日暮れと共に
◇ 1 ◆
「なにやら邪悪なるものの気配が感じられますね」
冷たい風の吹く峠の上で、祭司服を身に纏った若い男が人々の列をじっと見下ろしている。
病気、飢饉、圧政、魔獣、妖鬼、悪魔。人々を脅かす脅威に満ちたこの時代、ジョコメ村では豊作を祝う収穫祭が行われようとしていた。
ジョコメ村はエスクジア公国の南部山岳地帯で、最初に拓かれた村だ。春の新年祭と秋の収穫祭では周辺の村からも人々が集まり共に祝う。
人々はどこかそわそわしながら楽しげに語り合い、ジョコメ村へ向かう。無事に収穫が得られた安心、久しぶりの知り合いとの再会、また年頃の若者たちにとっては気になるお相手との出会い。皆がみな、幸せな気持ちでこの日を楽しみにしていた。
しかし、誰もが笑顔で集まる人の列は喜ばしいものだけをもたらすとは限らない。
峠の上から列を見下ろす若い男はこの地方の巡廻祭司だ。在地の神官がいない開拓村などを廻り、日々の生活に必要な祭祀や助言、時には病気や怪我の治療を行うことをその役職としている。今回は収穫祭の祭祀を執り行うためにやって来た。
だが彼は村の近くまで辿り着いたとき、ふと何かを感じ峠の上へと足を進めた。ここからならば人々の列を見渡すことができる。
列をつくる人々の大半は周辺の村の村人たちだ。自慢の作物を載せた荷車を曳く者や親戚への土産を背負った者、あるいはただただ祭りを楽しみに集まる者。そして、少数ながら祭りをあてに、遠くからやって来た商人や兵士らしき姿も見られる。
「なにやら邪悪なるものの気配が感じられますね」
彼は見えぬものを見通そうとするかのように、目を細めじっと見詰める。だが、今は何も感じられない。気のせいだろうか。しばし思案した後、気を取り直すように服の埃を払い静かに峠を下り始めた。
◇ 2 ◆
村の中央広場では祭りの準備が進んでいる。広場の中心に土を盛った祭壇が築かれ、この収穫祭を捧げられる三柱の神々の神像が祭られている。
南部山岳地帯を守護する土地神、恵みと災難をもたらす森を司る森林神、全ての食物を与える豊穣の女神。神像は素朴な木像だが、この像こそが村の守り神として崇められている。
そして祭壇の手前には、神々に今年の収穫を捧げる供物台も出来上がっている。
あとは供物や祝いの食事や酒、篝火に使う薪などが用意されれば準備は整う。
準備の進む広場を通り抜け、祭司は村長宅を訪れた。
「お待ちしておりましたぞ、セルジオ様」
ジョコメ村のジルベルト村長が挨拶と共に出迎える。広場の北にある村長宅でジルベルト村長と、共に収穫祭を祝う他の二つの村の村長が巡廻祭司を熱烈に出迎えた。
今では中年を過ぎようとしているジルベルト村長は、若い頃兵士として働いたこともあり少し武張った話し方をする。背は低く、いささか頭髪は寂しくなってきているが、開拓村を率いる村長にふさわしい覇気に満ちた男だ。
他の二人の村長も厳しい村の生活を感じさせない活き活きとした表情をしている。共に収穫祭を祝えることを誇りに思い、セルジオ祭司の到着を待ちかねていたのだ。
「例年は昼前には到着されるのに今年はどうされました。何かありましたかな」
気遣うような表情を浮かべ、ジルベルト村長が問いかける。セルジオ祭司の顔に一瞬迷いが過ぎる。自分が邪悪なものの気配を感じたことを告げるべきだろうか。だが、確信は持てない。何も祝いの日にわざわざ不吉なことを告げる必要はないだろう。
「いえいえ、考えごとをしながら歩いていましたら、つい遅くなっただけなのです。ああ、昼食は手持ちの分で済ませましたのでどうかお気になさらず」
だが、この説明を聞いてもジルベルト村長の表情は晴れない。
「考えごととおっしゃいますと、何か気懸かりなことがございますか」
「なに、たいしたことではありません。一人で村々を廻っておりますと、つい考えごとばかりしてしまうものなのです」
「ううむ、ならばよいのです。体調でも崩されたのかと案じておりました」
「これは心配をおかけして、申し訳ありません」
穏やかに微笑みながら、首から提げた聖印にそっと手を触れる。
「我が身は神々の恩寵により、変わらず健やかでございます。むしろジルベルト殿こそ目が赤いようですが」
「はっはっは、確かに近頃はゆっくり眠る暇もありませんでな。今年は豊作で喜ばしいのですが、それはそれで税だの村の蓄えをどうするだの、頭を悩ませることばかりなのです」
「村を率いるお立場では気苦労と無縁とは参りませんか。されど人々のために尽力されるお姿は、神々の御心に叶うこと。その行いはきっと報われることでしょう」
「ありがたいお言葉です。神々へ感謝を示すためにも、恙なく収穫祭を行うべきですな。まずは今日の手筈を確認しますかの」
祭祀の手順を確認し始めたのを機に、他の村の村長たちは二人に声をかけ広場へ向かう。
「そんじゃ儂らは準備を手伝っとるだで、あとはよろしく頼んます」
と、ジョコメ村に近いサビオ村の村長が告げる。
「おお、皆さん方にはいつも準備を手伝ってもらってすまんのう」
「なーに気にすんな。こっちはいざ祭りが始まったら喰って呑んでするだけだかんな」
