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楽園物語  作者: 如月瑠宮
第一章 初恋
4/30

崩れる

 幸せはどうして永く続かないのだろう。幸せを求めても、願っても、それは去っていく。


 アトラスは驚かなかった。元々、予感はしていたのだ。そして、報告した従者は言葉を続ける。

「ティフォン族がクレウテ国境の街を襲いました。クレウテからの使者はアトラス様・・・エリシオンとの同盟を望んでおります」

「アイアース殿か・・・」

 アトラスは名将アソポスの息子であり、その跡を継いだアイアースからの申し出に否定的であった。

 アイアースはアイアコスやアイグレーの叔父だ。だが、彼自身に名声は無い。あるのは父親の栄光である。

 それなのに、アイアースは姉のアイギーナと結婚し、義兄になったアトラスを下に見る。それは、奴隷を姉以上に愛していたからだろう。

「アトラス様。いかがなさいますか」

「くだらないな・・・だが、無下には出来ん」

 親の七光りであるアイアースとは違い、アトラスは彼自身の力で得た地位だ。エリシオンの民は将軍(アトラス)を信頼し、尊敬している。

 そんなアトラスが同盟を断れば、クレウテを見捨てると言う事であり、状況的に良くない。ティフォン族はエリシオンにとっても敵である。そして、クレウテとの関係も悪くなるだろう。

「使者を送ろう。同盟を結ぶと」

「・・・はい。それと・・・アトラス様・・・」

 珍しく言い淀む従者をアトラスは訝しむ。視線で先を促せば、更に言い難そうに途切れ途切れ言う。

「クレウテは・・・同盟の証として・・・・・・その、婚姻を結ぶべきだと・・・」

「何?」

「ご子息・アイサース殿と・・・ヘスペリエ様の婚姻を・・・望んでおります」

 アトラスは目を見開く。驚かなかった先程とは違い、今度はその顔に驚愕が浮かんだ。


 その日、アトラスの屋敷は驚きに包まれた。


 アイグレーは走っていた。姉から叱られそうだが、ペプロスの裾をたくし上げて疾走する。擦れ違った奴隷が彼女を呼び止めたが、止まれる筈も無かった。

「ヘスペリエ!」

 絶叫に近い声で妹を呼ぶ。アイグレーは目的のヘスペリエの部屋に飛び込んだ。

 ヘスペリエはそんな姉に微笑む。自身の未来への不安を隠して。

「どうして、何故ヘスペリエが!」

「お姉様・・・」

「貴女がクレウテに嫁ぐ必要なんて無い!」

 アイグレーの叫びはもう悲鳴だった。信じたくない事実が突きつけられている。その事実は彼女の心を傷付け、血を流させるのだ。

 ヘスペリエは項垂れるアイグレーを抱き締める。ヘスペリエの覚悟をアイグレーはその抱擁から感じた。

「どうか、笑って送って下さい・・・」

 妹の言葉に涙が溢れる。

 彼女はこんなにも強く覚悟しているのに、自分は何も出来ないのだと。アイグレーは悔しさでいっぱいだった。

 力があったなら。同盟を、この婚姻を断れたのに・・・でも、彼女に出来るのは、妹を抱き締める事だけ。ただ、涙する事だけなのだ。

「・・・お姉様」

 声を抑え、涙を流す姉と共にヘスペリエは泣く。二人の涙は幾筋も零れ、二人の衣に浸み込む。部屋中か暗く感じ、姉妹の心は沈んでゆく。

 そんな妹達をアイアコスは部屋の外から窺う。疾走するアイグレーを見つけ、その後を追ってきたが、涙を流す二人に声は掛けられなかった。

 悲しむ二人の様にアイアコスは泣く事が出来ない。まして、妹達の前では。

 アイアコスは音を立てぬ様にその場を離れた。離れる毎にその歩みは速くなる。歩みはいつの間にか走りになり、知らず知らずの内に中庭に向かっていた。

 中庭で立ち止まり、深呼吸をする。

「・・・すまない。俺の所為だ」

 アトラスはヘスペリエを目に見えて溺愛している。奴隷だというのに。

 それが、クレウテ側を不安にさせた。アイギーナとの結婚には約定があった。生まれた男子を必ず後継者にするというものだ。

 約定が無くとも、アトラスの息子は一人だけであるから、後継者がアイアコスである事は変わらないのだが、クレウテは、アイアースはそれでは不満だった。

 アイアコスは唇を噛み締める。父がヘスペリエを溺愛する度に彼女の立場を危うくしているのだ。

 彼は幾度も父を諌めた。奴隷である妹を守る為に。

 クレウテがヘスペリエを大切にする可能性は低い。限り無くゼロに近い。そんな所に妹を送り出さなければいけないのかと、アイアコスは絶望した。

 その場にしゃがみ込み、頭を抱える。こんな姿を誰かに見られたらと思わないでもないが、彼にはどうにも出来なかった。

「ヘスペリエ・・・すまない」

 何度、謝ろうとも足りないと。たとえ、彼女が許したとしても、彼自身が彼を許さないだろう。

「すまない、ヘスペリエ・・・父上」

 守る為に戦に出て、守る為に強くなったというのに。結局は、守れなかった。

 幾度も、過剰なまでの愛情を抑える様に進言した。それでも、思いは伝わらなかったのだ。

 アイアコスは、何年振りになるか分からない涙を零す。久し振りに零れた涙は石畳の上に落ちた。

 その様を見たアイアコスは思い出す。以前に泣いた時も、此処だったと。確かあれは四年前。

 父の体調が思わしくない時に、ティフォン族が攻めてきた。それでも、将軍であるアトラスは戦場に出たのだ。医療を学んだヘスペリエを連れて。僅か十二歳の子供だった彼女に出来る事は少なかったが、それでも連れて行ったのは最期になるかもしれなかったからだろう。

