武士の都・鎌倉の文化の起点
鶴岡八幡宮は鎌倉幕府と共に始まり、今日まで、鎌倉の発展を見守り、支えてきました。
この場所から、多くの歴史の物語や、今に受け継がれる伝統文化が生まれました。
「武士の都・鎌倉の文化の起点」とも言える鶴岡八幡宮の由緒を通して、歴史や文化、鎌倉の地についてご案内いたします。
武家社会の起点
鶴岡八幡宮の始まり
始まりは、鎌倉幕府を築いた源頼朝公の祖先源頼義が、京都の石清水八幡宮を勧請(神様の御分霊を他の地に還し祀ること)したことです。頼義は石清水八幡宮を篤く信仰しており、源氏の氏神として八幡神を鎌倉の由比ヶ浜辺に祀りました。
その後、源頼朝公が現在の地にお還しし、鶴岡八幡宮の基礎を造りました。
東国社会の中心的存在へ
始まりは、鎌倉幕府を築いた源頼朝公の祖先源頼義が、京都の石清水八幡宮を勧請(神様の御分霊を他の地に還し祀ること)したことです。頼義は石清水八幡宮を篤く信仰しており、源氏の氏神として八幡神を鎌倉の由比ヶ浜辺に祀りました。
その後、源頼朝公が現在の地にお還しし、鶴岡八幡宮の基礎を造りました。
八幡神を祀る神社は、全国に4万社以上あると言われています。古くより源氏の氏神とされ、「武運の神」としても全国で信仰されました。
鶴岡八幡宮では、「応神天皇」、「神功皇后」、「比売神」の三柱の神様を御祭神としてお祀りしております。
応神天皇は第十五代の天皇であり、父は仲哀天皇、母は神功皇后となります。元明天皇の和同五年に現在の宇佐神宮にお祀りされ、その後清和天皇の御代に石清水八幡宮に勧請され、後白河法皇の建久二年に当宮にお祀りされました。造船を奨め、大陸の文化を盛んに取り入れるなどの功績があります。
神功皇后は仲哀天皇の皇后であり、亡くなられた仲哀天皇のご遺志を継ぎ、熊襲征伐や三韓征伐を達成し、応神天皇が即位するまでの間、政事を執り行い聖母とも呼ばれています。
鎌倉文化の起点
今に残る武家文化 「流鏑馬」の発祥
「流鏑馬神事」とは、一般的には武士が馬で駆けながら、弓矢で3つの的を射抜くことによって年占をしたり、当たった的や矢をご守護として頂く神事です。
鶴岡八幡宮の流鏑馬神事は、源頼朝公が天下泰平・国家安穏の祈願し、鎌倉時代に催されたのが始まりです。年に1度の一大行事で、多くの人々の前で御家人たちが御神前で弓馬の技を披露する晴れの場でありました。
今日でも、9月の例大祭に於て「流鏑馬神事」として、鎌倉武士さながら狩装束に身を包み、神事が執り行われております
国宝に因む
「破魔矢」の発祥
鶴岡八幡宮の初詣では、魔除けの縁起物「破魔矢」を手にした多くの参拝者を見かけます。授与される破魔矢は、源頼義が石清水八幡宮から勧請した際に賜った国宝「黒漆矢」に因んで作られたとされています。
仏教思想との交わり
受け継がれた「放生会」
かつて、八幡神は仏が姿を変えて現れたとする考えが進みました。この仏教的思想を取り入れ、源頼朝公によって始められたのが「放生会」です。殺生禁断に基づき、捕らえた生き物を放ち功徳をほどこす法会です。その期になると東国一帯に殺生禁断の命が出されるほど、幕府あげての一大神事でありました。
現在は、放生会が執り行われた旧暦8月15日に当たる、9月14日から16日までの3日間、一年を通して最も重い祭事である「例大祭」として、以来絶えることなく800年の歴史と伝統が伝えられております。
近年には、生命の尊さや季節に対する感性を守り伝えようと、例大祭で「鈴虫放生祭」が始められました。
都市鎌倉の起点
まちづくりの中心
参道「若宮大路」
