序章
大地を踏み締めたサンダル。履いている脚は武骨さを感じる。持ち主は、二十歳を過ぎたであろう青年。精悍な顔立ちは女性達が放ってはおかないだろう。
彼が見つめる先、其処には楽園がある。楽園の名はエリシオン。美しい常春の国。
「・・・必ず」
彼は呟く。果たして見せると・・・。
それは、哀しい決意だった。
少女はまだ幼かった。自身を守る術も無い程に。
「お父様・・・」
少女の視線の先には、病の倒れ、喘ぐ父が横たわる。父は将軍だ。その父が倒れた為、エリシオンの兵は混乱している。
兵達のざわめきの中、少女は震えた。彼女は医術を学んだ者として、此処に同行してきたのだ。この、戦場に。
父の容体は良くない。もしかしたら、という不安が辺りを包んでいる。
もし、将軍である父が死んだら・・・少女はどうなるのか。少女の立場は弱い。父なくしては、その生命さえ心許無い程に。少女が奴隷だから。将軍である父と、奴隷である母との子供だから。
「・・・お兄様」
少女は今まさに戦場を駆けているだろう異母兄を思う。少女とは違い、確かな立場である兄は父の代わりの戦場に立っている。
それは、きっと・・・少女の為に。
少女は自覚していた。父や兄達が自分を溺愛している事を。だからこそ、父が倒れ、この戦に負けるような事があれば、自分の身は危険に晒される。
それでも。
「必ず・・・帰らなければ」
約束したのだ。必ず、エリシオンの美しい海を共に見る。大切な「きょうだい」達と。
兄と、姉。二人共、自分を溺愛してくれている。二人と見る景色は少女の宝物だ。
それを・・・
共にある未来を手にする為。
どんなに険しい道でも、進もう。
歓声が上がる。これは勝鬨だ。自分は勝ったのだ。それはつまり・・・
「守れた」
吐息と共に吐き出された囁きは誰の耳にも入らない。
周囲を見渡す。勝利に声を上げる者。生存に涙を零す者。安堵に身体を預ける者。そして、仲間の遺体を運ぶ者。
勿論、敵の兵も其処ら中に転がっている。これが、戦をしたという事なのだ。初めて見る凄惨な光景。妹達と見る、何処までも優しい景色とはまるで違う。
「・・・・・・」
知らず知らずの中に震えている手は、既に誰かの大切な人を殺した。大切な人を守る為に。
それでも、それでいいと思う。
自分の約束を守りたいから。
浮かぶ笑みは何なのか。
エリシオン。温かな南に位置する国。緑に溢れ、海からの潮風を感じられる。この国を楽園と呼ぶ者は少なくない。
中央広場には毎日、市場ができる。様々な物が売られる其処は、人々で賑わい、見ているだけで楽しい。
果実は光を浴びて、瑞々しく光る。その果実に伸ばされた指。
「いい男だねぇ・・・安くするよ?」
果実を売る女性が満面の笑みを浮かべ、オレンジを勧める。男は苦笑すると、勧められるままにオレンジを一つ買った。
オレンジに齧り付くと、甘酸っぱさが口いっぱいに広がる。無意識の中に喉の渇きを感じていたのだろう。瑞々しさが渇きを癒す。
自然と浮かぶ笑みを見た者はどれ程居ただろう。何処からか溜息が聞こえる。
「・・・流石、エリシオン・・・暑いな」
北の方が出身の男には、エリシオンの暑さは辛い。故国は、此処の様に温かくはない。北部には巨大な山があり、その頂上は雲に隠れている程。優しさを一つも見せない山はまるで・・・
脳裏をよぎる残酷な冷たさを宿す眼。それが、男に優しさを向ける事は無いだろう。いや、ただ一つだけだが・・・思い浮かぶ。
「・・・それでは、遅い」
男は笑みを零す。自嘲の笑みだった。
此処に男を知る者はいない。だからこそ、できた笑み。
男はオレンジを平らげると、向かうべき場所へと向かう。このエリシオンの中でも、特に大きな屋敷。将軍アトラスの屋敷だ。男はアトラスに傭兵として雇われた。
アトラスの屋敷は小高い丘の上にある。朝には日の出の光が屋敷全体を照らす。そして、夕暮れには屋敷の影が街へと延びるだろう。
まさに美しい屋敷。
男は其処で果たすべき事がある。失敗すれば、男の命は無い。
それでも、男は向かう。今まで男は冷遇されてきた。遣り遂げれば、少しは良くなるだろう。
「・・・必ず」
エリシオンの要、アトラスの弱点を。あわよくば、その首を。
そうすれば・・・
「良いのでしょう・・・?兄上」
男は異母兄に語りかける。たとえ目の前に居ようと答えは無いだろうが。
序章 終