夜空の夕映えネイル 1
非常に長くなったので、8話、分けての投稿になります。
説明書きに短編と記載していたのですが、すみません。
もし長くても読んでいただける、そんな優しい方はどうぞよろしくお願いいたします。
貴族間の政略結婚とはなんと味気のないものだろうと、ドロシアは鏡越しにベールを被せられた自分を見て、ため息を吐く。
結婚相手はラルフ・クレイグ。
ドロシアよりも十歳年上の彼は第二騎士団に所属する、"剣聖"と言う常人離れした能力を持った黒髪の美丈夫である。社交界に出れば、話題をかっさらう殿方であるが、爵位がよろしくない。
もともとは平民の出身であるが、武功を立て、男爵家に養子に入った。皇帝に目をかけられ、貴族女性との婚姻を結ぶことを条件に、クレイグ伯爵の称号を与えられるとした。しかし、奥方に適当な女性が見つからず、仕方がないので一時期は未亡人を。と、言われていた矢先、その結婚相手にと白羽の矢が立ったのが、ドロシアである。
ドロシアにはもともと許嫁がいた。そりゃあそうだ。一定年齢の若い貴族令嬢なら、普通はいるのが一般的だ。
しかし、ドロシアの元婚約者のエヴァンズは生来、夢見がちなところがあって、他国の女性と駆け落ちをするという力技をやってのけた。
『真実の愛を見つけた。ごめん』
と言う内容のレターをもらっただけで破談になった。ぽっかりと空いた、婚約者の枠にこれ幸いとばかりにあれよあれよと、ラルフ・クレイグとの結婚話がすすめられ、今ここにいる。
一寸先は闇と言うが、人生とはどう転ぶのかわからないものだと思う。
そう言えば、アンバー王国で権力のあるフォックス公爵家では、事業が失敗したとかしないとか。そんな風の噂を思い出しながら、ドロシアはまじまじと、鏡に映る自分の姿を見つめる。
十八歳と言う年齢にしては、大人びて凛とした顔だし。
すらりとした女性らしい曲線。
艶やかな美しさはないが、品のある清楚な雰囲気。
それなりに異性から好まれる容姿であると自分では、思っているが、なにせ元婚約者に捨てられたと言うレッテルはそう簡単には癒えるものではない。
「大丈夫。これからも大丈夫」
小さく唱え、ふうと溜息をつく。
一生に一度の結婚式だというのに、どうしてこんなに気分が乗らないのだろう。
時計を見ると、式まではまだほんの少し時間がある。侍女を呼んでお茶でも入れてもらおうかと振り返ろうとしたその時。
ガツン。と、強く頭をぶたれた様な衝撃に襲われる。
はっと、顔を上げた。
「え、なに? これ……?」
見えるのは、不穏な空気と薄汚れた街並み。
気がつくとドロシアはボロ切れを纏って、雑踏の真ん中に佇んでいた。
真っ黒な空。
一体、ここはどこだろうと思いながら、その道の先、見覚えのある建物に気がつく。
王宮だ。
年に数回開かれる、皇帝主催の夜会で数回ではあるが行ったことがある。特にデビュタントの時、初めて目にした豪華絢爛なホールの様子は今でも目を閉じれば、仔細を思い出せるほど。
しかし、目の前にあるその建物は、朽ち果て、記憶の中の煌びやかな面影は一切ない。
愕然とした気持ちになる。
先程までに身につけていた、花嫁のヴェールも白い素肌もどこにもない。
朽ち果てた店先で吟遊詩人が歌う。
『クレイグ様がいらっしゃれば、こんなことにはならなかった。
どうして儚くなってしまったのか。
悪妻である、忌々しいドロシアのせい』
その歌を聞いてドクンと心臓が波打ち、そう言えばと、記憶が流れ込む。
ドロシアは確かにラルフ・クレイグと結婚した。
夫は無口な人だった。常に戦場に駆り出され、屋敷を不在にすることが多く、夫婦の関係が疎遠になりすれ違ってしまったのは仕方のないことだったのかもしれない。
最初の頃は、ドロシアも人並みの優しさをラルフに期待していたが、次第に全てを諦め、新しい刺激、淋しさを紛らわす手段を求めた。
宝石や美しい衣服。
モノは増えるが心は満たされない。
