クリスマス
この話は『クリスマス・イヴ』の続きです。
私がはじめてセックスをしたのは高校二年生の頃だった。
一つ上の先輩と夏休みの時に。親には女友達と一緒に遊ぶとバレバレのウソを言って彼の家に泊まった。
彼の全てが愛おしかった。交わる時に鼻腔を突く汗すらも逃すまいと声を上げて呼吸した。彼は何度か経験があったらしく優しく、私を包んでくれた。
彼の圧倒的な力を前にして自分の無力さを悟るように、私は彼に身を任せ、そして、その時はじめて女に生まれてよかったと思えた。
その後、彼は大学受験があるからと言って私の誕生日の日に別れを告げて離れて行った。彼の大きな背中が左右に揺れる。
『行かないで——!』
——私は覚醒した。ゆっくりと体を起こす。少し汗ばんでいた。
「あっ」
やけに腰がだるい。はぁーと大きくとため息をつく。私が女に生まれて嫌だと思った原因がこれだ。
覚悟はしていた。毎月のことだから。
でも今日じゃなくても。なんてものをプレゼントするんだと理不尽な感情を少しばかりサンタにぶつけたくなった。
一度顔を水で洗うと少しばかり落ち着いて、真弥も流石にわかってくれるだろうと割り切った。時計を見ると今から準備をしてギリギリ間に合う時間だった。
急いで昨日の寝る前に用意しておいた膝丈ぐらいの白とグレーのキュロットをタイツの上に履いて、上に黒のニットを着る。その後、鏡に向かってメイクに取りかかった。一時間ほどかけてメイクを終えると、淡い水色のダッフルコートを羽織って黒のバックを持って姿見の前に立つ。黒が多めだったので柔らかなピンクがかったバックにすると甘すぎる気もしたがまだこちらの方がしっくりきた。
バックの中身を入れ替え、忘れないうちに頭痛薬を小さなポケットに入れておく。そしてもう一度姿見を見て前髪を整えてからグレーのパンプスを履いて家を出た。
昨日の夜も雪が降っていたらしく道は白い雪でいっぱいだった。
「きれいー」
声のする方を見るとピンク色のダウンを着た女の子が地面にしゃがんで雪をつかんでいた。すると女の子がそれを食べようとして、それを必死にお父さんが止めて、それでお母さんが笑って、それを見ている私がひどく惨めに思えてきた。
同じはずなのに、見えるのに触れることができないその壁は残酷なまでにその親子と私をきっちりと分けていた。
私は唇を少し噛みながらなんとかそこを通り過ぎた。
真弥と子供の話がなかったわけではない。むしろたくさんあった。
「俺さ、子ども好きなんだよね。だから結婚したら三人は欲しいな。」
「三人!それは——頑張らなきゃだね。」
「うん。いっぱいお金を稼がなきゃ。」
「……そうだね。」
見当違いの相槌にずれを感じつつもそこではそれでいいとした。真弥がまた覆いかぶさってきたから。
今考えたらまだ大学生なのになんてことを言っているんだかと一蹴したくなる。
そんな回想に耽っているといつのまにかT駅に着いていた。けれどこんな広い駅で簡単に真弥が見つかるはずもなく電話かけてみるとツーコール目で真弥が出た。
「もしもし」
『もしもし、美那?ごめんね、ちょっとやらないといけないことがあって遅れるかもしれない。』
またか。前もこんなことがあった気がする。
「そう、どれぐらいかかりそう?」
『短ければ十分……なんだけど長ければ一時間かかっ……かな。』
彼の電話の声にやけにノイズがかかっている。約束を無視してどこにいるんだろうか。
「わかった。また着いたら連絡して。」
『本当にご……ね。また……で。』
そういうと電話を切った。その時、急に孤独を感じた。彼のことを好きかどうかわからなくなっているのにいざ彼に会えないとわかると体の中が絞られたような痛みがあった。
一人で駅にいるのが気恥ずかしくなった私はT駅の近くの喫茶店に向かった。
