Primula malacoides
3学期が始まってすぐの、1月半ばの月曜日、僕は意図せず1人の少女と出会うことになった。
それはつい昨日、僕はなんとなく、この僕が通う学校の屋上に行ってみることにしたからだ。
今思えば、どうして昨日僕は屋上に行ったのかさっぱりわからないが、それはきっと、僕の人生そのものを大きく変えるターニングポイントだっただろう。
下校時間になって、特に理由もなく思い立った僕は人通りの少ない、校舎裏の外階段に向かっていた。
屋上へ向かう外階段は、長く使われていないのか影に所々苔が生えている。
静かな、まるで時間が止まったようなその湿ったコンクリートの階段をしばらく上り、鍵が壊れて蝶番の錆びた扉をきぃ、と開けて日に焼けた緑色の屋上に足を踏み入れた。
風にがしゃがしゃと小気味のいい音を立てる、何故かひしゃげたフェンスと、夕方の、傾いた陽の光が網膜を焼く。
暗い階段を上ったあとだったから、目が慣れるのに数秒かかって、気づいた。
フェンスの向こうに、人がいる。
夕日の逆光でシルエットしかわからないからか、まるで現実感のない光景だった。
それなのに、腹の底から焦燥感が沸き起こり、その焦燥感に突き動かされるまま、僕はその人影に声をかける。
「なぁ、あんた、どうしたんだ。どうして、そんなところにいるんだ」
人影は、ゆっくりと振り返る。
「あなたこそ、どうして?ここ、普段は誰も来ないのに。」
いっそ場違いに落ち着いた声音で、人影は言った。
笹の擦れるような、よく通る、澄んだ女の声だった。
あまりに落ち着いた声音に、嫌な予感と安堵が半々に湧いた。
「いや、とくに理由はないけれど…そんなことより、こっちに戻ってきてくれないか。目の前で落ちられたんじゃあ、寝覚めが悪い」
焦燥感からか、少し苛立ったような声が出た。
失敗したかと、肝を冷やす。
「あぁ、大丈夫、今日は落ちないわ。ただの下見だもの」
よいしょ、と屋上にしては妙に低いフェンスを乗り越えながら女はそう言った。
「…下見?」
この時、僕は自分でも驚くくらいに冷静だった。
そしてまず出たのは、当然の疑問だろう。大方でも予想がついていないといえば嘘にはなるが、あまり考えたいことではない。
「えぇ、あなたには理解できないかもしれないけれど、私はこれから3ヶ月、やりたいことを全部やって、満足して死ぬの。」
これ以上の幸福なんてないでしょう?と、そう言った彼女は、とても死のうとしている人間には思えない。きっと誰が見てもそう思うだろう。
僕は彼女を、つい羨ましく思ってつぶやいた。
「幸福…ね」
羨ましく思ったのは、きっと彼女が彼女なりに幸福の在り方を持っていたことへ、だろうか。
だってそうだろう。
誰もが幸福を求めて生きて、そして大抵は望んだまま死んでいく。
そんな世界で、どんな形であれ幸福を定義して、それを実現するために努力できるのは万人には無い資質だろう。
満足な死が、幸福だというのは、悲観的にも見えるが、結局はそれは真理に近いのだろう。
所詮は想像だが、けれど事実として揺らがないことが一つある。
その死を恐れない胆力だ。
彼女は本物だ。
確信を持ってそう言えるだろう。少なくとも、生きることの全てに辟易して、そのくせ死ぬのは怖くて"生まれてきたくなんてなかった"なんて嘆くだけの半端者の僕と比べれば。
そこまで考えて、彼女の声が思考を遮った。
「えぇ、幸福。理解しなくてもいいわ。慣れてるもの」