由比ヶ浜海岸より八幡宮へ一直線に延びるおよそ2kmの参道・若宮大路。京都の朱雀大路になぞらえ、源頼朝公が鎌倉の街づくりの第一歩として、また、妻・北条政子の安産を祈願して、頼朝公自らの指揮のもと、御家人たちが土石を運んで築造したと伝えられています。今でも多くの建物が立ち並ぶように、鎌倉の中心軸となり都市が発達していきました。
鎌倉の移り変わり
鎌倉幕府が終焉を迎えると鎌倉の地は活気を失います。しかし、武家政権発祥の地としての信仰は篤く、江戸時代には徳川家康が鶴岡八幡宮を中心に社寺の復興・保護に力を注いだことを機に、鎌倉の観光地化が進みます。明治・大正時代にかけては、川端康成や小林秀雄など鎌倉を好む作家が増え、「鎌倉文士」として多くの文化人が居住、滞在しました。
そして今日では、歴史を継承した街として年間を通じて国内外より多くの方が訪れます。
鎌倉巡りの起点
ゆかりの地を巡る
武家社会の成立を機に、鎌倉の地では多くの歴史の物語が生まれました。
鶴岡八幡宮の周辺には、八幡宮や源頼朝の物語を語り継ぐ史跡が多く残ります。史跡を巡ることで、古都・鎌倉の悠久の時を辿ることができるでしょう。
鎌倉幕府の始まりと終わりを巡る
日本史上初の武家政権「鎌倉幕府」。平家追討のお告げを授けた佐助稲荷神社から、終焉の舞台である東勝寺まで、誕生と終焉の史跡を巡ります。
1.源氏山
この山の麓には、代々の源氏の邸があったため「源氏山」と呼ばれたと考えられています。また、源頼義、義家の父子が奥州征伐の時に、この山に源氏の白旗を立て、陣容を整えたという伝説も残っています。山裾には、実朝公と政子の墓と伝えられるやぐらも残っています。山頂には、鎧に身を固めた頼朝公の像が鎮座し、今も鎌倉の街を見守っています。
2. 佐助稲荷神社
流人として蛭ヶ小島に流されていた源頼朝公が病気になったとき、三晩続けて鎌倉の隠れ里の稲荷と称する白髪の翁が現れて、平家追討と天下統一を成就せよと勧めたといいます。その後幕府を開いた頼朝公はその神恩に感謝し、佐助ヶ谷にその稲荷と思われる小さな祠をみつけだし、社殿を再建したといいます。
頼朝公の源氏再興を助け、出世の後押しをしたことから「おたすけ稲荷」「出世稲荷」「勝利稲荷」とも呼ばれ、大勢の参拝者でにぎわいます。
3. 大蔵幕府跡
鎌倉入りした源頼朝公が居館を構え、初期の政権機能を置いた場所です。鶴岡八幡宮を鎌倉幕府の精神的な中核としたのに対し、ここは日常的な実務の中心となっていました。
4. 源頼朝の墓(白旗神社)
頼朝公を御祭神とする白旗神社と法華堂跡石碑を通り、石段を登っていくと、源頼朝の墓があります。質素な佇まいに思われますが、古来鎌倉は地勢を生かした“やぐら”(横穴式の墳墓)の墓所がほとんどであるのに対し、頼朝の墓は層塔の様式で祀られています。当初より有力御家人とも一線を画した特別な方として扱われていたことがわかります。
5. 仮粧坂
当時の鎌倉に入るための幹線道路であった七切り通しの1つ。鎌倉幕府終焉を招いた、新田義貞による鎌倉攻めにおいて、小袋坂・極楽寺坂と共に主戦場となりました。特に、仮粧坂は義貞自身が本体を率いて攻め込んだ場所です。その後、稲村ヶ崎に回った義貞は、鎌倉中心部まで一気に攻め入り勝利を収めました。
6. 東勝寺跡
この場所は『腹切りやぐら』としても有名です。新田義貞による鎌倉攻めによって、追い詰められた鎌倉幕府第14代執権 北条高時は諸大将と共に父祖代々の菩提寺である東勝寺へ移り、寺院に火をかけ一族283人、総勢870人余りが我先にと次々に自刃して果てました。源頼朝公が開いた鎌倉幕府はここ東勝寺にて終焉を迎えたのです。
おおまかだが、少しだけ鎌倉について書いてみたが、自分の目で自分流の鎌倉を感じるのも良いと思う。