そんな時に起きた不測の事態――他国からの総攻撃を受けたのだ。しかし、クレイグはアンバー王国内の反乱によって殺害されてしまっていた。もちろん、そんな内部事情は民衆には伏せられている。
ラルフ・クレイグは神に愛され、人間業を超えた力を持つ武人であった。その彼がいたなら、今回の戦局も乗り切れたのだろう。そう吟遊詩人は歌っているのだ。
ドロシアはどうしようもない景色を見つめ、ただそこに立っていることしかできなかった。
遠くから異国の言葉が響く。その声はこちらに近づいている。おそらく他国の兵がまもなくここに来るだろう。
大きく息を吐いて目を閉じる。
顔をあげると、白いヴェールに包まれたドロシアの顔と目があった。
「今のは一体……?」
そう問いかけても鏡の向こうにうつるドロシアと目が合うだけ。
息を大きく吸い込めば、花瓶に生けられた白百合の香り。
今このドロシアがいる場所は戦争とは一切無縁で、結婚式を待ちわびる、神聖な雰囲気が漂っている。
控え目なノック音とともに、
「そろそろお時間です」
ボーイが呼びに来た。
ドロシアは一文字に口を結び、困惑した表情を消し去ると、さっと立ち上がりそちらへ急いだ。
胸にもやもやとしたものは消えない。
大聖堂に入ると、来賓客の向こうにこれから、自身の夫となるラルフ・クレイグの姿が見えた。
背の高い黒髪の武人。
ドロシアの存在に気が付き、黒曜石の双眸と視線が絡まる。
彼の周囲なぜかキラキラとして、懐かしい感じがした。
それは以前にも感じたことのある感情のような気がしたけれど、よくわからなかった。
本当はドロシアは、ラルフの事が怖い存在だとなんとなく思っていた。本能的なものかもしれないが、今まで戦とは無縁であるドロシアが戦場で大変な武功をあげている彼にいきなり会って、畏怖を抱かない方が無理な話である。
しずしずと、ドレスの衣擦れの音を響かせ、クレイグに近づく。差し出された手に、ドロシアは手をのせる。
とても大きな手。
ドロシアなどひとたまりもない。
婚約関係は半年ほど結んでいたが、会うのは今日が初めてだった。
何度か会う約束はあったのだが、重要な会議だとか急な遠征だとか、怒るに怒れない理由で全てすっぽかされてしまった。
ヴェールでドロシアの顔はすっぽりと覆われているので、わからないだろうと思い、隣を歩くラルフの顔を盗み見た。
今までドロシアが生きて来た世界にはいないタイプの人。
男性と話したことが無い訳じゃなくって、夜会で少しばかり囁き合った殿方もいた。でも今まで会った、誰ともラルフは違っている。
ふと視線がこちらに向けられ、気まずくなって、思わず目を反らした。
いかなる時も、やめるときも、二人は夫婦であることを誓いますか。
聖女様の言葉に、ラルフとドロシアが誓いの言葉を唱えると、たまたま陽の光が強くあたったから、ステンドグラスから乱反射した光が聖堂内にきらきらと降り注ぐ。
来賓客からは神の祝福だと感嘆が漏れる。
ドロシアはこの時に悟った。
このまま、何もせずにただ漫然と過ごしていれば、あの控室で見た様な未来が訪れるのだろう。しかし、ドロシアの行動一つで未来は変えられる。
あんな未来が訪れない様に――降り注ぐ光の中でドロシアは一人、誓いを立てた。
何事もなく、式が終わり、ドロシアは長年過ごした実家のブラッドロー家に別れを告げ、クレイグ伯爵の屋敷に向かう。
馬車にはドロシア一人。
本来であればラルフと二人でこの馬車にいるはずだったのだが、隣に夫はいない。
この時に至っても、夫は仕事の(騎士団)用事があるからと一緒に屋敷に戻れず、一人王宮へ向かって行った。
面と向かって『仕事』と、言われてしまえば、流石に行かないで。とは言えない。
本当は二人の距離を縮め、どうにかしてあの時に見せられた未来を回避しなければと。お披露目のパーティーでは笑顔を張り付けながら一人、もんもんと考えていたのだが、全ては徒労に終わってしまった。
「お帰りなさいませ奥様」
クレイグ伯爵家に到着すると、使用人が総出で、ドロシアを迎えてくれた。
