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緋の楼閣

作者: 樫宮穂月

 こんな夢を見た。

 私は追われている。逢魔ヶ時の山を息を切らして走る。着物の裾がまくれ、柔い肌が枯れ草に擦れる。

「はあ、はあ、はあ――」

 追っ手は複数いるようだ。風を切り凄まじい速さでこちらへ向かってくる。木の間を縫うように跳ねるアレは人間ではない。そんな芸当のできる者など物語じゃあるまいしいるはずはない。

 では一体、アレは何なのか。

 頭が理解を拒む。ザザザザザ。私を追いかける音が恐ろしくてたまらない。

 しかし――。

 と、走り続けている合間にふと思う。

 私は一体、何に追われているのだろう?


 林を抜けると一瞬、目が眩んだ。

 ――灯かりだ。

 草木の生い茂る山の中に、提灯のぶら下がった楼閣が現われたのだ。朱塗りも鮮やかな紅楼だ。闇に慣れた目には眩しく見えたが、実際はぼんやりと慎ましい光を湛えているのみである。夜の一歩手前の、まだうっすらと紫を孕んだ闇に浮かぶそれは妖しく美しい。

 どうやら頂上まで登りついたらしい。一瞬呆けてしまったが、どうしてこんなところにこんなものがなどと考えている暇はない。私は追われているのだ。私は勢いよく門を開き、転がるように入り込んだ。

「あの――すみません、よく解からない連中に追われているんです――匿って下さい!」

 ぜえぜえと息をつきながら、声の限りに必死に訴える。どのくらい走ったのだろう。それだけ言うと膝頭が震え立っていられなくなり、私は玄関にへたり込んだ。

「おやおや、何だいまあ」

 上からころころと笑うあだっぽい声が聞えてくる。

 見上げると、くっきりと紅を引いた女性と目が合った。女性は猫のような瞳でこちらを覗きこんでいる。年の頃は二十半ばほどであろうか。緋色の地に見事な菊の文様の入った着物がよく映えている。艶のある粋な風情からは堅気の人間ではないことが窺がわれた。

「まるで妖怪にでも遭ったようだねえ」

 私は何か言おうとしたが、何しろ呼吸もままならないような状態であったので、見苦しくないよう息を整えるのに精一杯だった。そんな私とは正反対に、女性はくるりと優雅に煙管(キセル)を回し、ふうっと紫煙を(くゆ)らせる。

「ここいらは暗くなると人もなかなか通らないからねえ。街もそう遠くないとはいえ、何せ山の中だ。怪しのものが出たっておかしかあない。そしたらお嬢さん――取って食われちまうよ」

 赤い唇をにいっと歪め、女性は悪戯っぽく笑う。女性は冗談で言っているようだが、そうなってもおかしくなかったのだ――。抜き身の刃を絶えず振り下ろされているような危機迫るものを、走っている間中ずっと感じていた。いまだ残る、背中にべったりと貼りつく恐怖にぶるりと震え、私は自分の肩を抱き締めた。

「ま、こんな時間に来た人を追っ払いやしないよ。安心しな」

「あ――ありがとうございます!」

 私はようやく声を出すことができた。女性の言葉にほっと安堵の息を漏らす。

「でも、タダってわけにはいかないよ。飯と宿代の分はきっちり働いてもらうからね」

「はい!」


 女性はここの女将なのだという。もとは花街の名のある妓楼にいたらしいが、今はここで遊郭をしているのだそうだ。こんな辺鄙なところによく作ったものだと思うが、人里離れた場所だからからこそより魅力的に感じるのよと女将は言う。世間を忘れ、時を忘れて法悦境にまどろみ、耽ることができるのだと――。

 まあ、他にすることがないからとも言えるかもしれないけれど。

 場所だけでなく、この遊郭は中身も一風変わった仕組みになっている。建物自体は和風であるが、その中は実に異国情緒豊かである。支那風、(ベト)(ナム)風、波斯(ペルシア)風、希臘(ギリシア)風、西洋風、田園風など様々な作りの部屋があり、ひとつとして同じものはない。客はその日の気分で部屋を選び、お気に召した女を呼ぶ。それを聞いた女達は部屋に似合いの衣装を纏い客のもとを訪れるというわけだ。それが評判なのか、この山には夜ごとやんごとなき方々が人目を忍んで訪れるのだという。

