微か
お正月が明けた途端、風邪をひいてしまった。熱がないのが救いだけど、咳は出るし喉も痛い。
原因は、わかっていた。ずばり、私の怠慢だ。どうしようもないほどの自己嫌悪と、それと比例したため息が、マスクの中にこもる。学校へと向かう足取りも、重かった。
近隣の合唱部が集う合唱祭は、来月だ。発表曲の精度はまだ低く、やらなくちゃいけないことは嫌になるほどあるというのに、今の私にできることは風邪を治す以外なかった。
教室に入り席に着くと、委員長こと佐藤 周明君が、おやおやといったふうに私の顔を覗きこんできた。委員長の席は私の隣だ。
「もしや、成子さん。風邪ですか」
もじゃもじゃ頭の委員長の黒眼鏡が、ずりっと下がる。
「いえ、骨折です」
委員長を避けるように、コホコホと咳をする。風邪をひいてしまった腹立たしさを、委員長にぶつけてしまった。
「それは、いけませんね。歌姫は喉が命ですからね。成子さん、地味なようですが、風邪の予防には手洗いが一番だそうですよ」
委員長は、私の骨折発言を華麗にスル―した。
「手は洗っていますよ。委員長は、私が手も洗わずに、手づかみでものを食べる女だと思ってるんですか」
「いや、まさか。文化祭でも体中に使い捨てカイロを貼っていた用心深い成子さんが、そんなワイルドなことするとは、思ってないですよ」
文化祭。一躍「佐藤 成子」を有名にした、あの文化祭。
「あのですね、バニーちゃんの格好って、露出が多くて寒いんですよ。委員長も是非、明日にでも、いえ、いますぐにでも着てみたらわかります」
文化祭で、『マジック部』は頑張った。事前の練習はもちろんのこと、当日のマジックもほぼ成功した。なんちゃって部員だった私だけど、自分のことのように嬉しかったし、関われてよかったと思っている。 そうは思うけど、彼らのマジックのアシスタントとして、バニーの衣装を身につけた私があんなに話題になるとは、思わなかった。
私は黒バニーだった。そして一年の曜子ちゃんは、白バニー。
あれを見た合唱部の友達が、「成子、今度はあの有名ビールの宣伝ガールをやんなよ」なんて言ってきたのには驚いた。考えたこともなかったが、私はああいった衣装が妙に似合うらしい。
マジックもウケたけれど、それ以上に、バニーがウケてしまったのだ。そこが、私としては微妙なんだけど、ともかくあの舞台で、『マジック部』の運命は大きく変わった。
「成子さん、やっぱり、バニーは永遠の定番なんでしょうか。お陰で、部員が増えましたしね」
ふむふむと頷きながら、委員長は一時間目の用意をしだした。
「……バニーなんかで増えて、よかったんでしょうか」
文化祭から数日経ったある日、私は委員長からの「成子さん、ありがとうございました」のひと言で、『マジック部』を退部し、再び合唱一本の生活へと戻ったのだ。
放課後、職員室に寄り、合唱顧問の神田先生に休みを伝えた。どうやら風邪は私だけではないでようで、その事実に焦りも感じた。
吹きぬけになった階段の踊り場に立つと、歌声が聞こえた。早く練習に参加したい。
「あれれ、成子さんだ。今日は、合唱はお休みですか」
パタパタといった足音とともに、『マジック部』の曜子ちゃんが階段を下りてきた。白バニーの衣装を着ていなくても、曜子ちゃんは白くてふわふわとした子ウサギのような女の子だ。
「うん、風邪をひいちゃって。大失敗よ」
私がマスクを指すと、曜子ちゃんは悲しそうに、眉毛を八の字に下げた。
「結構流行っていますよ。うちのクラスにも、なん人かマスクマンがいましたよ。成子さんも早くよくなるといいですね」
曜子ちゃんは可愛いい。『マジック部』に入っての一番の収穫は、彼女と知り合いになれたってことかもしれない。
「ところで、どうなのかな。文化祭以降に入った部員は、定着しているのかな」
本来なら『マジック部』の部長である委員長に訊くのがいいのだろうけど、そうできずにいた。
「そうですねぇ。部長曰く、予想通りってことらしいですけど。まぁ、ぼちぼちといったところでしょうかね」
曜子ちゃんの言葉は、歯切れが悪い。心なしか視線も明後日の方向を彷徨っている。
「もしかして、みんな辞めちゃった、とか」
すると曜子ちゃんは、成子さんが心配するといけないから言わないでって部長に口止めされているんですけど、と前置きしたあと、十人近くいた入部者のうち残ったのはたったの一人だ、と教えてくれた。
「一人なんて、私がいたときと変わらないギリギリの人数じゃない」
「それは、そうなんですけど。ギリギリでもセーフはセーフなんで、降格審査も免れそうですし」
そもそも私が委員長に入部をお願いされたのも、『マジック部』の部員数が少なく、部と同好会の際どいところにいたためだ。
「それで、その辞めちゃった人たちの理由って、なんなの」
曜子ちゃんが黙る。それが端的に理由を告げていた。
「やっぱり、バニーがいけなかったのよね」
