初恋ネイル
気になってこのページに来てくださった方、お読みくださった方、評価をくださった方、ありがとうございます。
「はじめまして。ナイチンゲール社のリトリー・ウォーカーと申します。きょうの十五時にお約束させていただいたのですが」
ナイチンゲール社はアンバー王国の中でも五本の指に入る大手出版社で、児童書から雑誌、文芸など様々なジャンルの本を取り扱っている。リトリーは、ナイチンゲール社で主に美容に特化した、雑誌記者として働いていた。
「リトリー・ウォーカー様、承っております。どうぞ」
玄関でリトリーの応対をしてくれたのは、執事服をまとったまだ若い青年。
執事服を着ているという事は、この家のバトラーである証明なのだが、リトリーの中でバトラーと言うのは、四十代以降と人だと思っていた。一般的にもその位の方が多いだろう。
仕事の経験を積み重ねてやっとバトラーと言う称号が手に入るものだと。その認識であったが、目の前の青年はこの若さですでにバトラーの称号を得ている。優秀なのか、特殊スキルがあるのか、はたまたネイルサロン自体にお金がないのか………………。
王都の一画にあるリリーネイル――今日はこのネイルサロンの取材に来ており、そんな事よりも自らの仕事に集中しなければと気合を入れ直す。
「失礼いたします」
まとわりつく考えを振りほどき、リトリーは中に入る。
玄関の調度品は重厚さの中にもモダンなものが適度に配置され、非常にセンスがいい。見たところ、フリッツ商会で揃えているのだろうと――以前、商会のカタログでいくつか見たことがあるものがあったのでそう思った。
「なにかお預かりするものは?」
執事服の青年にそう声をかけられ、特にありません、と言おうとした言葉を飲み込む。
「じゃあ、このストールだけ。お願いできるかしら」
正直、預けても預けなくてもどちらでもよかった。ただ、預ける場合はどうするのだろうと疑問が湧いたので預けることにした。
「では、こちらに。ご自身で鍵をしめていただきます。鍵はご自身で離さず、帰るまでお持ちください」
いくつか並ぶ”箱”を開けて中を示す。
「なるほど」
入れ違いや取り間違いを防ぐためにこの様にして言るのだと、その仕組みに関心する。奥の方には貴族用だろう、厳重な金庫型のものもあった。指示された通りにストールを仕舞い、鍵をかける。箱の中にはハンガーも用意されていたので、冬物のコートなども対応できるだろう。
何事も体験してみなけれなければわからないものだ。
「それではこちらへ」
青年執事の後に続いて、いよいよサロンに向かう。
オーナーの女性は若い子爵令嬢だと聞いていた。彼女は社交会にはあまり顔を出さないため、謎につつまれた部分が多い。彼女の母親であるエブリン・アスセーナス夫人に関しては、良くも悪くも様々な噂が飛び交う。母親と娘の家族仲について、良い噂は聞かなかった気がする。しかし、思えば娘のリリーが考案したジェルネイルを社交界にいち早く知らしめたのはエブリン・アスセーナス夫人であり、夫人の功績が非常に大きい。
噂はあくまでも噂――考えていると、リトリーの目の前にいた青年執事は扉の前で、立ち止まった。無駄のない動きで扉をあける。
「まあ、素敵ですね」
中に広がる空間をみてリトリーは感嘆の息を漏らす。
やわらかなラグが敷かれた床。ボタニカル模様の壁紙。それに合わせて調度品と家具が配置されてある。
「いらっしゃいませ。リトリー・ウォーカー様でいらっしゃいますね? リリー・アスセーナスと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
机の向こう側に座っていた女性がリトリーの姿を見とがめると、立ち上がり、こちらに歩み寄って来る。
茶色の髪に色白の肌。ぱっと目を惹く華やかさはない。夫人とは違い、どちらかというとどこにでも居そうな平凡な容姿なのだが、彼女の纏うオーラが異質な感じがして、なにか心惹かれる。
こういった類の人は前にも会った事があると思い返して、ああ、画家や音楽家など芸術家タイプの人と似ているのだと疑問がストンと解消された。
