婚礼の準備
純白の衣が目前にある。それは婚礼の為の物。本来ならば、弾む心を抑えて用意するだろう。しかし、ヘスペリエの心は沈んでいる。
ヘスペリエの婚礼は同盟の証。彼女の望む結婚では無い。
彼女は自嘲した。民の為、家族の為に嫁ぐと決めた。だが、心は追いつかないでいる。嫌だと叫びたくなる。目前の花嫁衣装を見て、正直な気持ちが溢れている。
「ふふ・・・」
ヘスペリエは浮かんだ考えを笑う。この衣を引き裂いてしまえば、まだ此処に居られるのではないかと。有り得ない、愚かな考えだ。
「ヘスペリエ」
「お兄様」
花嫁衣裳から目を上げると、驚いた顔のアイアコスが妹を見ていた。ヘスペリエの先程の笑みは、諦めた様な嘲笑だったのだ。
そんな表情を浮かべてしまうまで、苦しんでいたのかとアイアコスは目を見開いた。
「・・・嫁がなくても、良いんだぞ」
「お兄様・・・ありがとうございます。でも、私は嫁ぎます。誰かに言われたからではなく、自分の意志で嫁ぐのです」
たとえ、苦しくても。彼女も守りたいのだ。
アイアコスの後ろに控えるウルカーヌスは彼女に尊敬の念を覚えた。弱い立場は彼女の未来を照らしはしなかっただろう。父からの溺愛は、諸刃の剣となり、彼女を襲う。
ヘスペリエを支えるのは、きょうだいからの愛情ときょうだいへの愛情だけ。彼女は芯の強い女性なのだ。でなければ、耐えられない。
「・・・お兄様」
彼女はアイアコスに向き直る。真剣な眼差しが兄を捉えた。
「お父様とお姉様達を・・・どうか、笑って送って下さい」
「・・・分かった」
アイアコスはもう直ぐ嫁いでしまう妹に微笑み掛ける。彼にとって、ヘスペリエはアイグレーよりも長く妹として接してきた存在だ。八歳の時にアイグレーと対面するまで、彼女だけがアイアコスの妹だった。
ウルカーヌスは微笑み合う兄妹を切ない気持ちで見つめた。互いを大切にし合うアトラスの子供達が離れなければならないのだ。
それは、酷く不自然に思う。彼にとって、彼らは共にあるべき者だと映っていたから。
「ウルカーヌス」
ヘスペリエはそんな彼の心を知ってか、声を掛ける。柔らかで、優しい声がウルカーヌスの胸に刺さる。
「お願いをしても良いかしら?」
「・・・・・・」
「結婚の祝いで、ね?」
悪戯を思い付いた様に笑う彼女は珍しい。アイグレーの様な明るさの笑みにウルカーヌスはドキリとした。沈黙する彼を尻目にヘスペリエは続ける。
「お願い、この屋敷を守って。お父様もお兄様も自分の事はお構い無しだから。お願い・・・ウルカーヌス」
真摯な瞳が彼を貫く。ウルカーヌスは頷いてしまった。本来ならば、彼らを追い詰める存在になってしまう自分が頷くべきで無い事は分かっていた。
ヘスペリエは安心した様に微笑んだ。
「そうだな・・・ウルカーヌスには期待しているし」
「はい。アイグレーお姉様も頼りにしています」
ウルカーヌスは兄弟の会話に鼓動が速くなった。アイグレー・・・思ってはいけない、愛しい少女。
彼は知らない事だが、アイグレーは妹に何度もウルカーヌスの話をしている。彼女達は共に過ごす時間が多い。その為、ヘスペリエはアイグレーと一番親しい家族になっていた。
そのヘスペリエはある事に気付いている。
「ウルカーヌス、お姉様を・・・アイグレーお姉様を頼みます」
アイグレー自身が気付いていない感情を。
エリテュイアは用意されていく婚礼の諸々を眺めていた。晴れやかな事だというのに彼女の心は沈んでいる。
本来、その晴れやかな場には笑顔のヘスペリエが居る筈だったのだ。しかし、想像する妹の顔は暗いものばかり。妹の隣には妹を慈しむ夫が居る筈なのに、居るのは彼女を虐げるクレウテの名将の孫。顔もろくに知らない相手だが、エリテュイアの頭には醜い男で想像された。
