夜空の夕映えネイル 2
「奥様、旦那様がお帰りになられました」
ベッドに入ろうとしたその時、パメラが勢いよく扉を開けてそう叫んだ。
驚きのあまりびくりと体を震わせ、パメラを見ると彼女は自分の失態に済まなそうにあわあわと百面相をしている。
屋敷の奥方の部屋にいくら側近の侍女だからと言ってもノックもなしに入って来るのは言語道断である。
本来であればそれをきちんと言って聞かせるべきなのだろうが、ドロシアはそんなことよりも今はこの千載一遇のチャンスを逃すべきではないとすっと立ち上がるとソファーにかけたガウンをネグリジェの上に羽織り、部屋を出た。
「旦那様は、今どちらに?」
「執務室です」
ドロシアの部屋は二階である。階段を駆け下りて、一階の執務室に向かう。お昼にピーターに案内してもらったのばかりなので場所は迷うことはなかった。ちょうど執務室から出て来たピーターと鉢合わせると、彼はぎょっとした表情を見せる。驚きながらも、有能な執事は状況を察し、さっとノックと共に執務室の扉をひらいた。
薄暗い部屋の奥で、来ていた上着を脱いだ男と視線が重なる。
どうしてかわからないが、不覚にもどきりとしてしまった自分がいた。
「旦那様」
ドロシアは平静な声を絞り出してつかつかと執務室に入る。後ろで、パタンと扉が閉まる音がした。
「出迎えは不要だと、言っていたのだが」
ラルフは動きを止め、近づいて来るドロシアを見た。恐らくは彼は何の気なしにドロシアの方を見たのだと思うが、元々の気質なのか非常に眼圧が強く、耐性のない女性ならその視線だけでダメージを受けてしまうレベルだ。しかし、ここで負けてはだめだと、足に力をいれ、ラルフの元に一歩ずつ近づく。
「おかえりなさいませ。お疲れの所、恐縮ですが少しよろしいでしょうか」
硬質なドロシアの言葉にも全く動揺する様子なんておくびも見せず、後ろの壁にもたれ、腕を組むと、真直ぐにこちらを見据えている。
その視線の圧はいかめしいが、それを抜きにして、彼の容姿を見ると、その引き締まった体つきと端正な顔だち。
何だか直視できなくなってしまって、一瞬目を反らす。
「昨日嫁いで参りました、ドロシアと申します。婚姻期間も含め、お会いしたのは昨日の結婚式が初めてだったと。ご挨拶もままならず、お姿も見当たらなかったので」
若干嫌味とも取れる言葉を丁寧に、軽く礼をした。もう、夫婦なのだからあまりかしこまりすぎる態度を見せるもの違うと思ったので簡略的な礼である。
ラルフはドロシアの対応にただ、ただ目を丸くした。
「あの……」
沈黙が続き、流石に居た堪れなくなり、そう声をあげると、
「すまない。こちこそよろしく頼む。と言っても、君に家のことで何か負担をかけることはこの先ないように配慮する」
「それはこの先、私に屋敷のことは一切手を出すなと。その意味を込めて仰っているのでしょうか?」
ドロシアは思わず、自分でも驚くほど低い声が出た。
つまり、何もするなと。
ドロシアがここにいる意味などないのだと言われているのも同然で、こんなことを突きつけられたなら、あの映像のなかで見たドロシアが悪女になってしまうのも仕方がないことなのかもしれない。
「いや、そう言いたかったのではない。傷つけてしまったのなら謝る」
そらした視線を彼に戻すと、申し訳なさそうに頭を掻いたラルフの姿にはっとして大きく目を見開いた。
「そうではなく、その――君が望まずにこの家に来たことは重々承知している。王命も同然だった。だから、せめて君が不自由をしない様にとは考えている」
これは夢か幻なのだろうか。
ラルフはばつの悪そうな表情を浮かべ。、そう言った。
彼がそんな表情をしたのをドロシアは初めてみた。
「そんな表情もされるのですね」」
「ん?」
ドロシアの一人言は聞こえなかったようだ。
「私も、貴族の娘として育ってきた身です。嫁いだ家で、どのように振る舞うべきか、ある程度の作法は学んで参りました、ですからそんなふうに言われると困ってしまいます」