若いモンサル村の村長は機嫌よく応える。
「あんたらは祭りが終わるまで忙しいだ。こんぐらいは気にせんでええ。それに儂らのような年寄りは若いもんにあれこれ言いつけるだけだしのう。楽なもんだ」
「そいつぁはあんただけだ。俺は自分で荷運びもやるからな」と、笑い合いながら出て行く。
◇ 3 ◆
広場には多くの人々が集まり、ごった返していた。祭りのこの日、普段は二百人前後のジョコメ村の人口が倍を超える。これだけ急に人が増えれば、どうしたっていざこざが起こる。なかには、祭りが始まる前から酒を隠し呑む者がいるからなおさらだ。
準備だ、荷運びだ、と言っていた各村長たちも、実際の手伝いとは諍いの仲裁や自分の村の村人たちが揉めないように宥めることがほとんどだ。
困ったことだと言いながら、これも祭りの彩りだと笑ってみせるのが例年だが、今年は何かが違う。どこか剣呑な雰囲気が漂っている。そこかしこで口論からの掴み合いや、自分の村の娘に話しかけた他村の若者の吊るし上げなど、暴力沙汰がいくつも起こっている。
その中で一際大声を上げている集団は、一人の薄汚れた男を取り囲んでいる。男は垢だらけの顔、虱でもいそうな絡まった頭髪、あちらこちらが解れた粗末な服と、もはや年齢すら分からない。それでも腰に差してある一振りの剣の拵えから、かろうじて元は兵士なのだろうと察せられる。
取り囲んでいる者たちは口々に怒鳴っている。余所者は村に足を踏み入れるな、お前のような汚い者がいると祭りが汚れる、俺の家から干し芋を盗んだのはお前だろう、などなど。あとは皆が一斉に叫び、誰が何を言っているのかも判然としない。
分かっているのかいないのか、男は何を言われてもただニタニタと笑うだけ。戦場で強く頭を打ったのか、あるいは恐怖で気が触れたのか、はたまたなにかもっと別の理由なのか。どんな理由であれ、薄汚れた男が気味悪く笑う姿は人々を苛立たせるだけだった。
手を出さずにいるのは、男が剣を差していることが歯止めになっているからだろう。だが、いつまで保つかは分からない。刻々と危険な空気が高まっていく。
もはや一触即発となったその時、別のいざこざを宥め終わったモンサル村の村長がやって来た。
「おい、お前ら何やってんだ」
「うちの村のことに口出しするのは止めてくれ。こいつはうちの村で盗みを働きやがったんだ」
干し芋を盗まれたと騒いでいた年嵩の男が声を荒げる。見かねてサビオ村の村長もやって来る。
「なに言っとる。揉め事起こすなってのに、どこの村のもんなんか関係あるかい。ジルベルトどんは忙しいんだ。面倒を起こすな。まずは落ち着いて儂らに話してみい」
一人ひとり順繰りに聞いてみれば、物を盗んだだの、村の女をいやらしい目つきで見ただの、碌に証しのない話ばかり。そんなことで大勢で取り囲み責め立てるとは呆れるほかない。ただ、こんな汚い格好をした余所者が祭に加わるのは不快だ、ということだけは頷くしかなかったが。
ならばどうするかとなると、これまた揉めた。結局ジルベルト村長に訳を話し、使っていない空き家に祭りが終わるまで閉じ込めておくことに落ち着いた。
モンサル村の村長がちょうど近くにいた自分の村の若者に命じ、男を引き連れ村長宅へ向かった。
◇ 4 ◆
「忙しいとこ悪いが、ちょっといいかい」
モンサル村の村長が外から村長宅に声を掛け、中を覗く。卓の上にはさっきまでなかった木の実を盛った皿と薬草茶が置かれていた。どうやら話し合いは終わり、ゆっくり世間話をしていたようだ。
「確認は済みましたので構いませんぞ。どうかされましたかの」
一通り広場であったことが話される。話しながらふと、二人は反対するかもな、という考えがモンサル村の村長の頭を過ぎる。
何と言ってもジルベルト村長は元兵士。自分と同じ元兵士を疎ましく思うのは嫌がるだろう。そしてセルジオ祭司は神に仕えるお立場。この土地の気風は知っていても、この扱いは嫌がるかも知れない。
そのときはこの二人に任せるしかないかと考えながら、空き家を使わせて欲しいと告げる。
「ふむ。空き家なら北の外れにあるにはあるが。セルジオ様はどう思われます」
「そうですね。祝いの日に訪れる者は全て受けいれるのが習わし。その方も共に収穫祭を祝うために訪れたのなら、拒むべきではないでしょう」
やはりそうなるか、ではお二人に、とモンサル村の村長が口を開きかけたところで、
「とは言え、そのままその方を祭りに参加させては何が起きるか分かりませんぞ。諍いを避けるためとあらば、いたしかたないのではありませんかな」
「確かに。祝いの場に争いは好ましくありません。その方の身を守るためならば、神々もお許し下さるでしょう」
と、話が続いた。
話が上手く纏まり、モンサル村の村長はほっと息を吐く。ジルベルト村長はあとは村の若い衆に行わせると言ったが、モンサル村の村長は断った。
空き家の場所だけを教えてもらい、ここまで連れてきた自分の村の若者に連れて行くように指図する。更に若者にはそのまま見張りもするように伝える。若者はなんで俺が、俺には大事な用が、と抗議するが取り合わない。