「こちらこそ、急なアポイトメントに応じて下さってありがとうございます。今回は急なお話だったにも関わらず、ネイルの施術もしていただけるということで、楽しみにしていました。えっと、アスセーナスさん」
「リリーで大丈夫です。お客様は皆さんそう呼んでくださるし、このネイルサロンは私の個人的な趣味でやっている様なところもあって、アスセーナス家とはほとんど関係はありませんの。どうぞ、おかけください」
リリーがそう言って、先ほど彼女が座っていた机の向こうの椅子に戻るのと同時に、執事が机に対してた対面に置かれた一人がけのソファーを引いた。
「ありがとう」
リトリーはふわりと体を包み込む様なソファーの座り心地に微笑み、
「とてもセンスがいいですね」
リリーを見て更ににっこりと笑みを深める。
「ありがとうございます。サロンの家具や調度品に関してプロの方にお願いをしているので、間違いないかなと。私自身、お恥ずかしながらそちら方面のセンスはほとんどないものですから」
目じりを下げてそう微笑んだリリーの様子をみて、リトリーは驚く。
こういった場合、一般的な貴族令嬢であれば、自身の手柄だとそう言って終わるだろう。なのに、目の前のリリーは自分の手柄ではないと謙遜した態度を見せる。良くも悪くも。
「素直なお人柄何ですね。ちなみにどちらにご依頼を?」
「フリッツ商会です」
「ああ、そうでしたか」
やはりと思いつつ、リトリーはバックから手帳と筆記用具を取り出す。
「もう取材は始まっているのですか?」
「ええ、かしこまって取材をするのは得意ではないの。だから、リリーさんも自然体で。なるべくいつものリリーネイルを取材させてもらいたいと思っているので」
この時、ふっと見せた表情が、年相応の子爵令嬢の表情だった。
「わかりました。では、ネイルの作業もすすめさせていただきますので、両手を前に出していただいてもよろしいですか?」
リリーの言葉にリトリーは両手をのばす。
「失礼します」
片手ずつ爪の状態を見ながら、
「長さはどうされます?」
と、リリーは聞いた。
リトリーはネイルサロンに行くことはもちろん、承知した上で、昨夜のびた爪を切ってきた。だから、長さをどうしますもなにもないと思っていたのだが。
「長さをどうしますと仰るのは、更に短くすると言うことですか?」
長さぎりぎりまで切り揃えて来たので、それ以上短くと言うのは無理だとリトリーはそう思っていたのだけれど。
「あ、すみません。短く揃えられているので、この長さのままで宜しいか、それとも長さを出して、爪の形を変えるか、と言う話です」
「長くすることが出来るのですか?」
ネイルサロン初心者のリトリーは間の抜けた言葉で返す。
「はい。可能です。単純に爪を長くしたいという理由で長くすることもありますし、例えば、爪が割れたり亀裂が入ってしまった時にその爪の補強と、他の爪と長さを合わせるためにすることもあります」
「なるほど」
リリーの説明にリトリーは相槌を打つ。
「あとは、デザインとしてあえてぎりぎりまで爪を短くして、長さを出す場合もあります。そうすると、長くした部分がクリアになるので、抜け感のあるデザインになりますよ。例えば、こんな感じです」
リリーはリトリーの手をヘッドレストに置いて、自身のネイルを見せる。
ネイルベッド(爪のピンク色の部分)はラメのあるクリアなブルー。本来ならば伸びた部分は、爪の白い部分はリリーが説明した通り、白ではなくクリアだった。長さも出しているが、長さ的には日常生活に支障をきたしそうな長さではなく、自然に見えるくらい。手元が綺麗と思われるくらいの長さである。
「なるほど」
「爪の長さはその人のライフスタイルによって様々変えられます。例えば、今回だけ長く、次回は短くしたいとなれば、その様にも出来ます。後、丁寧にケアをしケアをしていけば、ここのネイルベッド育ってくれて、つまり爪のピンクの部分がぐんぐん伸びていくので、自爪を無理なく伸ばしていくことも可能です」
「そうなんですね」