淡く目を伏せて、怪訝そうにそう言った彼女は、足早に屋上を立ち去った。
♦︎
そして今日、僕は昨日の出来事を意識の端に追いやって、もう忘れるはずだったのだが、どうやら運命とやらはそうさせてくれなかったらしい。
「ねぇ、あなた。」
一人で弁当を食べていた時、ふいに背後から肩を叩かれた。
ーー笹の擦れるような声、昨日の、屋上でのことを思い出す。
「……昨日の…僕に用があるとは、おもえないけど」
つい、突き放すような口調になったのは、いつ死ぬかもわからない不安定な人間に、情を移したくなかったからだろう。
我ながら臆病で、ひどく自意識過剰なことだ。
「いいえ、用はあるわ。用というよりは…質問、かしら」
「質問?」
「えぇ、あなた、昨日私の幸福を否定しなかったじゃない。ああいう反応をされたのは、初めてだったから。」
それが、昨日から気になっていたのよ、と
「…それは、あんな状況で、否定できるわけないじゃないか」
「ふふ、そうかもしれないわね。でも、なんだか考え込んでるみたいだったから…本当に、それだけ?」
そんなふうに見えていたのか。
まぁ、隠す理由もないから、話してしまおうと思い彼女に目を向けて、逸らした。
とくに碧く澄んだその目を見て、なんだかばつのわるさを感じてしまったからだ。
"羨ましかった"なんて、意味がわからない上に不躾だろう。
だから、僕はこう答えることにした。
「…僕が、君の幸福を理解できなかったからだよ。誰だって、死ぬのは怖い。生まれてしまったからには、怖いだろう。」
でも、と続ける
「君はそれを恐れない。恐れずに、己の幸福を追求する。……だから、あの時僕はそれを理解したいと思ったんだ。……僕自身の幸福のためにも。」
もう関わる気はなかったけれど、とため息を吐いた。
「そう…」
それだけ言うと、彼女は顎に手を当てて考えるように黙り、その場に昼休みの喧騒が流れ込んだ。
僕は訳もなく、喉が渇くような気持ちになった。
そして短く息を吐いて、彼女はその口を開く。
「それなら、私を手伝わない?やりたいことだって、一人でできることばかりじゃないし、それに私、友達いないもの。」
まるでそれが名案であるかのように言った彼女に僕はしばらく言葉を失って、どうにか疑問を絞り出した。
「……それが、君の幸福への理解、あるいは僕の幸福にどう繋がるんだ。」
困惑する僕を切り捨てるように彼女はハッキリと言い放った。
「知らないわ。そんなの。」
「…は?」
「だって、そうでしょう?私と一緒に居れば、あなたは私を理解できるかもしれないし、そうでないかもしれない。」
それが僕の幸福につながるかも分からなければ、理解できるかも定かでない。
あまりにも分の悪い賭けだ。
でも、それでももし、僕の幸福に少しでも近づけるのなら。
「…どうして、僕が3ヶ月後に死ぬ女の手助けをしなくちゃならないんだ…」
ため息混じりに、観念したように呟いたそれに、彼女はその整った頬をほんの少しだけ綻ばせて言った。
「北見よ。これから3ヶ月、よろしくね。」
「南原だ。…君の3ヶ月をいいものにする保証はできないぞ。」
「消極的ね。それに、それは私の決めることよ。じゃ、放課後に屋上で。」
それだけ言うと、漆のように艶やかな黒髪を揺らして去って行った。
「……はぁ…」
ため息が溢れたのは他でもない。僕自身の決断に対してだ。
どうせ傷つくであろう未来に、あまつさえ自分から向かっていくなんて!
