夜空の夕映えネイル 3
翌日、ラルフは夜も明けぬ、暗い時間に一人、出ていってしまったので、見送ることは叶わなかった。
息を曇らせるも、ドロシアもサッと身支度を整え、フリッツ商会に出かける。
「あら、ドロシア様――失礼、今はクレイグ伯爵夫人とお呼びした方が良さそうね」
くったいのない笑顔で迎えてくれたのはサマンサ・フリッツ。
現フリッツ商会社長の奥方である。
「こんにちは。どちらでも構わないわ。それより今日は、伯爵家のお屋敷で必要な買い物をお願いしたいのだけど」
「もちろんです。あちらでゆっくりと伺います」
サマンサは笑顔で貴族専用の商談ルームにドロシアを通した。
ドロシア・ブラッドローであった時から何度も来たことのある部屋なのだが、その時々に応じて、配置されている家具やインテリはよく変わる。つまり、商談ルームの家具自体が、商品のショールームなのだ。
ブルーの色が鮮やかな布張りのソファーに座ったドロシアを見て、サマンサは話しを切り出す。
「どういったものをお探しですか?」
「えっと、伯爵家の応接室がとても暗い印象なのカーテンをソファーと合わせて一式。華美するぎるのはちょっと気が引けてしまうけれど、明るくて清潔感のある感じにしたいと思って。
それから、お庭にガセポも設置したいの。何かカタログはあるかしら? それで、ガセポの雰囲気に合わせて、庭の雰囲気を変えたいの。植物のカタログなんかもあると」
持ってきたメモを見ながら、ドロシアがそう話すと、サマンサは少し考え、
「少しお待ちください」
そう言って部屋を出る。
戻ってきたときにはいくつかのカタログを抱えて戻ってきた。
「まず、応接室のセットとカーテンですが、オーダメイドのカーテンがありますので、好みの生地があればそれで」
そう言って、生地の台帳を広げる。ドロシアはその中からいくつかピックアップした。別のスタッフが、新たな資料を抱え「失礼いたします」と、控えめな声と共に、両手にいっぱいに抱えながら入ってくる。
「ああ、その上の一冊だけをこちらに、後はそのチェストの上にお願い」
スタッフはチェストに資料を山積みにし、一礼して出ていく。
机の上に届けられた一冊の資料のページを開く。彼女の綺麗に整えらえたネイルがきらりと輝く。開いたページにあったのは、ガセポの資料だった。
「東の国の方で、“東屋”と呼ばれる木造の建築様式があります。いかがですか? お庭のレイアウトも変えられることを検討されていらっしゃるのでしたら、こういったものもありかなと思いまして」
「まあ」
今まで見たこともない建物だ。一見質素にも見えるが、落ち着いた雰囲気と静寂な佇まいの印象を受ける。
「以前、実際に東の方の国に視察に行きまして、実際に東屋を置いた庭を拝見する機会に恵まれたのですけど、花の浮かんだ池の上に橋をかけて、この東屋がポツンと佇む様子はとても風光明媚でした」
その様子を想像したドロシアは感嘆のため息を漏らしたが、同時にふっと疑問が湧き上がる。
「花の浮かんだ池というのは、毎日その池がいっぱいになるようにお花を浮かべているということなのかしら?」
そうすると、東の方の国はよっぽど潤沢な財力があるのだろうか。
「いえ、池に咲く花があるのです。水面の上に茎を伸ばして花を咲かせるので、水の上に浮かんでいる様に見えるのです。一年中咲く花ではないのですが、ちょうど私が行ったときは時期だったので。朝の早い時間にお庭を散策しますと、柔らかな色合いのお花が朝靄の中に見えると、それは美しかったの。蓮という花よ」
「その、蓮という花を取り寄せることは可能かしら?」
ドロシアはそう言葉にしながら、もし蓮と取り入れた庭を作るとしたら、池の貯水工事もしなければならない。よっぽど大規模なものになると考えていた。それから、
――もし、あの時見た未来を変えることができないとしたら、そこまでする必要が果たしてあるのだろうか。そんなネガティブな思考が顔をもたげる。
