桜の記憶2
それから、私は高校を中退し、母が残してくれた貯金を握りしめて、遠く離れた北の地でひとり暮らしを始めた。
住み慣れた温暖な土地とは違い、寒さが厳しく雪も深い。
それでも、誰も私のことを知らない所に行きたかった。
遠縁がいるから頼りなさいと母に言われ、その人にある程度世話にはなったが、ひとりで生きていくことを選んだ。
新しく、“私”を始めたかったから。
歳を誤魔化して仕事も始めた。
母と同じ、夜の仕事。
『桜華ちゃん、ご指名だよ〜』
名前も、母から一字もらった。
祖母はこの仕事を嫌っていたけれど、働く母の姿を見ていた私は嫌悪感を抱かなかった。
むしろ、お客様の悩みを聞いたり励ましたり、『ありがとう、元気が出たよ』なんて言ってもらえて、ちょっぴり誇りにさえ思っていた。
そこそこ暮らしも落ち着いてきて、成人もし、人並みに生活していた頃。
あの人達と出会った。
『驚いたな。妻の若い頃にそっくりだ』
『本当ですね……。写真で見た母にとても似ている』
その親子は、お店で私を見るなりそう驚いた。
話を聞けば、ある会社の社長さんとその跡取り息子さんで、社長さんの奥様は昨年亡くなったばかりなのだとか。
その奥様の若い頃に私がそっくりだということで、そのまま指名を頂いた。
息子さんーー秀秋さんの隣に座ると、社長さんーー秀和さんは私の顔をまじまじと見つめた。
『ああ失礼。女性の顔をジロジロ見てはいけなかったな』
『よろしいんですよ?こんな顔で代わりになるなら、どうぞ懐かしんで下さい』
にこりと微笑むと、二人もほっと表情を緩めた。
それから数年、接待などで二人はよく店に訪れるようになった。
実を言えば秀秋さんのことが少しだけ気になっていた私だが、身分差もあり悲しい結末になった父と母を見ていた私は、一線を超えることはしなかった。
お客様としてだけ、接していた。
しかし、それとは逆に秀和さんとはまるで父娘のような親しい関係となっていた。
少しだけ父の面影があったからかもしれない。
支えられたことも多く、半ば心の拠り所となっていたと言える。
秀和さんの仕事の都合でなかなか会えなくなると、寂しく思ってしまう程には。
ある日、秀秋さんは仕事前の私の所に、決まったばかりの婚約者だという女性を連れて現れた。
綺麗な女性だった。
いかにも良家のご息女、という雰囲気の、芯の強そうな女性。
ちくりと胸が傷んだのに、気付かないふりをした。
そして、なぜ私に会わせるの?と思わなくもなかったけれど、無理矢理笑顔を作っておめでとうございます、と伝えた。
すると、秀秋さんは一瞬だけ顔を顰めた。
どうしてそんな顔をするのだろう。
訳も分からず、そのまま別れた。
久しぶりに秀和さんが店に来た。
しかし、その胸の部分にはーー。
『……最近、体調が悪いことはないですか?』
黒い、靄が見えた。
『桜華ちゃん、頼みがあるんだ』
ある日、店を訪ねてきた秀和さんに真剣な眼差しでそう切り出された。
『……何ですか?』
『私と、結婚してくれないか?』
『え、と。それは……』
『ああ、すまない。形だけで構わない。書類として残れば。私はもう長くない。少しでも君に、何かを残してやりたいんだ。……ひとりなんだろう?』
こくりと頷きだけを返す。
『まあ、それは建前だな。妻には何もしてあげられなかったからね。私の自己満足だよ。あとは、妻に似た君と、残り少ない余生を過ごしたいと思ってね。もう店に来れるのは、今日が最後だ』
穏やかに微笑む秀和さんに、私は首を振ることが出来なかった。
父に似た、父の代わりのように接してくれたこの人を、最期まで看取ろう。
泣きながら、よろしくお願いしますと呟いた。
それからの秀和さんとの暮らしは、穏やかに過ぎていった。
暖かい日は一緒に散歩をして、雨が降れば同じ部屋で読書をする。
会社を秀秋さんに任せてから、肩の荷が下りたように秀和さんは少しずつ弱っていった。
それでも、泣き言なんて言わずに、私の前では笑っていた。
“視”れば、体調が悪いのなんてすぐに分かるので、そんな時は大人しくベッドで寝ているように言い聞かせていたけれど。
肌寒くなってきた秋にはもう、一人では歩くのが難しくて、私は車椅子を押すのにも慣れてしまった。
そして、雪がしんしんと降り積もる冬を越せば、もうベッドから起き上がることも殆どなくなる。
ああ、“その時”は、もう少しなんだろう。
私には、あと何がしてあげられるだろう。
ありがとうって、笑ってさよならができるかな。
たくさん穏やかな時間を、優しさをくれてありがとうって、伝えたい。
『桜華ちゃん、誕生日おめでとう』
私だけ、もらってばかり。
最期までちゃん呼びで、“黄華”って呼んでくれなかったね。
『それは、君に本当に大切な人が出来た時に、呼んでもらいなさい』
そんな人、できるかな?
『できるさ。君は幸せにならなくちゃいけない』
なれるかな……なりたいな。
『なれるさ、大丈夫』
優しい微笑みを残して、秀和さんは逝ってしまった。
『どうしてこんな女が!遺産は全部貴方のものじゃないの!?』
葬儀の後、弁護士から告げられた相続の話を聞いて、秀秋さんの奥様が怒鳴る。
あの時の、綺麗な人。
『……親父が決めたことだ』
顔を歪めながらも、秀秋さんが承知する。
ああ、遅咲きの桜が咲いている。
そうだよね、昔の家とは違って、こっちでは4月の後半になってもまだ咲くんだ。
窓の外をぼおっと眺めながら、私はそんなことを思っていた。
『っ!貴女、聞いているの!?』
ヒステリックに叫ぶ奥様に、ゆるゆると顔を向ける。
『……聞いています。私が決めたことではありません。文句なら秀和さんにお願いします』
その言葉に、秀秋さんが立ち上がる。
『貴女が、親父を唆したんだろう!?』
ああ、まただ。
もう聞きたくない。
仄かな恋心だったけれど、彼のことを好きだった頃の気持ちはすっかり冷めた。
『私、もう行きます』
何処へ?
自分で自分に問いかけながら、葬儀場を出る。
月の光と街灯に照らされる桜。
綺麗だな、って思った。
その時。
ビューッと強風に煽られ、桜吹雪が舞う。
咄嗟に瞑った目を開けると。
『何、これ……』
足元が光り輝き、私は光の眩さにもう一度目を閉じたーー。