もし今日、初めて北見と出会っていたならば、こんな選択はしなかっただろう。
昨日の屋上での出来事が、僕からまともな思考を奪ってしまったように感じる。
だがそれでも、北見の考えを理解できれば、僕の幸福を見つけられるかもしれないのも事実なのだ。
だから、と思考を区切った。
うだうだと済んだことを考えるのはやめにしよう。これは僕の悪いクセだ。
これが非日常に浮かされた結果だとしても、僕の幸福のためにできることをやろう。
「はぁ…」
そんな前向きな考えとは裏腹に溢れたため息は、窓にぶつかって見える景色を白く濁らせ、、そしてその濁りは徐々に小さくなって、ついに跡形もなく消えた。
♦︎
翌日、僕は生徒用玄関にいた。昨日の放課後、屋上で北見に言われたからだ。
どうやら彼女の"やりたいこと"とやらはまだほとんど決まっていないらしい。
だから、当面はこうして一緒に過ごして名実共に友達になることが先決なんだそうだ。
…たった3ヶ月で終わってしまう関係を、こんなふうに作るなんて、僕にはどうしようもなく虚しいものに思えてならなかった。
「南原、待った?」
そんな思考に沈んでいると、背後から肩を叩かれ、びくりとする。
2度目だというのに、なぜだか気づけない。
「いいや、僕が来てから、そんなに時間はたっていないと思う。」
「そう、ならよかった。」
繕うように言った僕に、素っ気なく北見は言った。
それから、特に会話もなく帰路につく。
偶然、僕と北見は家が似たような方向らしく、それなりに長く沈黙の時間が続いた。
その沈黙に、なんだか僕は気まずくなって世間話でも振ってみることにする。
「なぁ、北見、あー…その、なんだ。いつも、こっちなのか?」
「えぇ、そうよ。見覚え、なかったかしら?こんな髪の綺麗な生徒、他にいないのに。」
彼女はその艶やかなセミロングの黒髪を、さらりと翻してそう言った。
髪の束が慣性によってふわりと舞って、細く透き通ったうなじが見え、そして重力に従って一本一本が解けて元の位置に、どこか得意げに収まる。
「あぁ…いや、そう、だな…」
その光景に一瞬よりも短い刹那の間、目を奪われた僕の返答は、ひどく曖昧なものになった。
「ふふ、冗談よ。笑っていいのに。」
そう言って悪戯っぽく微笑んだ彼女は、本当に、少し大人びただけの、ごく普通の少女のようにも見える。
「……冗談になってないんだよ…」
絞り出すように、ため息混じりに零した僕の抗議は軽く流して、思い立ったように彼女は言った。
「ねぇ南原、私、海に行きたいわ。冬の海って、どんな色なのかしら」
「海?構わないけど、どうして、また」
「なんとなくよ。私はこうやって自分の思いつきに従うの。後悔をしないためにね。」
あまりにも唐突な要望に、僕は少し面食らったような気分になりながら、近くの砂浜まで北見と一緒に行くことにした。
夕陽に染まる住宅街を、しばらく歩いて砂浜に着いた。
歩く間の会話は、まるで昔馴染みの友人と話しているようで、驚くほどに早く時間が流れたのは、北見の絶対的な自信を感じさせる態度に振り回されるのが、自信のない僕には眩しくて心地よかったからだろうか。
「あはは、冷たい砂ってなんだか新鮮ね!」
そんな事を考えている僕を尻目に、彼女は丁寧に靴と靴下を脱いで、冷えた真冬の砂浜を走り回っている。
他の生徒のものよりいくらか丈の長い制服のスカートが、今は風に揺れて夕陽と共に彼女の足元を複雑に彩っていた。
「ねぇ、あなたも脱いでみなさいよ!きっと気にいるわ!」
夕陽に照らされキラキラと輝く海を背に、無邪気に、屈託なく笑う眼前の少女は、きっと僕が今までに見たどんなものよりも美しいものだと、理由もなくそう思った。
「ああ、砂遊びなんて、何年ぶりだろうな!」
柄にもなく、少し高揚したような声音が出た。
これが非日常に浮かされたが故の高揚なのか、単純に楽しむ北見に刺激されたのかは、ついぞ分からない。
