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心残りの山

作者: 星水晶

 どうしてだか、とっても寒くて、両足を縮めて両手をぎゅっと胸の前で握りこんで、ちいさくちいさく丸まって、ぶるぶる震えて眠っていたみたい。あんまり寒いので目がさめた。枯れ葉の上にまっ白の霜がびっしりおりて、その上ににころがっていた。見上げれば暗い森だ。くしゃみが立て続けに出た。とにかく寒い。そしてここはどこ? どうしてこんな外に寝ているんだろう。ぜんぜんわからない。

 おなかがすいた。からだががたがたふるえた。

 起き上がってみる。せめて霜のないところに座ろうとあたりを見回して、大きな黒っぽい木の根元に膝をかかえて腰をおろした。何という木なのか、これも見覚えがない。冷たい足をさすろうとすれば、はだしだった。足は毛むくじゃらで黒くて鋭い爪が生えている。体を見ると服も着ていない。やはり毛むくじゃらの胴が見えた。手も、指先には黒い鋭い爪。てのひら以外は毛むくじゃらだ。毛は黒っぽい褐色だ。まるでなにかの動物のようだ。びっくりして声を出すと、「くぉくぉ」と聞こえた。まるでけものの鳴き声みたいだ。ことばもしゃべれないのか、と思って顔をさぐれば、突き出した鼻面、ほっぺたも毛におおわれ、頭にはまるい耳が生えているのがわかった。

 くまだった。くまになってしまった。これは呪いなのか。自分は人間だったはず。人間で、名前は、とそこまで考えて、頭の中がからっぽなのがわかった。人間だった、ということ以外なにひとつ思い出せない。ここはどこなのかも、なぜここにいるのかもわからない。そういう呪いなのか、この寒い森でくまとして生きていかなければならないのか。

 座っていたら涙がぼとぼと落ちて、膝の毛がぐっしょりぬれて、いちだんと寒くなった。どれくらいそこに座り込んで泣いていたのかわからない。暗い森は時おりごうっと風が吹き、太い枝がみしみし揺れて、枯れたはっぱが雨のように降ってくる。ほかに生き物がいる気配もない。こわい生き物に出会うより、なにもいないほうがいいかもしれないけれど、寂しくてこわくて寒いばかりだ。


「どうしたの?」


 ちいさい声がして、くまの耳がぴくぴくした。泣きすぎて腫れてしまった目をあげると、ぽわっとあたたかい光に包まれた、白い服のこどもが立っていた。


「泣いてる。まいごなの?」


 くまの頭ががくがくうなずいた。まいごだったんだ。だって、ここがどこだかわからないし、自分がどこへ行ったらいいかわからないんだもの。


「ちいさいくまちゃん、まいごならうちにこない?」


 こどもがにっこりと差しだした手を、くまの手がおずおずとつかんだ。黒い爪がこどもの手を傷つけやしないか、くまはこわくなって手をひっこめた。


「おいで、おいで。おててつなご」


 こどもは、なんにも心配しなくていいんだよ、とばかりに、くまの手をひっぱって歩き出した。暗い寂しい森、古くて大きな木ばかりがどこまでも続く森を、こどもに手をひかれて、くまは二本足でぺたぺた歩いていた。ひとりぼっちでいた時とはちがう安堵の涙がぽろぽろこぼれるので、つないでないほうの手で、こどもの姿をみうしなわないように、片目ずつぬぐった。

 森はいきなり終わった。ひろい野原が目の前に広がって、その先はなだらかな山へ続いている。のはらにはあたたかい日が差して、草のにおいがした。野花も咲いていて、蜂や蝶が飛んでいた。山すそには枝を広げた木が、みどりの葉をつけて、ところどころ立っている。今しがたまで歩いてきた暗い森の木とはちがって、いきいきとしてみえる。くまと手をつないだこどもは、楽しそうに笑い声をあげた。