リリーが言う一つ一つの単語はもちろん理解できるのだが、その言葉を繋げ文章となった時、一体なにをどう指すのか、イメージが全く浮かばない。
「すいません、一気に色々と話すぎてしまいました。今回は今の長さに合わせてで、大丈夫ですね?」
「ええ、もちろんです。それに謝らないでください。私はジェルネイルの取材に来たので、色々とお話を聞けるのは大歓迎です」
リリーが左手からネイルケアを始めたので、リトリーは空いた右手でリリーの話をノートに書きこんで良いく。ちょうど、先ほど部屋を出て行った青年執事が紅茶をもって部屋に入って来た。
今回の取材は、新聞記事に匿名で投稿されたジェルネイルに対する否定的な意見によって、ネイル離れが進んでしまった。そのことを踏まえ、”ジェルネイルは本当に女性の社会進出のさまたげなのか”をテーマに記事を書くために今日ここに来た。王都でもネイルサロンと謳う店は他にもあるが、火付け役になったリリーネイルを取材したいとリトリーはかねてから考えていた。
「ありがとうございます。私もネイリストとして、ネイルの魅力をしっかりと伝えて行きたいと思っています、私のわかる範囲で答えられることはなんでも、聞いてください」
リリーの意気込みの後、執事はゆっくりとお辞儀をして部屋を出て行く。
リトリーは言葉にしなかったが、リリーネイルにもあの記事の余波があって、多少不都合なことが起きているのかもしれないと感じた。
「ずばり、伺いますが、こちらのネイルサロンのコンセプトは何ですか?」
「ライフスタイルはその人によって異なりますので、その方の”日常にとけこむネイル”をコンセプトにご提案しています。それとお客様は女性と限定しておりませんので、男性の方も大歓迎です」
リリーは自信を持ってそう答える。
「男性もですか――その発想はありませんでした。男性でしたら、どんなデザインをオススメしますか?」
リトリーは挑戦的なまなざしを向ける。その言葉には男性を客層として取り込むのは少々無理なのではと言う気持ちも含まれていた。
「うーん。その方のライフスタイルにもよりますけど、初めてだと仰るならまずはシンプルなデザインでしょうか。もちろん、希望があれば凝ったデザインを提案することも可能です。最初は興味本意でもなんでもいいのです。ただ、自分で体験してみてもらった方が理解は早いと思ったので。一度チャレンジしてもらえると嬉しいなと。それで気にってもらえたら、また来てくれると嬉しいです」
もちろん男性と一口に言っても様々な職業・立場の人がいる。例えば、劇場の俳優なんかは自分の容姿も重要であり、自身見た目にとことんこだわっている。その観点から見れば、ネイルをするのもありだろう。
「ところで、ウォーカーさん。今回のネイルはどんなデザインにされますか?」
リリーは甘皮処理をしながら聞いた。
「それなんですけど、今回のネイルはどんなデザインがいいか、自分としても取材としても、何がベストか考えていたのですけれど、絞り込めず漠然としか思い浮かばなくって」
「決めなきゃダメって訳じゃないですけど、せめて雰囲気だけでも聞かせていただければ。そこから、私の方で色とかデザインにつていてもご提案できる部分もあると思うので」
「……例えばなんですけど、”初恋を表現したネイルデザイン”って可能ですか?」
「初恋?! ええ、まあ、もちろん、そうですね」
リクエストをされたことが無かったのだろう。はっと顔を上げたリリーは視線を彷徨わせ、何度か頷く。
「あまりにも抽象的すぎますかね?」
「そんなこともないです。出来なくもないですよ。ネイルデザインにこれが正解と言うものはありませんから。ただ、初対面の方にいきなりこんな話はと思われるかもしれませんが、………………イメージを膨らませるためにも、よろしければ、ウォーカーさんの初恋はどんな恋だったか聞いてもいいですか?」
リリーはあくまでもデザインの参考のためにと言う言葉を付け足した。
「私の初恋は、まだ学生の頃。通っていた学校の先生……ですかね。今思うとそれが恋なのか憧れなのか判断がつきかねますが」