日が落ちて、暗くなり始めた頃に、僕の隣に腰を下ろした北見が言う。
「私を手伝うというのは、3ヶ月で必ず死ぬ女と、ずっとこんなことをするって事なのよ。」
初めて会った時、屋上で聞いた声音だった。
他者を拒絶するような、どこか冷たさを感じさせるそれ。
「分かってる。その上で、僕は僕の幸福を目指さなきゃならないんだ。」
北見の言葉に、僕は驚くくらい動揺しなかった。
それと同時に、僕の内側にある、理由もわからない幸福への執着を意識する。
「そう、じゃあ、私からは何も言うことはないわ。」
冷たい言い方だったが、先ほどよりもいくらか和らいだ声音には、もう拒絶の色はないように思えた。
「どうして、死が幸福だと思ったんだ?」
思い切って投げかけた問いに、北見は淡々と答える。
「べつに、死にたいわけじゃないわ。生きていたら、苦しまなければいけないからよ。……生きて、苦しむのが怖いから、全部、終わりにするの。」
「そう…か」
予想していたはずの答えに、改めて言葉に詰まった。
淡々と、まるで日常会話のように放たれたその言葉には、特有の重みがあるように感じた。
「……弱い人間だと思ったかしら?劇的な理由でなくて残念?」
口ごもる僕に、彼女は冗談めかして言うが、それはきっと冗談などではないだろう。
きっと、たくさんの葛藤の末の彼女自身の決めたことなのだ。
それを、その覚悟を踏みにじるように、簡単に言えてしまう彼女にほんの少しだけ、悲しさを覚えた。
「思わないさ。理解は、まだできそうにないけれど、納得はした。」
「そう。そう言ってくれると、なんだか嬉しいわね。」
そう言って白い息を吐いた北見は、紫紺に染まる空を、何も言わずに見上げる。
3等星が輝き始めて、気温も一段と下がった頃、僕たちはそれぞれ帰路についた。
北見と別れるまでの間の、街灯の照らす住宅街は、どこか冷たい静寂が降りているようにも思えて、言葉もなく、ふたりで月を見上げて歩いた。
友人と別れてから家に帰るまでの、一人で歩く時間がこんなにも、寒く退屈に感じたのは、きっと夜だったからだろう。或いはーー
「はぁ…」
理由もなく零したため息が、白い煙となって街灯に照らされて消える。
それを見て、わけもなく寸刻前の紫紺の空を思い出して、目を伏せた。
脳裏にこべりついた静かな浜辺の波のさざめく音は、その日はずっと、消えてはくれなかった。
♦︎
海に行った2日後の土曜日、僕と北見は隣県にある遊園地に来ていた。
どうしてかと言えば、つい昨日北見が帰り際にいきなりチケットを渡してきたからだ。
いくらなんでも唐突過ぎるだろうと思ったりもしたが、きっと今回限りだと水に流すことにした。
「それで、乗るものとかは決めてるのか?」
受付のゲートでチケットを切ってもらって、少し歩いてから、そう北見に問いかけた。
「そうね…あそこに見える、あのすごいやつ…スピードスターっていうらしいんだけど。」
北見が指差す先には、凄まじく長い直線をこれもまた凄まじい速度で加速して一気にループを通る、かなり激しめのジェットコースターがあった。
「いや…あれに乗るのか…?本当に?」
「乗るのよ。あれに。そのために優先チケットまで取ったんだから。」
この女、本当に恐怖という感情がないんじゃないだろうか。
流石に口にはしなかったが、内心で強くそう思った。
「いや、怖いだろ、あれは。」
「怖くても、よ。一度乗ってみたかったのよ。失神者続出ですって!」
不穏なことを言うな。と肩をすくめてみたが察するにどうやらこれは冗談ではないらしい。
最後の抵抗とも言える短い沈黙ののち、僕は観念したように足を動かしたのだった。
そうして通りかかった露店で揚げたてスナックを買ったりしながら、ついにその恐ろしい鉄骨の足元まできてしまった。
「大人2人、優先券で」