「わかった。では、落ち着いてきたなら、ピーターにここでの生活を聞いて、君に屋敷の管理をお願いしたい」
「かしこまりました。後、旦那様、次はいつお帰りになられますか?」
「明日は帰ろうと思っている」
「では、明日は一緒に食事をしていだけますか?」
「善処する」
今はその言葉だけで十分だった。
「おやすみなさい」
満足気に執務室を出てきたが、何か忘れている? ――今のって、夫婦ではなく主従関係のやり取りでは。
「あっ……」
と思ったが、パタンと執務しつの扉を閉めた後で、振り返ってもただ真鍮の磨かれた扉がそこにあるばかり。
◇
翌朝。
目覚めたと同時に、パメラが待っていたとばかりに、お湯を張ったボールとタオルを一揃え持って、部屋に入ってきた。
「おはようございます。良い朝ですね。今日はとても良い天気ですよ」
にっこりとした笑顔のパメラを横目にドロシアはうんっと伸びをする。
昨夜寝る前に、支度を手伝ってもらった時にパメラの身の上話を聞いた。彼女には面倒をみなければならない家族があるため、屋敷に住み込みせず、自宅からほぼ毎日通っているのだという。
疲れた顔など見せず、毎日笑顔でいる彼女の姿には尊敬の念すら抱く。
「おはよう」
年齢も聞けばドロシアより二つ上なだけ。彼女だって、結婚して、新しい家族のことを夢見ていたっておかしくはないのに。
「今日は朝食が終わりましたら、早速ではございますが執事のピーター様からお屋敷のことや伯爵家のことで、色々とご案内したいことがあると伺っております」
パメラはテキパキとドロシアの身支度を整えながら、そう言えばとポケットからメモを取り出し読んだ。
ドロシアは頷く。
昨日のラルフとの話がもうピーターに伝わっているのだと思うと自然と口角が上がった。
今まではラルフに対して、武人らしいのぶっきらぼうな男という印象しかなかったが、昨夜はちゃんとドロシアの話を聞いて、頷いてくれたのだ。これからは少しずつ彼のと対話を増やして、あの暗鬱な未来について少しずつ回避できればと思う。
「旦那様は?」
「朝早くにお出かけになられました」
「そう」
ドロシアはがくりと肩を項垂れた。
こんなことなら昨夜、今夜のことだけではなく今朝の予定も聞いておけばよかったと思う。
思いの外、大きなため息が出てしまったらしい。パメラが心配そうに顔を覗き込むので、なんでもないと無理やり笑顔を作る。
「屋敷の管理と言ってもそう複雑なことはありません。主に、使用人の雇用管理ですね。お給金の支払いなど。後は食品や消耗品の管理ですとか。奥様がこの屋敷で茶会などを開かれる場合は、さらに付随して業務が増えます。――まあ、何せ一代限りの伯爵家ですので、大旦那様や大奥様、ご親戚筋のややこしい付き合いは一切ありませんから。そのあたりは、肩の力を抜いて専念していただけるかと」
ピーターはざっと机の上に資料を用意して、そう説明した。
ドロシアは置かれた資料のページをぱらぱらとめくる。
その資料から、目の前のピーターが有能な執事だということが一目でわかる仕事ぶりを感じる。
貴族令嬢として育ち、生家でついた家庭教師の先生からは淑女としての一般教養だけではなく、嫁いだら必要になるかもしれないと、屋敷の管理の仕方、仕組み、書類書き方などについても教えてくれた。
「伯爵家の財政はとても潤沢なのね」
ドロシアの言葉にピーターは、はっと目を大きくする。
「あ、えっと、……はい。旦那様の騎士団での活躍はご存知かと。一度、戦地に赴けば、手当などがついてまとまったお金が入って参ります。ですから、旦那様からは奥様が使うお金については、制限を設けなくてもいいと聞いておりますので。何もご心配されることはありません。奥様はこれを見ただけで、そう判断できるのですね。非常に聡明でいらっしゃる」
手取り足取り教える必要があると考えていたのかもしれない。ドロシアの書類についての知識に一瞬とまどった様子を見せたが、すぐにいつもの調子を取り戻し、流暢に話を続ける。