リトリーは別に話をしたところで、昔の話だし。その程度に思っていたので自然を言葉が口をついた。
「素敵ですね。うらやましいです」
リリーは柔らかい口調で相槌を打つ。庶民は学校へ通うが、貴族の子供は自身の家で家庭教師を雇ったりする程度なので、リリーも学校に通わずに今まで生きて来たのだろうと思う。だから、リトリーの話が物珍しいのだろうとも。
「たいした話ではありません。初恋のその先生は、貴族の家庭教師をしていたという若い先生。きっかけは――当時の私は勉強が嫌いで、あまり授業を真剣に聞いていませんでした。隙あらば授業を抜け出す方法を考えていて――その日も授業を抜け出して、屋上のベンチで一人ぼうっとしていたら、いきなりドアが開いたの。誰かと思えばその先生で――最初はその先生対して、真面目そうな人だなって印象があった。顔のつくりが整っていたから、女子生徒からの人気も厚かった。ともかく、多分怒られるんだろうなって思って、嫌だなって先生を見て思った。案の定、私を見つけると『授業はどうした』と聞いてきて、『知らない』って私は顔を背けてそう言った――何だろうね。その頃は全てが自分の敵みたいな認識で、先生にも両親にもともかく周囲の人に対して、そんな態度をと言っていた。怒られたいとか、そう言う訳じゃなくて、だた私の事は放っておいて欲しいと思ったなんとなく一人で居たいと。今思えばそんな時期だったんだと思う。――それで、その先生にも怒られるのかなって思っていたら、ふっと笑われて『次の授業には出る様に』そう言われて、そのまま行ってしまった。それから先生の事が気になり始めて、気が付いたら目で追う様になっていた」
思いがけず、当時の胸が締め付けられる様な苦い思い出がまざまざと蘇る。
「別にそれからその先生と何かあった訳ではないの。なぜか、私のクラスは先生の授業が一つも当たらなくって。珠に廊下ですれ違う時に先生とは挨拶をするぐらい。でも当時はそれだけで嬉しかった――なぜでしょうか、リリーさんには何でも話せてしまいますね」
リリーは顔を上げてふっと笑う。
「ありがとうございます。大切な想い出を話してくださって。お話を参考にしてデザインを考えさせてもらいます――――余談ですが、その、学校を卒業されてからその先生とは………………?」
控え目にリリーはリトリーに視線を送る。
つまり、学校を卒業してから、先生との関係はどうなったのかと言うことを聞いているのだろうとわかった。
「学校を卒業してからは全く。風の噂で先生も学校をお辞めになったと聞きました」
「今でも会ってみたいと思いますか?」
「そうですね………………正直わかりません。このままキレイな想い出とし持っていてもいいのかなって思うけれど、本音を言えば、もう一度くらいは会ってみたいかなって。そう思ったりも」
リリーはネイルケアを終えると、立ち上がり「ジェルの用意しますね」と言って、棚からコンテナをいくつか。筆と筆置きを並べる。
整えられた爪を見る。爪切りで切っただけの爪は洗練され緩やかな曲線を描き、しかも十本全ての指の形が揃えられている。
「じゃあ、まずベースジェルから塗布していきますね。私が合図しましたら、そこに置いてあるネイルライトに手を入れて下さい」
「わかりました」
リトリーは聞きなれない単語にあわあわとしながらもネイルライトなるものを確認する。
右手からベースジェルと言った透明の溶液をのせていくのを目で追って、リリーの合図でネイルライトの中に手を入れる。
「熱いと思ったら、ライトから手を出して、入れ直してもらって大丈夫なので」
リリーはそう言いながら、反対の指にベースジェルの塗布を続ける。ライトは青いの様な紫の様な見たことのない色をしている。ジェルネイルの作業のために特別に作られたものなのだろう思った。
じんわりと爪の辺りがあたたかくはなるが、熱いという程ではないのでそのままにしていた。
「大丈夫ですか?」
熱くないですかと、リリーに心配されたが、問題ないと答えた。
