5 飴玉のおばちゃんと金のないエバンス
借家に引っ越した翌日から数日間、ベルティーヌとドロテは庭の草むしりをしたりドアを開け放って床を磨いたりしていた。
するとある日、近所に住んでいるらしい子どもたちが三人集まってきた。男の子が二人、女の子が一人。
「引っ越ししてきたの?」
「そうよ、よろしくね」
「お店やるの?なんのお店?」
「なんのお店にするかまだ決めてないの」
「えええ!変なの!」
「うふふ。そう言われたらそうね。そうだ、あなたたち、飴があるけど食べる?」
「食べる!」「わーい」
買い物をしている時に無性に甘いものが食べたくなって買った飴を、缶ごと手にして外に出た。
「一人ひと粒ずつね」
そう言って子どもたちに飴玉を配ると、子どもたちは無邪気な顔で
「おばちゃんありがとう」
「飴玉のおばちゃん、またね」
と言って立ち去った。
「おばちゃん……」
「お嬢様、子どもたちからすれば大人の女性は全員がおばちゃんですよ」
目をパチパチして固まっているベルティーヌをドロテが慰めた。がっかりして手鏡を覗けば化粧っ気の無い疲れた顔の女が映っている。
「確かにこれはおばちゃんだわ。外に出る時くらいはお化粧した方が良さそうね」
少々しょんぼりして家に入ったベルティーヌは
「今夜は外で食べてみましょうか。ドロテは働き続けだもの、あなたも休みが必要だわ」
と提案した。
「まあ、わたくしと一緒でよろしいんですか?」
「いいも悪いもないわ。私はあなたしか頼れる人がいないんだから。一緒に行ってくれる?」
「はい、喜んで」
こうして二人は近所の定食屋を訪れた。
そこは侯爵令嬢だった時には選択肢に無かった種類の店だ。気さくな店で、どうにかギリギリ清潔と言えるテーブルと椅子と床。
でも店内に一歩入ると美味しそうな料理の匂いが出迎えてくれた。
「いらっしゃい!好きな所に座ってくださいね。注文を取りにいきますんで!」
女性の笑顔と元気な声に促されてテーブルに着く。壁に貼られているメニューを眺めて二人で豚肉の煮込み、野菜たっぷりスープ、貝の串焼き、パン、エールを注文した。
やがて料理が運ばれて「さあ、いただきましょうか」という時だ。大柄な男が力ない感じに入ってきて、いきなり
「すみません、金は無いんだが何か食べさせてくれませんか。もちろん礼はします。この店の掃除でも食器洗いでもなんでもする!かっぱらいに荷物を盗まれて一文無しなんだ」
と言い出した。
賑やかだった店内が一瞬でシン、と静まり返る。すぐにお店の奥さんの声が返された。
「食べ物屋に来て金が無いってあんた、無茶なこと言わないでよ。人手なら足りてるの。悪いけど出て行ってくれる?出て行かないってんなら警備隊を呼ぶことになるわよ」
(そうね、そうなるわよね。この手の人全員に施しを与えてたら飲食店はあっという間に潰れるものね)
ベルティーヌは全面的に奥さんの意見に賛成だったが、同時にあの三日半の酷い食事を思い出していた。おなかが空くというのは身も心も本当に切ないものだ。エールをコクリと飲みながら(たまには善人ぶるのもいいか)と思った。
「私がご馳走するわ。ここにいらっしゃい」
「お嬢様!」
声を潜めて注意しようとするドロテに首を振る。
「あのひもじさを経験してから、私は空腹って言葉に敏感になっちゃったのよ」
「お客さん、いいんですか?」
店の女性が心配顔だ。
「ええ、いいわ」
女性同士のやりとりを期待の眼差しで見ていた男は
「さあ、どうぞ」とベルティーヌが隣の椅子を手のひらで示すと、遠慮なく彼女の隣に座った。
「助かります。腹が減ってもう倒れそうでした。まるまる二日、水しか飲んでないんです」
「好きなものを注文していいわよ。エールも飲む?」
「いいんですか?ありがたい!俺はエバンスと言います。ご馳走になります」
そこから男は物も言わずに食べた。
焼き肉、焼き魚、スープ、パン、煮込み、エール。最初に戻ってまた焼肉を追加。そしてエールのお代わり。その食べっぷりを眺めながらベルティーヌとドロテも苦笑しながら食べた。
