10話 終わりと始まりの約束
宝石店を出ると、街はすでに夕陽に染まりはじめていた。淡い茜色の光が石畳に広がり、通りには静かな風が抜けていく。
クロノは立ち止まり、真正面からリリエルを見つめて短く言った。
「行くぞ。借金を返しに行く」
その一言を口にしただけで、なぜか胸の奥が熱くなる。リリエルの瞳をまっすぐ見つめるたび、心臓がどくどくと高鳴り、自分の内に湧き上がるこの感情に、まだどう向き合えばいいのか答えは見つからない。
「えっ……!? 今すぐ……?」
リリエルは驚きに声を上げるが、クロノはお構いなしに、無造作にリリエルの手をつかんだ。その細い指先の温もりが、クロノの心にじんわりと甘さを広げていく。
「俺は、あの金髪の領主が嫌いだ。お前に近寄ってくる男は全員嫌いだ。だから今、全部終わらせる」
ぶっきらぼうで強引なその言葉と態度には、不思議な頼もしさと、ほんの少しの怖さが混じっていた。けれど、クロノに手を引かれて歩き出すと、その手を離す気にはどうしてもなれなかった。
城下町を抜けると、ユーリスの豪奢な屋敷が夕陽の逆光に浮かび上がる。金色の門扉がまばゆく輝き、門番たちはクロノの姿を見るや否や慌てて門を開いた。その堂々とした立ち姿に、誰もが息を呑む。
屋敷の玄関には、金髪の青年領主――ユーリスが待ち受けていた。リリエルの姿を見つけると、子犬のような勢いで駆け寄ってくる。
「リリエルさん! お会いできて光栄です! どうぞどうぞ、お入りください!」
ユーリスは愛想よく微笑みながらも、視線だけはあけすけにリリエルの体をなめるように追っていた。そのあけすけな目つきに、リリエルは気まずそうに視線を逸らす。
クロノはそんなユーリスの態度にも動じず、むしろ堂々とリリエルの手をしっかり握ったまま、まっすぐ応接間へ進んでいく。
広々とした応接室には上等なカーペットと重厚な調度品が整然と並び、壁には豪華な絵画が誇らしげに飾られている。
ユーリスはリリエルにだけ椅子を勧め、正面に腰掛けると、にこやかに身を乗り出した。
「リリエルさん、今日はどんなご用件でしょうか?」
リリエルは椅子に腰を下ろし、いつもの落ち着いた声で応じた。
「借金の話に来ました」
ユーリスは手をひらひら振りながら、余裕たっぷりに笑う。
「おいくら必要ですか。僕はいくらでも構いません」
クロノはその言葉を遮るように、冷ややかな視線を向けた。
「いや、今日は借りるんじゃない。全部返しに来た!」
ユーリスは猫なで声で応じかけたが、クロノの一言に思わず固まる。
クロノは金貨の詰まった袋をテーブルの上にドスンと置いた。ユーリスの目が驚きに大きく見開かれる。
「え、借金の申し出ではなく、返済ですか、え、そんなお金がどうして、僕が裏で……」
ユーリスは言葉を詰まらせて口ごもる。
リリエルは嬉しそうに微笑み、「利子も含めて、おおめにお返しします」とはっきり伝えた。その声には、長い間重くのしかかっていた苦しみがようやくほどけていく安堵と、これからの未来への希望が確かに宿っていた。
ユーリスは震える手で金貨を数え始める。「え、ええええっ!? こ、こんなに……!」
応接室の空気がふっと止まり、リリエルの胸にも緊張が走る。
リリエルは毅然とした声で言い切る。「これだけあれば、借金は……全て……返済ですね!」
クロノも力強く言い放つ。「じゃあ、お前との借金はなしだ。二度とフィアレスト家に近寄るな」
ユーリスは動揺を隠せず、しどろもどろになりながら「で、でもリリエルさんとなら……」と呟いた。
リリエルはクロノを振り返り、少し呆れたように微笑む。「クロノ、借用証をもらわないとだめよ」と助言する。
「そうなのか、すぐに持ってこい!」とクロノが命じると、ユーリスはその圧に負けて慌てて席を立ち、部屋を飛び出していった。
リリエルとクロノは短い静寂の中、目を合わせる。クロノはリリエルの手をそっと包み、その温もりを指先で確かめていた。そのぬくもりが、魔王だった心まで静かに溶かしていく。
リリエルの可愛らしい笑顔に心が揺れ、凛と立ち向かう彼女の仕草には自然と美しさを感じてしまう。――クロノの胸の高鳴りは、もはや止められなかった。
「これが……借用証です」
ユーリスは震える手で借用証を差し出す。その仕草にも、クロノの前で完全に気圧されている様子が滲んでいた。
リリエルは穏やかに微笑みながら借用証を受け取り、「ありがとう。じゃあ、これで本当におしまいね」と静かに言った。
そして――
びりびり、と音を立てて、借用証をためらいなく破り捨て、ユーリスに投げつける。
「もう、これで借金も、あなたに振り回されることも、ぜんぶ終わり。私に二度とかまわないでください」
破られた紙片は白い羽のように宙を舞い、ユーリスの足元へ落ちる。
「え……まって、お金なら、僕はいっぱいある。ママに言えばいくらでもある。謝金が無くて僕は……」
ユーリスは諦めきれず、リリエルに縋るような視線を向けるが、クロノは静かに彼を見据えていた。
リリエルは静かにユーリスに背を向け、「クロノ、行きましょう」と言う。
「わかった」
ふたりが扉へ向かうと、ユーリスは情けなく叫び声をあげていた。「ママーっ、ママー、リリエルさんを何とかして、ぼくの物なんだ!」
だが、クロノは一度も振り返らず、リリエルの手をしっかりと握ったまま玄関へと歩き出した。
外に出ると冷たい風が頬を撫で、リリエルは大きく息をつく。
「……ありがとう、クロノ。助かったわ」
「当然だ。余計な男はもう要らん。俺の気分は最高だ」
リリエルの髪が夕陽に揺れ、その横顔がなぜかまぶしくて、クロノは思わず目を奪われていた。
心の奥で、もう絶対にこの手を離したくないと強く願っていた。
リリエルは頬を染めて微笑み、クロノの手を離さずに歩き出す。その温もりが、心にじんわり沁みていく。
屋敷の奥からは、なおも「ママー!リリエルさーん!」という絶叫が響いていたが、ふたりの心はすでに次の日常へ向かっていた。
陽が傾きはじめた通りには、まだ人々の賑わいが残っていた。リリエルは心なしか歩幅を合わせて、クロノの手を離そうとしない。
そしてフィアレスト家の問題は一つ解決したが、新たな波紋が、静かに忍び寄っていた。