってドロシアに近づいて来たのか、その情報を得る必要があると思った。それには話を合わせて、相手から引き出すしかないと、より一層作り笑顔を深める。
「結婚したって聞いて、本当は飛んで来たかったんんだけど、仕事の都合でどうしても来られなくて。ごめんね。これ結婚祝い。どうぞ受け取って?」
ドロシアに有無を言わせないトークで、ルイスの隣に置かれていた、ピンクのリボンがかけられた箱がドロシアに手渡される。
「後で開けてみてね。きっとびっくりすると思う」
ルイスはいたずらっ子の笑みを浮かべた。
それからは一方的にルイスの話が始まる。
小さいころに二人で怒られたとか、どこどこに行ったとか、どんな悪戯をしたとか。ただ、ドロシアの中ではルイスと言う人物とそんなことをした覚えは一切ない。それにも関わらず、ルイスの話があまりにもリアリティに富んでいるからか、ドロシアだけがもしかしてルイスとの記憶がごっそりと抜け落ちてしまったのではないかと、変な恐怖が襲った。ルイスはドロシアの気持ちなどつゆ知らず、上機嫌で二人の思い出を語る。
不安なのはドロシアだけの様だった。
時々、自分が上手く笑えているか、不安になった。変な表情を見せていなければいいのだけど。
「じゃあ、ドロシア。また来るよ」
ルイスは意味深長な笑顔でそう言って部屋を出て行く。
「玄関まで見送るわ」
ドロシアが立ち上がりかけた時、ルイスがそれを制した。
使用人達は、ルイスが帰ると言ったので、それぞれ帰り支度のため出て行き、応接室にはルイスとドロシアの二人しかいなかった。ルイスはドロシアの手首を引き寄せ、
「疲れたでしょう? 俺の話につき合わされて」
低く、色香が含まれた声で囁く。ドロシアは反応できず、ただ、応接室のチェストを凝視していた。
「ルイス様。馬車の用意が整いました」
扉の方を見ると、ピーターが恭しく一礼していた。
「あの男……?」
ルイスは聞こえない程、小さな声でそう言った。
「え?」
ドロシアはふっと顔を上げたが、
「ちゃんと、プレゼントは見てね」
その時には、先ほどまでの彼の表情に戻っていた。ルイスはドロシアからするりと体を離すと、そのまま出て行った。
つまり、彼は、一体なんなのか。
ドロシアの頭上に無数の疑問符が浮かんでいる。
そのまま応接室で一人悶々とされていると、パメラが戻って来た。
「ご結婚して、気持ちも忙しかったでしょうし、馴染みの方がお見えになってドロシア様も少し気分転換になられたのでは?」
パメラはくったいのない笑顔を見せる。
応接室での会話を聞いて、ドロシアとルイスが本当に幼い頃からの馴染みの間柄だと思ったのだろう。あのやりとりについては、当人のドロシアは自分の記憶に瑕疵があるのではないかと思わされるような立派な演説だった。
しかし帰り際のあの彼の態度で、やはりあれは全て作り話だったのだと。
彼は一体、何の理由でドロシアに近づいて来たのだろうか。
「奥様?」
パメラの言葉に微笑みを取り戻し、
「ごめんなさい。なんだか久しぶりに色々と昔の事が思われて、……そうだ。プレゼントをもらったの、結婚祝いの。後で見てって言われたの」
「それでしたら、あちらに置きましたよ」
パメラの指すチェストの上に、ピンク色のリボンがかかったつつみをがある。
ドロシアが立ち上がるより先に、パメラがさっと動いて、目の前のテーブルに置いた。
「お手伝いしましようか?」
「ううん。一人でなんとなく思い出にひたりたい気分なの。まだ少女の頃、くったいのない日々」
目を細めて遠くを見る仕草を見せると、パメラはわかりましたと言って笑顔を見せた。
パメラは飲み物を置いて、部屋を出て行くと、ドロシアは大きく息を吐いて、机の上に目をやった。リボンで美しく装飾されたプレゼントの箱と、パメラが用意してくれた冷たいレモネード。