「なあ、マルセロよ。お前の大事な用ってのはあれだろ。この村の樵の爺さんとこの孫娘に告白しようって肚だろ。悪いことは言わねえから止しとけ。その娘はサビオ村の奴にベタボレだ。なあ、ジルベルトさん、知ってるだろう」
ジルベルト村長は何も答えないが、気の毒そうにマルセロを見るその目が全てを物語っている。
「ほれ、人間諦めが肝心だ。さっさと行け。お前だって、その娘が他の男とよろしくやってるとこなんざぁ見たくねぇだろう」
図星だったのかマルセロは不満そうな顔をしながらも男を連れて出て行く。モンサル村の村長はあとで差し入れしてやるからな、と声をかけるが返事もない。残った三人は苦笑を浮かべることしかできなかった。
そうこうするうちに日暮れが近づき、収穫祭を始める刻限が逼ってきた。祭祀のための服に着替えるセルジオ祭司を残し、二人は広場へ出て行く。
◇ 5 ◆
日も暮れ広場で収穫祭が始まった頃、北の外れではマルセロが一人愚痴をこぼしていた。
男を閉じ込めた空き家の他には周囲に建物もなく、すぐ裏まで黒い森が迫っている。人影はなく、満月の他には灯りもない。こんな場所で気味悪く笑う男と二人きり。普通なら心細く思うところだが、今のマルセロにはそんなことを考える余裕もない。
やれ、絶対俺のほうがいい男だだの、サビオ村の奴なんて最悪だだの、ぶちぶちぶちぶち同じことを言い続けている。
普通ならこんなことを聞かされている者はたまったものではない。だが、ここにはマルセロ以外にはあいもかわらずニタニタ笑う男だけ。誰も止める者がいないことから、同じ愚痴の繰り返しはそろそろ二十回目を越えようとしていた。
「ヒヒヒ、ずいぶん我慢ならぬみたいだなぁ」
突然、誰かがマルセロに話しかけてきた。だが誰の姿も見えない。あるいは森の精霊が闇に紛れて悪戯を仕掛けてきたのか。
「あぁ、誰だ。どこに居やがる」
「どことは、妙なことを言う。ここに連れてきたのはお前ではないか。ほれ、こっちだこっち」
声をたどると、空き家の壁に空いた穴から元兵士の男が顔を覗かせていた。
「てめえ、話せんのか」
「ヒヒヒ、話くらいできるさ。まあ、そう熱り立つな。あまりに見かねてなぁ。少し助言でもしてやろうかとなぁ、ヒヒヒ」
口を開いたところで気味の悪さは変わらない。むしろ腹立たしさが増している。
「あぁ、助言だ。てめえみたいな薄汚ねぇ乞食野郎に偉そうに言われる覚えはねんだよ」
「ヒヒヒ、元気のいいことだ。だがなぁ、ここでその乞食野郎の世話を押しつけられている惨めな男は誰だ。せっかくの祭りの日に村の外れで寂しくしているのは誰だ、なぁ」
「てめえ、ぶっ殺すぞ」
「ヒヒヒ。儂を殺したらあの村長や聖職者にずいぶん絞られるだろうなぁ。それに儂は助言をしてやると言ってるだろう」
「んだと」
「お前の想っている樵の孫娘は別の男に惚れているんだろう。なら、今更どうしようもないなぁ」
「てめえ」
どこが助言なのか。明らかに傷口に塩を塗ってきている。もはやマルセロは頭に血が上り爆発しそうだ。
「だがなぁ、お前がその娘と知り合ったのはいつだ。以前の祭りで、ではないのか。今も見知らぬ男女が親しくなってる真っ最中だぞ。お前一人こんなところにいていいのか。思いもよらぬいい女と出会えるかもしれんのだぞ。
少なくともこんなところで一人ぼっちで差し入れを待つより、祭りに加わって飲み食いしたほうが気が紛れる分ましだろうなぁ。違うか」
「……」
怒鳴りたいが怒鳴れない。腹は立つが、確かにそうだ、と頭の隅で納得してしまっている。
「なにを馬鹿正直にこんな損な役回りを引き受けているのだ。今からでもよい、祭りに行ってこい。そもそもそのために来たのだろう」
「……しかしよ、あの娘が他の男とべたべたしてるのなんざ、見たくねえし。それに村長からも言いつけられたからな」
マルセロはボソボソ答える。一度、落ち着き始めると急に弱くなった。あの娘が他の男の隣にいるんだと思うとつい竦んでしまう。こうなると無意識に言い訳を探してしまうものだ。
「だから馬鹿正直だと言っているのだ。よく思い出せ。許可を求められた村長は聖職者に意見を聞いていただろう。聖職者は最初儂を閉じ込めることに反対していただろう。拒むべきではないと言っていただろう。争いごとを避けるため、儂の身を守るためにしょうがなく認めただけだったろう。
ほれ、今の儂を見てみろ。どうだ。揉め事を起こすように見えるか。村人たちは聖職者の目があるところで、わざわざ儂に喧嘩をふっかけてくると思うか。どうだ。儂を閉じ込める必要はないだろう。
まあ、確かに余所者に見張りは必要だなぁ。なら、そのために一緒に祭りの場に来たのだと言えばよかろう。どうだ、違うか」
「……いや、しかしよ、うちの村長はマジで怖ぇんだぞ」
完全に目が泳ぎ、小声になっている。これは本当に村長が怖いのか、それともしがみつく言い訳を無くすのが怖いのか。
「ほう、そうか。村長を恐れて楽しい祭りの日に一人で寂しく過ごすのか。そうか、そうか。きっと今頃お前の友人、兄弟は良い出会いを掴んでいるだろうなぁ。
