迷走と同盟軍
横たわる身体は細い。アイアコスは倒れた姉を彼女の部屋まで運んだ。
「・・・姉上」
青白い顔は死人の様で不安が募る。
急いだ足音が近付いて来るのに気付く。誰かが医者を呼んだのだろう。そう思ったアイアコスの頭に浮かぶ妹の顔。彼女は医療を学んでいた。此処に居たならば、すぐさま駆けつけた筈。
アイアコスは寝椅子に横たえたエリテュイアを見つめる。姉は妹が居たら、倒れる事など無かった。
「アイアコス様」
医者を連れたナウシカアが声を掛ける。連れてきた医者はヘスペリエに医療を教えた人だ。彼は沈痛な面持ちで部屋に入る。
「・・・アイアコス様、大広間にお戻りを」
「分かった。アイグレーはどうした?」
「あのままでは、止まらないので・・・部屋で落ち着く様にと」
彼は安堵した。姉には信頼する医者が、妹には落ち着く為の時間が与えられる。もう一人の妹の無事は分からないが、それでも胸を撫で下ろす。
アイアコスは大広間に向かう。彼の眼差しは先程の優しさに満ちた物では無い。
怪我をしたアイサースの手当てはある程度の腕がある医者が受け持った。一番の腕を持つ者はエリテュイアに向かわせた。アトラスは手当てを心の中では渋っている。
恐らく、それは医者にも伝わっている。将軍に仕える事を誇りに思う医者はアイサースの扱いを少々乱雑なものにしていた。彼が痛がろうが、それを止めない。アトラスに仕える者の中でも、医者達はアトラスに従順である。
「此処の医者は質があまり良くないのか」
アイサースが呟くがアトラスは聞こえない振りをした。アイアースとの話を続けている。
「此度のティフォン族の襲撃は我々への宣戦布告と受け取ります。エリシオンは本格的に討伐を行う」
アトラスの気迫は凄まじい物だ。その気迫は彼らを圧迫する。
そんな中、アイアコスが戻ってくる。
クレウテの親子は助かったと思ったのか、彼に目を向けた。しかし、彼の目はアトラスと同じだ。
アイアコスの視線はアイサースに向けられている。
「何故、ヘスペリエを見捨てた?」
言い訳を許さない眼差し。言い淀むアイサースをアイアコスは睥睨する。アイサースは息を飲む。先程も見た眼。
彼らは確かに親子である。怯えるだけのクレウテ側に、相手を威圧出来るエリシオン側。
そもそも、彼らは明らかに差がある。アイアースがその地位を得られたのは、父のおかげであり、アイサースもその恩恵を受けている。それに対し、アトラスは長年将軍を務め、アイアコスは既に戦場に立った。
後ろで指示だけする者と、共に剣を手に戦う者。それは、大きな差だ。
アイアコスの気迫にアイアースは恐れた。叔父は甥に恐怖を抱く。それは、アイアースにとって、屈辱だった。
「・・・アイアース殿」
屈辱に歪んだ彼の顔を見ながら、アトラスは声を上げる。
「アイサース殿の怪我では、指揮はままならぬでしょう。指揮はアイアコスに任せる事に致しましょう」
アイアースは黙って頷いた。
そうして、エリシオンとクレウテの同盟軍は決定された。
指揮を務めるのは、アイアコス。同盟軍はエリシオン側に有利な条件で作られた。
その日、クレウテ側からたった一人の同盟軍の将として、一人の男性がやって来た。彼の名はディオメデス。
アトラスは彼を丁重に迎える。
「ディオメデスと申します」
彼はアイアースと比べるのが馬鹿らしくなる位に、アトラスに敬意を示す。ディオメデスに好意を持ったアトラスは複雑な表情になった。
アトラスは気付いている。彼はクレウテが寄越した生贄なのだと。恐らく、彼自身も気付いているのだ。
アトラスは静かに目を閉じた。
同盟軍の将としてクレウテが送ったのは三十路には届かぬが、アイアコスやウルカーヌスよりも年を経た男だった。
アイアコスは彼の表情に違和感を持つ。生贄を捧げる様に送られたのは分かっている。しかし、彼の表情は凪いでいる。何処までも、静かに落ち着いて・・・嫌ではなかったのだろうか。
ディオメデスは彼より年下の彼らに頭を下げる。