溜息が零れる。エリテュイアは奴隷よりはマシな立場だが、良いと言える物では無い。そんな中でも、出来うる限りの愛情を注いできた。三人の姉として。
たとえ、三人と共に美しい海を見る事が無くても。人目を憚らずに可愛がりたくても。エリテュイアは耐えた。
なのに・・・
「その結果が・・・これ」
彼女は落胆する。大切な家族を苦しみの中に放り込みたい人が居るだろうか。エリテュイアは悩み、父に言ったのだ。自分ではいけないのかと。
妹が嫁ぐ位ならば、自分が嫁ぐとアトラスに直談判したのだ。結果は今の状況で分かるだろう。聞き入れられるものでは無かった。
「お姉様」
ヘスペリエがナウシカアと一緒に訪ねてきた。エリテュイアは笑顔で二人を迎える。
しかし、ナウシカアは姉妹に果実水を注いで退室した。広い一室にはエリテュイアとヘスペリエが残された。
「・・・嫁いでしまうのね」
「はい」
傍らに座ったヘスペリエは表情の曇る姉を見つめる。その原因が自分だというのに、自分では笑わせられない。
エリテュイアは他のきょうだい程、一緒に居た訳では無い。本当は四人でもっと居たかったのだ。共に海を、美しいこのエリシオンを見たかった。沢山の感情を分かち合いたかった。
それも、夢なのだろう。もう直ぐヘスペリエは楽園を離れる。
「もう・・・花は貰えないわね」
ヘスペリエは涙を耐えられなかった。彼女は美貌の姉に誕生日の贈り物として花を贈っていたのだ。美しい姉に合う美しい花を。
誕生日に贈られる花はエリテュイアとヘスペリエだけの秘密だった。
「・・・お姉様」
「寂しいものね・・・」
姉の横顔を見つめ、ヘスペリエは決心する。
「必ず・・・必ず贈ります。お姉様に似合う花を・・・だから、待っていて下さい」
たとえ、自身にどんな事があっても。必ず、届けよう。大切な姉への贈り物を。
ヘスペリエの決心は固い。エリテュイアは堪らず妹を抱き締めた。
その抱擁は短いものだったが、姉妹には充分だった。二人は確かに互いの愛情を感じ合う。
エリテュイアはヘスペリエに杯を渡す。そして、杯を合わせる。静かに杯の合わさる音がした。
二人は瓶の果実水が無くなるまで、無言で飲み続けた。
軽快な足音がアトラスの耳に届く。彼の居る一室は婚礼の為に綺麗に整えられていた。
「父上」
アトラスは息子を迎え入れる。険しい表情のアイアコスに父は怯む。成長した息子は母の面差しと若い頃の彼の顔立ちを受け継いでいた。
アイアコスは父親である将軍を責める為に訪ねたのだ。誰もが、溺愛する娘を手放す事になったアトラスを慰めただろう。だが、今の状況を生み出したのはアトラス自身だ。
だからこそ、アイアコスは慰めなどしない。
「父上、貴方のヘスペリエへの溺愛は危険なものであると、止める様に進言してきましたが」
「アイアコス」
「貴方が妹を溺愛したから、こうなったのでしょう。父上の盲愛はヘスペリエを不幸にしようとしている。俺はそれが許せない」
アトラスは静かな怒りをぶつけてくる彼に感謝した。人々は皆、アトラスを哀れだと言う。しかし、奴隷の事を哀れむ者はいない。ヘスペリエの事を哀れむのは、自分達家族と本当に親しい存在のみ。
アイアコスは理解していた。アトラスの苦悩は哀れまれる度に増すのだと。
父の末娘への溺愛の始まりはヘスペリエの母との出会いからなのだろう。アトラスは二人の妻を迎える以前から、ヘスペリエの母となる女性・・・奴隷のクリソテミスと愛し合っていた。それが、悲劇だったのか。
アトラスはニュクスを妻として迎える事になる。ニュクスの父は移動民族ながらに、多大な富を持っていた。それがこの結婚の目的であった。