ふむ、これは皆の輪に入れず、一人寂しく物陰から見詰めるようになるのかなぁ。可哀想になぁ。しょうがないよなぁ。村長が怖いんだからなぁ。一人で寂しく過ごすのもしょうがないんだよなぁ」
「て、てめえ」
「ん、どうしたんだ。村長が怖いマルセロさん」
「こ、怖くなんかねぇ。おら、行くぞ。てめえもさっさとそこから出やがれ、この野郎」
と、空き家の扉を乱暴に開く。男が空き家から出かかったところでマルセロも少し冷静さを取り戻した。男の腰に目が行く。
腰に差した剣が目についたのだ。辺境では身を守るため、あるいは道具として使うため、誰であろうとナイフや鉈の類は身につけている。だが、剣を差している者など誰もいない。万が一、祭りの場で剣を抜かれでもしたらただでは済まない。
先ほどまでは何を言われても笑っているだけだった。だが今はこうして会話をしている。ならば、口論になりかっとなって剣を抜くかも知れない。このまま祭りの場に行かせるのは都合が悪い。
「おい、あんた。その剣は置いていけ。祭りにはいらねぇだろ」
「これか。ヒヒヒ、これが怖いのか」
止める間もなく剣を抜いた。が、剣身が見えない。なんだと目を凝らせば、なんと剣は鍔元からぽっきりと折れている。残っている刃の長さはナイフよりも短い。
「はあ、なんだそれ」
「ヒヒヒ、ただの虚仮威しよ。どうする、取り上げるか」
「ちぃ、いらねぇよ。行くぞ」
結局全て男に丸め込まれている。その事に気づいているのかいないのか、苛々する気持ちそのままに、マルセロは大きな足音を立てながら広場に向かっていった。
◇ 6 ◆
広場では銀の糸で飾られ、青色の縁取りがされた白い祭祀服を纏ったセルジオ祭司が祭壇の神像に向かい合っている。壮麗なその衣装は、人々を導く者を象徴する杖や聖職者の証しである聖印を身に着けずとも、見る者を神聖な気持ちにさせる。
セルジオ祭司のすぐ前には、様々な供物を載せた供物台。後ろには村長たちを先頭に、銘々気ままに座る村人たち。楽しげに語らい合い、笑い声が満ちている。
だがセルジオ祭司の祈りの言葉と共に、村人たちのおしゃべりが止んでいく。足を投げ出し、無造作に座っていた村人たちが居住まいを正す。皆、手を組み頭を垂れる。
共に祈り唱える時間が終われば、供物を参加者全員で分かち合い、用意された酒食を楽しむ祝宴になる。この後の祝宴を想像し、敬虔な気持ちは欠片もなく祈っている者もいるだろう。
だが、大多数の村人たちは素直に厳粛な気持ちで祈っている。豊作だった喜び、冬を越せる食糧を得られた安心、厳しい村の生活のなかで再び収穫祭を迎えられる満足、そしてそれらをもたらしてくれた神々への尊崇。村人たちは守り神である神像に感謝の気持ちを捧げ、共に祈る。
皆の祈りの気持ちが最高潮に達したその時、異変が起きた。祭壇に祭られた神像から炎が吹き上がる。この村の神像は木彫り。火の粉から守る意味も含めて、祭祀の始まりに必ず水を掛け清められる。もちろん今回も掛けられていた。それは一同皆が見ている。なのに突然、しかも激しく、燃え上がった。その炎は黒く黒く忌まわしい。
何が起こっているのか、自分たちの見ているものが信じられず驚き固まる一同をジルベルト村長が一喝する。
.「何をしておるのだ。水だ、早う水を掛けよ」
弾かれたように何人かが動き、樽や甕から水を汲み神像に次々と浴びせた。だが、水を掛けるたび、より激しく燃え盛る。戸惑い慄くなか、一陣の生臭い風が吹く。次々に篝火が消え、広場に闇が広がり一同の混乱も増していく。
満月の他は、僅かに一つ二つ残った篝火と神像から燃え上がる炎だけが広場を照らすなか、セルジオ祭司の鋭い声が響き渡る。
「そこにいるのは誰だ。出てきなさい」
セルジオ祭司の見詰める先では建物の陰に何者かが身を潜ましている。満月の光からも身を隠すように身を縮め、逃げることを忘れたのか身動ぎ一つしない。数人が近づき手荒く引き摺りだした。
引き摺りだされたのはマルセロと元兵士の男だった。
二人が広場に辿り着いたのは、折悪しく皆が一斉に祈っている時だった。悪目立ちしないため、物陰で祈りの時が終わるのを待つうち、次々と異変が起こり出て行く機会を逃したのだ。
一同が厳しく見詰めるなか、引き摺りだされたマルセロは歯の根も合わず震え、男はただただ気味悪く笑っている。
「お前たちはなぜそこにいる。一体、何をしておったのだ。まさか、お前たちが……」
ジルベルト村長の問いかけも動揺したマルセロの耳には入らない。
「皆様、お聞き下さい」
セルジオ祭司は元兵士の男を指差す。
「その者は悪魔に憑かれています。この異変はその者が起こしたのです」
突然の言葉に一同ざわめき、戸惑いが広がる。セルジオ祭司の言葉は更に続く。
「私はこの村に来る途中、邪悪なるものの気配を感じました。一瞬のことで何処より漂う気配であったのかは分かりませんでした。しかし、その時にも確かにその者はその場にいたのです」
ざわめきは悲鳴に変わった。
「何ということだ。気味の悪い男だとは思ったが、悪魔に憑かれておったのか」
「ジルベルト殿、早くその男を追い出すのです」