「大丈夫でしたらいいのですけど、無理はしないでくださいね。ライトは自動的にで消えるので、消えたら手をだしてもらって大丈夫ですので」
リトリーは緊張感を持って、自分の爪が変化していく様子を見ていた。
「なんだか意外でした」
そう口にするとリリーは顔を上げ、
「何か気に障ることがありましたか?」
と、不安気な表情を見せる。
「いえ、そんなんじゃなくって……ただ、私が勝手に思っていた、想像していたのとは違うなって」
「それは良い意味ですか?」
「もちろんです」
その言葉に安心したのか、リリーは作業に戻る。
「リトリーさんは、どんな風に思っていたのですか?」
「正直、想像もつきませんでした。ネイルサロンは今回が初めてで――もちろん社交界や一部の市民の間で流行していたから、ジェルネイル自体は何度も見たことはありました。聖女ナズナ様もされているでしょう?」
リリーはこくりと頷くのを見て、リトリーは話を続ける。
「でもどうやってと言う部分は正直わからなかった。こんなことを言ったら失礼かもしれないけれど、匿名投稿の文章を送った人の気持ちもわからなくはないと思った。こんなに時間とお金をかけてネイルを整えることが出来る地位にある人たちの嫉妬心みたいなのもあるのかなって」
「そう思われるのは自然なことなのかもしれません」
リリーは抑揚なくそう言った。その言葉だけでは、彼女が今どんな気持ちでそう言ったのか、真意を推し量ることは難しかった。
「でも今回、ネイリストの方がすごく熱心に、一つ一つが職人さんの息に達するような仕事をされているのだなと思いました。私達は職人の方が作った作品を爪にまとっているのだなと。そう思うと素敵だなってそんな、気持ちが湧き上がって来て」
リリーはの仕事りに惚れ込んでしまった。まだ色もついていない爪をみながらそう思った。
「ありがとうございます。そんな風に言っていただけると大変光栄です」
はにかんでリリーはそう言った。
匿名者の投稿文では”とあるネイルサロンではお客を選り好みしている。気に入らない客を断って”と、書かれていたが、この繊細な手作業は一人一人のお客様、それぞれに行われている。つまり一人に対してそれだけ時間もかかるのだ。急に来店してm時間が合わずに断るのは仕方がないことだと思う。彼女、一人でこなせる作業に限度があるだろう。逆に断らざるを得ない状態ではないかと納得する。
「では、色をのせていきますね」
「リリーはまず、うすいブラウンのワンカラーで仕上げ、キラキラとしたピンクのホログラムとラメをのせる。それから、もう一度ブラウンの色を上から重ねる。
「あくまでも”初恋”はイメージです。ほろ苦い感じのブラウンに、でもどこかキラキラとした感じを出したくって」
その説明を聞いてリトリーは自然と笑顔になる。
「素敵です。初恋のイメージを抜きにしてもこのデザインとても気に入りました」
「そう言っていただけると、大変光栄です」
そんなリリーだからこそ、リトリーは更に彼女をことを知りたいと思った。今までどんな風に考え生きて来たのか。それはジャーナリストとして奥底に眠っていた衝動がリトリーの気持ちをそう動かしたとも言えるだろう。
「リリーさんの初恋は、どんな恋だったのですか? あの、記事にはしませんから」
言葉にして、流石に踏み込みすぎたかなと後悔した。よく考えれば、リトリーは一般市民で、彼女は子爵令嬢である。そんな簡単に聞いてもいい質問ではなかった。しかし、言葉に出てしまったのだから、後の祭り。
リリーは少し無言になった後、口を開く。
「そうですね――――、昔のことです。昔々。まだ、私も幼かった頃」
リリーはそう言って話を始めた。
「そこはとある島国で、季節が感じられる様な異国の地で、当時の私は頭でっかちに色々と考えこむクセがあって。気持ちの浮き沈みが激しくて、とにかく自分の気持ちをコントロールするのが下手だったんですね。どうしようもない気持ちを持て余して、ふと――もし、誰かにこの気持ちを打ち明けられたら、もしこの気持ちを伝えられたら、少しは楽になるのかなと、思っていた時、ひょんな事から一人の男性と知り合いました。