「そうですね。多分……可能だと思います。それなりに、御手数料がかかると思いますが。後は、植物がアンバー王国の気候と適応するかどうかという話になります。せっかく取り寄せても、気候が合わず、枯れてしまうと、とても悲しいですしね。ただ、正直、実績がないので、こちらとしてもどうなるかはわからない部分が多いのが実状です。絶対大丈夫ですとは言えない状況なので、取り扱いができれば販売は可能ですが、ご購入いただいても、そういったリスクがあることをご承知いただいて、という状況になりますね」
「なるほど」
実際に取り寄せるとなった場合、ジョグに相談しながらやった方が良さそうだと考える。
その様子を見て頷いた、サマンサは、取り寄せの方向で。まず、一本だけでも適合するかどうかを確かめるため、サンプルが手に入らないかどうかと確認してみると、話がまとまった。
「ありがとうございます。あと」
言いにくい言葉を少しためらっていると、サマンサの方から、
「どうしました?」
と笑顔で聞いてくれる。
「少し別の……今、国内外合わせてきな臭い動きってあるのかしら?」
わかりやすくサマンサは顔をこわばらせる。ドロシアは、
「あの、変な意味はなくて。伯爵様がやっぱりそういうお仕事だから。そのあたり、私は疎くって、でも旦那様のことが心配で、気になったりもして」
慌てて、そう取り繕った。
「そうでしたわね。あまり、私としても不安にさせるようなお話はしたくないのだけど、きな臭い動きがあるのは確かに事実だと」
サマンサは、目を逡巡させながら言葉を濁す。
彼女がこんな言い方をするということは、本当なのだと。あの映像の未来が現実味を帯びてくると、ぞくりと背筋が寒くなる。
「ありがとう。とても言いにくいことを聞いてしまって……」
ドロシアはなんだか申し訳なくなり、話を逸らすように、彼女のネイルが綺麗だと褒めた。サマンサはその言葉を聞いて、スッとドロシアに向かって手を伸ばす。
「もし…………」
「ん?」
サマンサはそんな言葉を言いながらも、視線を泳がせていたが、覚悟を決めて、ドロシアを見返す。
「もし気になることがありそうでしたら、このネイルサロンに行ってみるといいかもしれません」
サマンサは、メモを走り書きし、ドロシアにそのメモを手渡した。
「リリーネイル?」
メモには合わせて住所も書かれていた。王都の一角にサロンがあるらしい。
「アスセーナス家のご令嬢がやっているお店だから、信用して大丈夫。私からも行くかもしれないって連絡しておきますので。もしよろければ、このあとお時間は?」
「ええ」
サマンサの勢いに少々押されながらこくりと頷く。
「じゃあ、そうお伝えしますね」
サマンサは満足そうに笑った。もしかしたら、本当に何かドロシアの知らないところで、何か起こっているのかもしれない。リリーネイルに行けば、ドロシアが感じている、もやもやが少しでも解消されるのだろうか。あまり期待して裏切られても仕方ないので、不安な表情は一切見せず。
「何から何までありがとうございます」
そう言って、席を立つ。
馬車に乗り込むと、御者に先ほどもらったメモを見せ、
「ここに向かってちょうだい」
そう伝える。御者は一瞬、目を細めたが、すぐに、
「わかりました」
ドロシアが馬車に乗り込むと程なくして、ゆっくりと動き出す。
ガタガタと揺れる車内で、もう一度、メモに視線をやる。“リリーネイル”この名前と共に、サマンサの綺麗な爪先を思い出す。それから自身の爪を見てため息をついた。
ネイルサロンということは、ドロシアのこの何の変哲もない爪をキレイに整えてもれるのだろう。
もし、今よりももっと綺麗になったとしたら、ラルフは今以上にドロシアを見てくれるだろうか。
そう考えて、思わず涙が一筋流れ、ハッとする。
あの時視た、世界で生きてきたドロシアは、ラルフに振り向いて欲しくて、わざとあんな真似をしていたのかもしれないと。
馬車が停車し、窓から外を見ると真っ白な建物がそこにあった。こじんまりとした可愛らしい建物だ。
なんの前ぶれもなく、来てしまったけど、大丈夫かしら。