「しかし、セルジオ様。追い出すだけでは再びこの村に舞い戻り、次は何をしてくるか分かったのものではありませんぞ」
「では、火をもって清めましょう。薪を積み上げなさい。その者を火炙りにし、悪魔を滅ぼすことを供物として神々に捧げ直すのです」
村人一同は賛同の声を上げた。
祭の日に突然起こった異変。村の守り神が失われる恐怖。信頼する人物の断言。そして、人に命令することに慣れた者からの指図。事態の変化について行けない村人たちは、人一人を火炙りにする、その異常な指図に諾々《だくだく》と従った。
◆ 7 ◆
男は数人掛かりで縛り上げられ、供物台の上に括りつけられる。台の下には薪が山と積まれ、松明を手にした村人たちが取り囲む。用意は調った。合図さえあればいつでも火が付けられる。
「悪魔よ去りなさい。汝が為そうとした冒涜は見破った。もはやその者に憑く意味はないでしょう。汝もその者と共に焼かれることは望むまい。さあ、その者を解放し去りなさい」
「ヒヒヒ、悪魔よ去れと来たか。冒涜は見破ったか。可笑しい、可笑しいなぁ。お前はいま一人の男を焼き殺そうとしているのだぞ。よいのか。誤っていたらどうする。取り返しはつかんのだぞ。よいのか。止めるなら今のうちだぞ、聖職者殿」
暴言を許せずジルベルト村長が怒りの声を上げる。
「悪魔め、最後まで抗うか。セルジオ様、慈悲など無用。早う、おやりなさい」
「皆様、火を燃べるのです」
合図に従い、人々は松明を傾ける。燃えさしでもあったのか、何故か一気に燃え上がる。続く異常事態に皆の感覚が麻痺しているのか、誰もそれを疑問に思わない。炎に包まれながらも男の笑いは続いていたが直にそれも聞こえなくなった。
一心に祈祷を唱えるセルジオ祭司の背中にジルベルト村長が声を掛ける。
「セルジオ様、これで災いは全て取り除かれたのでしょうか。一人きりで長くあの男と過ごした者が残っておりますが」
男が火炙りにあう姿を茫然と見詰めていたマルセロがびくりと身を震わせた。
「え、え、え。お、俺のことですか。そんな、そんな、俺はあ、悪魔になんて、そんな……」
「その若者を連れてきなさい」
止めろ、離せと抵抗するが誰も耳を貸すことはない。突き飛ばすように押し出されたマルセロの顔は炎に照らされてもなお青かった。息が止まりそうになりながら、それでもあまりの恐怖に気を失うことも出来ずただただ震えている。
「若者よ、あなたに問います。あの者を空き家に閉じ込め、見張るように言われたあなたが何故この場にいたのです。包み隠さずに答えなさい」
「い、いや。え、いや、そ、それは、あいつが助言を……。いや、あ、あいつに欺されて。そう、あいつが俺を欺しやがったんです。俺は何も悪くない、何にも悪くないんだ」
「そうですか」
セルジオ祭司の答えを聞き、マルセロはほっと息を吐く。
「つまり、あなたは悪魔に唆されたのですね」
「なっ。ち、違う。違います。信じて下さい」
「皆様、この若者は悪魔に唆されました。されど、悪魔が火に掛けられても、ただ立ち尽くすだけでした。悪魔に支配されているわけではありません」
「それはこのままにしてよいということですか。一度でも悪魔に唆された者をそのままにしてよいのですか」
「無論、改心が必要です。火が付いた杖でその背中を打ち、清めるのです」
ヒィッ。悲鳴を上げ逃げようとする。だが足にまるで力が入らない。振り回す腕は宙を掻き地面を掻くが、逃げ出すことはできない。一同がマルセロに迫り、押さえつけようとしたその時。
コーン。
一本の薪がセルジオ祭司の頭にぶつかり場違いな音を立てた。
「グ、何だ」
セルジオ祭司が振り返った視線の先には、炎に包まれた供物台から立ち上がる人影があった。
「おのれ、悪魔メ。火を退けるか」
男は炎に包まれなお髪一本焼けていない。粗末な服はあいかわらず、されどその姿はまるで違った。その身に薄汚れた様子はまるで見られない。精悍な武人。そう言い表すほかない凛々《りり》しい姿。そしてその声は力強い。
「悪魔はどちらだ、愚か者」
割れるような大音声。厳しい眼差しを向け、一飛びで紅蓮の山を飛び越える。光を背負う男と、闇に紛れるセルジオ祭司。炎を背にし、セルジオ祭司と向かい合う。
「聖職の身にありながら、心を乱し道を踏み外した愚か者よ。悪魔に魅入られたのは貴様よ。その所業、今ここで正してくれる」
「なにバカなことを。火に焼かれぬ人などいるはずがない。ナンジが無事であることこそ悪魔に憑かれた何よりの証拠でアル」
「行い正しき武人には神々より厚き加護が与えられることを知らぬか。眼を眩ませ、耳を塞ぎ、神々の御心を見誤った愚か者。まさに悪魔に魅入られている証拠よ」
「馬鹿な、詭弁ヲ弄すナ。皆様には神々の御加護を感じられないからと強弁しテイるだけデハないか」
「ほう、村人たちには感じ取られぬことをいいことに、都合のよいことを好き勝手に主張していると言っているのか」
「ソノとウりだ」
「それは貴様の行っていることだ」
「バカな」
近くにいる村人たちが目を瞬かせる。何やらセルジオ祭司の周りで闇が深まったように見えた。