そう言ってなんだか得意げに係員とやりとりをしている北見を尻目に、僕は手持ち無沙汰なのをいいことに無心でスナックをぱくついている。
真上から時折聞こえる轟音から極力意識を向けないように、無心で。
「南原、次の便に乗せてくれるらしいわ。」
「あぁ、わかった。今いくよ。」
食べ終わったスナックの、油染みまみれの紙袋をゴミ箱に放り込んで、北見につづいた。
「あんなに食べて大丈夫?全部出たりしない?」
「…怖いこと言うなよ。そんなに食べてないから、多分大丈夫だと思うけど。」
最悪の未来を嫌でも想像しながら係員に従って荷物を預けてゴンドラを待つ。
覚悟を決めるには十分すぎる時間だが、覚悟を維持するには長すぎる時間だ。
落ち着かない気持ちでいると、北見に背中を叩かれた。
「南原、まだ覚悟が決まってないの?そんなのじゃあ、本当に全部出ちゃうわよ。」
茶化すようにそう言ったいい笑顔の北見に、抗議しようとして、電車のような金切声を上げてゴンドラが停車した。
「ほら、行くわよ」
北見はそう言うと小走りでゴンドラに駆け寄った。僕も急いでそれにつづいて、何故だか気づけば最前列に座っていた。
「あぁ…もうすでに怖い…」
そんな怯える僕に、北見は爽やかな笑みを向けて鼻息荒く言う。
「失神しないように、せいぜい踏ん張ることね!何度も映像で見たけど、本当にすごいスピードなんだから!」
あぁ、もう本当にダメかもしれない。
そんな事を思って覚悟を決めた時だった。
『みなさ〜〜ん!!!超高速ジェットコースター、"スピードスター"へようこそ!!!本アトラクションは、静止状態から時速180kmまでをおよそ1.5秒で駆け抜けることが最大の特徴です!!!』
楽しげにとても恐ろしいことを言うアナウンスに、覚悟が少し崩れそうになったが再度歯を食いしばってなんとか耐える。
「やっぱり、少し怖いわね。」
直前になって冷静になったのか、スピーカーから流れる甲高いアナウンスに紛れて高揚半分、不安半分といった北見の声が耳に入った。
「安心しろ、僕も怖い」
何を安心すればいいか全く分からない僕の言葉に、北見は笑いながら、知ってるわよ。と返した。
『それでは、いってらっしゃ〜〜〜い!!!!』
ーーーーーー
ーーーー
ーー
ー
がたん、がたん、と心地よく揺れる電車で、差し込む夕陽に目が覚めた。
遊園地でめいっぱい遊んで、その帰りの電車で早くも疲れて眠ってしまったらしい。
我ながら、子供みたいだと自嘲した。
「…寝てたか」
眩しさに目を細めつつ、息を吐いて軽く背筋を伸ばす。
「あなた、寝てても姿勢崩れないのね。」
ぽつり、と呟くような北見の声に、ふとそちらを向いた。
「まぁ…寝てても、なんとなく意識があるから。それより、ごめん。寝てしまって。」
意外そうにしていた北見に、曖昧に返して、軽く謝罪をする。
「いいわよ、そんなの。疲れてたんでしょう?…スピードスターで、腰抜かしてたものね。」
「それは北見も一緒じゃないか。なんなら、コーヒーカップでも真っ青になってたくせに。」
ため息混じりに不平をこぼすと、北見はそれが気に入ったのかはじめて、歯を見せて笑った。
「それはそれ、よ。ふふっ」
時折見せる、北見の年相応な一面が、僕にはそれが本質であるかのように思えてならない。
だが、それは事実であっても意味のないことだ。
いやに悲観的な自分の思考に、僕は息を吐いて夕陽に染まった、流れていく景色を見た。
「今日は、楽しかったわ。ありがとう、南原。」
遠くを見るように、満足げな声音で北見が言う。
本当に、満足したのだろうか。
僕は今日、あまり明るく騒げた自信がなかったので、それが少し、不安だった。
「ほかの奴らみたいに明るく盛り上げるのは、僕は得意じゃないけれど、それでも楽しんでくれたのなら、その、嬉しいよ。」
口が滑った、と思った。