話題ばかりで、興味本位の人しか入らなかったのだ。そしてその原因は私なのだと思うと、落ち込んでしまう。
「そんな、なにを言ってるんですか成子さん。あれがなければ、そもそも観に来てくれる人だって少なかったし、部にだって誰も入ってくれなかったかもしれないですもん。一人残った子だって、最初は成子さんバニー目的だったんですよ。それがマジックをやるうちに嵌っていったんです」
「……」
「成子さんが入ってくれたから、みんな頑張れたんですよ」
「……私、なにもしてない」
曜子ちゃんが首を振る。
「成子さん、うちの部を助けるためだけに入部してくれたじゃないですか。あんな忙しい合唱と兼部なんて凄いって、二年の先輩たちは感激してましたよ。合唱って、文化部の中でも一、二を争うくらい練習量が多いし、朝なんて毎日練習しているじゃないですか。そんな人が入ってくれたって。あれで、エンジンかかったんですよ、みんな」
「ちょっと待って。曜子ちゃんも知っているでしょ。そんな立派な志で、入ったわけじゃないの。委員長――じゃなくて、佐藤君との勝負に負けて入ったんだから」
「でも、あの勝負だって、成子さんが負けを認めない選択だってあったわけじゃないですか。それに、成子さん、私たちの練習につき合ってくれたじゃないですか」
「それは、私も部員だったわけだし。みんな、頑張っていたから」
「それがものすごく嬉しかったんです、私たちには」
そんなものなんだろうか、と首を傾げると、曜子ちゃんは、そんなもんなんですっ、と言った。
帰りに駅前の内科に寄った。待合室には多くの人がいて、私はあちこちからする咳を聞きながら、長いこと順番を待った。薬局も混んでいた。風邪薬と、うがい薬をもらった。うがい薬は、半透明の袋に入った水色の粉だ。味気ない薬の中でそれは愛らしく映り、かばんに入れるとカサカサと音も立てた。
ふっと笑みが浮かぶ。でも、すぐに消えたのが自分でもわかる。
――十人近くいた入部者のうち残ったのはたったの一人。
その人数にもショックを受けたけど、その話を隣の席の委員長でなく、ばったり会った一年の曜子ちゃんから聞いたのもショックだった。委員長ってば、水臭い。話してくれてもいいのに。風邪予防のうんちくよりも、そっちがずっと大事だと思う。
でも、私だって委員長に訊かなかった。入部者がどうなったか気になったけれど、訊けなかった。もう、『マジック部』に関わる必要はないし、あなたとはなんの関係もないことでしょう、と言われるのが怖かった。
「成子さん、ありがとうございました」と言われたときに、私は委員長に突き放されたような気がした。
あのときからずっと、私は心の中に、微かな――ほんの微かな淋しさを抱えるようになった。
帰宅すると、母がリビングから飛び出してきた。ピンク色した半円状の小さな物体を抱えている。
「成子ちゃん、これ、貰っちゃったわよ」
近所の福引か、雑誌の懸賞にでもあたったのか。私が、よかったね、と母の横を通り過ぎようとすると、貰ったのはあなたよ、なんて母が言った。母の持つその物体をじっと見るが、どうも記憶にない。
「ほら、文化祭の準備で帰りが遅くなったときに、成子ちゃんをうちまで送って来たあの委員長さんよ。あの子が『成子さんに』って置いていったのよ」
「えっ、委員長がうちに来たの」
母からその物体を受け取るが、思いのほか軽かった。これはいったいなんだろう。
「それね、加湿器ですって。なんでも、委員長さんの家に余っているのがあって、よかったら使って下さいって。成子ちゃん、うちの加湿器が壊れたことを委員長さんに話したの」
「まさか。そんな話なんてしてないよ」
空気が乾燥する季節になると、私は加湿器で喉を潤すようにしていた。加湿器は合唱を始めた中学時代に買ったものだったが、去年末に壊れてしまった。すぐに買いに行けばよかったのに、ずるずると日延ばしにしているうちに、喉をやられた。
「あらまぁ。それは、不思議ねぇ」
そう言いながらも、母はニコニコとした顔をしている。
「……なんか、お母さんのその言いかたが、ものすごく嫌な感じなんですけど」
「あらら。私は、すごくいい感じよ。私の大切な娘を大事に思ってくれる人がいるなんて、母してはすっごくいい感じ」
そう言うと母は、大好きなドラマの再放送を見るのだと、リビングへ戻っていった。
水を満たした加湿器にスイッチを入れると、小さな緑色のランプが光った。
そしてしばらくすると、微かな水蒸気が部屋の中で立ち上がっていくのが見えた。
「ほんと。微かだなぁ」
微かだけど、確実に部屋の中は潤っていく。そして、その潤いが私の淋しい気持ちを、薄れさす。
私は自分の気持ちがよくわからない。
委員長に優しくされて、嬉しいんだか、切ないんだか、悔しいんだかよくわからない。自分の気持ちなのに、まるでこの水蒸気のように掴めない。
涙が、水蒸気とともに、部屋の中にとける。
私の心の中にあった微かな淋しさが、いま少し、色を変えた。