「『邪悪なるものの気配を感じた』、貴様以外の誰が感じた。『この若者は悪魔に唆されました』、悪魔である根拠は何だ。まさに好き勝手な主張であろう」
「バカなバカナバカな。神に仕えル私の言葉ニ間違いなドアロうはズがナイ」
セルジオ祭司の身の回りには黒い霞が漂い、乱れる言葉のままに腕を乱雑に振り回す。ギクシャクとした動きは尋常なものではない。村人たちは強張った顔で注視する。
「ほう、聖職者であるから正しいというか」
「当タり前ダ」
金切り声で叫ぶ。離れた場所にいる村人たちも異常に気付いた。
「ならば何故、貴様は聖印を身に着けておらぬ。神に仕える者はその証しとして必ず聖印を身に着ける」
その言葉にモンサル村の村長が思わず声を上げ、サビオ村の村長も続く。
「本当だ。聖印を提げていねぇ。昼に挨拶した時はあった、俺は見たぞ」
「儂も確かに見た。何故ですだ、セルジオ様。何故よりによって祭祀の場で着けていらっしゃらんのです」
「聞け、皆の者。悪魔に魅入られた者は聖印に触れれば身を焼かれる。それがこの者が身に着けておらぬ理由よ。否と言うならその身をもって証明せよ」
「そ、ソレハ、それば、ゾレ」
セルジオ祭司は突然、口からは泡を吹き、目の焦点が合わなくなった。ガクンと頭が落ち、首が折れそうなほどに曲がる。なのに腕だけは独自の意志を持つように男に向け、勢いよく振り抜かれる。
男はその拳を落ち着いた様子で躱す。だがセルジオ祭司の腕は追いかける。一振り二振り三振りと、体を引き摺るようにしながら何度も腕が振るわれる。一歩二歩、男は下がりながら距離をとり、全て躱していくがセルジオ祭司は止まらない。男を追いかける腕の動きに体の移動が追いつかなくなった時、腕から黒い霞が吹き出した。
その霞のある部分は顔のようにも見え、ある部分は爪のようにも見えた。霞は細く長くなり男に追い縋る。その爪らしき部分が男に迫る。男の胸を刺し貫こうとした、その時。男は大きく前に跳ねた。身を屈め、霞を躱しセルジオ祭司に肉薄する。
何かを低く呟き、掌でいまだ俯いたままのセルジオ祭司の頭頂を打つ。奇怪な音を立てながら、セルジオ祭司の身体から現れた黒い霞が消えていく。
聞く者の魂を凍らせるような音が止んだ時、その場には俯せに倒れたセルジオ祭司だけが残っていた。
◆ 8 ◆
重い沈黙が場を支配する。自分たちの見たものは一体何だったのか、誰も理解できなかった。誰も動こうとせず、誰も口を開こうとしない。村人たちは倒れているセルジオ祭司を見詰めるだけで近寄ろうともしない。男が手前にいた体格の良い村人に、ちらりと目を向け話しかける。
「君、もう大丈夫だ。聖職者殿を操っていたものは消えた。聖職者殿を休ませてやってくれ」
しかし、話しかけられた村人は顔を背ける。顔を強張らせ手を出そうとしない。それは当然のことだった。いくら大丈夫だと言われても、本当かどうかなど村人たちには分からない。かと言ってこの男に逆らうのも恐ろしい。
誰もが身動きできず、男が何か言おうと再び口を開き掛けた時、マルセロがひょいと男の後ろから顔を出す。
「おいおい、皆。何、じっとしてんだよ。妙なもんが消えたのは見えたじゃねえか。神々の御加護が厚いってお人が大丈夫だってんだ。なら大丈夫なんだろ」
さっき話掛けられた村人に近づき肩を叩く。
「ほれ、あんたも。ぼけっとしててもしゃあないだろ。祭司様をこのままにしとけねぇじゃねぇか。ジルベルト村長とこの客間でも使わせてもらおうぜ。なあ、いいですよね。ほら、いいってよ、ほら」
肩に置いた手を背中に回し村人の背中を押す。村人は躓くように前に押し出され、ちょうどセルジオ祭司の横で止まった。注目を浴びるなか、仕方がなさそうにセルジオ祭司を抱え上げ村長宅に向かう。見かねた数人が横から支え歩く。マルセロはセルジオ祭司が運ばれたのを見た後、ぐるっと一同を見回し手を叩く。
「さあさ、気を取り直して祭りをやり直そうぜ」
何人かがしぶしぶ動き出す。つられて、他の者もゆっくりと動き出す。一度動き始めれば後はいつもの手慣れた作業と変わらない。消えた篝火に火を点け直す者、新しく供物を準備し直す者、空になっていた樽や甕に水を汲んでくる者など様々だ。
それを見ながらマルセロは、供物台の周りで燃える薪の火を消そうと、近くに残っていた甕から水を汲み掛けていく。その作業をしながら傍らに立つ男に話しかける。
「やれやれ、驚いたぜ。肝が冷えたが、あんたのお陰で助かったな。ところでよ、あんた一体何者なんだ」
男は何かを見詰めマルセロと目を合わせず、答えようともしない。マルセロは作業をする手を止め頭を振る。気を取り直し別の質問をする。
「あー、あのよ。加護がなんちゃらってのは本当なのか」
皮肉っぽく口を歪めるだけでやはり答えない。これは何を聞いても無駄なのか、そう思いながらも再び作業をしながら話を続ける。
「まあ、こっちは助けて貰ったんだから別にいいんだけどよ。しっかし、まさか祭司様が悪魔に憑かれていたなんてな」
「それは違うぞ」