言う必要もないネガティブなことを言うのは、僕の悪い癖で、どうにも気を抜くと出てしまう。
「いいじゃない、それで。やかましくされても、困るだけよ。」
幸い、北見は気にしていないようだった。
その言葉に、どれだけの意味を考えての発言かはわからなかったが、僕にとっては少し、救われた気がした。
「…ありがとう。…僕も、楽しかった。」
「どういたしまして。それより、あなたクマが酷いわよ。少し寝ていったら?」
わけもなく礼を言うと、素っ気ない返しと共に先ほどからチラチラと僕の顔を見ていた北見に、怪訝そうな顔で仮眠を勧められた。
「…少しでも寝た後は、いつもこうなんだ。べつに眠いわけじゃないから、気にしなくていい。」
そう言って目頭を擦る。
こうすれば、見かけは多少マシになるだろう。
病人みたいだと家族に言われてから、密かに気にしていたことで、北見に見られるのは少し、ほんの少しだけ嫌だった。
「擦っちゃダメよ。いいから寝ていきなさい。あなた、さっきからぼーっとしてるわよ。気づいてない?」
「…じゃあ、お言葉に甘えて。」
ここまで言われて拒否するのもなんだか馬鹿らしかったので、電車の窓側にある手すりに肩を預けて、目を伏る。
側から見たら、僕はそんなにも眠たそうに見えるのだろうか。
そんなことを考えながら、心地よい揺れに、意識を手放した。
♦︎
それからは、学校が終わると毎日一緒に帰って、週末はいつも行く場所を唐突に伝えられた。
僕は、もう少し早めに言ってくれ、なんて言ったが北見はいつだってそれを無視して僕を振り回した。
それが僕にはむしろ心地よくて、いつだって新鮮な気持ちだった。
1月の末に、近くの水族館に行った時など、唐突に釣りがしたい、なんて言い出して近くの釣具屋で道具を一式借りて、結局1匹も釣れなかったり、それでも楽しそうに笑う彼女に、僕もつられて笑ったのを覚えている。
2月の頭に動物園に行った時は、途中で天気が崩れて園内のカフェに逃げ込んで、雨が止むまでの間、他愛もない話をして、外に出るとそこには鮮やかな丸虹があって、北見も僕も、子供のようにはしゃいで撮った写真は、きっと、ずっと僕の宝物だろう。
2月の末には、家族が寝静まった頃にこっそりと家を抜け出して、真夜中の公園で、2人でブランコを思いきり漕いで、荒い息を吐きながら自販機のコンポタを飲んで、夜の街を理由もなく歩き回った。
あの時の寒さと、冷たく輝く三日月は、僕の目に焼き付いて、ずっと、消えはしないだろう。
そうやって2人で過ごすうちに、僕は彼女の考えを理解できないことを知って、だが皮肉なことに僕自身の幸福はいつのまにか見つけていた。
でも僕はそれを認める気にはならなくて、ずっと考えないようする日々が続いていた。
気づいていたのだ。こんな日常がずっと続くと思っている自分に、終わってほしくないと願う自分に。
そして今日、3月初頭の金曜に、北見が勉強会をしたいと言うので、僕の家で雑談に花を咲かせつつ勉強をしていた。
「飽きたわ。」
唐突に、北見がそう言い放った。
出会った時からだが、北見はいつも唐突で、時々意味のわからないことを言い出す。
今度は何が飛び出すのかと楽しみにしつつも、やはり唐突なのは困るので内心ビクビクしていると、北見はシャーペンを机に放り出して言った。
「あなた、ゲーム好きなのよね。やってもいいかしら。」
意外な一言だった。
アウトドア好きな北見がゲームに興味を持つとは、思っていなかったからだ。
「構わないけど…勉強はいいのか?」
「構わないわよ。もう、そろそろだし、学生らしいことは概ねやったわ。」
それは唐突で、けれど僕はそれを知っていた。
最初から知っていて、決まっていた事が現実になろうとしているだけだ。
それでも僕は、それから目を逸らした。
「そろそろ?」
冷えた理性が、やめろ、と苦く溢した。
これは意味のない時間稼ぎでしかない。僕が、現実を見るのを先送りにするための。