ソファーに体を預けたまま、ひんやりとしたグラスを手に持つと、少しだけ頭がクリアになる。
「さて」
ドロシアはプレゼントの包みに目を向ける。
見知らぬ男性から送られた、結婚祝いの品。
考えるだけで、怪しい気持ちが消えない。
覚悟を決めて、包みを開く。出て来たのは大きなクマのぬいぐるみ。
構えていたのに、愛嬌のあるその顔をみて拍子抜けした。
可愛らしいのは可愛らしいのだけど――出産祝いと間違えてはいないだろうか。なんて思ったり。
ドロシアの隣、テディーベアを置いて、膝枕をしてもらうように、横になる。懐かしい気持ちになった。実家のブラッドロー家にも昔、大切な人から贈られたテディーベアがいた。この屋敷には持ってきてはいない。
式場で、あの未来と思われる映像をみてから、どうにかそう遠くない先に訪れるあの映像を現実化しない様にと思って、自身で対策を講じてみた。しかし、一向に自体がよくなる感覚はない。ドロシア自身の無力さに泣きそうになるくらい。そもそも式場でみたあの映像はもしかしたら、ドロシアが未来に対して、抱く不安がみせた空想の世界だった可能性もあるのではと思う。
そう思うと逆に、ドロシアのせいで、サマンサやリリーに迷惑をかけているのではないかなどと思い、申し訳なさと悲しさがこみ上げる。彼女達は信憑性のかけらもないリリーの話を真摯に向き合って聞いてくれたのだ。
もし、このまま何も起きないのなら、何もない方がいい。もちろんそれにこしたことはない。その時には、リリーとサマンサにそれ相応のお礼をしたらいい。そう開きなおるといつもの元気が湧いて来た。
体を起こし、改めて隣にいるテディーベアと顔をあわせ、鼻をこずいてみて気が付いた。普通のぬいぐるみなら向こうがわに倒れるくらいの強さのはずだ。しかし、テディ―はびくともしない。あらためてぬいぐるみを持ち上げてみる。普通の人形よりもずっしりとした重みがある。まさか、中にポケットや何かがあって物が詰まっているのかともおって体をまさぐってみたが見当たらない。
爆弾?
しかし、ドロシアを消したところで何のメリットがあるのだろう。本命はラルフではないのか。でも、現在彼は屋敷に不在だし。
テディーの両目を見る。
「アナタはどうしてここに来たの?」
きらりと光った様に見えたがただ、それだけだった。
◇
「先日のプレゼントは見ていただけましたか?」
テディーベアをもらって二日後にルイスはまたクレイグ伯爵家に来た。
「ええ。素敵なプレゼントをありがとう」
ドロシアはなんとか笑顔をつくってそう答える。
「気にいっていただけてよかったです」
パメラが用意した紅茶を飲んで、満足そうな表情見せる。
「とてもずしりとしたクマさんでしたね」
すっとルイスに視線を向けると、気が付いた? と言わんばかりの表情を見せる。
「あのテディーベアは魔石を使ったテディーベアなのです。夜になるとテディーベアの周囲が明るく光るのですよ。やってみましたか? 若い女性の間で流行していると聞き及びましたので」
ルイスはにこにこの笑顔でそう言うが、ドロシアはなんとか笑顔が引きつりそうになるのをこらえた。
彼がさす”若い”と言う言葉が一体何歳ぐらいの女性を対象としているのか。もしかして、十歳以下の若い女性のことではと、喉まで声がでかかったが、笑顔でなんとか誤魔化す。
「ありがとうございます」
「今日はお誘いに来たのです」
ルイスはポケットから一通の招待状を取り出すと、ドロシアに差し出した。
「これは?」
受け取り差出人の名前を見ると、
「ロザリンド・フランジス様」
その名前には聞き覚えがあった。