ドロシアは内心そう思いながらも馬車を降りる。
サマンサはドロシアのことを連絡しておいてくれると言っていたが、初めて来る場所はなんとなく不安になってしまう。もし、不在だったり、先約があったとしても、貴族令嬢がやっていると言っていたので、使用人の誰かしらが対応してくれるだろう。その人に約束を取り付ければいいのだと、気をつけて取り直して、階段を上がったところで、ひとりでにドアがゆっくりと開き、ドロシアは驚きのあまり声が出そうになるのを貴族としての気合で、なんとか押し留め、すまし顔で相手を見据える。
扉から顔を覗かせたのは、銀髪の青年。
整った顔だちと、その彼のもつ雰囲気から貴族の子息かと思ったが、彼が着ているお仕着せはバトラーのものである。執事なのだろう。それにしては若い、ピーターよりも若いと思う。
「ご夫人、何か当家に?」
そう声をかけられ、我に戻り、
「フリッツ商会のサマンサ様の紹介で」
「失礼いたしました。承っております。クレイグ伯爵夫人であらせられますね。どうぞ」
ドロシアは吸い込まれるように、白亜の建物の仕切を跨いだ。
執事の案内で、サロンと呼ばれる部屋に入ると、一人の令嬢がドロシアの姿を見て立ち上がると一礼する。
アスセーナス家と聞いた。そこのご夫人は社交界でも有名だ。ご子息とご令嬢がいるのは知っている。跡取りのご子息と、令嬢の一人は、外交官の夫と一緒に世界を回っていると、そんな話は聞いたが今、目の前にいる令嬢は記憶になかった。特にこれと言って、見た目に大きな特徴もない、ごく普通の。
「貴女がアスセーナス嬢?」
「リリー・アスセーナスと申します。お待ちしておりました。ドロシア・クレイグ夫人でいらっしゃいますね? どうぞ」
リリーは机を挟んで向こう側におり、その机の手前、リリーが示した場所には座り心地の良さそうな一人がけのソファーが置いてある。執事がさっとソファーを引き、それに合わせてドロシアは腰掛けた。
サロンのインテリアのセンスは抜群だ。フリッツ商会で最高級のものを揃えているのだということが、見てわかる。
「では手を見せていただても?」
リリーの言葉に戸惑いながらも、両手を出した。ネイルサロンに来たのだから、当たり前のことなのだが、ドロシアは、別の可能性を考えていたので内心、あわあわとした。
知らない間に、執事の青年は部屋を出ていったらしい。
その姿はみなかったが、ドアを閉める音でわかった。
「初めてですよね? お越しいただきありがとうございます。サマンサ様からどこまで話を聞いているのかわかりませんので、改めて説明させていただきますと、このサロンはジェルネイルの……」
「えっと」
それは知っている。だけど、ドロシアが本当に話したいことはそれじゃなくて。もちろん、ネイルを綺麗にしてくれることが嫌な訳では全くない。
リリーは小首をかしげて、
「大丈夫ですよ」
笑顔を見せる。
ドロシアはサマンサが確信めいた話はリリーに何もしていないのだと判断した。だけど、あの話の脈絡でリリーネイルの紹介をしたのは、単にネイルサロンを勧めただけではなく、別に他の意図があってのことだと思っていたのだけれど。
リリーのかもし出すふんわりとした空気感に話を切り出すきっかけを見出せず、あれよあれよと言う間に爪の形は綺麗に整い、彼女が椅子を立ち上がった所、
「どんなデザインがいいですか? ご希望とかありますか?」
リリーはコンテナと呼ぶ小さな筒形のケースを後ろの棚から選び取る。
「えっと……あんまり。初めてだからよくわからなくって」
ドロシアは戸惑いながらもそう答えた。
本当はサマンサがやっていた様なきらきらとした爪にしていたいと思ったが、それをどう伝えていいのかわからない。
「好きな色はどんな色ですか? 落ち着いた感じがいいとか、それとも少しキラキラさせた方がお好きですか?」
「あんまり派手過ぎないくらいのがいいです。でも、きらきらとした感じがいいです」