その男性はとある会社、えっと商会を経営されているという裕福な男性で、当時の私にはとても素敵な人にうつりました。彼は――便宜上、彼の事をアルディ伯爵(仮名)と言いますね。伯爵はいつも自分の秘書を連れていました。秘書はネシブと言い、背中のまるまった陰気そうな男で、妙に目だけぎょろぎょろとしていたのを覚えています。伯爵が、ネシブのことを”病身の母を抱えて大変なんだ”と言っていたので、多少、彼に対して同情した気持ちを持ったことを覚えています」
リトリーはリリーの話す現実とも夢ともつかない、なんとも不思議なストーリーに心惹かれ、気が付くとのめり込む様に頷いていた。
「その男性――アルディ伯爵の事は子爵家のご両親もご存知の方だったのでしょうか?」
貴族のご令嬢であれば、交友関係には両親か家の執事が管理するのが通例であると聞く。だから、何の気なしにそう聞いたのだが、リリーの反応は思っていたものと少し異なっていた。
「両親――えっと、周囲の、私が信頼できる人には話をしてみたわ。でも、あまり伯爵の事はよく思われなくって、『彼には近寄らない方がいい』そう言われた記憶があります」
その言葉を聞いて、(もしかしたら秘密恋愛だったのかもしれない)と、息を飲む。
――伯爵とはその後、どうなったのでしょうか。
そう聞こうと思って辞めた。こんな語り口調で彼女が話すのだから結末は………………まあ、そう言うことなのだろうと。
「自室で過ごしていたある時、アルディ伯爵が亡くなったと連絡が飛び込んで来たの。本当に驚いて。でも確かに珍しく彼と数日連絡が取れていなかった」
「え?」
リトリーは思わず、体をびくりと震わせる。まさかそんな展開になるとは彼女自身思いもよらなかった。ちょうど、リリーがトップジェルを塗布していた所だったので、すぐにお詫びの言葉を述べる。
「いえ、確かに突拍子もない話をしたのは私の方だから。今はもう遠い昔の話だから、冷静に受け止められる自分がいるけれど、当時は本当に気持ちの収集が付かなくなってしまって。辛いというよりも痛かった」
「……」
「でも、それと同時に私が犯人をみつけなければいけない。そう強く思った。それが彼に対する私なりの鎮魂になると思ったから」
「犯人? 殺人だったのですか?」
「警さ……騎士団の方々からの最初の説明では、死因から事件性はないと言われたけれど、私は一瞬で殺人だと思った。なぜ、騎士団から話を聞いたか? ――彼が生前、私と連絡を取った形跡があったので、私の所に念のため話を聞きに来て。その時に”アルディ伯爵が自殺を図った”と」
リトリーはの頭上が黒いもやに包まれる。初恋を聞いたつもりだったのに、話はどんどんそれとは異なる方面へ進む。そこで、はたと思い出したのは、リリーが一部の方面で”探偵”と称されてる話だった。リトリー自身は美容系の記事が専門なのでそっち方面は得意ではなかったが、これも何かの件。記者の端くれとしては、この話をとことん追求してみようという気になった。
「アルディ伯爵がが亡くなった時の状況は詳しく聞かれましたか?」
「ええ、発見者は一人の女性――となる貴族の家でメイドをしている女性だった。彼女をポーリーン(仮名)としましょう」
「ポーリーンと伯爵の関係は?」
リリーは一瞬、眉間に皺を寄せる。
「それが、非常に複雑で」
「と、言われますと?」
「ポーリーンは”出自の秘密について話したい”と、伯爵から連絡をもらって訪れた。全くの初対面だったの」
第一発見者を疑えと言う鉄則があるのを知っているが、流石に初対面で殺人を犯すだろうかと疑問が湧く。
「しかも、ポーリーンが伯爵の屋敷を訪れた時には彼は既にこと切れてたから、ポーリーンは伯爵とは一言も話すらしていないのよ」
「先ほど言っていた、秘書のネシブは屋敷に居なかったのですか?」
「ええ。来客がある時は伯爵から暇を出されるみたいなの。ポーリーンは伯爵が死んでいる様子を見て、すぐに騎士団に連絡をした。それから、数時間してネシブが屋敷に戻って来た様なのね」