 私は女将の話を豪奢な打掛を着せられながらおとなしく聞いている。

 部屋に上がる前にまず汚いからと風呂に入れられた。裸足で走り何度も転げたからであろう、私は泥と引っ掻き傷だらけだった。特に足がひどく、落ち葉や小枝を踏みつぶしてきたため熱を持ちまともに歩けない。湯浴みをしてしみる薬を塗られ、包帯をぐるぐる巻きにされてしまった。

 さっぱりして女将のところへ行くと、くいと顎を持ち上げられ、矯めつ(すが)めつじろじろ眺められた結果、どういうわけか着せ替え人形にされてしまった。はじめは鎧のようなコルセットにふわりと広がる西洋服、それからぴったりと身体の線も露わな支那服、そして今は古式ゆかしい花魁の衣装である。伸ばしっぱなしの髪も綺麗に結われ、ぶすぶすと遠慮なく簪を刺された頭がたいそう重い。

「んー、見目がいいからどれも映えるわねえ。でも、やっぱりこれが一番かしら」

 服を取りかえ髪型を変え化粧を施し変幻していく私の様子を、女将は楽しげに眺めている。働いてもらうと言うからてっきり炊事や掃除をやるのだと思っていたのだが、どうやら客の相手の方らしい。

「想像以上だわあ。これならすぐにお客がつくわよ」

「あの、私、遊郭の作法など何も存じませんが……」

 春を売ることに対する抵抗はないが、問題はそこだ。わっち・ぬし・ありんすの廓言葉に始まり、こういった館には様々な決まりごとがあるのだという。それに誇れるような性技もない。私のような素人が立ち入ってよい世界なのだろうか?

「大丈夫よ、うちはそんなかたいところじゃないから心配しなさんな。ただひとつ、お客と時間を共有して満足させればそれでいいのよ。人によって望みが違うからはじめのうちは難しいかもしれないけど、要は慣れよ」

 女将はからからと笑う。はあと情けない声を上げ首を傾げていると、まあ頑張りなさいと緋の袖を揺らし去っていった。


 こうして私は、この楼閣で働くことになったのだ。はじめのうちは歩けなかったので、ただ人形のように座っていた。異国の衣装を纏い部屋に居るとまるで別の国の人間になったようだった。酌くらいはできたが、酔いが回るうちに次の間へと手を引かれ、衣を剥がされた。

 行為の詳細も知らなかった私は客のされるがままになっていた。破瓜の痛みも忘れ去り、肌を合わす悦楽を覚えるようになった頃、客は手ずから技巧を仕込んでいった。そうして幾人もと体を重ねていくうちに、ひとりひとりの癖が解かるようになった。

 どう振る舞えば喜ぶのか。どう扱えば心地よくできるのか。どうすれば無何有境へ至ることができるのか――。ただそれだけを考えて日々を過ごす。こうして人と向き合う仕事は私の性に合っているらしい。

 行く当てのない私はそのまま楼閣で暮らすことになった。日のあるうちは館を掃き清め、井戸で汲んできた水で洗濯し、山菜を摘んで料理をし、窓からの木々を眺めつつ読書に勤しむ。夜を待って春を売り、快楽の果てに眠りに落ちる。なんという極楽。これで暮らしていけるなんて、下界での生活は一体なんだったのだろう。

 時折何かを忘れているような気がして振り返るけれど、それが何なのか、私には判らなかった。


 ある日、洗濯物を取り込んだついでにふと思い立ち、楼閣のまわりを散歩してみることにした。足が治るまでは外に出られなかったし、水を求めるか衣を干すかの他にさして用などなかったのだ。楼閣の中庭にも楓や銀杏が植えられているが、やはり自然の繫茂には敵わない。山肌が一面、見るも鮮やかに染まっている。縦に横にと金糸銀糸を織り込んだ絨毯のよう。思わず溜め息が漏れる。