ドロシアはそう言った。なにぶん初めてのことで、どういったらいいのかわからず、ぎくしゃくした感じがあるのは否めないが。
リリーは笑顔でこくりと頷き、慣れた手つきでいくつかのコンテナを取り出す。
「こんな感じの色はどうです?」
取り出したコンテナの蓋を開けて、いくつかの色を示す。色はピンクやベージュなどをベースとした色で、ドロシアが伝えた通り、派手な印象はない。しかし、光の具合によってギラっと輝く。
「素敵ですね」
「ありがとうございます。コンテナで見る色と、実際に爪に塗布した感じはまた違ってくるので、どの色がいいかはその時に伺いますね」
そう言って、色を入れる前にベースジェルを塗布する必要があるのだとも伝え、そのベースジェルを塗布する作業を始める。リリーが塗布し終わると、ネイルライトなるものに手を入れる様にと言われた。これでジェルを硬化するのだと説明してくれるのだが、全てが初めてのことで、残念ながらドロシアに取ってはどれもかれもチンプンカンプンな単語だった。
意味はわからなくとも、リリーの指示に一つ一つ従って、手にライトを入れたり出したり。
途中、先ほどの執事が冷たいアイスティーを持ってくれた。
「フリッツ夫人に、このネイルサロンの事をどう紹介されたのかしら?」
リリーは作業の手を止めず、視線もドロシアのネイルを見たまま、おもむろにそう聞いた。どきりとする。つまり、……そう言うことなのだろう。
ドロシアは二つ瞬きをして、
「私、つい最近、結婚しまして」
「存じております。おめでとうございます」
「ありがとうございます。それで、夫のことなのですが」
「クレイグ伯爵は名のある方で、現代の剣聖と謳われている方ですよね。名前に恥じないすばらしい方だと話しには聞いておりますが」
リリーはよどみなくそう会話を続ける。ドロシアは少し声のトーンを落とした。
「私は、少々、夫のことを案じておりまして――一夫がまた危険な戦地に行く可能性があるのかと思って、先ほどサマンサ様に、最近きな臭い話を聞く事はないかとたずねました所で、こちらのネイルサロンを紹介してくださって。でもそれは、もしかかしたら、私がサマンサ様の爪がお綺麗ですねと褒めたからかもしれませんが」
ドロシアは不思議な白昼夢を見たことは言わずにただそれだけを伝えた。
リリーは言葉は返って来ない。ただ、黙々と作業を続けている。
急にこんな話をされても困ってしまうかと思い、ドロシアもそれ以上の言葉を続けず、ただだんまりと口を閉じた。少しして、
「そうでしたか。もし私でよろしければ、ドロシアがご不安に思うことなど、お悩みなどがあるようでしたら伺います」
リリーはドロシアの真意に気が付いているのか、いないのか。リリーは軽い感じでそう声をかけるので、ドロシアがこのまま話を続けてもいいものか迷っていると、
「この部屋は私とドロシア様の二人だけです。ここでお話されたことが外部へ漏れることがないことをお約束いたします」
リリーがそう言葉を付け加えたので、ドロシアは覚悟を決めて口を開く。
「今、二つの悩みを抱えています」
リリーはこくりと頷く。ただ、下を向いたまま作業を続けているので、目は合わない。それでも、彼女がドロシアの言葉をちゃんと聞いてくれていることはわかっていた。
「一つ目は、その、旦那様であるラルフ様とどうやって仲良くなったらいいのかがわからなくて」
ドロシアは我ながら情けない声が出た。
「ドロシア様はクレイグ伯爵と仲良くなりたいのですか?」
リリーの率直な質問に答えが迷子になる。
「……」
「私は、結婚したことがないので、そんな私の一個人の意見と思って聞いて欲しいのですけれど、貴族の家同士の結婚なんですから、別にそれほど仲の良さに執着しなくてもよろしいのでは? 多少距離があった方が上手く行くとも言いますし」
リリーの言うことは最もだった。
一般的に考えれば、貴族の結婚は仲の良さは二の次で、一番重要なのは家柄同士の結びつきである。このアンバー王国の中で政略結婚をした夫婦のうち、本当の意味で仲がいいと呼べるのはほんのごくわずかだろうとも思う。