答えが返ってきたが、何を言われたのか理解できない。近くの村人たちもこの言葉に驚き、手を止め男に注目する。
「私は所業を正すと言ったはずだ。憑かれていたなら正すのではなく、払うなり滅ぼすなりしなければならない。聖職者殿は悪魔に惑わされ操られていただけだ」
「どういうことだ」
マルセロと目を合わせないまま答える。
「思い出せ。村長たちに挨拶をした時には聖印を身に着けていたという。ならばこの村を訪れた時、聖職者殿はまだ聖印を身に着けていたはずだ。悪魔に魅入られたのはその後だ。
つまり、この村の中で悪魔に魅入られたのだ。おそらく悪魔と二人きりになる時があったはずなのだ」
何か思い当たるのか、村長たちは顔を見合わせ、一人の人物の様子を伺う。
「思い出せ。誰が悪魔か、何をすべきか、聖職者殿を導くように口を挟んでいた者がいたことを」
誰のことを言っているのか気付いた者たちが、一人の人物に目を向ける。それは男がずっと見詰め続けていた人物。マルセロもその視線を追い誰のことを話しているのか気付いた。男とその人物を何度も見比べる。
「それって、お前。でも、それって……」
最後は消え入りそうな声になる。尋ねること自体が恐ろしい。答えが返ってくることが恐ろしい。だが、尋ねずにはいられない。
「あの人が悪魔に憑かれているってのか。でもよ、それにしては普通過ぎるだろ。もっと、こう……。こう……。なんかあるだろ。普通に話して、普通に過ごして、皆のために働いて、それで悪魔に憑かれているだのなんだの言われてもよ。
そんなもんさっきの祭司様の言ってたことと同じだろ。あれだ、好き勝手言っているってやつだ」
「何度も人に憑き慣れた悪魔は、そう簡単にぼろを出さない。憑いた相手の振る舞いを読み取り、機会が来るまで同じように振る舞う。
だが、誤魔化せないこともある。憑かれた者も聖印に触れれば身を焼かれる。そして、もう一つだけ誤魔化せないことがある。悪魔に憑かれた者は例外なくその目が血走り赤くなる」
誰のことを言っているのか、ジョコメ村の全員が気付いた。ジョコメ村の村人たちの視線を追い、全ての者の視線が一人の人物に集まる。
◆ 9 ◆
「ククククク、カッカカカカ、クカヵカカ」
ジルベルト村長が、いやジルベルトであったものが嘲う。
「つまらんのぉ。祭司を堕とし、村人たちの魂を汚し、同族たちが肉の身を得る依り代にしてやろうと思うたがなぁ。ツマラン邪魔ヲスルモノヨ」
弾けるようにその身体が膨らんだ。人の倍を超える背丈。男の胴ほどもある太い四本の腕。蹄のある拗くれた脚。黒と赤の斑の毛に覆われた太い身体。突き出した鼻。血よりも赤い三つの目。乱杭歯が並ぶ裂けた口。頭には左右それぞれに牛の角と山羊の角が生える。
悪魔。紛う事なき悪魔がその本性を現した。
広場が恐慌に包まれ、村人たちは悲鳴を上げ逃げ惑う。
「クカカカカ。マアヨイ、マアヨイ。全テ我ガ糧トシテ喰ロウテクレル」
慌てふためく人の波に押され、赤毛の娘が転ぶ。
「ホウ、赤毛娘カ。甘ク熟レテ美味ソウダノォ」
悪魔は生臭い息を吐きながら、一歩一歩娘に迫る。娘は起き上がろうとするが、恐怖から足が縺れ立ち上がれない。娘は自分に迫る悪魔をただ見詰め、悲鳴を上げることもできないでいる。そこにマルセロが駆け込んだ。
悪魔の前に立ち塞がる姿は勇敢、だが無謀。落ちていた松明を拾い、振りかざし抵抗するが、本物の悪魔を相手に松明など何の意味もない。楯になり得ず、時間稼ぎにすらなれない。
悪魔が二人をその禍々しい手で鷲掴みにしようとしたその時、黒い柵が現れ悪魔の手を弾く。突如出現した柵は一瞬で檻となり、悪魔を閉じ込める。
「COMUSO diba COMUSO|(これは魔法)」
悪魔は三つの目を裂けんばかりに見開き、不快な響きの、聞き慣れぬ言葉を漏らす。何かに気付き、振り返った。
「dubdo dubdobonanbbonbozedzbe|(貴様か。貴様、なぜ我らの業を使える)」
悪魔は男に問いかける。しかし、男は答えない。替わりにマルセロに怒鳴る。
「マルセロ、早くその娘を連れて逃げろ」
だが、マルセロも娘も動けない。一生分の勇気を使い果たしたようにへたり込む。もはや立ち上がる気力も残っていない。
「hunboza……|(ふん、さては滅ぼしたはずの魔法王国の末裔か。だがこの程度で我を封ぜると思うたか)」
悪魔は四本の腕で檻を掴み力を込める。男は抵抗するように手を組み力を込める。男のその動作と共に檻は強さを増していく。互いの力が押し合いぶつかり合う。だが均衡は長くは続かない。檻は僅かずつ軋み、遂に鈍い音を立てて砕け散る。再び自由になった悪魔は獰猛に笑う。
「gonedubdo……|(まずは貴様から喰ろうてくれる)」
「二人とも、耳を塞げ」
マルセロは耳を塞ごうとするが、手が強張って動かない。娘がマルセロの強張った手を取り、耳を塞がせる。
男は二人が耳を塞ぐのを待たず、折れた剣を抜く。僅かに残った剣身に左手を添え、低く低く悪魔の言葉と同じ響きの言葉を呟く。
「BUNZANBONI……|(我は深淵を覗きし者。汲みても尽きぬ知恵の泉の守護者なり。守護せし知恵もち悪を打ち払わん。魔を降し、邪を破りし刃よ顕現せよ)」