確か、少し前に伯爵様が亡くなった。彼を殺害した容疑で妻であるロザリンド・フランジスに容疑がかけられたが、無罪で釈放されたという話と同時ぐらい、ハスキンス公爵の失踪劇も巻き起こった。
公爵は表向きには、引退し海外を悠々自適に渡り歩いている(彼は外交官だった経験もあり)と、王家は言ったが、本当はフランジス伯爵を殺害した容疑で、王宮の奥深くに幽閉されているという話がまことしやかに伝えられた。真実が実際どうなのか、ドロシアに知る由はないが、それが本当ならばもうそうする他なかったのだろうと思う。
「確か、最近伯爵夫人として噂になっている方ですね。お会いしたことがあったかどうか……ただ、とても美しい方だと話には聞いています」
事件のことは全く触れず、ドロシアはつらっとそう答えた。ルイスはそれを見抜いてか、意味深長な笑みを浮かべ、
「その伯爵夫人が最近内輪のパーティーをよく開いているそうなのです。よろしければご一緒しませんか?」
ドロシアはこの時、断ることも出来たのだが、目の前にいるアダム・ルイスと言う人物の真意について計りかねていた部分もあり、自分自身で確かめるため、二つ返事で了承した。
「それで、その際に……………………」
まさか、その後、ルイスから不思議な提案をされるとは思ってもみなかった。
◇
フランジス伯爵の屋敷は手入れが行き届き気持ちの良いすがすがしさがあった。現女主人のロザリンドの手腕によるものなのは明らかである。
馬車を降りて、周囲をきょろきょろと見渡したが、ルイスの姿は見当たらない。用意に時間がかかっているのだろうか。
彼の姿を待ちながら、約束の時間に遅れている理由を色々考えてみたが、それも見当たらない。
ずっとこのままドロシア一人で、ここにいる訳にもいかないので、一旦、中に入ろうと歩みを進める。
「どうぞ奥様。お待ちしておりました」
慇懃な素振りで迎えてくれたのは、フランジス伯爵家の執事と思われる壮年の男性。
「今日はお招きいただきありがとうございます。ドロシア・クレイグです」
ちょうど彼の手の辺りが目に入る。刻まれた皺が執事の年輪であった。
「こちらこそ奥様。――え、えっと、伯爵様は?」
「ちょっと遅れているみたいなの。もう少しで来ると思うのですが」
ドロシアはそう言葉を濁す。
ルイスからのこれが提案であった。彼が、ラルフ・クレイグに成りすますので二人でパーティーに参加しようと言ったのだ。
「かしこまりました。伯爵様がいらっしゃいましたらそうお伝え致しますので、どうぞ中へ」
ドロシアは笑みを浮かべゆったりと中に入る。屋敷の中は壁の白に明るい色の植物で彩られ、とてもきれいなのだが心が晴れない。
本来であれば夫婦で参加をするはじめてのパーティーと言うことになるのだろうが、なぜこんなことになってしまったのか。
フランジス家のあの執事は非常に有能そうであった。もし、やってきたのがクレイグ伯爵本人でないことがバレたらとうしようと戦々恐々とする。そもそもどうしてドロシアはルイスのあの要望に対してイエスと返答をしてしまったのだろうか。自身の行動が恨まれる。だからと言って今更どうすることも出来ない。
実はルイスへの連絡先すらわからないのだ。
だから今出来るのはともかく彼の到着を待つこと。
「ドロシア様」
一人もんもんと頭を悩ませている中で、涼やかな声に振り返る。
「来ていただき大変光栄です。はじめまして。ロザリンド・フランジスと申します。どこかの夜会などでお見掛けしたことはあったかと思いますが、こうやってお会いするのは初めてかと」
未亡人というが、まばゆい美貌と笑顔にドロシアは思わず目を細めながら小さくお辞儀をした。
「こちらこそ。お招きいただきありがとうございます。素敵なお屋敷で、すみません、見惚れておりました。遅ればせながら、ドロシア・クレイグと申します」
