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4話 黒き英雄と初恋のざわめき

市場の朝は、いつもよりにぎやかだった。リリエルに頼まれて荷物を運び、値段交渉を手伝いながら、クロノは雑踏のざわめきに少し戸惑っていた。


そのとき――遠くで悲鳴が上がる。


「魔物だ! 上だ、飛んでるぞ!」


見上げると、巨大な飛行魔物――ワイバーンが、羽ばたきながら市場を狙うように、屋根を引き裂き、人々の頭上を舞っていた。悲鳴や怒号、逃げ惑う群衆が広がり、リリエルも驚いてクロノの袖を思わずつかむ。その手は小さくて温かい。クロノの心が不意にざわつく。彼女の瞳に浮かぶ驚きと信頼の混じった表情が、なぜか胸をドキリとさせた。


――今の魔王軍は統制が取れていない。仕方ない、俺が行くしかないか。


クロノはそっとリリエルの手を振りほどき、裏路地の影へと素早く消える。周囲の誰にも気づかれず、クロノの姿が闇に紛れた。


次の瞬間、広場の屋根に“黒き影”が現れる。漆黒の大きな翼を広げ、全身が影のように揺らめく――黒翼の魔王、その本来の姿。金色の瞳が鋭く光り、風を裂く気配が市場全体に広がっていく。


ワイバーンが牙をむき、人々の悲鳴がさらに高まる。そのとき――


「去れ、愚かな物」


誰にも聞こえぬ低い声で、クロノはひとこと告げた。一歩踏み出すと、魔王の本能が目覚め、重苦しい空気が市場を包む。ワイバーンがクロノに気づき、威嚇しながら飛びかかる。


クロノは魔力の残りを腕に集め、疾風のごとく跳躍した。「くだらぬ――」

その右手一閃で、ワイバーンの巨体は一撃で地面に叩き落とされる。


群衆の誰もが、屋根の上の“黒き異形”を目撃したが、クロノは圧倒的な姿のまま、すぐにその場を離れた。


「い、今のは……誰だったんだ!?」「助かったぞ!」「黒い英雄だ!」


騒然とする市場。リリエルは群衆の中でクロノの姿を探すが、見つけることはできなかった。袖を掴んだ瞬間のクロノの温もりだけが、まだ胸の奥に残っている。


――クロノ、どこに行ったの? 無事ならいいけど……


やがて裏通りの影から、いつものクロノがそっと現れる。「勝手に動くな」とリリエルを見据えるが、その声が少しだけ硬い。


リリエルは首を傾げて、照れ隠しのように素っ気なく「はぐれたのはクロノの方でしょ。……でも、ありがとう」と小さな声で付け加え、視線を逸らした。


クロノは視線をそらし、心臓が不自然に早く打っているのを自覚する。顔が熱くなり、胸の奥に妙な痛みが走る。

――なぜ、この娘の驚いた顔が、袖の温かさが、こんなにも俺の心を乱す?


市場では、“黒き影”の英雄譚が早くもささやかれ始めていた――

誰も、それがクロノだとは思いもよらない。


昼になっても市場のざわめきは収まらず、子供たちは「黒い翼の英雄、超かっこいい! 僕も飛べるようになりたい!」と興奮して走り回り、老人たちは「昔の守り神みたいじゃのう……町を救ってくれた」と語り合う。商人たちも「これで商売が活気づくぞ! 黒き英雄グッズを作ろうか」と活気づいていた。


リリエルは買い物袋を抱えながら、「あれはいったい誰だったのかしら……」と眉をひそめる。隣のクロノをちらりと見て、頬がわずかに赤くなる。クロノは平静を装って歩いていたが、心の中には波のような違和感が揺れていた。


――たかが人間ごとき、死んでもかまわぬはずなのに。

――魔王である俺が、なぜ救った?


家に戻る道すがら、カイルとエドガーが駆け寄ってくる。「リリエル! 大丈夫だったか!」「おねえちゃん大丈夫?」と心配そうに尋ねる。リリエルは「うん、クロノが一緒だったから大丈夫よ」と微笑んでいた。クロノは堂々と、「さしたる事ではない」と短く返すが、耳が少し赤い。


カイルがからかうように「クロノ、なんか顔赤くない? 姉さんのこと守って興奮した?」と笑い、エドガーが「お前、変な気を起こすなよ」とくぎを刺す。クロノは「黙れ」とぶっきらぼうに返すが、家族の笑いがさらに広がる。


家に帰ると、ミレーヌが鍋をかき混ぜながら「ニュースはもう広まってるわよ。市場で魔物が出たって!」と声を張る。バルサムも新聞を手に、「噂では“黒翼の魔人”だとか“黒い守り手”だとか、いろいろな話になっております」と報告する。カイルは「黒い英雄、かっこいいよね! 僕も英雄になる!」と無邪気に目を輝かせていた。


クロノは「たかがワイバーン、騒ぐほどの事はない」と自然に答える。だが胸の奥では、


――なぜ救った、この鼓動はなんだ……?

――俺が人間を救うなど、プライドが許さないはずだ。だが、このざわめきは……妙に心地いい……


と、初めての感情に戸惑っていた。


夕食の席では、市場の話題で盛り上がる。「やっぱり王都の騎士団が来てたら遅かっただろうな」「魔物退治って本当にあるのね」


リリエルが面白半分に笑って言う。「あの守り手は、ちょっとクロノに似てたな」

クロノは当然のように言い切る。「俺だからな」とパンをかじったが、頬が熱くなり視線を下げる。


みんなが大笑いし、「クロノはおもしろいな」と、リリエルも涙目で笑っていた。彼女自身もクロノの言葉に少し動揺し、「まさか……ね」とごまかすように付け加えた。家族の笑いが柔らかく残るなか、クロノは温かな空気に包まれ、事件後の高揚が徐々に日常の安堵へと溶けていくのを感じていた。


夜、クロノは自室の窓から静まった町を眺めていた。月明かりがやわらかく部屋を照らし、遠くの風が心地よい静けさを運んでくる。


――この胸の高鳴りは何だ……

――リリエルの小さな「ありがとう」が、なぜこんなにも響く。

――魔王の俺が、こんなことで心を乱すとは……

――だが、もう認めるしかない。この感情は、恋か……


ふいにリリエルが部屋の前に現れる。「……ありがとう、今日も色々助かったわ」と、少し照れた様子で髪をいじり、「明日もよろしくね」と付け加え、素早く去っていく。その足取りにわずかな迷いが見えた。


クロノはほんの少しだけ微笑み、「容易い事だ」と短くつぶやき、顔が熱くなるのを感じて下を向いた。リリエルの去る足音が廊下に響く。穏やかな夜の余韻が、クロノの孤独な胸に優しく残っている。


“クロノ”となった魔王に、恋愛の想いが芽生えていた。

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