旅路
盛大に豪華な飾り付けがされた大広間。そこで婚礼が始まる。
円卓にはアトラスとアイアースが中心となり、結婚するアイサース、ヘスペリエが並び、アイアコス、アイグレー、エリテュイアが座っている。
その周りには従者や奴隷がおり、その中にウルカーヌスもいた。
和やかとは言えない空気の中、婚礼は行われる。花嫁に圧し掛かる苦痛はどれ程だろう。
そんな事をウルカーヌスが考えていると、話は同盟の件になっていた。婚礼の席でするべき話では無いが、アイアースには関係無かった。
「この度の同盟、心強い決断をして下さった」
アイアースはアトラスを上から見て発言をしている。本来ならば、彼は同盟を結んでくれたアトラスに感謝しなければならない。アソポスであったら、確かに感謝の意を伝えただろう。
アトラスは上からの発言をしたアイアースに目を向ける。温度の無い目に彼は気付かない。そのまま話を続けた。
「この同盟により、ティフォン族は焦るでしょう。奴らを根絶やしにするのも可能になると信じていますよ」
叔父の言葉にアイアコスは眉を寄せそうになる。ティフォン族はたとえエリシオンとクレウテが総力を持って戦おうと倒せるか分からない。彼らの実力はかなりのものだ。
それを叔父は理解していない。
アイアコスは落胆した。アトラスも同じであった。
「叔父様、婚礼の席です」
アイグレーが同盟の話ばかりをするアイアースを窘める。彼と息子のアイサースは何故、そのように言われたのか分かっていない様だった。アイグレーは悔しい思いでいっぱいだ。
「アイグレー、これは重要な話だよ」
「婚礼の席でする話では無いでしょう」
従兄弟の言葉にアイグレーは傷付く。クレウテで幼少期を過ごした彼女にとって、従兄弟のアイサースは兄弟の様に育った存在だ。昔は兄よりも身近だった。
傷付く姉をヘスペリエは心配する。そして、気遣いを口にした。
「お姉様、私は平気ですから・・・」
ヘスペリエが口を開くと、アイアースはあからさまに機嫌を悪くした。怒鳴る様に言う。
「奴隷娘が口を挿むな」
ヘスペリエはそれだけで顔色を悪くして、頭を下げる。どんなに、家族から愛され様と奴隷なのだ。
エリシオン側の表情が険しくなるが、クレウテから来た親子は気付かなかった。
婚礼は会議となってしまった。晴れやかな筈の婚礼は重い空気の中、終わったのだ。もしかしたら、始まってもいなかったのかもしれないが。
「アトラス殿、出来れば同盟軍の指揮は息子・アイサースに任せたいのだが・・・どうかね?」
断られると思ってもいない彼の言葉にアトラスは怒声を浴びせたかった。
「良いでしょう」
アトラスは何とか堪えると、短く答える。本当は、自身かアイアコスがやるべきだと思う。だが、もうどうでもよくなっていた。
喜ぶクレウテ側を冷めた目で見つめるエリテュイアは父の虚しさを感じていた。そんな彼女をアイサースは舐める様に見る。
移動民族を母に持つ彼女はクレウテ人には無い色合いの容貌を持つ。珍しい物を見る様に始めは見ていた彼だが、次第にその目は色めき出す。エリテュイアの美貌は民族など関係無い程のものなのだ。
アイサースは品定めをする様にエリテュイアを見ていた。その視線を彼女自身は一番良く気付く。同じ様な視線に晒される事の多い彼女はもう慣れてしまっていた。
「アトラス殿、貴殿には美しいご息女がおりますね」
アイサースの言葉にアトラスはさすがに眉を寄せる。花婿が花嫁を前にして言う事かと。それも、婚礼の場で。
