41 侯爵家の夕食
ヒリが帝国で大変な人気を得て高値で売買されるようになり、遅ればせながら連合国の首都イビトのレストランでもヒリは使われるようになった。
連合国でもかなり南部で育つヒリは連合国の国民でも知らない者が多く、新しい香草の一種として人気を得ている。だがセシリオを始めとする南の地区の出身者たちは、故郷の味を懐かしく楽しみ多用している。
「帝国じゃ小瓶一本が大銀貨一枚で取り引きされてるそうだよ」
「へええ!この国じゃ小瓶一本だと小銀貨二枚か三枚くらいだろう?」
「いよいよこの国も帝国相手にそんな商売ができるようになったんだな」
背の高い衝立の向こうからそんな会話が聞こえてきて、お酒を楽しんでいるセシリオとベルティーヌは苦笑する。最近の二人はよくこうして出かけるようになった。いつもセシリオからのお誘いだ。
「大活躍だな、ベルティーヌ」
「商売の勘が当たったときの楽しさを、この国に来てから体験させてもらっております」
「カリスト地区の魚の瓶詰め、毎晩ありがたく楽しんでいるよ」
「瓶詰めは細く続けてもらえるといいのですが。あちらではヒリの採取と乾燥の仕事の方が人気のようです」
うんうん、と頷いてセシリオがこの前から思っていたことを口に出した。
「君がヒリの買い取り価格を中瓶一本につき、という形で決めてきてくれて良かったよ」
「どうしてですか?」
「シロップ煮のように純利益の何割という形にしていたら、今頃カリスト地区は見たこともない大金に皆が混乱していただろう。もしかしたら地味な漁や畑仕事に見向きもしなくなっていたかもしれない。それは望ましくないからね」
なるほど、と思う。
果物のシロップ煮はすでに帝国で潤沢に売られている商品だから利幅が読みやすかった。それに対してヒリは全く新しい香草の類で、しかも他の香草のように帝国では育たない。だから利幅が読めず、手間賃から値段を決めただけなのだ。だが、結果的にそれが幸いしたらしい。
「それなら良うございました。この国のためにならないことはしたくないですから」
「それでベルティーヌ、相談したいこととはなんだろう」
「はい。船、でございます。サラン川を上り下りする帆船を建造したいのです。貴族や女性客が乗っても不安を感じないような小綺麗な船を使って、最深部や最南端の地区までにかかる日程を短縮したいのです。船があれば最深部へも最南端のカリスト地区へも馬車よりよほど短い期間で往復できますし」
セシリオが思案顔だ。
「船、か。帝国の貴族を乗せたいのだろう?彼らが川船に乗るかな。家紋をつけた自前の豪奢な馬車を好む人たちだからなぁ」
「乗りたくなるような船を造ればいいのです。連合国にはヒリもあれば果物も肉もあります。いずれは私が小さなホテルも建てます。それらの魅力で帝国の貴族を乗せてみせます」
セシリオが小さなグラスに入った蒸留酒を飲んで笑う。
「君が言うと全部本当になるんだろうな、と最近は思うよ」
「本当にするつもりですよ?」
「イグナシオが君のことを金の卵を産むガチョウと呼んでるぞ」
「ガチョウ……それは褒めてるんですよね?」
「もちろんだ。君のおかげでこの国の特産品が次々生み出され、民が潤っている。一人の人間がこんな勢いで国を潤すことができるとは驚きだよ。川船も交通手段のひとつとして国が費用の一部を負担しよう」
「ありがとうございます!船の往来が身近になれば、新たな発展も生まれると思います」
セシリオの言葉にベルティーヌが喜んだ。
「それにしてもサンルアン王国はとんだ失敗だったな。こんな有能な人間を他国に送り出すなど。今頃悔しがっているだろう」
「いえ、それはどうでしょう。私は名前を表に出さないように気をつけておりますので」
ベルティーヌはルカや連合国が表に出るような形で動いていた。
それは染料のことで襲われた時に考えたことだった。
商売で目立てば狙われる。あの時はまだ賊が二人だったから良かったものの、あれが五人十人だったら自分もディエゴも今頃は生きていなかったかもしれない。
父にも「商売で目立てば必ず敵ができる。女なら尚更だ。目立たぬように稼げ。表立って注目を集めたり称賛を欲しがったりするな。そんなことをしなくても自分の実力は数字が教えてくれる」と言われていた。
ベルティーヌの説明を聞いてセシリオは
「君のお父上に一度お会いしたいものだ」