 あまり行くと迷う恐れがあるので、紅楼が見えるくらいを保ちながら歩く。綺麗な葉を拾いながら、丸丸と太った実を取りながら進んでいく。しばらく行くと、少し開けた所に出た。

 そこにあったのは、墓、墓、墓――。

 見渡す限りの灰色である。

 楼閣の裏にこんな所があったのか。山だから墓があってもおかしくはないが、ずいぶんと(おびただ)しい数だ。生きている人間より死んだ者の方が多いのだからそれも道理なのだけれど。

 墓の間を歩きながらそんなことを思う。

 墓を見比べていくのは結構面白い。あちらには何段も四角い石を積み重ね、ぴかぴかと輝いている墓。こちらには忘れ去られてしまったような小さな墓の群れ。遠くから見ればどれも同じだが、よくよく見ると異なっているのだ。家紋であったり、彫られているものであったり、献花の位置であったりが少しずつではあるが違っている。墓の大きさがそのままそこに納められている一族の顕示欲の塊のようで、愚かしくもあった。雨風に(さら)され彫られた名も消えてしまったような、苔生(こけむ)した小さな墓が好ましかった。こちらの方が余程風情があるというものだ。

 変わった形の墓を探していると、灰色の中に白や薄茶が見えた。

 何だろうと目を凝らす。何やら生き物のようだ。墓石に猫が座っている。それも何匹もだ。箱座りで小さくまとまっており可愛らしい。ふわふわとした冬毛にくるまってとてもあたたかそうだ。私は猫達が逃げないようそろりそろりと墓に近寄った。

「今月の稼ぎはどうだい?」

「まあまあかね」

 猫まであと墓ひとつとなったとき、私はぎくりと固まった。

 猫が、しゃべった――?

 いや、そんなはずは……頭の中の常識が、認めることを許さない。

 では、聞き間違い、だろうか……猫の声を赤ん坊の泣き声と聞き間違えたり、まるで話したように聞こえたりというのはままあることらしい。それにしてもはっきりと聞えたが……。もしかすると、周りに誰かいたのだろうか?だが、辺りを見回してもそれらしき人影はない。墓の影に隠れでもしているのだろうか?――一体何のために?

「新しいのが入っただろう?あの娘がなかなか人気でね」

「あの色の白い子かい?確かに拾いもんだったねえ。小汚いなりして入ってきたから使いもんに何のか心配したけど、とんだ杞憂だったね。一番客がついてるんでないの?」

「そうそう、とくにあの華族の若さまがご執心でねえ」

「ああ、あの優しげなお方ね。あの娘を水揚げした人だろう?」

「そうだよ。それから三日と開けずに来るんだから、他の娘達が悔しがってるよ」

 この艶のある声は、女将だ!

 しかも、猫達は私のことを話している。柔らかな髪の、美しいお方。私を気に入って下さったようで、よく私の所へ来られる。あの方はお客の中で誰よりも一番優しくして下さるのだ。

 聞き覚えのある声が猫の口から聞こえる。あれは下働きのお婆さん、あれは禿(かむろ)、あれは(あね)さん――。

 はやくここから逃げなくては。

 でも、気が遠くなってしまって、足に根が生えたように動かない。

 体中の骨がぐにゃぐにゃに溶けてしまったように力が入らない――。

 私はせっかくたたんだ洗い物をぼろぼろと落としてしまった。

「おや、聞いていたのかい」

 顔を洗っていた手をぴたりと止め、猫達はいっせいに私の方を向いた。

「今更逃げようとしたって無駄さ」

「結界の外には出れやしない」

「お前は私達のために働き続けるんだよ」

 女将は裂けた口でにゃあと鳴く。


 ――ああ!


 楼閣に妖しく緋が映える。まるで山が燃えているようだ。鮮らかな夕日が闇を引き連れ追ってくる。 

私は叫び声をあげ、裸足のまま山を駆けぬけた。


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