中庭の鍛錬
エリテュイアは中庭を眺める。彼女の部屋からは大きな窓があり、それが中庭を絵の様に見せていた。
今、その中庭には彼女の弟と新顔の傭兵が剣の鍛錬をしている。打ち合う音があの日の様に響く。
ウルカーヌスがこの屋敷にやって来てから既に十日間程経っていた。彼は直ぐに屋敷に馴染み、信頼を得ている。
そんな彼とアイアコスはここ数日、中庭で鍛錬を繰り返している。エリテュイアはそれを毎日の様に見ていた。二人の動きは武芸の嗜みの無い彼女には舞踊に見え、最近ではそれを見る事が楽しみなのだ。
「エリテュイア様」
夢中になって眺めていると後ろから声を掛けられた。声の方を振り向けば、そこに居たのは二人の女奴隷。エリテュイアにとって馴染み深い二人である。
声を掛けた栗色の髪の奴隷、ナウシカアの手には紫のキトンがある。貴重な染料を使ったそれはアイグレーの物だ。
「・・・あの子はまたなのね」
「申し訳ありません」
「貴女の所為ではないのよ。アイグレーが戻ったら少しきつめに叱らないとね・・・」
今頃は、馬上に居るだろう妹。活発な方の妹には、少々女らしくあって欲しいものである。そう、もう一人の妹・・・今、目の前に居る奴隷の様に。
「ヘスペリエ、そちらのは?」
「お兄様に・・・それと、ウルカーヌスにもと・・・」
窓の外に向けられる栗色の瞳。瞳と同色の髪の少女はヘスペリエと言う。彼女は奴隷ではあるが、アトラスの末娘である。母親が奴隷であり、その母親も二年前に亡くなってしまった。
「そうね・・・終わる頃には喉が渇いているでしょうから、何か冷たい物でも用意しましょう」
「ご用意致します」
ナウシカアがアイグレーのキトンを手に部屋を出る。恐らく、キトンはアイグレーの部屋に置かれるだろう。それも、入り口の近くに。また、やんちゃな事をした妹に対しての無言の圧力である。
続いて部屋を出ようとしたヘスペリエをエリテュイアは引き止める。アトラスは溺愛する末娘が奴隷として仕事をするのを好まない。それは、他の兄姉も同じだった。
「貴女はここで私の話し相手になるの・・・良いわね?」
「・・・はい」
姉が座る寝椅子の傍らに腰を下ろす。持ってきた衣はその膝の上に置かれた。
そんな妹を見たエリテュイアは僅かに眉を寄せる。寝椅子には座らない妹は身分を良く理解している。たとえ、父に溺愛されていようと、特別に医療を学ぶ事を許されていても。ヘスペリエが奴隷である事は変わらない。
「お父様は良い傭兵を雇えたわね」
「はい。お兄様も楽しそうです」
楽しそうに打ち合う二人を眺める姉妹こそが、窓の外から見れば絵の様に美しい。美の女神の如きエリテュイアに、可憐な乙女のヘスペリエ。外見に似ている所の無い二人だが、その内面は良く似ている。
打ち合う剣の音、荒い息遣い。それらを聞きながら、二人は和やかに話す。
「本当に楽しそうね。鍛錬なのか、遊びなのか分からないわ」
ヘスペリエが小さく笑う。それは小さな音で、聞こえるのは近くに居るエリテュイアぐらいだろう。
目に見える愛情を彼女は示さない。しかし、ヘスペリエは感じていた。温かな愛情を、常に。明らかな愛情を見せる父よりも。
汗だくになっているアイアコスとウルカーヌスは昔からそうであったかの様で・・・僅かな日々の限界まで、共に鍛錬を繰り返した。そんな二人の仲が悪い筈も無かった。目に見えて良好な仲の二人は共に汗を流し、共に技を磨く。
ヘスペリエは外の二人を見守る姉を見つめる。彼女には二人の姉が居るが、どちらも血の繋がりは半分である。
明るいアイグレーは妹をどこまでも甘やかそうとする。暗く沈みそうな時、何度その力強い眼差しに救われたか。艶やかで美しいエリテュイアはさりげない優しさを与えてくれる。ヘスペリエを良く思わない奴隷から庇って貰うのは日常になっていた。
二人共、自身の立場を省みず、妹を愛してくれるのだ。それが、二人の立場を危うくしても。
「そろそろかしら」