「それでも、せめて友人と思ってくれるくらいの信頼関係を築きたいと思っているのです」
言葉にしてしまうと、ドロシアは自分自身のもやもやとした気持ちにいよいよ向き合わなければならなくなる。
「ご夫婦で同じ屋敷で生活をされていらっしゃるのですから、おのずと顔を合わせる度に仲良くなられるのでは?」
「それが――よっぽどお仕事が忙しいとのことで、ほとんど屋敷にいらっしゃらないことの方がほとんどなのです」
「まあ、そんなに?」
残念ながら本当の事だった。
「今まで、まともに顔を合わせたのは、結婚式を含めて数回ぐらいだけで」
言葉にすると、ドロシアはますますみじめな気持ちになる。だが、会うたびに少しずつ距離が縮まっている様な感じはあると自分を慰めた。
「なぜ、そんなに忙しいのでしょう?」
「それが、国家機密にも関わることだからと詳しい事はなにも」
リリーは少しの間があって口を開く。
「もし宜しければ伯爵様が関わっていらっしゃるお仕事について、少しお調べしてみてもよろしいでしょうか? 何かお力になれるかもしれませんし」
「ええ。もし叶うことならば、ぜひお願いしたいです」
藁にも縋る様な思いだった。誰かに手を差し出してもらったことで気持ちがほっとする。
この時のドロシアにはもう、リリーが初対面だからと生じる疑念などはもう欠片ものこっていなかった。
「それから、もう一つのお悩みと仰られるのは?」
ドロシアは唇を噛んで、はっとして力を緩める。
「これについてお話するのは……もしかしたら、頭がおかしくなったのかと言われてしまうかもしれません。他言はせず、ここだけの話だと。そう思って聞いてくださいませんでしょうか?」
ここに、リリーネイルに足を踏み入れた時点では、話すつもりは全くなかった。しかし、サロンでリリーと話すうちに、なぜだか、彼女になら全てを話しても差支えないのではと言う気持ちに変わったのだ。
リリーは作業する手を止めて、ドロシアをみると、「もちろんです」と、頷く。
「私と、伯爵様が結婚しましたのは、政略結婚です。ラルフ・クレイグ伯爵のお名前は、もちろん、この国に多大な貢献をなさった騎士様だということは知っておりましたけど、会ったことも会話をしたことも全くない、そういったお方でした。ですから、当初は私としても程よい距離感を保って、それなりにやっていこう。そう考えておりました。ですが、その……結婚式の当日に控室で不思議な白昼夢をみまして」
「白昼夢ですか?」
リリーは一瞬、視線だけこちらに向けた。その真直ぐなまなざしに余計に、ドロシアは当時のことを話す。
「今思えば、多分未来を視たのだとそう理解しています。ただ私がその時に視た未来はとてもひどいものでした。町は焦土となっていて、その雑踏の中に私は一人いました――今でもあの時の白昼夢で見た光景を思い出して身震いがするほどです」
「白昼夢の中でドロシア様が立っていたのはアンバー王国だったのですか?」
「私はそう理解しています。その白昼夢の中で、なぜ、アンバー王国がそうなってしまったのか。その原因は伯爵様である、ラルフ様が亡くなってしまったことにあると。吟遊詩人がうたっているその歌詞で知ったのです」
「そのうたを今でも覚えていらっしゃいます?」
「ぼんやりとですが、確か………………
クレイグ様がいらっしゃれば、こんなことにはならなかった。
どうして儚くなってしまったのか。
悪妻である、忌々しいドロシアのせい。そんな風にうたっていたかと」
「ドロシア様のせい?」
リリーは抗議するような言い方をした。それがドロシアには嬉しかった。
「私もその部分については色々悩みました。このままいくと悪妻になる可能性があるのかもしれないと。私はそんな人にはなりたくないし、他人から後ろ指をさされる生き方はしたくありません。だからこそ、何かしなければと思うのです。何もせずこのままでいるのがとても……こわいのです」
ドロシアは自分でも気づかぬうちに涙が溢れた。