「奥様が屋敷に慣れてきましたら、お部屋のインテリアや間取り、庭のデザインなどご希望があれば改修作業に取る掛かるよう、旦那様からもうしつかっておりますので、気になる事があればなんなりと」
ラルフはドロシアに対して”望まない結婚を強いられた貴族令嬢”と言うレッテル貼りつけ、彼なりの斜め上からの気遣いをしているのだろう。ここでドロシアが気にくわないのが、ラルフ本人はドロシアに対して何もしようとしないことだ。もちろん、仕事が忙しいことは重々承知しているが、ただ金目のものだけ与えておけばなんとかなるだろう。そう思っているようにも取ることが出来て、なんとも淋しい気持ちになる。
「そう。わかったわ。この屋敷を今以上に快適に暮らせる様にするのが、私のここでのまず大きな仕事ね」
ドロシアは書類を確認したいので一人にして欲しいと伝えた。
「かしこまりました。それからここは奥様の執務室になる予定の部屋ですので」
「この部屋に他に必要な家具や調度品が決まったら伝えるわ」
ピーターが頷いて、後ろに踵を返す時に、なぜか彼の手に視線がいく。
「……貴方は常に手袋をしているのね」
手袋をはめた執事は、今ではほとんど絶滅危惧種と言っても過言ではないだろう。ただなんとなしに気になって思えば口にだしていた。
「ええ。私はその……出自があまり、奥様と違って大きな声で言えるような場所ではないので、その部分で後ろ指をさされることがありまして、ですから、それ以外の部分ではそういった事が無い様にと思っている次第でございます。では、失礼を致します」
ぱたんと、扉が閉まるのを確認すると再度大きなため息をつき難しい、表情をした。
どの資料も書類も完璧だった。
むしろ完璧すぎるのだ。気持ちの悪いほどに。
――あの、ピーターと言う執事は一体……
浮かぶ疑念を、ふるふると頭を横に振ってかき消した。
ずいぶん熱心に資料とにらめっこしていたからか、気付けば、窓から入る陽射しは茜色に染まっている。
お茶を入れてもらうのも、忘れていた。
ドロシアはうんっと、手足を伸ばして、ふうと息を吐く。
夕食までは時間があるので、自室かサンルームでお茶を飲んでひと息つこうと思ったのだ。夕食は叶う事ならば、ラルフと一緒に取れる時間があればいいのだけどと考える。
まずはパメラを探してと思い、二階へ続く階段を上がると、ちょうど彼女の姿が見えたので、声をかけようとして口をつぐんだ。
パメラはドロシアの自室の付近で、周囲を警戒するように、きょろきょろと辺りを見回しながら、なにやら巾着の袋を持っている。
話かけようと思えばかけられた。そして、よくない事をしているのならば咎めることが出来た。しかし、その時のドロシアにはそれが出来なかった。今は見て見ぬふりをするのが最善策だと思ってしまったのだ。白昼夢がみせたあの非現実世界の中でドロシア自身を”悪女”と言われたことが思いの他、堪えているのだと思った。
いい人でいたい。悪女と呼ばれたくない。
そんなドロシアの気持ちが今回の行動となって出てしまったのだが、後にこの行いを後悔することとなる。
音を立てぬように上がって来た階段を駆け下り、ドロシアは庭に出た。
気持ちを切り替える意味と、先ほどピーターから言われた様に、屋敷を良くするための一歩としてまず庭がどうなっているのかを見に行こうと思った。実際に屋敷で仕事をしている者たちに直接話を聞くのが一番いいと考え、庭に出ると庭師の姿を探す。
「こんにちは」
かがみこんで雑草取りをしている後ろ姿に声をかける。
――庭師の名前は、確か、ジョグと言ったかしら。
ジョグはドロシアの父よりももっと年上の老年の男性だ。小柄な体をかがめて地面とにらめっこしていたが、ドロシアの声にはっと顔を上げて、きょろきょろと周囲を見渡し、ドロシアに気がつくと帽子を取って深々とお辞儀をしてみせた。これが、彼なりの最大級の敬礼に当たるのだろう。
「奥様がいらっしゃるとはいざ知らず、とんだご無礼を」