「もうさむくないでしょ」


 くまはまたこくこくうなずいた。

 山道をしばらく登っていくと、ちいさなうちが見えた。こどもはふりかえって、くまににっこり笑いかけた。


「おうちについたよ」


 ちいさなうちにはいると、ちいさな暖炉があった。こどもは慣れた手つきで暖炉に火を入れ、鉤に鍋をかけた。水甕から水を注ぎ、豆とカブを入れ、塩をひとつまみ足した。入口に立ったままのくまを、ちいさい腰掛に座らせると、箪笥から手ぬぐいを取り出し、手桶に入れた湯にひたして、くまの顔や手足をふいた。


「まいごのくまちゃんは泣き虫ね。おなかすいたでしょ。ちょっとだけ待っててね」


 こどもはくるくると楽しそうに働いて、くつくつ煮えだした鍋をかきまぜたり、箪笥から毛布を取り出したり、棚からパンの塊を出してうすく切ったり、甘い匂いのする壺を取り出したり、木でできた皿やコップを卓上に並べたりした。

 くまの手足をふいた手ぬぐいを洗って、手桶の湯を捨てに外に出て、くまがびっくりして見ているうちに、すっかりごはんができあがったらしい。

 くまの前には豆とカブの煮物、パンとミルクと蜂蜜が並んでいた。こどもの前にもおなじものが並んで、くまの視線はなんどもお皿とこどもの顔を往復した。こどもはくすくす笑った。


「どうぞ召し上がれ。熱いから気をつけてね」


 こどもはちいさい両手を胸の前であわせると目をつむったので、くまもあわてて同じことをした。うすく目をあけてこどもをうかがうと、にこにことうなずいたので、目をあけた。


「いただきます」


 こどもがパンをとるとくまもパンをとり、蜂蜜をつけて口にいれた。甘いよ!なんておいしいんだろう。ミルクをのむとそれもすごくおいしい。寒かったおなかがぽっとあたたまる。お豆もカブもやわらかくてやさしい味。くまはもぐもぐ食べた。つきだした口もとはときどき食べ物をこぼしたけど、そんなことかまっていられない。とがった爪のせいでおさじを持つのも上手にできなくて、スープをぼたぼた卓にたらしても、おいしくてあったまるスープをおなかに入れるのをやめるはずがない。お皿がからっぽになるとついこぼしたスープもなめてしまった。しかられるかも、とこわくなってこどもの方を上目つかいでうかがうと、こどもはにこにこしていて、くまは心の底からほっとした。

 べたべたする顔や手をふいてもらってさっぱりすると、おなかがいっぱいになったので、くまはねむくなった。暖炉の前にふかふかの毛布をしいてもらってころがると、くまはうとうとしながらこどもに背中をなでてもらった。「満ち足りる」ということばがくまの頭を流れていく。「しあわせ」と「だいすき」がそれと同じくらいくまの頭をいっぱいにする。

 顔にやわらかな日がさしてくまは目がさめた。胸がどきどきしたのに、くまは暖炉の前で毛布にくるまっていた。「夢じゃなかった」とくまは痛む胸をなでおろした。ゆうべのことが全部つごうのいい夢で、くまはまたあの暗くて怖い大きな森で目がさめるのかもしれない、とこわかったのだ。

 くまは不器用な手でいっしょうけんめい毛布をきちんとたたもうとした。まあなんとかこれでいいや、というくらいにたためると、箪笥の上に乗せた。こどもはどこ? だいすきなやさしいこども。くまはのそのそと四つ足で扉に向かい、扉をあけて目をほそめた。


