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9話 漆黒の宝石と、ふたりの春風

宝石店の扉が静かに閉じると、街の喧騒はたちまち遠ざかり、ショーケースのガラス越しに柔らかな光がきらめいていた。

クロノはリリエルの腕を離さず、まっすぐ店の奥へと進む。その手の強さにリリエルは少し戸惑いながらも、どこか抗うことなくクロノの歩調に自然と引き込まれていく。


店内にはほのかに甘い香りと磨き抜かれた空気が満ち、並ぶ宝石たちの華やかな煌めきがリリエルの頬をほんのり染めていった。

ショーケースにはルビー、サファイア、エメラルド、精緻な銀細工――どれもがまぶしいほど美しく、リリエルは夢中で見入っていた。


「……このルビー、とても鮮やか」

「見て、このイヤリングも本当に素敵……」


宝石を見つめて微笑むリリエルの横顔に、クロノの胸は自然と高鳴る。その笑顔がどの宝石よりも美しい――クロノは、その横顔を見るだけで胸がドキドキして、どうしようもなくなっていた。


店の静けさは、ふたりだけの特別な世界をそっと包みこむ。

やがてリリエルはふっと顔を曇らせ、ショーケースから名残惜しそうに手を離した。


「でも……借金まみれのうちには、手が届かない夢物語よね」


小さなため息とともに現実の影が差す。だがクロノは、何も気にしない様子でリリエルの手をぐいと引いた。


「ついてこい」


その低く迷いのない声に、リリエルは思わず足を止めることもできず、クロノに導かれて歩き出す。


店内最奥の高級品が並ぶ区画。ガラス越しの照明が重厚な絨毯や調度品に反射し、静かな威厳が漂う。

堂々と歩くクロノと、少し戸惑いながらも連れられるリリエル。その姿に、周囲の店員たちは思わず目を見張ったが、誰ひとり声をかけることはなかった。


やがてグレーの髪を丁寧に撫でつけた燕尾服の店長が姿を現す。

「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用命でしょう?」


クロノは一切の迷いを見せず、静かに言い切った。


「この店で一番価値のある宝石を持ってこい」


店長はわずかに目を見開いたが、すぐプロらしい笑みで深く頭を下げた。

「かしこまりました。こちらへ」


重い扉の奥から運ばれてきたのは、王家の紋章が刻まれた箱。その蓋が静かに開かれ、蒼く輝くサファイアのネックレスが姿を現す。

まるで物語の中の宝物のようなその美しさに、リリエルは思わずため息を漏らした。


「こんな宝石、夢のまた夢……」


だがクロノは、サファイアに目を向けると、ほんの一瞬で視線を逸らした。


クロノは特に興味を示すこともなく、「ふん」と短く返すだけで、すぐにポケットから小さな黒い原石を取り出し、店長の前へ堂々と差し出した。


その石は漆黒の奥に赤い閃光を宿し、ただならぬ重みと存在感を放っている。

店長は目を見張り、身を乗り出して石を凝視した。「……失礼ですが、少し鑑定させていただいてもよろしいでしょうか」


「勝手にしろ」


クロノは構うそぶりもなく原石を渡す。店の奥に緊張感が走るなか、リリエルもそっと息を呑みながらその様子を見守っていた。


やがて店長が鑑定士を伴って戻ってくる。その顔には驚きと興奮、そしてどこか畏れさえ浮かんでいた。


「お待たせしました……こちら、やはり“漆黒のドラゴンの魔核の破片”に間違いございません。市場で見たことがある者など、私どもの中には誰ひとりおりません」


リリエルは思わず息を呑む。伝説の竜の魔核、その価値の大きさは素人でも分かるほどだった。


店長は深々と頭を下げ、慎重に口を開いた。

「お客様……もしよろしければ、この宝石を当店でぜひ買い取らせていただけませんか」


「いくらだ?」

クロノが無造作に尋ねると、店長は緊張した面持ちで見積書を差し出した。


クロノはその金額を見てもピンとこない様子で、リリエルの方を向く。

「この額で問題ないか?」


リリエルは数字を見て、思わず息を呑んだ。

それはフィアレスト家の莫大な借金をすべて返済しても、まだ余るほどの大金だった。


「こんな……本当に、家の借金がすべて……!」


「よし、その金額で売ろう」


クロノがあっさりと頷くと、店長は胸をなでおろし、もう一度深々と頭を下げた。

そして少し気まずそうに、けれど丁寧にリリエルへと声をかける。


「もしよろしければ、お隣のご婦人も、この店の中からお好きな宝石を一つお選びください。ささやかですが、私どもの感謝の気持ちです」


リリエルは驚きで目を丸くしながらも、そっとショーケースを見渡した。


リリエルは戸惑いながらも、ひとつひとつ宝石を見渡し、やがて片隅にひっそりと輝く月型のペンダントに目を留めた。


「これが、いいです……」


店長は丁寧にペンダントを包み、リリエルに手渡す。クロノは彼女の横顔を静かに見つめ、満足げにうなずいていた。


リリエルは目を潤ませ、「ありがとう……」とクロノに小さく呟く。


ふたりが店を出ると、夕暮れの光が通りに差し込んでいた。

リリエルは胸元のペンダントをそっと握りしめ、「こんな日が来るなんて、夢みたい……」とつぶやいた。


その横顔を見た瞬間、クロノの胸はまたドキドキと高鳴った。リリエルの幸せそうな表情が、宝石よりもずっと美しく感じられて、思わず視線をそらしてしまう。


クロノは空を見上げ、堂々とした声で言う。

「父上の言う通りだな。女は、こういうものが好きらしい」


リリエルは恥ずかしそうに微笑み、クロノと並んで家路を歩き始める。

ふたりの距離は少しだけ近づき、やさしい春の風が宝石の輝きをそっと包んでいった。


そして、漆黒のドラゴンの魔核を売った出来事が、ふたりの物語に新たな波紋を呼び込んでいくのだった。

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