アトラスは苦しんだだろう。富を得る為とはいえ、愛する女性の前で婚礼を行わなければならなかったのは。
そして、その苦しみは一度では終わらなかった。
次に、妻に迎えたのがアイギーナである。アトラスは名将からの打診を断れなかった。アソポスは高い名声を得ていたのだ。彼を義父にする事はアトラスにとって有益過ぎたのだ。断る理由が無い事にアトラスはどう思っただろう。
アトラスは生まれる男子を後継者にすると約定を交わし、二人の妻を娶る。アトラスは息子が生まれない事を願った。
そんな中で、ニュクスが娘を生み、アイギーナが息子を生んだ。クレウテ側の喜びは大きかったろう。移動民族の娘が生んだ子供ではなく、クレウテの名将の血を引く息子がエリシオンの将軍になるのだから。
アトラスはエリテュイアの誕生を純粋に喜び、アイアコスの誕生を素直に喜べず、憂鬱だった。我が子の誕生は嬉しいものである。だが、それに政略は混じってはいけなかったのだ。
生まれたのが娘で悔しかったのか、ニュクスは荒れた。侍女や奴隷に当たり、娘にまでそれは及んだ。更には、男を作り始めた。それをアトラスは咎められず・・・
彼の寵愛はクリソテミスに集中した。彼女との関係はアトラスには優しいものであったから。
ニュクスとの夫婦関係は破綻し、アイギーナとはアイアコスの両親として夫婦でいられた。アイギーナはニュクスとは違い、寵愛を受ける事が無くても温かく見守れる女性だった。それがニュクスとの決定的な違いだったのだろう。
アトラスはアイギーナの二度目の妊娠の報を聞く。腹の子供は健やかに育まれ、生まれたのがアイグレー。しかし、アイグレーはクレウテで生まれた。妊娠と時を置かずに、アイギーナに身を病が襲ったのだ。
娘を心配したアソポスは彼女をクレウテに連れて行った。そして、アイギーナは二度とエリシオンの地を踏む事は無く・・・
アイギーナはアトラスにとって、政略の絡む結婚はしていても落ち着ける相手だった為、連れ戻された時は寂しさが募った。それは恋では無いだろう。ただ、深い情で繋がっていたのだ。
寂しさは愛するクリソテミスと居る事で埋められる。
そして、事態は悪い方へと向かう。クリソテミスが妊娠したのだ。喜ばれない、疎ましいものとされてしまった事。
クレウテ側の後継者はアイアコスのみと、奴隷の生んだ子供がならぬ様に迫る圧力は大きい。荒れていたニュクスは更に奴隷を冷遇した。それは妊婦であったクリソテミスにも強く向けられた。
そんな中、アイグレーはクレウテで生まれ、アイギーナは死んだ。クリソテミスはニュクスからの非情な行いから逃げる事無く、ヘスペリエを生む。アトラスの子供はそうして生まれた。
アトラスは己の愛情が子供達を苦しめるとは思わずにいた。目に見えて溺愛されたのはヘスペリエだが、彼は子供達を確かに愛している。それは、アイアコスも分かっているが、今は責めずにはいられない。
父は妻達を愛していなかった訳では無いだろう。しかし、彼女達は不幸だった。不幸にしたのは、アトラス。彼の愛情から起きた不幸。
そして、今それは子供にまで及んだ。
アトラスは息子の言葉とそれ以上に鋭い刃の眼差しに目を伏せる。そんな父を見つめながらアイアコスは自己嫌悪に陥る。彼が父を責めたのは、自身の力不足を認めたくなかったのだ。後継者として努力してきた自分を認められなかったのが、悲しかったのだ。
アイアコスは静かに退室した。
「・・・父様・・・兄様」
そんな父と兄の様子をアイグレーは陰から見ていた。彼女の目から、涙が零れそうだ。しかし、少女は泣かなかった。
涙は、零れる前に拭われた。