はじまりの二人
「あー足りない。いー足りない。うー足りない。えー足りない」
窓越しにも聞こえる雨音をバックに、佐藤 周明君が、恨めしそうな声を出している。 彼は、片手に持ったプリントを凝視ししていた。
佐藤君と私は、高校二年ではじめて同じクラスになり、縁あって一緒にクラス委員を任されている。佐藤君は委員長、私は副委員長。ちなみに、私も佐藤姓だ。佐藤 成子がフルネームだ。
佐藤君は、自分と同じ名字は呼びにくいと言い出し、私のことを「成子さん」と呼んでもいいかと尋ねてきた。断る理由も浮かばず頷いたものの、 そうなると私も「佐藤君」とは呼んではいけないような気持ちになり、「委員長」と呼ぶことにした。
「佐藤」は比較的よくある名字だ。私だって、今までなん人もの佐藤君や佐藤さんと出会ってきたが、その誰とも、そんな話が出たことはなかった。
委員長にしてみても、私が彼の人生において、親族以外ではじめて出会う佐藤ではないだろう。ということは、彼は今までも、そうやってきたのだろうか。
委員長に「成子さん」なんて名前で呼ばれるのは、正直最初は恥ずかしかった。けれど、彼の朴訥としたキャラクターのお陰か、二か月経った今では、もうすっかり慣れてしまっていた。
委員長は外見も、今どきの男子からは、少し外れている。比較的校則が自由なうちの高校では、男女ともに髪を明るくしている人もいれば、制服も自分なりに着崩している子が多かった。そんな中で委員長は、まるで大正時代の学生さんのように、黒ぶちの眼鏡をかけ、髪も小鳥が巣を作りそうなもじゃもじゃ頭だっだ。
「一年A組、平林大。彼は前部長の弟だから確定、と。で同じく一年A組、村野曜子。女の子だよね。珍しいなぁ、やっていけるのかなぁ。そしてニ年のぼくに、隣りのクラスの山岸と平根。計五人。あぁ、なんど数えても五人。やっぱり五人。あぁ、足りない。どうしても足りないっ」
委員長がもじゃもじゃ頭を、勢いよく掻き毟りだす。
「ちょっと、委員長、止めてください。なんかこっちに飛んできそうですよ」
さすがに「フケが」とは言えず、そこらへんを誤魔化しながら抗議した。すると委員長は素直に、「成子さん、すまない」と、髪から手を離してくれた。今がチャンスだ。
「委員長、あのね。いま大事なのは、このクラス活動報告書なんです。これを全部記入して、明日の朝一番に提出しなくちゃいけないんですから」
私は、皺だらけの活動報告書を手で伸ばしながら、机に置いた。これは、委員長の鞄の一番下で、くしゃくしゃになっていたものだった。委員長がそれに目を落とす。
「しかし、クラス活動をしたからって、一々報告書を書かせるなんて。ペーパーレスのこの時代に逆らった行為だと、成子さんも思いませんか」
「でも、学校から支給されるクラス活動費を使ったわけだから、ペーパー云々はともかく、出した方がいいと思いますけど」
ひと月ほど前、私たちはクラスの親睦会として学校そばの森林公園で、バーベキューをした。その報告書の締切は、三日前だった。私たちは二人は、それをころっと忘れていた。提出しなくてはならないプリントのありかさえわからないといった、お粗末さだったのだ。
その後プリントは、めでたく委員長の学生鞄の底から発掘された。私たちはクラス委員として、この二度目の締め切りに向かい、全力を尽くさなくてはいけない――はずなのだ。
「成子さんは真面目ですね。立派です」
「……締め切りを忘れていたところで、既に真面目でも立派でもないですよ。それに、このままこの教室にいたら、私たち干からびちゃいます」
私たちの教室は、他のクラスに比べてどうも湿気やすいようで、梅雨のこの時期は授業が終わるとすぐに除湿機をかけることが習慣となっていた。除湿機はコンセントの関係で、委員長の側にあった。会話をしている最中も、それは低いモーター音を立てながら働いていた。
「そうですね。実は成子さん、ちょっと聞きたいことがあるんですが」
「あぁ、バーベキューで、国産牛にするかオージービーフにするかで、揉めた件についてですか」
「いやいや。牛の話じゃなくて」
「だったら、飲み物を、ウーロン茶にするか麦茶にするかで、揉めたことですか」
「いや、あれはぼくも麦茶を推しましたけど。ってことじゃなくて、成子さんは、確か合唱部に入っていましたよね」
「えぇ、まぁ、そうですけど。……もしかして委員長、入部希望ですか」
「あいにく、ぼくの声は、音の高低に乏しく」
じっと、委員長を見つめる。人は見た目で判断するものじゃないけれど、たしかに委員長が歌う姿はあまり想像できない。
「でも、大丈夫ですよ。私が、委員長の面倒を見ますから」
「それはちょっと、魅力的――ではなくて。あの、合唱の練習日って、いつですか」
「毎日ですよ。声は、できるだけ日をおかずに続けて出した方がいいっていうのが、うちの部の方針なんで」
「えっ。毎日やっているんですか」
「そうなんですよ。放課後は教室の関係で、そうもいかないんですが、朝練習は毎日しています」
「放課後は、毎日じゃないんですね。暇な曜日もあるってことですよね」
その通りなので頷くと、委員長が机に上に手をつき身を乗り出してきた。
「だったら、この通りです。成子さん、どうかぼくの部に入って下さい」