と本気の顔で言う。
「そうですね。父と閣下が顔を合わせたらどんな会話になるのか、聞いてみたいです」
「俺は商売の話は専門ではないが会ってみたいよ。船のことは詳しい者に相談してみる。少し待っていてくれ」
「はい!」
その夜は楽しくおしゃべりしてお酒を楽しみ、いつものようにウルスラまで送ってもらって別れた。
だが最後まで「閣下はなぜサンルアンの法律を調べているんです?」とは聞けなかった。答えを知るのが少し恐ろしかった。
二人が楽しく会話をしている頃。
ベルティーヌの父マクシム・ド・ジュアン侯爵は、サンルアン王国の自宅でローズホテルからの贈り物を開けて手紙を読んでいた。
娘のベルティーヌからは「元気に楽しく暮らしています。やりがいのある毎日です」と綴られた後に、三つのことが書いてあった。
ひとつ「南部連合国で大金貨千枚以上の働きをして借りは返し終わり、今はセシリオ閣下直属で『特産品販売特使』をしていること」
二つ「ディエゴが戻らないことをお義母様が不審に思っていないか心配なこと」
三つ「近い将来に最深部で小さなホテルを経営したいので、全体を統括して指導してくれる人物に心当たりがあったら紹介してほしいこと」
などが簡潔に書いてあった。
ルカの手紙には「ベルティーヌが連合国の果物の瓶詰めとヒリという香草の種を販売していて大売れしている。ついに皇帝もその二つを好んで利用するようになった。今後ベルティーヌからの手紙は自分がホテルの名前で転送する」と書いてあった。
侯爵は何度もベルティーヌからの手紙を読んだ。
大金貨千枚分の仕事の件は私兵のエリアスから聞いてはいたが、『セシリオ閣下直属の特産品販売特使』の立場を手に入れていたのに驚いた。だが……
「どこにも父に会いたいとも寂しいとも書いてないな」と愛娘があっさり親離れしていたことに寂しげな顔になった。
「それにしてもホテル経営に興味を持つとは。さすがに私の子だ」
サンルアン王家の所持する高級ホテルと帝都のローズホテル。どちらも自分が企画して開業させ、細かく指示して軌道に乗せてきた。
「最深部でホテルか。フランツに頼んでみるか」
フランツはローズホテルの初代支配人で、今の年齢は六十の手前。本来なら六十歳までは支配人を任せるはずだったが、八年前に娘さんがお産のあとで重い病気になり「娘の最後を看取り、残された孫を娘に代わって育ててやりたい」と、七年前に激務の支配人の席を早々とルカに譲り、ひっそりと暮らしている人物だ。
「孫がまだ小さいから断られるかもしれないな」
そう思いながらも一番の適任者であるフランツに手紙を書き、書き終えてからホテルの菓子に隠すように詰められていたガラスの小瓶の蓋を開けた。黒ヒリは刺激の強い香りでクシャミが出た。
「ベルや、これは無害なんだろうな?」
と独りつぶやき、もう一度ベルティーヌの手紙を読むが、やはりどこにも寂しいの『さ』の字も会いたいの『あ』の字もない。
「あの子はこの国にいるよりも広大な連合国の方が性に合っていたのだろう」
と声に出しながら筆圧強めの娘の文字を眺める。
翌日の夕食時。侯爵はさも『今、思い出した』というような口調で
「そう言えばディエゴから私に手紙が来たよ」
と話を切り出した。
ローズ夫人は小首を傾げて続きを待っている。
「連合国で治りの悪い病に罹ったらしくてね。長いこと寝込んでいたようだ。どうにか回復したようだが、体力の衰えから立ち直るまで休職させてほしいと願い出てきたよ」
「まあ、そうでしたの。連合国にはこちらには無い病気があると聞いたことがございます。命をとりとめたのなら何よりですわ。ゆっくりさせてあげてくださいませ、旦那様」
ローズ夫人の白く儚げな顔を見返しながら侯爵は
「ああ、それがいいな。そう伝えるよ」
と微笑み返した。
ローズ夫人はディエゴが連合国にいると聞いて
(あれほど言って聞かせたのに。連合国へ行ったのね)とディエゴの忠義ぶりが腹立たしい。
だが、ベルティーヌが当分帰ってこないのならそれでいい。帰ってきたらまた何か考えればいいのだ。もし帰って来たディエゴが『奥様はベルティーヌ様を迎えに行くのを邪魔した』と夫に言いつけたら、首にしてやろう。理由はなんとでもなる。王妃である姉の手前、夫は自分に強くは出られないはずだ。
とりあえず当分は自分の居場所は平穏なのだ、と気持ちを切り替えて食事を続けた。