「おはようくまちゃん」


 こどもはうちの前の草地で洗濯物や布団を干していた。


「くまちゃんがおきたから毛布も干しましょう。持ってきてね」


 くまはおおよろこびでうちにもどり、毛布を背中に乗せて走ってもどった。こどもはくまの頭をなでると、毛布をひろげて


「くまちゃんがたたんでくれたの? 上手上手」


とほめてくれた。くまはうれしさで胸がいっぱいになった。


「朝ごはんにしよ」


 こどもがつくってくれたトーストとココア、甘いトマトのサラダ。


「くまちゃんに、とりさんからタマゴをもらってきたの。目玉焼きすき?」


 くまの前だけ目玉焼きのお皿があった。


「このお山にはお肉はないの。タマゴはとりさんがときどき生むんだけど、ひよこにはならないから、ほしいひとにはくれるんだよ」


 せっかく用意してくれた目玉焼きはおいしかったけど、くまはこどもとおなじものがよかった。トーストとココアはすごくおいしかったから。トマトも、くまは雑食だからすき。


「お天気がいいから、洗濯物はほしっぱなしで、いっしょにベリー摘みにいきましょう。おべんとうにタマゴサンドイッチをつくるから、手伝ってね」


 くまはお皿洗いを手伝い、タマゴをゆでる役もした。これは見てるだけでよかったから、くまにもできた。ふたりでおべんとうをつくって、ベリー摘みに山をのぼっていった。山の中腹にベリーがいっぱいなっている場所があった。くまはこどもに教えてもらって、よく熟したベリーだけを選んで、つぶさないようにそっと摘んだ。ちいさなかごがいっぱいになると、こどもはおべんとうをひろげ、ふたりでおいしく食べた。摘みたてのベリーもデザートに食べた。日差しにあたたまって甘いあまいベリーだった。


「おじいさんの木に会いにいかなくちゃ」


 こどもがおべんとうをかたづけると、くまに言った。くまは頭をこてんとかしげてこどもを見た。


「おじいさんの木は山のてっぺんにいるの。山にきたものはみんな、おじいさんの木にあいさつしなくちゃいけないきまりなんだよ」


 くまはこっくりした。山のえらい木なんだろう、と思った。その木にあいさつしたらここに住んでもいいのかな。くまはもうずっとこどもといっしょにいたかったから。

 おじいさんの木は山の頂上にはえていた。なんの種類の木かもわからない、大きくて古くて固そうな木だった。木は枝を広げ、木洩れ日に小さい草花やきのこが育ち、根っこの間から湧き水が流れ出していた。


「こんにちは、おじいさんの木。いいお天気ですね」


 木はさわさわと風になり、枝にとまったたくさんのことりがちゅぴちゅぴと鳴きかわした。


「こんにちは、ちいさいこどもとちいさいくま」


 木は機嫌よくあいさつした。


「『心残りの山』へようこそ、ちいさいくま。やっときみの姿を見られてよかった」


 くまは、木がまるで「待っていたんだよ」と言ったような気がして、おじぎをしながら首をかしげた。


「おじいさんの木はすごく年寄りで、すごく賢くて、なんでも知っているの。くまちゃんのこともね」


 こどもはにこにことくまに説明してくれるので、くまはそのたびに首をこくこくする。木は根っこをゆるりと持ち上げ「おすわり」と言った。ふたりがそこにすわると、今度は枝をゆるゆるおろしてきて「おたべ」と、りんごにそっくりの赤い実をとらせてくれた。しゃりっと甘酸っぱい赤い実は、とてもおいしかった。


「さてちいさいくま、ここに来るのにずいぶん時間がかかってしまったね。わしはもう間に合わないかと思ったよ」

「そんなのいいんだよ」


 こどもがうつむいてつぶやいた。


「くまは自分がなぜここにいて、このこが誰なのかわからないんだろう?」


 くまはうなずいた。なんだか急に心細くて不安になって、胸がどきどきしてきた。


「くまは自分が人間なのは知っているかね?」


 くまはまたうなずいた。こどもがくまの手をぎゅっとにぎってくれた。


「ここからずっと下の方に暗くて大きな森が見えるだろう? あれは『迷いの森』だよ。きみもあそこにいた場所だ。夢の中でだけ人間の世界とつながる森だ。人間の世界で眠って迷いの夢を見るとあそこにくる。けものの姿を借りてね。今人間のきみは眠っているんだよ」


 眠ってないよ、とくまは思った。これが夢なはずない。だってゆうべもちゃんとこどものおうちで眠って、目が覚めてもここにいたんだよ。夢なら目がさめたら人間にもどるはず。


「納得できないという顔をしているね。説明するより実際に見ているといい」

「誰がくるの?」


 こどもが驚いてたずねた。木の枝がざわめいて、下の森を指し示す。そこにぽつんと立っていたのは、ちいさな灰色のねこだった。遠くのはずなのにどうしてか、はっきりわかるのが不思議だ。ねこは泣いていた。濃い桃色の口がゆがんで、両手で目をおさえているのが見える。山の側の木の下から、やせた女の人が走ってきて、灰色のねこを抱きしめた。「ああ、あのひと。小麦畑のひとだ」見ていたこどもがつぶやいた。