「――なんですか、それ。ちょっと待って、委員長って、なんのクラブですか」
「マジック部ですっ」
委員長の声の勢いに伴うかのように、もじゃもじゃの髪はゆれ、黒眼鏡は下にずれた。
「……あの。それって、ネタですか」
「いえ、違いますよ。我が校に存在する、クラブ活動です」
「あの、マジックって、いわゆる手品とかそういった意味の使われ方ですよね」
「もしかして成子さん。油性とか水性とか、そっちの書くマジックを思ったんじゃないですよね」
まさか、と笑いながら、ちらりとそう思ったことを隠す。
「すみません。私、マジック部の存在を知りませんでした。失礼ですが、活動はしているんですよね」
「活動はしているのですが、ここ二、三年、部員数が限りなくゼロに近い数字でして」
そこから委員長はしんみりと、今年度の在籍部員数が六人以上にならないと、部から同好会への降格審査にかけられる話をした。同好会への降格となると、活動費は減り部室はなくなるそうだ。そして部室がなくなると、マジックで使う小物の置き場所に困ってしまうらしい。 幸いにも、新入生が二人入り、なんとか五人まで増やすことができたそうなのだが、あと一人がどうしても足りないと委員長は言う。委員長は、マジック部の部長でもあった。
「さっきまで委員長が見ていたのは、部員名簿だったんですね」
委員長は頷くと、「ですから、成子さん。人助けだと思って、うちの部に入ってください」と、頭を下げてきた。
沈黙の中、除湿機のモーター音がやけに大きく聞こえる。
マジックすなわち手品。今までの人生において、やろうと思ったことも、やりたいと思ったこともないジャンルだ。よりによって、そんな私に、何故白羽の矢が。あぁ、委員長のひたむきな視線が、痛い。
「無理です。入りません。自分がそんなこと、できるとは到底思えません」
「大丈夫です。ぼくが面倒を見ますから」
……委員長。それは、さっきの私の台詞、そのまんまではないですか。
「手品なんて、興味ないんです」
「それは、成子さんが面白さを知らないからですよ」
「そうでしょうか。だって、マジックなんて、いんちきじゃないですか。 本当はあるのに、ないかのようにしたり。本当はないのに、あるかのように見せたり」
「うーん、なるほど。つまり、あるんだか、ないんだかわからないものは、胡散臭いと言いたいんですね」
委員長の言葉に私が頷くと、彼はもじゃもじゃ頭に手を入れ、そのままのポーズで固まってしまった。どうか、これで私の入部を諦めてくれますように。
「わかりました。では、こうしましょう。ぼくはこれから、成子さんの目には見えてなかったけど存在しているあるものを、一瞬のうちに見えるものとして提示しましょう」
「目に見えないものを、見せるって言うんですか」
ふと、あることが頭を過る。
「はい、そうです。ぼくが見せたものに成子さんが納得してくれたら、うちの部に入るっていうのは、どうですか」
さも簡単そうに委員長が言う。
「ギャグとかじゃ、ダメですからね」
「勿論」
「マジックも不可ですよ」
「はいはい」
委員長との会話に混乱する。はじめから、自分が負けるとわかっている勝負をしかけてくるなんて、どうかしている。 彼が、なにを考えているのかわからないけれど、これで話が終わるなら、そうしたほうがいいのだろう。
委員長は徐に屈んだかと思うと、ごそごそとなにかをいじり、そして机の上に水の入ったプラスチック容器を置いた。 容器にはメモリがついていた。
「もしかして、これって」
確認するかのように、私は床に置かれているあるものを見た。
そこには、タンクのない除湿機があった。
「これは、成子さんの周りの空気にあった水分です。それらが、除湿機のタンクに溜まって、こうして目に見える水になっています」
……やられた。
「成子さん、マジック部へようこそ」
私の完敗の表情を見るなり、委員長がそう言った。
あぁ、私はなんてことをしてしまったんだろう。
委員長に言われるまま、入部届けに名前を書く。
はぁ、とため息をつく私に、「成子さん。目に見えなくても大切なものってありますよね」と委員長が言ってきた。
まるで、頭の中を覗かれたみたいで、どきりとする。
「さっき、委員長が『目には見えていないけれど存在している』って言った時、私、歌を思ったんです。私たちが歌う歌も、目に見える形あるものとしては存在していないから」
私の言葉を聞いている委員長は、とても穏やで優しい目をしていた。彼の醸し出すあたたかな空気に包まれるうちに、私の鼓動は、全速力で走ったかのように速まっていった。顔も熱くなってきた。
――もじゃもじゃ頭の黒眼鏡の委員長相手に、こんなことになってしまうなんて。
まるで委員長に、マジック(魔法)でもかけられてしまったみたいだ。
「ときに成子さん。白いウサギと、黒いウサギ、どちらが好きですか」
「……黒ですが、それがなにか」
いぶかしげな顔をする私に、委員長はにっこり笑うと「了解です」と答えた。
そして、数か月後。
私は文化祭で、『マジック部』として舞台に上がっていた。
さまざまなマジックを繰り出す委員長たちのそばで、黒バニー姿で花を添えた私は、一躍時の人になったのだった。