「執事のピーターと申します。以後お見知りおきを。旦那様から奥様のことは、私共、使用人一同申し付かっております。生活の中で不都合に思われることなど、何かございましたらご遠慮なくお申し付けください」
ピーターはラルフと同じくらいの年齢だろうか。一般的な執事でみると若いが、それなりにテキパキとた印象で仕事が出来そうな雰囲気だった。他の使用人に比べても風格がある。
細身の体に執事服をきっちりと着こなし、濃い茶色の髪をきちんとなでつけ、柔和な笑みを浮かべている。
そんなことよりもドロシアは、自分の夫となったラルフがいつになれば帰ってくるのか。その辺りについて聞きたかったが、
「お疲れでしょうから、まずはお部屋にご案内いたします。詳しいご説明やお屋敷の案内はまた明日させていただきますので」
ピーターの有無を言わせない説明と同時に一人のメイドがお辞儀をして、ドロシアに、
「ご案内します」
と前に出たので、やはり慣れない緊張状態に疲れてしまっていたこともあり、それ以上はなにも言わず、こくりとうなずいてメイドの後に続いた。
「パメラと申します。今日から奥様にお仕えさせていただきます」
道中、パメラは笑顔で振り返るとそう言った。素朴な笑顔が似合う人で、彼女の声にほっとした。深草色の瞳がきらきらとしている。クリーム色の柔らかな髪の毛が揺れた。
「こちらこそ。慣れないことばかりで」
案内された部屋は真新しくしつらえた部屋の様で、使い古されたというよりも買ったばかりの家具や調度品が並んでいる。
「旦那様が奥様のためにとお選びになられたのです」
「旦那様が?」
ドロシアは驚いて思わずそう聞き返した。仕事が忙しいの一点張りなあの人が。
パメラは笑顔で頷いた。その表情から真意はわからない。もしかしたら、ドロシアを傷つけない様にそう言ったのかもしれないしとも思うし、でも、彼女の笑顔を見てると、そんな些細なことは今はどうでもよく思われてきた。
「どんな表情でこれを選んだのかしら」
そう言って、すぐそばにあったチェストに手を触れる。パメラの話が本当ならば、ほんの少しだけ意外だなと思った。
猫足のチェストは、確か若い女性の間で今流行しているデザインのモノだったと記憶している。
「奥様、お湯の準備ができました」
パメラはタオルで濡れた手を拭きながら、部屋の中に戻って来ると、ドロシアのドレスの着替えを手伝う。テキパキとしており、非常に手際が良い。
「ありがとう。とても手慣れていらっしゃるので、以前はどこかのお屋敷で?」
「いいえ。こちらが初めてです」
「まあ」
ドロシアは思わず驚いた。
「……こう言っては、軽蔑されるかもしれませんが、いずれわかることなので。私は平民の出身で、おともとはお針子でした。まあ、お店の下っ端だったのですが。そこに執事のピーターさんがいらっしゃって、新しくお屋敷に奥様を迎えるので、侍女として働いてみないかとお声がけいただいて」
だからドレスの扱いに慣れており、テキパキとしているのだと納得した。
生家のブラッドロー家でも平民出身のメイドはいたので、特に偏見はなかった。むしろ、幼いころから家のことをやってきている彼女、彼らの方が仕事の手際が良い事を知っている。
「大きく仕事が変わることは不安ではなかったの?」
ただ、平民たちから見れば、貴族は目に見えない畏怖の存在だと思っている人達も少なくないと。
「不安に思う事ももちろんありましたが、ピーターさんがもし、働いてみて、合わなければいつでも辞めていいと仰ってくれたので。ああ、でも大丈夫です。今は辞めようとは全く考えておりませんから。奥様に会って、正直ほっとしました。どんな方なのだろうと、思っておりましたので」
はにかんだ笑みを浮かべならそう言った、パメラの言葉を信じられると直感的にそう思った。
今まで何人もの侍女を見て来た。彼女達はとりすました様子で、淡々と仕事をこなしていく様な者ばかり。そしてあわよくばと屋敷の権力者たちにすり寄ってい行く。