「おかあさん。おかあさん、会いたかったよ」


 灰色のねこは女の人にしがみついて大声で泣いた。


「わたしも、わたしもよ。会いたかった」


 女の人も座り込んで、ふたりはぎゅっと抱き合った。


「わたしね、子どもが生まれたの。すごくかわいくてうれしいんだ。おかあさんもわたしが生まれた時うれしかった?」

「そうよ、そうよ。すごくうれしかった。そして、あなたが大きくなるまでそばにいられないのが、とても悲しかった」


 灰色の猫は女の人の膝に乗って、両手を首にまわして抱き着いた。女の人はねこの頭に何度もほおずりした。


「ずっと見守っていたんだよ。あなたが泣いていないか、寂しがっていないか、心配でね。『おかあさん』て呼んでくれるまで、生きていられなくてごめんね」

「おかあさんがわたしを産んだから死んだって、おばあちゃんが言うんだ。だから、おかあさんはこどもなんて産まなければよかったと思っただろうって、ずっと思い込んでた。わたしのことなんていらなかっただろうって。だけどちがうんだね。あかちゃんを見てたらわかったよ。そしたらすごく会いたくなって、会いたがってもいいんだって思って」

「ありがとうね、会いに来てくれて。すごくうれしい」


 ふたりは花がいっぱい咲いているのはらにすわって楽しそうにおしゃべりしていた。灰色のねこが「赤ちゃんが泣いてる」と立ち上がるまで。


「まあたいへん、早く帰ってだっこしてあげなきゃ」

「うん。おかあさん、またね」


 ねこは元気に手をふるとぼんやりかすんで見えなくなった。女の人もにこにこ手をふると、ほほえんだまま、金色の光の粉になって、きらきらと空に散っていった。

 くまはびっくりして声を出した。


「人の魂は生を終えると輪廻の円環に戻っていく。そして魂の疲れ具合に見合った休息ののち、また生まれ変わっていくのだ。あの母親も幼くして死にわかれたこどもが心残りで、ずっとこの山から見守っていたんだよ。今日やっとその子が会いに来た。心残りが晴れたので、魂が輪廻の円環にかえることができたのだよ」


 あの灰色のねこにとって、ここは夢の中なのか。目が覚めて人間にもどったのだろうか。でももうおかあさんはここにはいなくなってしまったのに、ねこは「またね」って言った。やっと会えたのにもう会えなくなってしまった。なんて悲しいんだろう、とくまは涙ぐんだ。


「人間の胸の中には『思い出』というかけがえのないものがある。あのねこはいつでも胸の中にいる『おかあさん』に会える」


 木がそう言ってくまをなぐさめると、こどもがやさしくくまの頭をなでてくれた。


「さて、そろそろ思い出せただろうか。自分が誰でこの子が誰なのか。思い出せたらことばも話せるはずだよ」


 くまは口をあけて声を出そうとした。でも「くわくわ」としか出せなかった。


「無理しなくていいんだよ。思い出せるまで時間がかかっても」


 木はしょんぼりしたくまに優しく言った。

 こどもに手をひかれて、くまはとぼとぼ山をおりた。こどもは頂上の木をふりかえって手を振っていたが、くまはうつむいて背中をまるめて歩いた。自分が誰か思い出せなくても、くまはしあわせだ。こどものうちに住まわせてもらえて、お手伝いをいっぱいして、ほめてもらって、いっしょに暮せたらそれでいい。今が夢の中ならくまは目がさめたくないと思っていた。


「ばんごはんにはパンケーキを焼こうね。蜂蜜いっぱいかけて、さっきつんだベリーものせて。パンケーキすき?」


 こどもがうつむくくまの顔をのぞきこむようにして、話しかけてくれた。くまはこくりとうなずいた。おいしそう。こどもがくれるものなら何でもおいしい。やさしいこども、やさしい声、あたたかいおてて。ぬくぬくと居心地のいいちいさいうち。ふかふかの毛布、おいしいごはん。満ち足りておだやかな時間。くまは何も思い出せなくていい。このままここで暮らしていたい。きっと人間世界のくまはしあわせじゃないんだろう。目がさめるのはイヤ。思い出すのはこわい。