焼肉は豚肉で、ざく切りの玉ねぎと一緒に濃い味付けがされている。こってりとした脂が甘く、とろりとなる直前の歯ごたえを残した玉ねぎと一緒に食べるとエールが進む。
魚は川魚でホクホクした白い身は癖を消すために香草が刻んでふりかけてある。皮がパリパリで香ばしい。炭で焼いたらしく微かに炭の香りがする。ベルティーヌは魚の皮が美味しいと思ったのは初めてだった。
「お嬢様、この貝は初めて食べます」
「私も。二枚貝だけど磯の香りがしないのは初めてだわ。きっと川の貝なのね。柔らかくていくらでも食べられそう」
エバンスはうなずくだけで食べ続けている。年の頃は三十少し前くらいか。クルクルとカールした赤毛とソバカスの浮いた顔はやんちゃな子どもがそのまま大きくなったようで、愛らしいといえば愛らしい。だが身長は軽く百八十は超えているし体格も良く、腕はベルティーヌの腿くらい太い。
エバンスはテーブルの上の皿の中身を全部を平らげて「ああ、生き返った!」と灰色の目を三日月のように細めて笑う。
「ご馳走になりました。お嬢さんたちはこの辺の人?俺は南の田舎町から来た。イビトに来てすぐに荷物をかっぱらわれたんだ。でかい街はやっぱりおっかねえ」
「それは災難だったわね。イビトには何をしに来たの?」
「建築士になりに来たんだ。何箇所かその手の商会を回ったんだけど、どこも相手にしてくれなかったな」
建築士なら何人か侯爵家で会ったことがあるが、そういう人たちとはずいぶん雰囲気が違うな、と思う。
「ああ、そうだ。手荷物は全部かっぱらわれたけど、俺が考えた家の完成予想図だけは残ってるんだ」
そう言って男が胸のポケットから取り出して見せてくれたのは奇妙奇天烈な建物の絵ばかりだった。草の生えている屋根に楕円形の平屋の絵が一枚。
もう一枚は大木に巻き付くように華奢な螺旋階段が設けられ、階段のあちこちに小部屋が張り付いている家とも言えない建物の絵。他も似たようなおとぎ話の家みたいな絵ばかりだった。
「なるほど。これを見せたら採用されないわね」
「はぁ、やっぱりそうか。大都会なら一箇所くらい見る目のある商会が見つかるんじゃないかと思ったんだが」
「違うわよ。大都会だからこそ、こういう形式の家は需要がないのよ。サンルアン王国みたいに大金持ちの帝国人を呼び込む場所なら可能性が無くもないけど。あ、ごめんなさい、やっぱりサンルアンでも需要はないかな」
ベルティーヌの遠慮のない言葉にがっかりするエバンス。その様子を見ていたベルティーヌの心に形にならない考えがモヤモヤと生まれ始めた。
(とりあえずこの大男をこのまま手放さないほうがいい)
彼女の心がそう訴える。
それに『人と同じことをやっていては抜きん出ることはできない』と父が繰り返し言っていたではないか。
「エバンス、あなた、今夜泊まる当てはあるの?無いならうちで用心棒代わりに泊めてあげてもいいわよ」
「お嬢様、この方には宿代を渡せばいいではないですか。何もそこまで」
「いいわよ、近所の人にどう思われようが。なにしろ今の私は失うものがもう何も残ってないんだから。とは言え、私たちは女二人だから部屋の鍵は外からかけさせてもらうわ。夜はあなたが出られないようにするけれど、それでもいい?」
「ありがたい!」
「じゃ、決まりね」
たくさん食べて飲んで、さあ帰ろうと支払いを済ませて外に出ると、昼間に飴玉を与えた少年が妹の手を引いて店の外にいた。
「あら。どうしたの。もう真っ暗よ?早くおうちに帰らないと」
ベルティーヌに声をかけられた子どもがパッと明るい顔になった。
「飴玉のおばちゃん!」
「おばちゃんじゃなくてベルさん、て呼んでくれる?」
「ベルさん、俺たちね、お母ちゃんの仕事が終わるのを待ってるの。妹が早くお母ちゃんに会いたいって言うから連れて来たんだ」
店には客席に料理を運ぶ自分と同年代の女性が二人いた。そのどちらかがこの子の母親か。それにしてもこんな時間に子どもだけで外にいたら物騒だろうに。