「ドロシアさんこちらをどうぞ」
ロザリンドはウエイターの男性を引き寄せ、フルート型のグラスを受け取ると、ドロシアに差し出した。
「お酒ではなく、フルーツジュースなの。だからご安心なさって。――もちろんお酒の用意もございますので」
「ジュースの方が好きですわ」
ドロシアはありがたう受け取る。アルコールも飲んだことはあるが、美味しいと思ったことは今までない。
「伯爵様もご一緒してくださるようで。お仕事で忙しいでしょうに、とても嬉しいです」
なんとも罪悪感を覚えながら、なんとか笑顔をはりつけてやり過ごす。遅れている理由は聞かないでほしい。と言う雰囲気をかもしだして、視線を彷徨わせると、ロザリンドは微笑んで、他の招待客の方に行こうとしたところ、ドロシアのネイルを見て、ぱあっと表情を明るくする。
「もしかして、リリーネイルに行かれているのですか?」
その目は少女の様な輝きを放っている。
「ええ。知り合いに紹介してもらいましたの。とってもきれいで、とても気に入っております」
きらきらとした爪先を少し伸ばして、恥ずかしがりながら、手を広げたりしてみせる。ふとロザリンドのネイルに目をやると、控え目な桜色に染まっている。
「私もある方にご紹介していただいてから、懇意にしておりまして、実は、――夫の死についても色々とリリー・アスセーナスさんには本当にお世話になったの。命を助けていただいたと言っても過言ではないわね。そういえば、今日のパーティーにリリーさんもいらっしゃるのですよ」
「本当ですか?」
水を得た魚の様に思わず声が大きくなりはっとして、口元に手をやった。くすりとロザリンドが笑う。
「ええ。ぜひにでも来てほしいとお願いしましたから。でも、お仕事の方もお忙しいと伺いましたので、目処が付いてからいらっしゃると。だから、まだお見えになっていないかもしれません」
「あら、フランジス伯爵夫人に、えっと、クレイグ伯爵夫人。ごきげんよう」
威厳のある声に振り返ると、そこにいたのは、ミネラ・フォックス。
フォックス公爵家の夫人であり、アンバー王国の王女でもある。
二人は淑女の礼をとる。
「ごきげんよう。公爵夫人」
ドロシアはそう言って、礼の姿勢を解いた。ロザリンドもそうして、
「公爵夫人、来てくださって嬉しいわ。お飲み物はなにか?」
ミネラが何もグラスを持っていないことに気が付き、すぐに使用人を呼び止める。
「ありがとう」
ミネラはグラスを受け取り、威厳たっぷりにそう言った。
「そう言えば、クレイグ伯爵はお元気かしら。ご結婚されたのですよね」
「はい。おかげさまでありがとうございます」
ドロシアは深々と、礼をする。
実は、ミネラはフォックス家に嫁ぐ前、彼女自身がラルフに懸想しているという噂があった。ドロシアも一度だけ、もちろん、彼女が前の婚約者であるエヴァンズと参加した夜会で、ミネラがラルフに迫っている様子を見たことがあり、噂は本当なのだと思ったことがある。
しかし、ミネラの想いは実らず、王女と言う地位の関係で、フォックス家に嫁ぐこととなった。二人の間は全て終わったことだと思っていたが、彼女の態度を見るかぎりそうでもないらしいと思った。
「ではごきげんよう」
ミネラはそう言ってドレスのすそをふわりとひるがえし、そのまま言ってしまった。
ロザリンドともあと、たわいもない事を二、三話して、別れた。
その後、ドロシアは結婚前から交流のあった、顔見知りのご令嬢と挨拶をかわしながら、入り口の方を気にするように確認してみたが、ルイスが現れる気配は全く感じられない。
「ドロシアさん」
聞き覚えのある声に振り返るとリリーだった。サロンでみる彼女とは異なり、薄紫色のドレスをまとった彼女はまごう事なき、貴族令嬢そのものであった。