 その夜のくまはなかなか寝付けなかった。こどもがかけてくれた毛布の上からとんとしてくれたので、目をつむって眠ったふりをした。こどもが「おやすみ、くまちゃん」と言って、くまのそばをはなれて寝床について、灯が消されて、暖炉の埋火のぼんやりした明かりだけになっても、くまは眠れなかった。眠るのがこわかった。考えても考えても、人間の記憶がさっぱりないくまの頭では、どうしていいかわからないというのに。

 いつのまにか泣きながら眠ってしまったらしい。くまははっと目がさめるととび起きた。木のたるきがむき出しの屋根うらにほっとする。森のうちだ。くまのままここにいられた。「くんくん」ぴすぴす鼻を鳴らす。こどもはどこ? くまおきたよ。「おはよう、くまちゃん」っていって。なでなでして。うちの中を探し回ってもこどもがいない。扉をあけて物干しや畑を見てもみつからない。くまはもう涙が出てきた。こども、こども。こどもはどこ?

 くまは走って山をのぼっていた。こどもと歩く時は、手をつないでもらえるので、二本足で歩いているのに、今は四つ足で走ってる。はあはあはあ、息が荒い。てっぺんの古い大きい木が見えてきた。いた! こどもが根っこにすわっている。くまをおいていかないでよぅ。


「おはよう、ちいさいくま」

「くまちゃん、おきたの」


 くまは大きい木をにらみつけた。心臓がばくばく、のどがひゅーひゅーいっていた。


「たいへん、お水のんで」


 こどもは木のコップを差しだした。お水をもらってごくごくのんだ。ふわふわぼんやりとしていた頭の中が、もやが晴れるようにゆっくり透明になっていく。頭の中はからっぽなんじゃなかった。もやの向こうに隠れていた景色があった。まだはっきりとはしないけれど、人間の自分が見えるような気がしてきた。え?やだ!なにも思い出したくない。目がさめたくないよ。こどもといっしょにここにいるんだ。


「ちいさいくま、そろそろ夢の時間は終わりだよ。きみは思い出したくないんだね。今でもきみの中で深い傷になっているんだね。生きていくのにさわりとなるほど」


 このじじいが悪いやつなんだ。えらそうにこどもに変なことをふきこむ。くまはくまだよ。なんだよ!深い傷?


「くまちゃん、元気でね。会えてうれしかった」


 こどもがやさしく声をかけた。びっくりしてこどもの顔を見ると、ほほえみながらほろほろ涙を流していた。え?ごめんなさい! 泣かないでください。思い出さなくちゃダメなの? 待って、待って。今思い出すから。くまはこどもの手をにぎった。

 亜麻色のまっすぐなさらさら髪。はしばみ色のやさしいおおきな目。こがらでもはしっこい手足。声、笑顔、つないだ手の温かさ。


「…………タ、ニス………?」


 こどもはほんとうにうれしそうに笑った。

 それが覚えている最後。


*************************************


 しわがれたせきが胸をゆさぶった。


「陛下、お目覚めですか」


 侍従の手が上掛けをはがし、背を抱き起す。侍医が薬湯のコップを口元にあてがう。いつもと同じ朝。いつもと同じわずらわしい繰り返しだ。年老いた王にはもう実権はない。気にいらない弱腰の息子と、新しもの好きな嫁にとってかわられている。それでも重要な決定は老いた王が下さなけば、貴族たちは納得がいかないのだ。疲れた。

 しばらく大臣たちと話をして書類に署名して、やっと政務から解放された。日当たりのいい庭に面した部屋で、寝椅子によこたわって、ぼんやり木や草花や空を見ていた。白い雲が高い空をゆっくり流れていく。小鳥の声がする。