「ええ。まさか忘れたの?」
「あぁ、いや、そうだったな……悪い。」
怪訝そうに、こちらを覗き込む彼女に、胸の奥から嫌なものが込み上げてくるのが分かった。
「そう、そういえば、あなたの幸福は見つかったの?」
何気ない問いに、ゆっくりと、けれど確実に迫る終わりを予感して、僕は恐怖する。
でも、それを彼女に悟られたくはなかった。
きっとそれは、彼女の選択を、彼女の覚悟を否定した、名前も知らない誰かと同じことだから。
「あぁ、その、見つけたよ。けど、叶わない。」
でも、僕は弱い人間だから、感情を隠し通すことすらできなかった。
心臓が不規則に跳ねて、呼吸を乱さないので精一杯だった。
「実行する前から、諦めていては何にもならないわよ。言うだけ言ってみたら?できることなら協力するわよ。」
困ったように言う彼女は、僕の答えを聞けば、きっと悲しむだろうと、根拠もなくそう思う。
それほどに、彼女に勝手に期待している自分に、心底嫌気が差した。
この期に及んで隠すには、僕らは親しくなり過ぎた。もう僕は、僕を隠すための壁を、彼女との間に持ち合わせていないのだと知った。
「あなた、もしかして、私に死んでほしくない、なんて思ってる?」
「…あぁ、僕は、ずっとこんな日常が続けばいいと思ってしまっている。…それが、僕の幸福だとさえ。」
ごめん、と言って彼女から目を逸らした。
もう、彼女の碧い目を見るとことも、僕には出来なかった。
「そう」
それだけ言って、彼女は黙り込んだ。
ふと、3ヶ月前に教室で話しかけられた時を思い出す。
その時と違って、その場を満たす喧騒は、今はどこにもなくて、その痛いくらいの静かさが、僕にはひどく居心地の悪いものに思えた。
その永遠にも思える沈黙の後、彼女はその重い口を開いた。
「こっちを見なさい」
少し、強い口調で促されるまま、僕は彼女と目を合わせた。
目に入った彼女の表情は、涙を堪えるようで、でもそれ以上にどこか優しさを感じさせるものだった。
「あなた、私と一緒に死んでくれるかしら?」
投げかけられたその問いに、僕は即答できないでいた。
彼女との日常を続けるのが、僕の幸福だと言ったくせに、どうしてもそれを失うというのに、それでも死ぬことを、終わることを恐れたからだ。
「……躊躇った。それじゃあ、死ねないわ。死ねたとしても、あなたは必ず後悔を残す。」
全てを見透かすように向けられる彼女のその碧い目を、初めて恐ろしいと思った。
「でも、僕は…!」
わけもなく焦燥に駆られた僕は何かを言おうとして、言葉に詰まって結局何も、言えなかった。
「…一つ教えてあげる。幸福とは、後悔しないことよ。あなたはあなたの、後悔しない道を見つけなさい。」
そんな、別れの台詞のように言う彼女に僕は膨らんでいく焦燥感に駆られて、必死で言葉を探すが、けれど何も見つからなかった。
「ねぇ、南原、私、この三ヶ月、楽しかったわ。あなたのおかげ。本当に、ありがとう。」
優しく、曖昧に笑って彼女続けた。
「でも、私はもう、生きて苦しむのに耐えられない。だから、終わらなきゃいけないのよ。」
そう言って笑う彼女に、僕はやっとの思いで言葉を絞り出した。
「それは、僕もだ!僕も、ずっと楽しかったし、君との時間は、僕の宝物だ!これからも、君を、苦しませはしない!それで、だから、ぼく、は、」
子供のような僕の言葉を、遮るようにして、彼女に抱きしめられる。
驚いて、でも振り払う気にはなれなかった。
「私は、あなたがあなたの幸福を見つける頃には、もう居ないけれど、ずっと、応援してるわ。」
それは、あまりにも残酷な言葉だった。
僕を生に縛りつける、卑怯な呪いだ。
その言葉に、もうどうしようもなく結末は決まっていることを心底で理解する。
堰を切ったように、涙と共に言葉があふれた。
「……最初は君が、羨ましかったんだ。幸福の形を持っている君が。」