アイサースの視線はエリテュイアに向けられたままだ。アトラスを不安が襲う。もし、アイサースが邪な思いを抱いたら・・・エリテュイアの身が危ない。アトラスは娘をこれ以上危険に晒したくは無かった。
「アイサース」
アイグレーが硬い声を出す。妹の夫となる従兄弟が姉に興味を抱いたのが分かった。彼の性格を知るアイグレーはいっそ此処から姉妹を連れて逃げ出したくなった。アイサースは根っからの女好きなのだ。
「いや、アトラス殿は幸せ者だと思っただけだよ」
従兄弟の硬い声に気付いた彼は言い繕う。場の空気は淀み切った。
エリテュイアは末妹の夫になる男をやっとまともに見た。顔は悪くは無い。想像した醜い顔とは程遠い。だが、身近な男に比べたら、少々貧相だ。アイアコスやウルカーヌスに比べたら。
それ以上に中身の良い所を感じられなかった。彼に下した評価は厳しい物だ。
重々しい空気を払拭出来ないまま、婚礼は幕を閉じた。
ヘスペリエはクレウテに旅立つ。
クレウテに向かう一行は遠回りを強いられた。ヘスペリエが馬に乗れないからだ。
「お前が馬に乗れたら、こんな回り道をしなくて済んだものを・・・」
忌々しげに言うアイサースの目は奴隷を蔑んでいた。花嫁と思った事は一度も無いだろう。
ヘスペリエは俯く。彼女の視界は馬車の床でいっぱいになる。これからの彼女の日々がやはり酷いものになるのが分かった。
「長女の方が良かったな。こんな奴隷よりは異民族の方がマシだ。何より、美しい」
アイサースの言葉にヘスペリエは傷付く。優しい姉は奴隷よりは良いだろうが、異民族という事で下に見られるのだ。そして、夫となる男は姉を婚礼の席で不躾なまでに見ていた。女性をその様に見る事は失礼に値するのに。きっと彼の中でエリテュイアは己の自由に出来る身分だと判断したのだろう。
ヘスペリエは、彼女の夫である筈の彼に情を抱く事は無くなった。
一行はガラティア川に並行して進んでいた。まだ、クレウテまでの道のりは長い。幾度も休息を取る事になるだろう。
長い道のりをヘスペリエが嘆く。と、その時、馬の嘶きが聞こえた。直後には、人の悲鳴。
尋常では無い空気にアイサースが様子を見ようとした。だが、それは叶わず、彼は状況を把握する事になる。
馬車が横倒しになったのだ。ヘスペリエが悲鳴を上げる。中に居た二人は体を何処かに打ち付ける。
そして、気付く。悲鳴の中に、ティフォン族と聞こえたのだ。二人は理解した。
これはティフォン族の襲撃である。
ヘスペリエは馬車から這い出た。外に広がる光景は辺り一面の赤。何人もの従者が転がっていた。彼女は目の前に転がる従者に息を飲む。彼には頭が無かった。
血の海。まさに、それだった。
ヘスペリエは震えを抑え、走り出す。自身が捕まってはならない事を分かっていた。エリシオンの将軍が溺愛する末娘。捕らえられた女がどうなるか。様々な考えが浮かぶ。
「見つけたぞ、アトラスの娘!」
誰かが叫んだ。彼女を捕らえ様とする手が伸ばされる。ヘスペリエは足をもつらせ、転んだ。
ティフォン族の男は笑う。彼女の身はもう、捕らえられるだろう。そう思われた。
だが、上がったのはヘスペリエを捕らえ様とした男の叫び。男の腕は血だらけになっていた。
ヘスペリエの目に映る光景は変わった。彼女を守る様に立ち塞がる後ろ姿。凛とした背はまだ若い。しかし、アイサースよりも逞しいと彼女は思った。そのアイサースは少し離れた場所で腰を抜かしていた。
「・・・誰?」
彼女の呟きは誰の耳にも入らない。だが、後ろ姿の彼が僅かに振り向いた気がした。
彼女を守る誰かは剣を振り上げる敵を斬り捨てる。敵の胸から吹き出す血。助からないであろう量のそれをヘスペリエは呆然と見た。
