58 二人でカリスト地区へ
サンルアン国はアウグスト王国となった。帝国の属国ではなく独立国である。
前王家の終わりと新王家の誕生を見届けたセシリオとベルティーヌは、皇弟エーレンフリートとベルティーヌの父マクシムに後を任せて帰国することにした。その帰り道、軍船でセシリオはベルティーヌに結婚を申し込んだ。
夜の甲板の上で「俺の妻としてこの国で一緒に生きてほしい」と言われたベルティーヌは嬉しかったものの戸惑った。
「ええと、なぜ今なのかをうかがってもよろしいでしょうか。私、閣下は結婚に興味がないのだとばかり思っていましたが」
「ウルスラで君に『いったいいくら支払えばこの国にいてもいいのか』と詰め寄られたときからきれいな瞳だな、とは思っていたのだが」
「だが?」
「その後も君は魅力的な人だと思っていた。しかし、サンルアンとの決着が着くまでは、と我慢していたんだ」
「そうでしたか。なぜサンルアンの決着と結婚の申し込みが関係するのか、わかるようなわからないような。閣下、私は二十七になってしまいました。もうすぐ二十八歳ですわ」
「俺は既に三十八だ」
「ふふっ。なんですかそれ。言い訳のおつもりですか?」
ベルティーヌが笑いながら
「はい、そのお申し出、謹んでお受けいたします。今後は『私のセシ』になるのですね」
と答えた。セシリオが安堵のため息をつく。
「俺があんまりモタモタしていたから断られるかと思った。君にセシと呼ばれると実に、なんというか、面映いものだな」
「断りませんわ。私はもう結婚はできないと諦めていたので驚きはしましたが。セシという呼び方は温かみのある優しい響きで、初めてカリスト地区を訪問して聞いた時から気に入っていたのです」
「ありがとう。最初に言っておくが俺は誰かのように側室を作る気はないぞ」
「当然です。そんな人を置いたらその日のうちに荷物をまとめて『どうぞお幸せに』と言い捨てて出ていきます」
「だろうなあ」
そこまで言ってセシリオが楽しそうに笑いだし、ベルティーヌも笑いだした。
出会って三年以上。せめて『サンルアンのことが片付くまで待っていてほしい』と言えば良かったのだろうが、それはしたくなかった。
サンルアンの王家交代が成功するまで、帝国との関係がどう展開するか見極めるのは難しかった。『帝国との戦争はない』と確信できるまでは、婚約という形でベルティーヌを縛りたくなかった。戦争となれば自分は死ぬかも知れない。連合国軍はまだセシリオの現場での判断と指揮を必要としていたからだ。
婚約してから自分が死んだら、ベルティーヌはまた心の重荷を背負うことになる。三度も結婚を諦めさせるような事は避けたかった。
それからしばらくして、ベルティーヌとセシリオは川船カリナ号に乗っていた。
ゆったりした川面で大きな魚がたくさん集まってバシャッ!バシャッ!と跳ねている。魚たちの結婚の季節だ。
甲板の白い日除けの下でセシリオとベルティーヌはポーカーをしながらのんびり会話している。
「君の父上があそこまで根回ししていたのなら、あんなに大量の兵士を投入しなくてもよかったな。帝国と連合国がそれぞれ三十人ぐらいずつで足りたかもしれないよ」
「そうですけど、クラウディオ陛下の新たな人生の幕開けの日でしたから。万が一にも失敗がないようにするには、あれで良かったのでは?それにあれは父の根回しの成果というよりサンルアンの皆が王家に何の期待もしていなかった結果だと思います。私、ドロップで」
「ええ?」
「閣下は今、ずいぶん良い手ができそうなのでしょう?だから降ります」
「ベル、手加減しないにもほどがあるぞ」
セシリオはあと一歩でロイヤルストレートフラッシュだった手札をテーブルに放った。コロコロとベルティーヌが笑う。ポーカーは得意だと思っていたセシリオだが、彼女のほうがかなり強かった。次の勝負ではあっさりとベルティーヌが勝った。
「仕方ない。ではこれは君の物だ」