北見の背に手を回して、言葉を繋いだ。
もう、どの言葉を選んでも、意味のない、あるいは別れの言葉にしかならないと分かっていても。
「だから、"本物"の君と一緒にいれば、僕自身の幸福も見つかると思っていたんだ。」
でも、と続ける
「半端者の僕には、失いたくないものが増えただけで、結局何も見つけられやしなかったんだ。……君のことを理解できないでいるのに、僕には、君がたまらなく大切なんだ」
幸福への執着の、理由さえついぞ分からないままで、結局こうして北見の最期すら汚した、半端者の僕には。
北見の啜り泣く声が聞こえて、より一層強く抱きしめる。
行き場のない感情を、涙と一緒に流してしまえたら楽だと、頭のどこかが呟いた。
「人が人を理解することなんて、できるはずないのよ。でもあなたは、努力してくれた。嬉しかった。……だから、あなたはあなたの幸せを見つけ出して。あなたなら、きっとできるわ。」
だって、私に最高の3ヶ月をくれたんだもの。と震えた声で言った北見は、それきり、何も言わずに泣き続けた。
僕も、北見も、きっと同じだろう。
同じで、でも致命的に違う、どうしようもなく噛み合わない、2人の幸福のかたちに、僕らはずっと、泣き続けた。
♦︎
抱き合ったまま泣き続けて、いつの間にか日が落ちかけている。
疲労と眠気で朦朧とした意識をなんとか覚醒させ、のそのそと起き上がって、泣き腫らしたお互いの顔を見たら、なんだか可笑しくて笑ってしまった。
笑ったからから涙が出て、また静かに泣いた。
いつも送っていくと、近くだからと別れる公園まで、何度も泣きそうになりながら、少しぎこちなくもいつも通りの他愛のない会話をして歩いた
「じゃあ、さようなら。南原」
いつもと変わらない声音で、でもいつもとは違うその別れの言葉に、僕はいつも通りに返せただろうか。
「あぁ、さようなら。北見。」
たくさんの言葉を飲み込んで、振り返らずに歩く北見の背中を、見えなくなるまでただ眺めた。
そして角を曲がって見えなくなった時、もう2度と会えないのだと実感して、さっきあんなに溢れそうになった涙は、けれど少しも流れなかった。
振り返って帰路について、日が沈み切って紫紺に染まった空に、意味もなく手を伸ばした。
♦︎
月曜、僕はいつも通り学校に行き、他のクラスを探してみたが、やはり北見はいない。
分かっていたことだからか、或いはあの日にあれだけ泣いたからか、不思議と悲しくも、寂しくもなかった。
この3ヶ月にあったことを、一つ一つ思い出して放課後の校舎を歩いて、いつもの生徒用玄関で待ってみるが、やはり北見は来なかった。
北見は死んだ。
連絡先も知らないので、確認する術はないし、どんな死に方をしたのかは知らないが、知る必要もない。
彼女は、幸福にその人生を終えたのだ。
それだけ信じていれば、それで良い。
結局僕は、それを性懲りも無くまた羨ましいと思ってしまって、いや、と思考を切り替えた。
"幸福とは、後悔しないこと"だ。
やり方は、北見が示してくれた。
結果は、北見が保証してくれた。
こんなにお膳立ててもらったのだ。
僕も探そう。
もうどこにも無くなってしまったかもしれない、僕の幸福を。
いやに悲観的で前向きな思考に気付いて、僕は自嘲気味に笑いながら、屋上に続く扉を開けた。
またあの時のように夕陽が網膜を焼いて、数秒ののちに目が慣れてから、僕は屋上へ足を踏み入れる。
もし、祈りが死者に届くとしても、きっとこの屋上からでは届かないだろう。
だから、これからするのは全て僕の自己満足だ。
「北見、待っていてくれ。そっちへ行ったら、またたくさん遊ぼう。……きっとその時には、僕の幸福を語って聞かせるよ。」
信じていもないことを、それでも真剣に言って、僕は鞄から、朝に買った花を取り出して、その場に置いた。
白い一輪の、プリムラを。