漆黒。闇よりもなお漆黒の剣身が現れる。その剣身を見た時、恐怖など知らぬはずの悪魔が恐怖に身を震わせた。
「ZABUZABE……|(あり得ぬ。その魔力は我らが王と同じもの。何故だ、何故人間ごときが彼の方と同じ魔力を持つ)」
「bubzzu|(知りたいか)」
男は悪魔以上に悪魔的な笑顔を浮かべる。
「zibzaba|(教えねぇ)」
一閃。唐竹割に叩き切る。
悪魔は苦悶の言葉一つ上げることなく、日に当たった露のように消えてゆく。まるで夢であったかのように染み一つ残さず完全に消え去った。
男はゆっくりと剣を納め、マルセロに近づき屈み込む。
「勇敢だったな」
悪魔と同じ言葉を話し、一振りで悪魔を滅ぼす得体の知れない怪しい男。だが、マルセロの頭を撫でるその手は優しかった。
◇ 10 ◇
緊張が解けたマルセロと娘は声を上げて泣き出した。異常な恐怖体験から解放された反動で、何時までも涙が止まらない。結局、朝日が昇るまで泣き続け、その頃には村人たちも戻ってきた。
やがてセルジオ祭司も気がつき、祭祀をやり直すことにした。村人たちはどこか疑いの目で見ていたが、祭祀を終える頃には疑いも晴れたのか今まで通りの態度に戻っていた。
一通り祭祀が終わるまで見守った男は、何も言わずに立ち去ろうとする。その背中にマルセロが躊躇いがちに問いかける。
「もう行くのかよ」
「やるべきことは終えたからな」
男は足を止め、簡潔に答える。一同も二人の遣り取りに気づき集まってくる。
水臭いもう少し、と続けるマルセロに男は顔を近づけ悪戯っぽく囁く。
「私に話し掛ける暇があるなら、その前にあの娘に話し掛けてこい」
何の話だと振り向けば、恥ずかしそうにマルセロを見詰める赤毛の娘と目があった。
「自分も怖かろうに、動けぬお前の手を取り耳を塞がせるなど、実に天晴れな娘ではないか」
「ちょっ、あんた見てたのかよ」
男はニヤリと笑う。
「思いもよらぬいい女と出会えたな」
「お、おう」
マルセロは照れくさそうに鼻を鳴らす。
その遣り取りを微笑ましそうに眺めていたセルジオ祭司が近づいた。
「旅立たれる前に、礼を述べさせて下さい。我が身もこの村も悪魔の手よりお救い下さり、誠に感謝のしようもありません」
「よい、気にするな。だが忘れるな。悪魔は常に人の心の隙を狙う。心を乱した時、悪魔は再び現れる」
「はい。お言葉決して忘れず、修行の生涯を送ります」
頭を下げ、祈るように手を組む。
「まさに貴方様は、神々がこの地を救うために使わした使徒であらせられます」
男は何故か奥歯を噛み締め、目を瞑る。
「止めよ。私は自分のしでかしたことの始末をつけただけなのだ」
「ご自分の、とは? ひょっとして貴方様はオルトの騎士様、なのですか」
男はぴくりと眉を動かす。
「オルトの騎士? 何ですそりゃ」
セルジオ祭司は、懐かしい記憶を辿るように遠い目をする。
「私がまだ本山で見習いだった頃に耳にした古い古い歌です」
深く息を吸い、高く低く歌い出す。
悪魔を封ぜし国オルト、今は消え去りし国オルト
そこに一人の偉大な騎士が居た
彼に倒せぬ敵はなく、彼に守れぬ味方なし
あるとき愛する姫が囁いた
愛しているなら扉を開け
身分の違う二人には、そうするほかに道はなし
百の悪魔を封ぜし扉、開いて国を変えましょう
七日七晩悩み抜き、偉大な騎士は決断す
愛する姫のその言葉、従い扉を開け放つ
されど、姫の願いは叶わない
その身は悪魔に連れ去られ、愛する騎士とは結ばれぬ
偉大な騎士は呪われて、今も悪魔を追いかける
百の悪魔を滅ぼして、愛する姫を取り戻す
偉大な騎士は心に誓い、今も悪魔を追いかける
「それが私の聞いたオルトの騎士の歌の一節です」
一同は驚き男を凝視する。
「じゃあ、あんたがその歌の中の騎士様だってのか」
男は答えず、ただ肩を竦めるばかり。
男はゆっくりと一同を見回し、頭陀袋を肩に掛け皆に別れの言葉を告げる。
「皆の者、達者でな」
一同は口々に感謝の言葉と別れの挨拶を返す。だが、マルセロ一人、何とも言えない表情を浮かべた。
「おい、あんた」
「ん?」
「あんた、俺と会った時手ぶらじゃなかったか」
男は盛大に目を逸らした。
「ちょっとその袋の中身、見せてみろ」
「これ、止めんか。おい、馬鹿」
出てきたのは干し芋、干し肉、乾酪、果物、その他諸々全て村で採れる食べ物ばかり。集まるジョコメ村の村人たちからあれは家の、それは家の、と訴える物ばかり。セルジオ祭司もマルセロも顔を引き攣らせる。
「あんた、よぉ」
男はコホン、と咳払いをし、ゆっくりと一同を見回す。
「皆の者、達者でな」
「阿呆か」
先ほどまでの感謝や敬う気持ちは何処へやら。村人たちはお仕置き半分、別れの挨拶半分でぽかぽか殴る。呆れながら見ていたマルセロがぽつりと呟いた。
「祭司様」
「何でしょうか」
「あれは騎士じゃねぇと思う」
「奇遇ですね。私も同じことを思っていました」
顔を見合わせ、声上げ笑う。気がつくと男も村人たちも笑い合っていた。
ジョコメ村に暖かい風が吹いている。