使用人なんてそんなものだと思っていた。でも彼女はドロシアが思う使用人とは全く別ものだと今感じている。
「もしかしたら明日の朝になって、貴女をいびり倒しているかも」
ちょっとだけ口角を上げてそうって言ってみても、
「旦那様より、この屋敷ではなるべく快適に過ごしていただくために必要なことはなんでもするように申し付かっておりますので、大丈夫です。なんでもお申し付けください。今日はお疲れでしょうからまず、お湯に」
例のにっこりとした笑顔と共に、浴室に押し込められ、ドロシアは湯につかった。
やわらかな花の香りとちょうどいい湯加減に張り詰めていた心が解きほぐされる。
(旦那様が自らお部屋の家具を選んでくださったということは、私のことを嫌っている訳ではないのかしら。それとも、誰か別の女性がいてその人に選んでもらったのかも)
初夜は皮肉な表現だが、ゆっくりと休み、目が醒めた。
覚悟はしていたし、式場で視た、白昼夢の映像から夫とはほとんど顔を合わせない様な生活になることはわかっていた。やはりと落胆はあったが、心の準備が出来ていたのでダメージはそれほどでもない。ただ、そんな情報も全くなく、今朝の状況を目の当たりにしたとしたなら――あの時視た様に、ドロシアが悪女になってしまうこともわからなくはない。何も知らない自分でいたのなら、いつかそうなってしまってもおかしくないと思う。
「おはようございます」
ベッドからもそもそと起き上がり、カーテンを開けた所で、パメラが笑顔でタオルとお湯を持って部屋に入って来た。
昨日は夜遅くまでドロシアの身支度などにつき合わせてしまっていので、ちゃんんと眠れていただろうかと思う。
「奥様、よくお休みなられましたか?」
持っていたタオルとお湯をチェストに置き、まだ閉まっていたカーテンを開け放つ。
「ええ、おかげ様で」
ドロシアは小さくそう答えた。体の疲れは大分とれて目覚めも悪くない。ただ、精神的な部分については若干ダメージを受けていることは否めないけれど。その部分には蓋をして、笑顔を見せる。
「ダイニングの朝食の用意を整えております。お着換えお手伝いしますね」
ネグリジェからデイドレスに着替え、髪の毛を梳かしてもらっている時に、
「旦那様は?」
それとなくたずねる。
パメラは少しだけ悲しそうな表情を見せた。返事を待たずとも彼女の表情から理解した。
今悲しんでいても仕方がない。ちゃんとご飯をたべて、これからのことを考えていかなければ。
ドロシアはダイニングへ向かうべく一歩踏み出す。
ダイニングには色とりどりの美味しそうな食事が用意されていた。一人分ではあるけれど。
薄味だが素材の味がしっかりとあり、腕のいいシェフを雇っているのだと感心する。
食事は美味しいのだけど、初めての場所だからなのか、何となく虚しさが心に積み重なる。
「奥様」
一通りの食事を終え、紅茶を飲んでいると、執事のピーターがちょうどよいタミングで席に近づいて一礼した。
ドロシアは軽くナプキンで口をふき、顔を上げる。
「お疲れでなければ早速ではありますが、屋敷のご案内をさせていただければと思うのですが」
「ええ、ぜひ」
気が乗らないからと部屋に引きこもって居ても余計に塞ぎこむだけだ。それならば、体も頭も動かした方がいい気分転換になるだろう。
勢いが良すぎた様で立ち上がる時に大きくガタリを音を立ててしまった。
生家の家ならばドロシアの振る舞いに対して、小言を言うものが一人か二人いるのだが、今はいない。
肩の力が抜けるような気楽さを知らずのうちに手に入れたいたのだと気がつく。
色々な場所に光を当ててみれば、ドロシアが気づかずにいる発見や楽しさが他にもあるのかもしれない。そう思うと先ほどまでの暗鬱な気持ちはどこかへ消え去っていく。
「では、ご案内いたします」