リリーはいち早くそれに気がつき、無言で白くやわらかい紙を手渡してくれる。
「すみません」
ドロシアは溢れた涙をぬぐう。
「いえ、あやまるのはこちらの方です。何かお力になれるかもしれないと思ってお話を聞いたのですが、逆にドロシア様を追い詰めてしまったようです」
「リリーさんが謝ることではありません。なかなか、この話を相談出来る方がいらっしゃらなくて……一人でずっと悩んでいたものですから。思わず……」
気付かないフリをしていたが、ドロシア自身、精神的にずいぶん追い詰められていたのだなと言うことに自分でも気が付いた。
少し気持ちが落ち着いてきたので、再度テーブルに置かれたアイスティーに口をつける。飲んでみるとアップルの甘い香りがして気持ちが安らぐ。
「ごめんなさい。急に。初対面であるのにも関わらず、こんな話をしてしまって。
「謝らないでください。私は今のお話、信じております。この世には人の人知では計れない様なことが沢山ありますから」
「ありがとう」
「ちなみに、その白昼夢を見て、別の世界で前世を生きてきた、なんて記憶が呼び覚まされる感覚はありませんでしたか?」
リリーは不思議な質問をした。ドロシアは首をかしげ、
「いえ、ごめんなさい。そんな感覚は無かったと思うの」
「いいえ、いいのです」
ほんの一瞬だったが、リリーは悲し気な表情を見せる。なぜ、そんな表情をしたのか、今の質問にどんな意図があったのか、ドロシアにはわからない。もしかしたら、リリーは何かもっと特殊な事情を抱えているんじゃないかしらと直感でそう思ったりもした。聞いてみようかと思って口を開いたのだが、それよりも早く、リリーの言葉の方が飛んできた。
「では、まずドロシアさんの見た白昼夢が現実に起こる可能性がありそうなのか、それとも単純に蜃気楼の様な、ただの夢だったのか。まず、そこを突き止める必要がありますね。――少しお時間をいただけますか? もしろよろしければ次回のご来店の時までには、なにか進展出来る様なニュースをお届けできればと思っているのですが」
「ええ……」
リリーは矢継ぎ早にそう言うのでドロシアはなかば圧倒されながらも頷く。
それとなくネイルサロンに来る次の予定が出来て、もしや勧誘なのか。などの突っ込みは一旦横に置いて。
「あと、それとは別の……その、旦那様と仲良くなる方法ですが、何分私は結婚しておりませんので、正直な所あまりよくわかりません。なにか言えるとしたら、やはり屋敷でなるべく顔を会わせる機関を増やすですとか、そこから会話を重ねて――でもそが出来るのも、伯爵様のお仕事が落ちついた時ではないと、ですよね。私にはそんな一般的な方法しか思いつかないのですけれど」
リリーは申し訳なさそうにそう言うが、何よりもリリーが取り組もうとしてくれていることが、何よりもありがたかった。そちらの方が解決してくれたなら、こっちもおのずと上手くいくのではないかとドロシアは考えている。
「いえ、お話を聞いてくださっただけでも、心が軽くなりました」
「それで、現在伯爵様は?」
「お仕事でしばらく家を空けると言って、国境付近に行かれていると。帰ってきましたら、せめてお食事の時だけでも、顔をあわせて食事がとれるように出来たらと思って、執事にも相談してみようかと」
「今、王都にはいらっしゃらないのですか?」
リリーが勢いよく顔を上げたので、ドロシアは思わず驚き、体をこわばらせる。
「あ、ごめんなさい」
「いえ、そんな。しばらく伯爵様は帰っては来られないでしょう」
リリーは作業の手をとめ、ベルを鳴らすと使用人を呼んだ。
少しして現れたのは、先ほどの執事ではなく、色素の薄い金髪をひとまとめに束ねた使用人の女性だ。派手ではないが、よくよくみると整った顔立ちをしている。
「伯爵様が所属されているのは、第二騎士団でしたね?」
リリーが確かめるようにそう聞いたので、ドロシアはこくりと頷く。
「ねえ、アリ。第二騎士団が今、動いているなんて情報はあったかしら?」