「リリーさん」
「どうしました? 大丈夫です?」
ドロシアがあまりにも助けを求める様な表情をしていたらしく、リリーは早歩きになって、ドロシアの近くまで来てくれた。
「本当の事をもしますと、私、あまり大丈夫ではありません。今にも倒れそうなくらいです。急ですみませんが、少しだけお話を聞いてくださいませんか?」
周囲には聞こえない程のささやく声で伝えると、リリーはこくりこくりと何度か頷き、大きくあたりを見回して、
「あちらに行きましょう」
庭園の方を示す。ドレスの裾をちょんと持ち上げて芝生の上を、かかとの高い靴でゆっくりと歩く。
そよぐ風が心地よかった。
いつもなら楽しめたのかもしれないパーティーも今日は全くの反対だ。
見つけたベンチ(と言ってもソファーの様な感じで、座り心地も室内いあるソファーと変わらない)に腰掛けたリリーがこちらを向く。
「あれから何か問題が?」
「ええ、実は……」
ドロシアは声のトーンを落とし、アダム・ルイスのことを説明した。いきなり屋敷を訪れて、結婚祝いだとテディーベアーを贈られたことも含めて。
「まさかラルフに変装するなんて、馬鹿なお願いを許したものだと後悔している。聞いた時から、おかしな話だと思っていたの。ご友人とのゲームに負けて、その賭け事の内容からと。そう説明されて、私も普段なら、結婚している身ですし、引き受けるべきではないとわかっているのです。でも、その――ご相談した件もありましたし、もしかしたら、これが何か解決の糸口になるのではないかと思って」
よかれと思って、足をつっこんだことが、逆に足をさらわれてしまった。
「それで、そのルイス様は?」
「会場のエントランスで待ち合わせていただのですが、待てども一向にいらっしゃならないのです。フランジス家の皆さんを騙しているという罪悪感もあって、私、どうしたらいいのか」
ドロシアはそう言いながら、藁にもすがる思いで、もう一度会場のホールやエントランスの方に目をやってみるのだが、やはり彼らしき姿は見当たらない。
「そのルイスさんと言う方。やはり以前に交流があった心辺りはないのでしょうか?」
「何度も考えてみたのですが、私の記憶障害などがなければ全く――まさか、何者かに記憶の消されてしまったという可能性があるでしょうか?」
恐ろしい考えが頭の中に思い浮かぶ。もしかしたら、何かそれ以上に記憶操作をされている可能性もあるのではとも。
「それはないと思うわ。もし、記憶操作をするとしたなら、逆にすると思うの」
「逆ですか?」
「ええ。つまり、ドロシアさんの記憶に本当にアダム・ルイスと言う人物があたかもい存在したかの様に植え付けるの。その方が、都合がいいでしょう?」
「そうですね。でも、……一体どうしたらよかったのでしょうか」
「ドロシアさんの対応は間違っていなかったと思う。逆に、”アダム・ルイスなんてしらない”と言った方が、危険にさらされる可能性もあった訳ですし。それでよかったのかと思うのです」
リリーは優しくそう言ってくれた。
「ありがとうございます。でも――彼の話を聞いていると本当に、まるで長い時を一緒に過ごしていたかの様に私のことを知っていらして。彼の話を聞いていると、私の記憶の方が誤っているのではないかと思うくらいで」
リリーは息を吐き、首をかしげる。
「なるほどですね――アダム・ルイスはなぜ、ドロシア様に近づいたのでしょう。何が目的なのか。それと不思議なのは今回のパーティーでどうして、クレイグ伯爵になりすます必要があったのか。まず、その友人との賭けと言う話はかなり胡散臭いですね」
「何もおこらなければいいのですが」
ドロシアの願いは、はかなくも砕け散ることとなる。