「タニスは亜麻色の髪だった」

「……は?」


 やはり年老いた侍従が水のコップを脇卓に置いて聞き返した。この男とはもう長い付き合いだ。彼がまだ一介の田舎武者だった頃からの。タニスの話は国中の禁忌となって久しい。よほどの年寄りでないと覚えていまい。妖妃タニス、魔女タニス、淫婦タニスと言われた女。この男は覚えているだろうが、これまで話題に上ったことなどない。王国建国の歴史にも詳しくは記されない醜聞。

 タニスは前王朝の最後の王女で、内戦に疲弊した国土を武力で平定した彼が、政略で娶った最初の妃だった。


「民のことをよろしくお願いします」


 侍女たちにかくまわれ、内戦を生き延びた若い王女は、血なまぐさい粗野な田舎武者に頭をさげた。美しくやさしく凛とした娘だった。武力でなりあがった男は、タニス姫を妃にすえることで、対外的な承認を得たのだ。

 田舎武者で粗野な自分に自信がなかった。宮廷人の洗練さも教養もない。みてくれも戦闘にあけくれた強面だ。しゃべり方もがさつ、食事のしかたも粗野。そういう引け目がタニスを遠ざけた。言い訳だ。自分の方が年上だったのに。

 国の内外が治まってくると、先の王朝の宮廷人と成り上がりの武者貴族との軋轢が顕著になった。そのどちらからもタニスは邪魔者とされていたのだ。国王のありようを静かに解く聡明な王妃は。彼はそれが見えてなかった。

 ある日突然、タニスは不貞を働いたという咎で貴族たちから弾劾を受けた。また別の派閥から、前王朝ゆかりの外国勢力と手を結んで、王家転覆を謀ったという反逆罪でも訴えられた。どちらも別々に動かぬ証拠を用意していた。タニスは塔に監禁されて何度も尋問を受けたが最後まで否定した。最後に毒杯を授けたのは彼自身だ。

 塔のなにもない部屋に、やつれてやせ細った若い女が、ずらりと供を従えた国王の手で押し付けられた毒杯を、黙って受け取った。かなしそうな目で。さすがに直視できず目を背けたのは、どこかでタニスが無実であるとわかっていたのだろうか。愚かな王。静かに飲み干すと石の寝台に横たわったタニス。いっときのちに司祭が確認に行った時にはこときれていた。

 タニスは不貞の妃。反逆者と告知され、墓所もなく、どこかの土地に埋められたときく。場所の記録は故意に残されなかった。不貞の相手も「多くの兵士や召使」とされ、そちらへの追及はなかった。

 タニスの死後ほどなく、国内から新しい王妃を選定し、王子王女が生まれた。その後十年以上もすぎてから、王妃の実家こそタニスの罪の証拠をでっちあげたことがわかってしまった。だがもうその時分には、世継ぎの実母を罪に問うことはできなかった。以来、国王と王妃は別々の城に暮している。このことは公になることなく、タニスの無実は濯がれなかった。


「タニスは白い衣を好んでいた。亜麻色の髪が日に透けて、花の中で笑っていた」

「陛下もお年を召して、昔のことを思い出しておいでなのですな」

「私に甘いベリーを摘んでくれて……」


 どこまでもうららかな空の下で、花の似合うやさしい娘がほほえみかける。タニス、お前だったのだな。心残りでいてくれたのか、こんなどうしようもない男を。見守ってくれていたのか、こんな酷い夫を。


「……陛下?」


 もうあの山の夢を見ることはできないのだな。タニスはもう金の光の粉になって空にかえっていったのだろう。私もそこへ行けるのだろうか。大きな木の言っていた「輪廻の円環」に。それともこんな罪人は天主教の教えの通り地獄行きなのだろうか。輪廻の円環でまたいつかタニスの魂と会うことができたなら、今度こそずっと手をつないだままでいよう。それを楽しみに。


「陛下!お気を確かに!誰か、侍医殿をこれへ!」

「太子をお呼びしろ!」

「大臣を、将軍を!」


 あわただしいな。人はいつかは死ぬだろう。早いか遅いかの違いだ。そこのおまえも、おまえも。うろたえることでもあるまい。老王はくすりと笑った。それが彼の最後の息となった。



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