「・・・ディオメデス殿。共に戦うならば、実力を知りたい。手合わせを願う」
ウルカーヌスは以前にもあった彼の行動に微笑む。その以前は彼自身が受けたものだが。
「承知致しました」
アイアコスとディオメデスは互いに剣を構えた。剣が合わさる音が響く。重い一撃に二人は眉を寄せた。
何合も続く打ち合い。アイアコスは同盟軍の質の良さを確信する。
打ち合いの音を聞きつけたのだろう。アイグレーがやって来たのを、ウルカーヌスは見た。アイグレーは打ち合いを眺めるウルカーヌスの隣に座る。
「彼は?」
「クレウテの将、ディオメデス殿ですよ」
「あぁ・・・彼が」
そうなのねと、アイグレーは口の中で呟いた。叔父と従兄弟は彼を生贄の様に扱ったのだ。ならば、せめて・・・自分は、自分達は彼を丁重に扱うべきなのだろうと彼女は考えていた。
ディオメデスの剣の腕は素晴らしい物である。アイアコスを押す場面も見受けられた程。
手合わせをしているそこは、他の傭兵や従者も良く通る場所だった。彼らの打ち合いは多くの者が目にした。
「・・・私も入れないかな、同盟軍」
そんな中、アイグレーは膝を抱えて胸中を漏らす。彼女の瞳には悲しさと諦めがある。無理だと分かっていても、今だ成熟し切っていない彼女には苦しいのだ。
ウルカーヌスは隣で項垂れる少女に何と言えばいいか分からない。
打ち合う音と歓声が響く中で、二人は寂しさを覚えた。やり切れないそれは胸に溜まっていく。
エリテュイアは目覚めた。誘拐の報を聞いて倒れた時から、彼女は床に臥している。医者が言うには、体調を崩す程に気落ちしてしまっているのだと。
彼女は気落ちの原因を充分に知っている。
溜息が零れそうになるのは堪えた。傍らの気配に気付いたから。
「お父様」
傍らの気配に呼び掛ける。彼の面持ちは沈痛で、こちらが申し訳なくなる。
浅い眠りを繰り返す。エリテュイアは目が覚める度に気鬱になる。眠りは彼女に癒しを与えてはくれないから。
「・・・良くない夢を見ました」
まるで歌う様に言う彼女の様子は落ち着いていた。アトラスは虚しさを感じる。今、彼に出来る事の少なさに。彼が将軍でなかったら、こうはならなかった。だが、彼が将軍でなかったら、子供達は居ないのだ。
「お父様、ご無理はなさっていませんね?」
「していない」
「・・・飲み過ぎには、くれぐれも注意を」
「飲んでいない」
エリテュイアの言葉はアトラスを心配する物だけ。
アトラスは彼女が心配せずとも、周りが気を使う。事実、あの日から酒はこの屋敷から姿を消した。一滴も飲んでいない。飲む気にもならないが。
エリテュイアは微笑む。そんな彼女を見ていられないアトラスは踵を返した。
父を見送ったエリテュイアは思い出す。良くない夢、悪夢を。
彼女の前にはヘスペリエが横たわっていた。その胸から血を流し、辺りを血で染めて。エリテュイアはその光景だけで夢だと分かった。幾度も見た夢は幾度も塗り重ねられ、忘れられない物になっている。
夢だと分かっていても、彼女は助けを求めた。既に息絶えた妹を抱き締めながら。
そして、後ろに佇む影に振り向く。そこにはアトラスが立っている。だが、彼女は知っている。彼もまた、その命を止めている事を。
遠くから足音が聞こえる。足音は彼女の前で止まった。アイグレーが居る。
分かっていた。彼女の瞳が虚ろなのは。
倒れるアイグレーの身体。ぼろぼろな衣に、汚れた頬。溌剌とした普段の彼女は見受けられない。
そこには絶望だけだった。
エリテュイアは涙が零れるのを抑えられない。そんな彼女を呼ぶ声がする。
優しく抱き締められる感覚がして、抱き返そうとした。しかし、温もりは消える。
寒さを感じたエリテュイアは上げた腕で自身を抱き締める。嘲笑が耳に入った。その声を覚えている。
『貴女は一人』
その声は彼女を見捨てた母。ニュクスは嗤う。嗤い声が響く。
エリテュイアは気が狂いそうだった。
翠の瞳から、涙が零れる。
それを拭う者は無い。