テーブルの上でズイと押し出されたのはドロテの焼いたバターケーキだ。たっぷりラム酒が染み込ませてあり、味も香りも絶品だ。それを賞品としてベルティーヌが遠慮なく食べているとディエゴが声をかけてきた。
「閣下、お嬢様、そろそろ着きますのでご準備を」
「わかったわ。ありがとう。閣下、閣下のご家族にお会いするのは久しぶりです」
「俺はもっと久しぶりだな」
ケーキの最後のひと口をセシリオに「アーン」と食べさせる。思わず大人しく口を開けたものの赤くなってモグモグと食べているセシリオとそれを満足そうな顔で眺めるベルティーヌ。
「そう言えば母が生前、子供の私に愚痴をこぼしたことがありました。父はなんでも完璧に準備してしまうので、ピクニックも旅行も自分の出番がなさ過ぎる、と。今にして思えばサンルアンでの時のように他人の活躍する場がなくなるまで完璧に根回しと準備をしていたのかもしれません」
「ふむ。俺もそんな完璧な父親になりたいものだ」
「嫌ですよ。子どもからしたら完璧な父親なんて鬱陶しいですよ。父のことは大好きですけど、私は閣下には、ちょっと抜けてるくらいの可愛げのある父親になっていただきたいです」
「そういうものか?」
「そういうものです。私の兄はあの父親を見て育ったせいで、失敗しないことを最優先にする、こぢんまりした優等生になってしまいましたわ」
ベルティーヌは優しい兄も大好きだが、完璧な父親を持つ息子という立ち位置を、常々気の毒だなあと思って見ていた。
到着したカリスト地区は道が整えられ、学校と病院ができていた。
ヒリのおかげで地区全体の収入が大幅に増えた上に、賠償金で施設も充実させることができたのだ。二人はドロテとディエゴを従えてなだらかな丘を登っている。
「賠償金、あれで良かったんですか?利子を受け取るのは当然の権利なのに」
「クラウディオ新国王が我が国との交流のための施設を建てると言ってくれた。利子を受け取ったようなものだ」
「交流、上手くいくでしょうか。サンルアンと連合国は国民性の相性が悪い気がしますけど」
「そうでもないぞ。さっそくサンルアンから大量のヒリと果物の瓶詰めの注文がはいったらしい。もちろんあの布もだ。イグナシオが喜んでいた」
やがて丘の上のセシリオの実家に着いた。セシリオの父と祖父が笑顔で立って待っていた。
「お帰り、セシ」
「久しぶりだなあセシ」
「ただいま、父さん、じいさん」
「お久しぶりです、エミリオさん、デリオさん」
セシリオに会えて嬉しそうな祖父のエミリオと父のデリオの顔を見て、ベルティーヌは胸がいっぱいになる。
「今日はベルティーヌさんも一緒なんだね。またセシリオにこき使われているのかい?」
デリオに聞かれてベルティーヌがセシリオを見る。
「俺、彼女と結婚することにしたんだ」
椅子に座ろうとしていたデリオがそのままの姿勢で動きを止め、祖父のエミリオは目を丸くした。
「ほうかい。こりゃめでたいなあ、デリオ」
「あ、ああ。めでたいけど、いいんですか?ベルティーヌさん。セシはご存知の通り仕事ばっかりで気の利いたことなど言えない無骨な男ですが」
苦笑しているセシリオの横顔をチラリと見てベルティーヌが微笑みながらうなずいた。
「その仕事に誠実で国と国民を愛していらっしゃるところを尊敬致しております」
「はっはっは。わしはやっとひ孫を抱けるわけだなあ」
「じいさん、それは気が早いぜ」
「私、身体は頑丈ですから。子どもは神の思し召し次第ではありますが頑張ります」
「お嬢様ったら」
ドロテが苦笑している。
「今夜は宴会だ」と張り切るエミリオに追い出される形でセシリオとベルティーヌが海辺を二人きりで歩いている。遠浅の白い浜辺を歩きながら、セシリオは十二歳で(この国の指導者になる)と心に誓った日のことを思い出していた。
帝国の人間に粗末に扱われて大怪我をしたり命を落としたりした人が母だけではない、と知った日のことだ。それを教えてくれたのは娘を帝国に下女として出稼ぎに送った漁師だった。漁師の娘は主人に暴力を振るわれ、大怪我をして働けなくなった状態で送り返されたという。