 そして、その戦はアイアコスの初陣になった。将軍重篤の報を聞いたアイアコスは戦場に出る事を決意したのだ。

 それでも、初めての戦場は恐ろしく、身体の震えが止まらなかった。恐怖から逃れようと、中庭で一人泣いた。今では、逞しく戦場を駆けるアイアコスだが、四年前はまだ十六歳。

 まだまだ子供だった彼が勝利をもぎ取ったのだ。それは、きっと・・・


「アイアコス、此処で謝っても届かないわ」


 そう、この声だ。泣いている時は何時も傍に居てくれた。

 アイアコスが最初に悲しくて泣いたのは、五歳の時。母・アイギーナが遠い地で妹を生んで時を置かずに亡くなってしまった。妹が生まれた喜びより、母にもう会えない事が彼には衝撃的で。

 後で知った事だが、妹を宿した時にはもう永くない事が分かっていたらしい。幼いアイアコスはただ、母が里帰りをするだけだと思っていたが。

 アイアコスは聡い子供だった。アトラスの悲しんでいる様子や屋敷の雰囲気を敏感に察する事が出来た。だから、アイアコスは人前で母の死に泣く事が出来ずにいた。

 泣くのを堪えていた時、彼女はいつの間にか隣に座っていたのだ。同じ屋敷に暮らしていても、食卓を共にしていても会話の無かった相手。

 異母姉のエリテュイア。一つ上の姉にアイアコスは戸惑う。姉弟であっても、他人の様だった人が隣に居て驚かない筈も無く。彼はエリテュイアを拒絶した。

 しかし、エリテュイアはアイアコスの傍から離れなかったのだ。笑顔で隣に居た。アイアコスが泣き止むまで。

 それから、エリテュイアはアイアコスが泣いていると必ず傍に居る。

 そして、今も。

 アイアコスは堪らず、窓を飛び越えて部屋から声を掛けた姉の許へ、初陣の恐怖を包み込んでくれた腕に抱き着く。涙は静かに零れ、エリテュイアの肩に落ちる。

 エリテュイアはただ、弟の背中を撫でた。彼が落ち着くまで、ずっと。


 アイグレーはヘスペリエの部屋を出た後、広場を見渡せる場所に立っていた。広場にひしめくのは、エリシオンの民。彼女が愛するエリシオンの慈しんでいる民だ。

「・・・・・・」

 彼らは笑っている。彼らの幸せは自分達に掛かっている事をアイグレーは理解している。止まっていた涙が再び溢れ、光景が滲む。

 彼女に彼らの幸せは、笑顔は奪えない。

 恐らく、ヘスペリエにも。だからだろう。彼女の微笑みは、この笑顔を守れる喜びがあるから綺麗だったのだ。理不尽なまでの奴隷への扱い。見知らぬ地への恐怖。不確かな未来。それでも、笑った妹は美しかった。

 アイグレーは今こそ、愛する者を守りたいと思う。その思いは、涙と共に溢れる。

 溢れた涙は、アイグレーの足元に落ちた。

「アイグレー様」

 背後からの声に彼女は振り向く。ウルカーヌスだ。最近、兄や彼女自身と良く一緒に居る傭兵。

 彼は優しい。短い期間でもそれを知れたアイグレーは必死に涙を拭う。何度拭おうとも、涙は溢れる。

「・・・泣いても、良いのですよ」

 アイグレーは温かな言葉と力強い腕に包まれた。必死に拭っていた涙は勢いを増して。

 声を上げて泣き出した少女をウルカーヌスは哀れに思う。声を上げず、溢れる涙を抑えようとする泣き方はまだ十七の彼女がするべきでは無い。

 少女は五歳になるまでクレウテで育った。母はアイグレーを生んで直ぐに亡くなり、彼女を育てたのはアソポスと侍女達だ。アイアコスと会ったのも、エリシオンの地を初めて踏んだ時である。

 アソポスは彼女を愛情深く育ててくれた。それを疑う事は無い。しかし、彼女が泣くと周囲は悲しげになるのだ。それは、アイギーナに良く似たアイグレーの泣き顔が重なったのだろう。

 アイグレーは泣けなくなった。


 ウルカーヌスは心の中で謝罪する。謝罪の相手は彼の兄。イリアス王アステリオス。

 イリアスは北の霊峰・オリンボス山の麓にある国だ。ウルカーヌスはイリアスの冷遇された王弟である。親子程に齢の離れた兄は弟を間諜(スパイ)としてエリシオンに送った。

 今だけは、それを忘れたかった。

 エリシオンでの日々は故国とは真逆で、今までにない幸せを味わった。幸せ過ぎて、抱いてはいけない感情を持ってしまったのだ。

 ・・・アイグレーが愛しい。

「ありがとう・・・もう大丈夫、大丈夫よ」

 アイグレーは赤くなった目元を押さえ、笑い掛ける。明るい彼女の珍しい淡い笑み。立ち去る彼女の背は弱々しい。

「・・・・・・」

 無言でアイグレーを見送ったウルカーヌスは胸の苦しさを感じる。紛れも無い恋情に、彼は顔を歪めた。

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