扉を開けるとカランと鈴の音がよく響いた。 店は少し暗めでバイト先のスーパーとは違い、時が止まっているようだった。それが今の私にはちょうどよく、ラックに立てかけてあった古びた文庫本をとって入り口から一番遠い席に着いた。
メニューを見ると朝ごはんを食べずに出てきたことを思い出し、時間ギリギリのモーニングを頼んだ。
見渡してみるとスーツを着て新聞を読んでいるサラリーマンらしき男性と、ニットのワンピースを着た女性がハードカバーの本を読みながらアイリッシュコーヒーを飲んでいるのが目にはいる。
俗世間と切り離されたここでは流れに乗らず、それでいて逆らわず、いつも通りに過ごす人がいた。それを見ているとなんだか眩しくて、私は自分がひどくつまらないものに成り下がっていそうで、たまらず文庫本に目を落とした。
手に取った『ライ麦畑でつかまえて』はサリンジャーの名作で高校生の頃に読んだことがあるが、訳者が違うせいなのか以前読んだ時よりつまらない気がした。ゆっくりと活字を追っていると、頼んでいたモーニングが運ばれてきた。お盆の上にはほんのりとバターの香りがするトースト、半熟の目玉焼き、コーヒーが乗っていた。これで税抜き五百円ならまぁまぁといった値段だろう。
トーストの上に目玉焼きを載せて、半分に折って一口食べる。溢れ出したトロトロとしたきみがパンの中に染み込んで柔らかくなったパンが噛むたびに舌の上でとろけて消える。無意識のうちに食べ終わってきみとバターでベタついた手をちょっと舐めると胸の中にあった何かがはじけて飛び散った。
そして飛び散ったものはまた、形を変えてゆっくりとわたしの胸におさまる。
『今日はクリスマス。だから何?』
私は何度もこの言葉を咀嚼した。けれど固くて、子供の頃、野菜がどうしても食べられなかった時みたいに体が飲み込むのを拒絶していた。
グイとコーヒーを飲むとびっくりするぐらい苦かった。が、それで現実を見ることができた。
伝票を握り締めて千円札で会計を済ますと店を出た。力強く、一歩一歩確実に足を下ろしていった。途中、本をラックに戻していないことを思い出したが、そんなことは気にしていられなかった。
T駅に着くと電車に乗って、特に行きたいところもなく揺られていた。
空いている席に座っていると車内の親密そうに話しているカップルが目に入る。それをみていると絵の具のバケツをぶちまけた時のように無数の感情が秩序なく混ぜ合わさり自分を殺したいような気がしてきた。
たまらずに電車を降りるとC駅、今まで数えるほどしか来ていない駅に着いた。
気持ち悪いピンクの鞄からスマホを出して現在地を調べると、近くにカラオケがあることがわかり、とりあえずそこに行こうと決めた。
駅からスマホのナビに従って十分ほど歩くと、そのカラオケ店が見つかった。
「この店って……。」
前に真弥と一緒に来た店だった。正直真弥との思い出があるところにはいたくなかったが、それを理由に入らないのも悔しいので意を決して引き戸に手をかけた。受付でフリータイムにして、指定された部屋に入ると、自分だけの空間になって少し落ち着いて、体が腹痛を訴えていることに今更気づいた。
ドリンクバーのところにいって水をグラスに注いでとりあえず薬を飲んだ。
新鮮な水が喉をつたって胃に入っていくのがわかる。はぁーっと短く、深いため息をすると、近くにいた背の低いもこもこしたパーカーを着た女性が哀れんだ目でこちらを見ているような気がした。キッと視線を返すと、彼女はわざとらしくそっぽをむいて何事もなかったかのようにグラスにカルピスソーダを注いでいるのが見えた。
地面をコツコツと音を立てながら部屋に行くと、ムシャクシャした感情を発散させるために片っ端からブルーハーツを入れた。