リリーはくだけた言い方で、使用にの女性――アリと言うのだろう。彼女にそう聞いた。二人のやりとりから、アリがリリーにって、信頼の厚い使用人であることは明白だ。
「いえ、そうった情報は特に」
「クレイグ伯爵は国境付近に赴かれているそうよ」
「まあ、本当ですか?」
アリは先ほどのリリーと同じようにに、驚いた表情を見せた。
何かあるのだろうか。二人のそのやりとりから余計に不安になる。
リリーはそんなドロシアに気がついて、
「ごめんなさい。説明が足りなくて。つまり――アンバー王国が他国を警戒しているとか、戦争を仕掛けるだとか、憶測は飛び交っているけど、確実な情報は一切ないのよ。なのになぜ、伯爵は国境付近に行かなければならなかったのか」
社交界でほとんど見かけない、リリーがどうして、国の情勢をこうも言い切って話ができるのだろうとか、そんな疑問は浮かんだが問いただす事はしない。サマンサがなぜ、リリーを紹介したか、その理由がここなのだろうとドロシアは一人納得していたから。
「思っている以上に今回の事は込み入っている事情があるのかもしれません。そして、早めに手を打たなければならないかも」
「……」
ひゅっと息をのむ。ただ、ドロシアが疲れていたから、見てしまったただの白昼夢だと、そう思っていた。そう思いたい気持ちがあった。しかし……。
リリーはしばし、小さな唸り声をあげて熟考したのち、引き出しをそろり引き出し、ドロシアが座っている場所からは、何かはわからなかったが、何かを見て、
「一週間後、もう一度、ここに、ネイルサロンに来ていただくことは可能ですか?」
「ええっと、大丈夫だと」
「いつでも構いません。いらっしゃる時にお電話いただければ」
リリーは名刺を取り出し、ドロシアに渡した。
「そんなにお時間は頂かないと思いますので――そうですね、ネイルのお直しにちょっと来ていただく感じで」
有無を言わせないリリーの言葉に、ドロシアは頷く他なかった。ふんわりとした雰囲気の彼女であるが、芯の強さがあるのだ。
「わかりました。必ずお伺いします」
ここに来る前と比べて、肩の荷がスッとおりた。気持ちに余裕が出てきたところで、ふっと自分の爪を確認すると、キラキラと光に反射して艶めいている。
「まあ、キレイ」
手入れをすると爪はこんな風になるのだ。自然と笑みが溢れる。
「色々、お話しながらでしたので、勝手かとは思いましたが、私の方で進めせていただきました。いかかでしょう?」
手のひらを広げて、角度を変えて眺める。
「とてもキレイです」
「パールとオーロラを配合したジェルなんです。ラメではないのであまり悪目立ちはしないかなと。コンテナで見るのと、実際に爪に色にのせるのとは、見え方が少し違いますからね」
リリーが言う通り、コンテナで先ほど見せてもらった色の感じとは確かに違う。コンテナで見る方がギラギラが強く見えた。爪にのせるとそんな事は全くなくて、
「とても素敵です。初めてジェルネイルをしたのですが、もっと早くに始めていたらよかったと思うくらいです」
この時ばかりは、ドロシアは自分の悩みを忘れて、キラキラと輝く爪に魅入っていた。
「本当は――」
リリーの低く、すんだその声に顔を上げ、我に帰る。
「ジェルネイルは個人差がありますけど、三週間前後保ちます。だから、来週来ていただく必要はないのですけど、その伯爵様のことで、何かわかったことがあればお知らせしたいと思ったのです。だから、そうですね……屋敷の方にはちょっと気に入らないからとか、気分で色を変えたくなったとか。もしネイルサロンに行く理由を聞かれた場合はそう告げていただければ――つまり、伯爵家の方々には、ドロシア様がこのサロンで話されたことは、一旦伏せて置いた方がいいと思いまして」
リリーが何を言わんとしているのかはなんとなくわかる。でもその答えを聞き返して、確かめるのが、今のドロシアには怖かった。
「わかりました。今日は、急なことだったのに本当にありがとうござます」
ドロシアはこくりと頷き、席を立ち上がる。