1話 雨上がりに魔王を拾った家
まだ夜明け前の城下町。雨上がりの石畳を、フィアレスト家の領主レオナルドは足早に歩いていた。手には破れた設計図と、ほとんど役に立たなかった計測器。発明の材料探しも実りなく、ため息をつきかけたそのとき――町外れの小さな橋の下に、黒い影が横たわっているのが目にとまった。
「こんな所で……お主、何者じゃ?」
レオナルドは足音を沈め、慎重に影へと近づく。泥と雨に濡れ、やせ細った黒髪の青年が、身じろぎ一つせず地面に倒れている。彼の目は固く閉じられ、呼吸も浅く、顔色は土のように青白い。そっと触れてみると、皮膚はまるで氷のように冷たく、服は破れ、手足は無数の傷に覆われていた。
このまま放っておけば、命が尽きてしまうかもしれない――
レオナルドは直感的にそう思い、反射的に自分の上着を脱いで青年の体を包み込んだ。「おい、聞こえるか?」と声をかける。すると、かすかに瞼が震え、しわがれた声がこぼれた。「……ここは、どこだ……?」
「安心せい。わしは怪しい者ではないぞ。お主、一人なのか?」
青年は答えない。ただ、あまりにも弱々しく、今にも消えてしまいそうな存在感だった。
迷いはなかった。レオナルドは彼を背負い上げ、濡れた石畳を踏みしめて家路につく。歩きながら、何度も青年の体がかすかに震えるのを背中で感じた。「もう大丈夫じゃ、すぐにあたたかいベッドに寝かせてやるからのう」と、小さく語りかける。
朝靄がまだ薄く残る中、屋敷の執務室で帳簿と格闘していたリリエルは、突如として廊下の向こうから響く大きな足音に顔を上げた。父レオナルドの足取りと、何やら慌ただしい呼び声――
「リリエルよ! わしに少し手を貸してくれぬか!」
17歳の少女のリリエルが駆け寄ると、父の背中から、ぐったりとした黒髪の青年が滑り落ちそうになっている。泥まみれで服はぼろぼろ、唇は紫色に染まり、まるで死者のような有様だった。
「誰……?」と問いかける間もなく、父は満面の笑みで「困っていたから拾ってきた!」と宣言する。
リリエルはその言葉に絶句した。家計は火の車、家族も使用人もすでに手一杯。これ以上手間を増やすなんて、まともな判断とは思えない。それでも、青年の弱々しい息遣いを聞いてしまえば、もう見て見ぬふりはできなかった。
「とにかく、このままじゃ危ないわ。バルサム、ベッドの用意を! ミレーヌ、温かい飲み物とスープをお願い!」
冷静を装いながらも、リリエルの心臓は激しく跳ねていた。青年の手は氷のように冷え切り、今にも命の灯が消えてしまいそうだった。
「なんて可哀そうな人なの……私が必ずあなたを助ける」
リリエルはためらいなく、青年の冷えた体に自分の体を寄せ、必死に温めようとした。
周囲の家族も動き出す。老いた執事のバルサムはすぐさま毛布を用意し、料理長のミレーヌは鍋に湯を沸かしてスープを煮込む。十歳の弟カイルは心配そうに青年の顔を覗き込み、二十二歳の兄エドガーは「おやじ、こいつはなんだと」と呆れた顔で手伝い始めた。初老の料理長のミレーヌは「まあ、男前……私が五歳若ければメロメロにできたのに」と冗談めかすが、皆からは「五歳若くても変わらないでしょ」と呆れた視線が向けられている。
リリエルは、何度も「大丈夫、私が助けるから」と口にしつつ、二十歳と見える青年の体をさすり、顔をじっと見つめる。その冷たさに胸がざわめき、こんなに儚い人間を拾ってくる父の気持ちが、いつになく身に染みた。しかし現実は、父は研究に夢中で家の財政は崖っぷち、兄はシスコンで頼れない、親戚にも頼れる大人は誰もいない。結局、家族も使用人もみんなが十七歳のリリエルの細い肩にすがるようにしていた。
青年――クロノは、ベッドに運ばれてから幾日ものあいだ深い眠りから覚めなかった。額には冷たい汗、唇は乾き、呼吸は浅く頼りない。それでも、リリエルは夜ごと湯たんぽを替え、額を拭き、薬草を煎じてはクロノの口元にそっと運んだ。ミレーヌは滋養のあるスープや粥を作り、バルサムは古い治療薬を調合し、兄と弟もそれぞれ心配そうに見守った。
「こんなに手をかけて、元が取れるのかしら……でも生き返ったら、しっかり働いてもらうから!」
リリエルはひそかに闘志を燃やしながらも、クロノの手を握って離さなかった。その手の冷たさは、どこか自分の心にもじわりと染み入る。見知らぬ青年を助けているはずなのに、次第に“家族”を看病しているような気持ちが芽生えていく。
外では雨が止み、朝日が差し込む日もあれば、嵐の夜もあった。そんなときもリリエルは小さな声で、「大丈夫、あなたはもう一人じゃない。私がいるから」と静かに語りかけ続けた。
やがて、クロノの頬にわずかな生気が戻りはじめる。指先がかすかに動いた朝、リリエルは安堵の息をもらした。
「きっと、この人も何か重いものを背負っているんだわ……」
家族や使用人たちは、呆れたり、ぼやいたりしながらも、誰もが彼の回復を心のどこかで願っていた。屋敷の空気が、いつもより少しだけ柔らかく、優しいものへと変わっていった。
***
クロノの意識は、うつろな闇をさまよっていた。
――かつて自分は闇を支配する魔王だった。
王城を包囲した決戦の夜、信頼した側近の裏切り、勇者が放った封印の魔法。命の核である魔石が砕け、魔力は霧のように失われていく。
これで終わりかと、心の奥で静かに思った。
それでも、最後の誇りだけは捨て切れず、残った力を振り絞り命を削って転移の魔法を使った。しかしその代償は重すぎ、肉体も精神も崩れ落ちていく。
気がつけば、町外れの泥の中に倒れていた。痛み、空腹、寒さ、孤独――それだけが全身を支配する。
動こうにも、手足は重く、雨に打たれるだけだった。
もう、これ以上は無理かもしれない。そう思いかけた瞬間――遠くで誰かの声がした。