エリテュイアが窓へと近付く。外の二人は石畳に座り込んでいた。
「二人共、もう充分汗を掻いたでしょう?冷たい物を用意させているから、こちらにいらっしゃい」
二人はその声に振り向いた。その額や首筋には汗が流れている。
窓に寄って来たアイアコスは額の汗を拭いながら、替えの衣を受け取る。ウルカーヌスも倣い、礼を言いながら受け取った。
そして、着替えるのだが・・・二人の着替え方は大きく違っている。アイアコスは慣れている為か、大胆に汗だくになったトゥニカを脱ぎ捨てる。新たなトゥニカを着るまで、アイアコスは半裸の状態を恥ずかしげも無く晒していた。対する、ウルカーヌスは恥があるのか、女性には背を向ける。出来るだけ見えない様に、出来る限り素早く着替えるのだ。
「お待たせ致しました」
二人の着替えが終わるのとほぼ同時にナウシカアが戻る。その手には果実水があった。果実水は杯に移され、先程まで鍛錬をしており、喉の渇きを感じていた二人に手渡された。
喉を潤すそれは爽やかな甘さだ。ウルカーヌスはエリシオンでも極上の果実水を堪能する。
「エリテュイア様も」
ナウシカアがエリテュイアに杯を差し出す。彼女は受け取ると、一口だけ含む。残りはヘスペリエに渡された。
「・・・お姉様」
「残りは貴女達で飲みなさい」
恐らくは、その残りには果実水の入った瓶も含まれるだろう。奴隷に高価な物が与えられるなど有り得ないに等しい。それをエリテュイアは良く知っている。自身の母が何よりも誰よりも厳しかったから。
母、ニュクスは奴隷に非情な冷酷さのみを与えていた。それは、奴隷であるにも拘らずアトラスに愛されたヘスペリエの母が関係しているかもしれない。
だからこそ、エリテュイアは妹のヘスペリエやその親友と呼べるナウシカアには良く残り物を与えていた。口惜しいのは、残り物でなければ与える事が出来ないという事。
悔しげに顔を歪めるエリテュイア。その歪みは一瞬で消えたが、アイアコスは気付いた。そして、杯の果実水を飲み合う二人の笑顔に微笑む彼女にも。
「姉様!」
暫く話に夢中になっていると、溌剌とした声が飛び込んできた。勿論、アイグレーなのだが、呼ばれたエリテュイアはその姿を見ると口元だけで笑う。姉の笑みにアイグレーは肩を強張らせる。
「貴女、また男の子みたいな事をしたのね」
アイグレーは今は紫の先程ナウシカアが持っていたキトンを着ているが、それ以前はペプロスの丈を短くして着ていた。それに短い外套のクラミスを羽織り、馬でエリシオンの広い大地を駆けていたのだ。
そして、部屋へと帰ると、その入り口近くに現在着ているキトンが置かれていた。それだけで姉の叱責を感じ、すぐさま着替えてやってきたのである。着替えたのは、以前にも同じ状況で着替えずに行った時の姉の怒りをしっかりと覚えていたから。
「・・・ごめんなさい」
「約束したでしょう。控えると」
和やかに話していた彼女の顔に険しさが混じり始める。
「気を付けます」
「そうね。貴女も年頃になったもの。今までの様に少年っぽいままではいないわね」
「・・・はい」
完全にしょぼくれたアイグレーに窓枠に座るアイアコスが笑う。寝椅子にその豊潤な身体を投げ出すエリテュイアは苦笑いを浮かべ、妹を座らせる。アイグレーはヘスペリエの隣に座った。
ウルカーヌスとナウシカアは溜息を耐えられなかった。まさに美を集めたようなエリテュイア。逞しい肉体のアイアコス。輝くばかりに明るいアイグレー。淑やかな愛らしいヘスペリエ。美形な四きょうだいである。
ナウシカアは何度見ても零れる溜息を自覚していた。幾度見ようと、この四人の美貌に慣れる事は無い気がしている。
ウルカーヌスはこの屋敷に来てから日も浅いのだが、そんなきょうだいの様を良く目にしていた。それは屋敷だったり、広場だったり、広大な国内の何処かだ。
彼は思う。鍛錬の後に、こんな光景を見られる、自分もそれに混じる事が出来る。それは幸せだと。
六人は幸せな一時を味わった。