『クリスマスまでにサンタクロースのおじさんの命が危ない。』
サンタなんて元からいねぇよ。
尖りに尖ったわたしの心は次々に幻想を壊し、今まで目を逸らしてきた現実ばかりを愛し、そして自らを傷つけた。
どのくらい歌ったのだろうか。喉もガラガラしてきて、脱ぎ捨てたダッフルコートは床に落ちていた。
時計を見ると短針は五時になるかならない程度のところにあって、三時間ほど歌っていたらしい。
何となく気になってスマホを見ると、電話が十件、メッセージが二十件以上入っていた。
『今どこにいるの?』
『もしかして事故にあった?』
『お願い、返事をして。』
『‥‥‥』
メッセージを見ている最中に電話がかかってきた。ここで電話に出ないと自分が壊れそうで画面をタップした。
「もしもし」
『もしもし!美那?大丈夫?事故にあった?』
「いや大丈夫だよ。心配かけてごめんね。」
『いや、無事で安心したよ。今どこにいるの?』
「えっと……」
うまく声がまだ出ない。カラオケで喉が疲れているのが原因だと思いたかった。
真弥を拒絶し、同時に真弥を求めてはいけないと自罰していることに目を逸らした。
そんなアンビバレンツな感情が私を満たしていつ怒鳴り散らすかわからない時、
『ごめん。』
一瞬時が止まったような気がした。電話の声がノイズでにまみれているのはさっきのとは違う理由なのだろう。
『ごめん。なんとなく美那が俺のことを迷惑がっていたのはわかっていた。俺が悪かった。』
「何をいっているの?」
何も知らないくせに。あんたは楽だよ。求めてるだけだから、求められるこっちの身にもなれ!
『そうだよね。俺さ、美那に電話した時に出てくれなかったのが怖くてたまらなかったんだよ。それでさ、美那が俺にとって掛け替えのない支えになってくれていることにやっと気づいたんだよ。』
「だから?何?そうやっていつも都合よく求めてただけじゃない?それを今更翻してごめんだなんてそんなの受け入れられるわけないでしょ。」
思ってもいないような言葉が次々と飛び出す。
あぁ、違う。そうじゃない。そもそも求められるのが嫌なら自分で嫌だと言えばいい。それができない私は——私は臆病者なんだ。
私とは違って真弥は認めた。自分の非を認めた。私みたいに人を責めるのは簡単。けれど自分を責めるのはそう簡単にできることじゃない。
真弥は強い人なんだ本当は。わたしには眩しすぎるぐらいに。
『誕生日おめでとう。』
長いような短いような沈黙の後、真弥が上擦った声でそう言った。
「えっ、」
『それだけ、本当にごめん。誕生日をこんな日にしちゃって。』
そうか、今日は私の誕生日だった。
周りがクリスマスで騒いでいるから自分でも忘れていた。ダメだこのままじゃ。自分でも忘れるようなことをこの人は覚えててくれた。
「C駅にいるの。」
『C駅、そこにいるんだね。わかった今から行く。』
「ごめんね。ありがとう。」
いつのまにか涙が溢れていた。
『俺こそごめん。』
そう言って真弥は電話を切った。
私は急いで手鏡でメイクが落ちていないのを確認してカラオケの会計を済ませ、C駅に急いだ。
気づかないうちに雪が降っていた外を走った。思いっきり走った。
C駅に着くと、真弥が手を振っていた。
「ごめん真弥。」
「ごめん美那。」
私は真弥の体に飛び込んだ。
「ねぇ美那、お腹大丈夫?今からご飯食べに行きたいんだけど。」
「大丈夫。早く行こう。」
じゃあいこうかと言って真弥は私の手を握って歩き出した。
「美那が前に行ってみたいって言ってたよね。」
そうだ、このC駅のあるこの街にはあの店があったんだ。
少し雪が降る街を歩いて真弥の大きな手に導かれるまま私たちは地下にある店の階段をくだった。
クリスマス、皆さんはどのように過ごしましたか?