2話 目覚めた魔王、まさかの主従契約!? 家族の輪に戸惑う
それは、春の柔らかな光が屋敷の窓辺に広がる朝だった。窓の外では小鳥たちがさえずり、街の遠いざわめきが薄く聞こえてくる。クロノは、重くぼんやりとした頭をもたげて、ゆっくりとまぶたを開けた。見慣れぬ天井。漂う薬草の優しい香り。自分がどこにいるのか、しばらく分からなかった。
遠い夢を見ていた気がする。思い出そうとすると、霧がかかったように記憶がぼやけて消えてしまう。ただ、誰かが額を拭き、暖かな声で呼びかけていた――そんな断片的な感触だけが心に残っていた。
体を起こそうとした瞬間、全身を走る鈍い痛みに思わず顔をしかめる。視線を窓辺にそらし、微かなため息が漏れた。その気配に気づいたのか、廊下の向こうで足音が近づき、扉がそっと開く。
少女のリリエルがゆっくりと部屋へ入ってきた。まるで朝の光そのもののように柔らかい雰囲気が広がる。「……やっと目が覚めたのね」
その声には驚きと安堵が入り混じっていた。リリエルはすぐに執事のバルサムを呼び、料理長のミレーヌがスープを用意しに走り、カイルとエドガーも入れ替わりに顔を覗かせてくる。家族や使用人たちが何やら大騒ぎしている気配――その賑やかさが妙に心地よく、クロノは戸惑いながらも、視線を伏せて胸の奥に微かな逡巡を隠した。
「名前は?」
リリエルがそっと眉を下げ、優しく問いかける。青年は意識が薄れる中で、「……魔王だ」とかすれた声で答えた。
リリエルは苦笑し、「熱で忘れてるのね」と首を小さく傾けて、唇に柔らかな笑みを浮かべた。「あなたの名前はクロノにするね。いい名前でしょ?」と、微笑みながらベッド脇に腰を下ろした。その瞬間、クロノの心には言葉にならない違和感がざわついた。新しい名を与えられた瞬間、自分の中の何かが微かに揺れるのを感じていた。
「まだ体は治ってないから、しばらくは安静にしていて」
リリエルの言葉に続いて、ミレーヌが湯気を立てたスープと柔らかなパンを差し出す。「しっかり栄養つけなさいよ。細いままじゃ、この家で生き残れないわよ!」
明るい声と母性に満ちた仕草が、台所からの温かな匂いと一緒に部屋に広がる。
クロノはベッドに身を沈めたまま、「俺の名はクロノ……クロノ……」と何度も呟いた。与えられた名が意識の底に刻まれていく。
エドガーはベッドの脇で眉をひそめ、「無理をしないようにな」と釘を刺す。皮肉めいた視線をそらしながらも、その表情はどこか心配げだ。まだ幼い弟カイルは「新しい兄さん?」と無垢な目で問いかけ、嬉しそうに手を振る。執事のバルサムは「ご無事で何よりです」と穏やかに頭を下げた。
クロノは、ほんの少しだけ微笑んだ。これまでの苦難の日々が、遠いものになっていくような錯覚があった。スープを一口すすると、じんわりと心まで温かさが染みていく。
もう一度、俺はクロノとして生きるのか――
リリエルはクロノの様子を見つめながら、小さく息を吐いた。少女らしい柔らかな視線の奥には、母性的な心配と、不思議な安堵が混じっていた。厄介なことになった、と内心では思いながらも、彼女の唇には自然と優しい笑みが浮かんでいた。
こうして、新しい名を得た魔王は「クロノ」としての一歩を踏み出すことになったのだった。
クロノは目覚めてからも、しばらくベッドの中で天井をぼんやりと見つめていた。部屋には朝の光がそっと差し込み、外から小鳥のさえずりが響き渡っている。家のどこかではミレーヌの笑い声と包丁の音が混じり合い、屋敷全体が目覚めのざわめきに包まれていた。
ふと、ベッドの脇にエドガーが座っていることに気づく。エドガーはどこか気まずそうに視線をさまよわせ、少しだけ躊躇したような声で尋ねた。
「体は……大丈夫そうか?」
クロノは言葉を探しながら、ゆっくりと頷いた。手元のパンをちぎる指先がほんのりと震える。思考の奥底で、人間の優しさに囲まれる自分の現実を噛みしめていた。救いの温もりが、胸の奥に小さな灯りとなって残る。
エドガーは短く頭をかき、「妹が世話をしているからな。正直、邪魔なだけだが……妹には逆らえなくてな」と、照れ隠しのように視線をそらす。その声の端々には、妹を想う気持ちと複雑な苛立ちが見え隠れしていた。
クロノは、そのやりとりに奇妙な温もりを覚えた。だが同時に、誇り高い魔王としての自分が人間の庇護を受けているという事実が、屈辱のように胸を締め付ける。わずかに目を伏せ、ため息を堪えた。
廊下からはカイルの声が聞こえてくる。「姉さん、あの人起きた?」
幼い弟の無垢な問いかけと、バルサムの「お嬢様、朝食のご用意ができております」という落ち着いた声が、家中に新しい一日の息吹をもたらす。
やがてリリエルが部屋に入り、クロノの枕元に腰を下ろした。彼女は繊細な指先でそっと額に触れ、少女らしい心配と優しさをたたえた表情で微笑む。
「無理はしないで。でも、少しなら部屋を出ても大丈夫そうね」
リリエルの言葉に、クロノは視線を合わせず「すまぬ」とだけ呟いた。新たな名を与えられ、少女に導かれる自分。その現実は、苦い誇りと、どこか安堵の入り混じった感情を心に残した。
リリエルはそっと表情を和らげて「あなたの分の朝食も用意してあるわ。家族で食べましょう」と言った。クロノはゆっくりと体を起こし、バルサムの手を借りてベッドを出る。まだ足元は頼りなかったが、周囲の温かな眼差しが、無言の支えとなって背中を押してくれる。
ダイニングへ向かうと、ミレーヌの焼いたパンと湯気を立てるスープが食卓に並び、朝の光が部屋を明るく照らしていた。家族全員が揃い、笑い声とざわめきが絶えない。その輪の中へ、クロノは初めて迎え入れられた。
ミレーヌは「さあ食べて元気をつけて! ここは朝から騒がしいのよ」と声をかける。その明るさに、カイルのはしゃぐ声やエドガーの皮肉めいた一言も混ざり合い、クロノはその雰囲気に次第に心をほぐされていく。
パンを一口、ゆっくりと口元に運ぶ。焼きたての香りと素朴な温かさが全身に染み渡る。耳に入る家族の笑い声と、食器が触れ合う柔らかな響きが、かつての孤独や警戒心をそっと溶かしていく。
誇りや屈辱とともに、救われる実感がゆっくりと胸に広がる。
“俺は魔王だ。人間に感謝することなど……”そう自分に言い聞かせながらも、なぜかその思いが、ささやかなぬくもりに崩されていく。
こうしてクロノは、“人間”としての新しい朝を迎えたのだった。