「俺がこの国の状況をどうにかします。絶対に」
そう言った少年のセシリオに漁師の男は「ありがとう。頼むよ」と涙で赤くなった目で頭を下げた。あの日から二十六年も過ぎた。長い道のりはまだ途中で、帝国と協調できるところまではどうにか来たが、課題はまだまだ山積みだった。
「閣下、私がおります」
「ん?」
「この国の未来のことをお考えだったのでしょう?閣下の歩く道を私が歩きやすいよう整えて差し上げます。政治という馬車が進みやすい道を作ることは私がなるべく引き受けます」
「君は心強く頼りになる妻だな」
「ふふ。頑張ります」
「ほどほどにな。君に倒れられたら俺はおそらく何も手につかなくなる」
「はい」
ベルティーヌは返事をしてセシリオと手を繋いだ。
「一度こうして男性と歩いてみたかったのです」
新生アウグスト王国は驚くほどスムーズに新政権に切り替わった。
理想に燃えるクラウディオ国王には引き続き宰相としてマクシムが仕え、帝国の兵士を引き連れた形のエーレンフリートも援助の形で滞在していた。
国民の反応は予想通りで、帝国の第二皇子の国王を歓迎した。ほとんどの国民が『この国独特の経済の仕組みに慣れるまでは大変かもしれないが、若いクラウディオ国王ならきっとやり遂げてくれる』と思っていた。
前国王一家は帝国の外れに領地を与えられ、臣下はない状態だった。クラウディオ新国王の配慮で、隠居した貴族なら十分という程度の恩給と使用人数名が与えられているが、今もまだ元王妃と元王太子は納得していないということだった。
マクシム侯爵は離婚し、ローズ夫人は実家へと戻った。
ベルティーヌは父からの手紙でそれを知った。義母だったローズは、実家からまたどこかの貴族の後妻に送り出されるそうだ。ずっと自分の居場所を得られない元義母を、ベルティーヌは哀れに思う。
ある日、二人で庭を歩いている時にセシリオが過去の話を話してくれた。
「俺は若い時に三年間だけ帝国に住んだ。あの国の社会の仕組みを学ぶためにね」
「あら、そんな経験があったのですか」
「出稼ぎに出たらどんな扱いを受けるのか経験しようと思ったんだ。その時仲介業者に連れて行かれて下男として働いていたのが今の公爵夫人、つまり皇弟殿下の夫人の実家だった。百人近くも使用人がいる大貴族だったよ」
「もしかして閣下とエーレンフリート殿下とは顔見知りだったんですか?そんな雰囲気は全く感じませんでしたが」
セシリオが白くて大きな貝殻を拾い、明るい青色の海に投げた。
「下男として外で汚れ仕事をしていた俺に、当時第二皇子だったエーレンフリート殿下が話しかけてきた。この見た目だから連合国民であることはすぐわかっただろうが、なぜか訪問のたびに俺に近寄って話しかけてきたんだよ。最初は出身を聞かれ、俺が『自分は族長の息子でこの国の仕組みを知るため、南部の人間がどんな扱いを受けるのか確かめるために来た』と言ったんだ。そうしたら彼は『面白い。君とはまたいつか表舞台で出会う気がする』と言った」
「そんな不思議なことをおっしゃったのですか」
「彼は俺のこともその時のことも覚えているかどうか。二十数年ぶりに再会したら、爽やかだった青年がすっかり老獪な狐みたいになっていて驚いた。彼もまた第二皇子として、宮殿の中でのめない話をのみ込みながら生きてきたのだろう」
前方の丘の上に半球形の屋根を持つ建物が見えてきた。エバンスの考えた瓶詰めの作業場だ。屋根の上に土を載せているらしく、丸い屋根の上で白や黄色の小ぶりな花が咲いていた。
あれからエバンスとエッカルトは次々と建物を造り続けている。エッカルトは今も「自分はいつ神の庭に召されるかわからん」と言いながらエバンスの考える家を精力的に建てていた。
瓶詰めの説明をした時の懐かしい五人が手を振りながらこちらに向かってくるのが見えた。自分の仲間がここにもいる、と嬉しく思いながらベルティーヌは手を振り返した。