ピーターは目を細め、慇懃に一礼した後、スタスタと歩いて、白い手袋でダイニングの扉を開けた。そういえば、彼は常に白い手袋をしている。一昔前は執事を手袋をはめるのが一般的だったが、現在は仕事の効率を考え、手袋をしない執事の方が多いと言う。実家のブラッドー家の老年の執事も、ドロシアが物心ついた時にはもう手袋をはめていなかった。たまに、屋敷で大きなパーティーが開かれた時にみたことがあるぐらい。
「奥様もご存知の通り、“クレイグ伯爵”は現在のラルフ様、一代限り賜ったものですので、特に歴史も家独特の慣習やややこしい血族関係はありませんので、そのあたりは気を楽にしていただければと」
歩きながら、ピーターは簡単にそう説明を始める。
「そう言えば聞きたいのだけど、貴方はずっと現伯爵であるラルフ様にずっと仕えていらっしゃるのですか?」
「いえ、以前は別の家にご厄介になっておりました。旦那様が伯爵位を賜った時に、やはり色々と体面があるものですから、ちょうど奥様との結婚も決まり、急いで“貴族”に必要な屋敷や使用人を探すとなったときにちょうど雇っていただきました。こんな話をするのはなんですが、なかなか使用人、執事の私を含めて、決めるのに難儀した経緯がありまして、何せ一代限り。旦那様は特に常に死と隣合わせの騎士という職業でもあらせられるので、将来なくなるとわかっている家に、わざわざという人はおりません」
「確かに……そうかもね」
ドロシアとて、今回の結婚が自分の意思であったかと聞かれると、そうとは言い難い。むしろ、あの天啓がなければ、今でも納得できていなかったかもしれない。国のためであり仕方ないことかもしれないが、新婚初日からないがしろにされ、今まで大切に育てられてきた令嬢なら例外なくすぐに心が折れてしまっていただろう。
大きくため息をつく。そんなことを考えても思考は堂々巡りをするばかり。切り替えて、これからのことを考えなければ。
「こちらが図書室です」
それから屋敷を回って、応接室、地下室、使用人たちの居住スペース(通いの者もあるとピーターは説明した)カードゲーム室もあるのだと、案内された時に思わず、
「旦那様はカードゲームがお好きなの?」
そう聞いてみたが、
「いえ、旦那様はあまりそう言ったものは好まれないと。ただ、一般的な貴族の住居にはそいうったプレイルームがあると知ったので、作らせたのだと――もしかしたら、奥様が好まれるかもしれないと、そう考えまして」
カードルームには、明るい壁紙にソファー、カードゲームを行うためも、正方形のテーブルと椅子。
ソファーの前のテーブルには、チェス盤も置いてあった。
ラルフ・クレイグの横顔を思い出す。あの無表情で、この部屋のデザインを考えていたのかしらと。
そう思うと、くすりと笑みが溢れた。
次に案内されたのは、ラルフの執務室。
他の部屋に比べてかなり殺風景だった。本当に必要最低限のものしか、部屋にない。
「そういえば、旦那様は今日はお帰りになるかしら? 結婚式以来、お顔を見ていないのだけど」
ドロシアの問いに、ピーターの表情はわかりやすく暗雲立ち込める。自分の心が軋む音が聞こえたような気がした。
「ええ、昨日の話だと、そのようです……ですが非常にお仕事が立て込んでいるのも事実のようですから、もしかすると」
「今日も帰って来ない可能性があるのね」
前途多難。
夫である、ラルフ・クレイグに待ち受ける運命から彼を救うためには、何よりも二人の間に良好な関係を築くことが急務だと思って、意気込んでいたのだけれど。
「旦那様がおかえりになられたら、奥様にも必ずお声がけいたします――この後、サンルームにご案内します。お庭も見渡せますし、今日はこの後、そちらでゆっくりとお過ごしになられてはいかかでしょうか?」
ドロシアはピーターの言葉にしたがって、その日の午後はサンルームでお茶を飲みながら一人、書き物をしていた。
つまり、これから起こりうる悲劇を招かないように、対策を改めて立てなければと。
1、まずは夫とそれなりにコミュニケーションをとれるようになる
2、それから夫の周囲で不審な動きがないかそれとなく探る