「いいえ。この屋敷の管理をまかされて、少しずつ、今よりも快適に過ごせる様に改善していきたいと考えているの。庭師である貴方の視点から、このお庭の改善点、もしくはもっとこうした方がいいと思う意見があれば教えて欲しいのだけど」
ドロシアは相手に警戒心を抱かせない様にくだけた口調でそう言ってみせる。
ジョグはうーんと、腕をくみながら庭を見渡す。
「逆に奥様はお庭に関して、なにかこういった感じがいいとか、例えばお好きな植物だとか、何か希望はあるのだろうか?」
「そうね……お庭にガセポなんかがあるとなお言いわね。お友達を呼んでお茶をしたり、気分転換したい時なんかに使えるでしょう?」
「そりゃあ、いい考えだ。でもガセポを作るなら、その辺りは一層手をかけて庭を作り込んでみては? しかし、設置するガセポのデザインによって似合う植物も変わって来るか……あとは一層のこと奥様の好きな植物を大きく配置してしまうとか」
ジョグは妙案とばかりに自身の言葉に頷く。
「そうね。私の好きな花は……実はこの辺りではあまり見ない様な珍しい植物なんだけど……」
「そりゃあ面白そうだ。育てがいがあるってもんだ」
ドロシアの言葉に満面の笑みで頷く。
「もし植物の種類や、庭全体のデザインのテイストを含めて、良い案が思いついたら教えて頂戴。私もフリッツ商会にどんなガセポのデザインがあるか聞いてみるわ」
ドロシアは屋敷に戻ってからも、会う使用人に声をかけ、話を聞いて回った。
その中で、フロミー夫人はぽっちゃりとした体型の中年のご婦人であるが、愛嬌のある笑顔で、すぐにドロシアと打ち解けた。
「そうね、お屋敷にあった方がいいもの。大抵は旦那様が揃えられているみたいだけど、あえていうなら、花器とそれを飾るチェストかしらね」
「お花をもっと飾ったほうがいいかしら?」
「ええ、飾れるならもちろん。でも毎日の水の取り替えが大変でしょう? だから、普段はチェストにちょっと見栄えがする花器だけを置いといて、伯爵家でパーティーを開くとかそうなった時に、お花を生ければとても華やかになりますわ。ちょうど、奥様も色々と屋敷の中に手を加える予定だと伺いましたし」
フロミー夫人は市井の出身であるが、昔は学校の成績がよく、貴族の家に家庭教師や、使用人して仕事をしていたそうだ。出産と育児で、仕事を辞めたが、ご家族の方もひと段落し、今回の求人を見て応募してくれたそうだ。家族があるので、通いで、もうそろそろ家に帰るというところをドロシアが引き留めた。
「なるほど。参考になります。すみません、帰り際に、引き留めてしまって」
「いいや。大丈夫」
フロミー夫人はパタパタと手を横にふる。
「他にも思いついたことがあれば教えてください。では」
そう言って、ドロシアが通り過ぎようとした時、今度はフロミー夫人に引き留めらた。
「奥様、ちょっとだけ。いらない心配だったらいいのだけど」
そう言って深刻な顔をして、キョロキョロと周囲を見渡す。
「はい?」
「雇われている私の口からこんなことをいうのはと思うわれるかもしれないけど……執事のピーターさんのこと」
「ピーターが、どうかいたしました?」
ドロシアが気付かぬところで、ピーターが粗暴な態度をとっているのだろうかと思う、体に力が入る。
「いいえ、まさか。そうじゃなくって彼は非常に優秀すぎるのよ」
「はあ」
思っていた返事と違ったので、ドロシアは思わず気の抜けた返事をしたが、その後に続く言葉で、再度体をこわばらせる。
「やけに優秀すぎる。そう思うのね。この家が――失礼だけど、公爵家だっていうんだったら、あのレベルの執事が入ってくることも頷ける。だけど、うちは伯爵家で、旦那様――伯爵様を悪く言うつもりはないけれど、一代限りの爵位でしょう? だからこそなかなか使用人が集まりにくいという話は、奥様も聞いていると思うわ。全くその通りで、私も数十年前だが、貴族の家に勤めていたからわかるけれど、なかなかあのレベルの執事は雇いたくても雇えないものだ。だからなんというか……」
フロミー夫人は言葉を濁す。自分で感じているその違和感をどう説明したいいのかわからないとでも言うように。