「なるほど――ポーリーンさんと言う方の出自の秘密と言うのは本当にあったのですか?」
リリーはこくりと静かに頷く。
「彼女が仕えている貴族の私生児だったの」
「まあ」
驚いた声色でそう相槌を打ったが、そう言いながらも貴族の家ならままあることだと、冷静にその状況をリトリーは理解していた。
「ポーリーンも、表立って確かめたことはなかったのだけど、うすうすその事には気が付いていたみたい。でも、彼女はそれを公表するつもりはさらさらなかった。その理由は二つあって、仕えている貴族――つまり彼女自身の父親の世間の印象は清廉潔白そのものだから、ポーリーン自身のせいで父親のイメージを汚したくなかったというのと、彼女自身の衣食住はきっちりと補償されていたし、父親は出来る範囲で彼女の事を考えてくれていた。ポーリーン自身もそれ以上を望まなかったし、それ以上何かするつもりもなかった。そう言う訳なの。でもどこから、彼女の秘密が漏れてしまって、アルディ伯爵の耳に入った様なのね。それで、その事について内密に相談に乗ると連絡をもらって訪れた。ポーリーン自身は、特にどうするつもりも無かったから、アルディ伯爵の申し出を断る話をするつもりだったと、彼女自身は話していたそうよ」
「ますます状況がわかりませんね」
「騎士団は彼女の事情と事実を確認して、事件には全く無関係だと判断した。ただ、ポーリーンはこんな証言もしていて、『伯爵の家に向かう途中、逃げる様に走り去った一人の女性がいた』と」
「その女性を騎士団の方で追っていて、リリーさんの所に騎士団から話が行ったのですね」
「そうなの。つまり最初は私も疑われていたのね。だけど、ちょうどその時間には参加しなければならない飲み会――えっと、パーティーに参加してたから」
聞きなれない単語があったが、話を進めるのが先だとあえてスルーした。
「じゃあ、リリーさんがその走り去った女性ではないということが完全に証明された訳ですね。でも、一体その女性は誰だったのでしょう?」
「その女性の捜索と共に、彼の死因が判明したの。実は伯爵は麻薬常習者で腕の見えない部分いはいくつもの注射痕があった。だから、麻薬の過剰摂取による死――事故か自殺の線で見ていた様なのだけど、体内から麻薬とは異なる成分の薬物が検出されたの」
「その検出された薬物とは?」
「詳しい薬の名前は……ちょっと覚えていないのだけど、心臓病の治療に使われる薬で、正常な人がその薬を接種すると血圧が低下し、命に係わる場合があると。特に、アルディ伯爵は麻薬と一緒にそれを取ってしまったから……伯爵は心臓の持病なんて持っていなかったから、誰かがこの薬を意図的に伯爵に与えたのではないかって」
リリーの話を聞けば聞く程、闇は深くなる。
それに、子爵令嬢が好きになった人物が麻薬常習者だったと言う事実にも固まる。リリーは過去のことだから、何でもないという語り口調で、聞けばもっと答えてくれるのかもしれないが、あえてその部分には触れず、伯爵が亡くなった時の状況をさらに詳しく聞いた。
「その現場は鍵がかかった部屋だったのですか? それとアルディ伯爵とご一緒に住まわれてる方、もしくはご家族で心臓の病気を患っている方は?」
もし、伯爵の両親が心臓の病気を患っていたとしたなら、それを誤って取ってしまったという可能性もあるのではないかと思ったのだ。
「彼が亡くなったのはアルディ伯爵の自室。鍵がかかる部屋ではなかったので、屋敷に出入りが出来るものなら、誰でも入ることが出来たは。あと、アルディ伯爵のご両親は彼が若い頃にもう、亡くなってしまっているの。だから、屋敷に住んでいるのは彼一人。通いで、身のまわりの事をやってくれる人はいたけれど。秘書のネシブね。伯爵自身、いくつか医者処方された薬を飲んでいた様ですが、検出された成分が含まれる薬ではなかったと聞きました」
「ますますわかりませんね。自殺と言われればそうなのかもしれませんが、そうなると、心臓病のその薬をどうやって手に切れて、体内に入れたんかと言う疑問が生まれますし、逆に殺人となると、犯人は一体誰で、何のために伯爵が殺害されなければならなかったのか、その動機は? と言う話になってきますしね」