以前に見た戦場の光景とは違う。戦場は兵達の戦いであり、指揮する者の力量も重要なのだ。しかし、今この場に指揮する存在は居ない。
ヘスペリエは兄を思い出す。彼は立派な将軍になるだろう。
そんな事を考えながらも、彼女は眼が離せなかった。周りと共に自分の衣さえ、真っ赤に染めて斬り捨てていく彼は何者だろう。彼のトゥニカは元々の色を留めていない。彼の剣は何人の命を奪ったのか・・・彼が振り向く。
何処かで見た事がある面差し。赤茶色の髪に、青紫の瞳。
「アトラスが三女、ヘスペリエだね」
こんな中で楽しそうな声。彼女は彼を見つめる。すると、彼の後ろに影が出来る。ヘスペリエが声を上げるより早く、彼は振り向き様に斬る。
斬られたアイサースは呻き声を上げた。利き腕を斬り付けられた彼は、相手を睨む。
「き、さまっ・・・!」
「彼女は連れて行くよ。伝えておいてね、アソポスの孫」
彼はヘスペリエを抱き上げる。そうして、ヘスペリエは誰とも知れぬ少年に馬に乗せられ、連れ去られた。
アイサースは見送るしか出来なかった。
ヘスペリエが出立し、アトラスは暫し滞在するアイアースをもてなしていた。食卓に並ぶのは豪華な食事であるが、アトラスは味わう事が出来ないでいた。
「アトラス殿、アイアコスの結婚相手をそろそろ考えなくてはなりませぬな」
アトラスは答えない。上機嫌のアイアースは気にしないだろう。高級な葡萄酒が彼の杯に注がれる。正直な所、さっさと酔って欲しいのだ。従者もそれに従う様に、杯に注ぐのが早い。
アイグレーは呑気な叔父に呆れていた。祖父は名将らしさを常に携えていたというのに、その息子はこの程度なのだ。
「奴隷娘でも、良い嫁ぎ先に恵まれたものだ」
「・・・叔父様、お酒が過ぎています。もうお休みになられては?」
アイグレーは止めたかった。これ以上、妹を貶められるのは耐えられない。
アトラスの眼差しが険しさを増す。この男は、その息子はどれだけ娘達を乱雑に扱うのか。彼の大切な娘達を。更には、アトラス自身の将軍としての誇りやアイアコスの後継者としての実力さえも、蔑ろにされた。
このまま続けば、アトラスはアイアースに斬り掛かっていただろう。それは闖入者によって抑えられたが。
「アトラス様!」
悲鳴の様に主を呼ぶ声。顔は青褪め、動揺は目のも明らかだ。アトラスの従者の後ろにはアイアースの従者が居た。同じ様に青褪めている。
「アイサース様が・・・」
アイアースの従者は主に息子の状況を伝える。それと同時にアトラスは衝撃を受けた。彼の従者がもたらした報は信じ難いものだった。
アイグレーは従者達に詰め寄る。彼女の剣幕に彼らは焦る。
「ヘスペリエが・・・」
アイアコスは眉を寄せるだけだったが、その表情の険しさには凄まじいものがあった。彼はこれからすべき事を考える。
ティフォン族の襲撃。そして、何者かに攫われたヘスペリエ。
杯が落ちる音がした。杯は中身を辺りに散らす。まるで、血の様な赤。落としたエリテュイアは衝撃で歪んだ杯と零れた葡萄酒を見つめた。不吉な光景にエリテュイアは悲鳴を上げかけた。
彼女の身体が椅子から落ちていく。椅子が嫌な音を立てた。エリテュイアの身体は床に叩き付けられる前に受け止められた。
「姉上、姉上!」
腕の中で意識を失っている姉にアイアコスは呼び掛ける。
その叫びはこれからの不安を祓いたいかの様で。も、不安を仰ぐ叫びは予感させる。
災いを。
彼らは彷徨う。
当てもない旅路は先が見えない。戻る事も出来ず、進むしかないのだ。たとえ、一歩先が崖になっていたとしても。
第一章 終