しかし、ドロシア自身もそれは感じていた。下手をすると、ピーターの仕事ぶりは、ドロシアの生家であるブラッドロー伯爵にいる古参の執事よりも上なのかもしれないと薄々。
「仰りたいことはなんとなくわかるわ」
ドロシアは全てを飲み込むように笑顔を作る。
「何もなければいいのだけど、おばさんの徒労に終わればそれでいいの。だけど、何か引っ掛かるようなそんな感じがあって――でも、奥様にお話しできてよかったわ。私はいつだって奥様の味方ですから。では、今日はこれで」
フロミー夫人は丁寧な礼を見せて、使用人たちのプライベートルームの方に消えていった。
その日の夜ラルフが帰って来たのは、夕食も終えた夜半である。
パメラが、ラルフの帰りを教えてくれた。ドロシアは、ラルフと話した後に、そのままベッドに入るので、パメラにはもう家に帰るように伝えた。パメラは残って、ドロシアがベッドに入るまでいるといったが、ドロシアは帰るように説得した。
「わかりました。必ずブランケットをかけて、暖かくしてお休みください。では、私はこれで」
パメラは少々不本意そうであったが、渋々部屋を出て行った。
夕方のこともあり、ドロシアはパメラにどう接したらいいのかと思っていた。しかし当の本人であるパメラはドロシアの心なぞ知らずいつもと全く変わらない態度である。そんな彼女を見ているとまるで、夕方見た彼女の姿は嘘か見間違いがいだったかと思われた。もしかしたら、ドロシアが知り得ない、何か重要な仕事をしていたのではないか。それをドロシアは誤った見解で見てしまったのだと、そう思えてきた。
「はあ」
ともかく、今はラルフに会って、少しずつでも彼との信頼関係を築いていければ。そう思って、彼の執務室に入いるのだが、ラルフは開口一番、
「明日から、一ヶ月ほど、もしくは状況によってはもっとかかるかもしれない。長期の遠征に行くことになった」
その言葉に、ドロシアは開いた口が塞がらない。
「明日、からデス、か?」
思わず、貴族としての仮面が所々崩れ去りながらも、なんとかそう言葉を紡ぐと、ラルフは深く頷く。
「ずいぶん、急なのですね」
「私がいる部署は、よくあることなのだ。今までもそうだった……しかし、私が不在にするからと言って、君がこの伯爵家で過ごすことになんの不都合もない、快適な暮らしが継続できることを約束する」
キッパリと彼はそう言い切ったが、ドロシアが欲しいのはそんな言葉ではない。
「お帰りがいつごろになるか、全くわからないのですか?」
「状況に左右される」
「どちらに行くかは伺っても?」
「……機密情報にもなるので、大きな声では言えないが、辺境伯の方に」
「マックリーン家ですか?」
ドロシアが思いつく辺境伯の家はその家名のみ。彼女の幼い頃からの友人であるエミリーの嫁ぎ先であるからだ。
(行かないで私、貴方に死んでほしくない)
不意にそんな感情が、心に浮かぶ。
ドロシアは、あの不穏な未来を、目の前にいるラルフを救おうと決意した。しかし、現状何もできていない。その事実に打ちのめされる。
ラルフはドロシアの様子が いつもとは違うことに気がつき、オロオロとしながらも、ドロシアのそばに近づく。
「だいじょう……」
ラルフの言葉を待たず、ドロシアは彼に抱きつく。一瞬、体がこわばった彼だったが、ドロシアの、腕をほどこうとはしなかった。
それが愛なのかなんなのか、ドロシアにはわからない。
でも、彼に死んでほしくない気持ちは本物だった。
むしろ、愛なんてしらない。
ドロシアは一度婚約破棄を経験している。つまり、ドロシアを貴族のブランドのタグがついた扱われ、不要になったので捨てられた。私一個人として見てくれる人はなかった。しかし、またドロシアという商品欲してくれたのが、ラルフで、利害が一致したからこの結婚におさまった。
そう考えるのは、簡単だ。だけど、なぜか心が痛い。
「必ず帰ってきてください」
ドロシアの言葉に、ラルフは小さく頷いたような気がした。