リトリーはそう言いながらも、リリーの初恋の君である、アルディ伯爵の仮面がはがれ落ちる。そんな印象を話しの中から受けた。
「ええ、仰る通り。私もあの時は熱に浮かされていた部分もあって、あの人を殺害した人がいるのなら、とことん追求し、ちゃんと罪を償ってもらわなければいけない。そう強く思っていたわ。だけど、事件をひも解いていくうちに、だんだんと彼の本性が見えてきた。――先ほど話たポーリーンがすれ違った女性だけど、その女性が誰か判明したの。彼女はとある会社――商会に務めていた方だったのだけど、アルディ伯爵に強請られていたと彼女自身が証言した」
「まあ、……一体何が?」
「伯爵はその女性がとある大手商会に勤める女性だと知って近づき、そこで、何かとは言わなけれど、彼女の公にはして欲しくない過去の弱味を握って強請ったのよ。商会から秘密裏にお金を持ってこいと」
「まさか」
リリーは淡々とそう言うが、初恋の相手の話にしてはあまりにもショッキングな内容だ。
「彼女はどうしようもなくなって、ついに商会からお金を持って伯爵にお金を持っていったの。その帰りにポーリーンとすれ違ったのね」
「じゃあ、その強請られ、お金を持っていた女性が伯爵を殺害したのかしら?」
リリーゆっくりと首を横に振る。
「それも違った。私も最初はそう思ったのだけどね。彼女は伯爵の屋敷には行ったけれど、伯爵には会わず、秘書のネビルにお金を渡して、伯爵が用意していた誓約書(そのを口外しないという)を受け取ってそのまま帰って来たと――あ、これで最後です。ライトにお願いします」
リリーに指示を受け、ネイルライトに手を入れる。今となってはネイルよりもリリーにが話す事件の顛末の方が気になっていた。
「それで、アルディ伯爵を殺害した犯人は見つかったのですか?」
そう言えば、先ほど秘書のネビルは伯爵に暇を出され、屋敷にはいなかったと話していなかっただろうかと思いだす。
リリーは筆をぬぐいながら頷く。
「ええ。犯人は秘書のネビルだった」
「秘書の、男ですか?」
「つまり、真相はこうなの。アルディ伯爵は表向きはとても素敵な人。人当たりがよくて女性からの受けも抜群だった。でも、その化けの皮をむくと、犯罪者――人の弱みにつけこんで、お金を強請る最低な男だった。今までもそうやって幾人もの女性の輝かしい人生を崩壊させていた。実は、ネビルの母親も彼に人生をめちゃめちゃにされたうちの一人で、心労から体がむしばまれ、心臓の病気を患っていて、アルディ伯爵が殺害される一週間前に亡くなってしまったの。それで……………」
そこまで聞けば後は言葉で聞かなくともわかった。母親が使っていた、残された心臓病の薬を麻薬か食事に混入し、殺害した。伯爵にとっては信頼していた秘書だったのだろう。何も疑うことはなかった。
現場を発見したという第一発見者のメイド、ポーリーンも伯爵が死んでいなければ、彼の毒牙にかかっていたのかもしれない。
それは目の前にいるリリーも同じ。
そう考えて、リリーには本当になにも被害はなかったのだろうか。少しだけ疑問が湧いたが何も聞かなかった。
「私の悲惨な男運の話みたいになってしまいましたね、昔から。血筋なんですかね。母も男運がなくて、物心ついた時には亡くなっていて――すみません、あまりにも過去を振り返りすぎました、ネイルの方はこれで完成です」
ネイルオイルのローズの香りが鼻をかすめる。高級感のある良い香りだった。
――血筋なんですかね。母も男運がなくて
その言葉が気になったが、素知らぬふりをする。
彼女の母、アスセーナス夫人のことだと思ったから、それに”亡くなった”と彼女は表現したが、それはどういった意図があるのかわからない。リトリーが知る限り、アスセーナス夫人は健康そのものだと。
はじめてのジェルネイルはきらきらとひかるほろ苦いチョコレートの様だった。
「とても素敵です」
にっこりとほほ笑み、リリーにお礼を述べる。