血と火の記憶
朝霧が森を包み込んでいた。
夜の名残が薄く漂う中、木々の間を白い霞が滑り落ちるように流れていく。
ひんやりとした空気は、肌を刺すようで、どこか張り詰めていた。
ミルは、魔王たちの背中を見ながら歩いていた。
数歩、後ろをついていく。何も言わず、ただついてくるだけだが、足は止まらなかった。
(おかしい……)
心の中で、そう思う。
あれほど人を信じられなかった自分が。
誰もかれも、信用に値しないと思っていたこの世界で。
(……あいつの言葉が、引っかかってる)
“君の過去を、無かったことにしない”
それは、あまりにも優しい嘘だった。
なのに、その優しさが、どうしようもなく胸に残っていた。
「……ついてこないのか?」
突然、前を歩いていた魔王が足を止め、振り返った。
森の霧の中で、その姿はどこか幻想的ですらあった。
黒い外套の裾が揺れ、腰の太刀がわずかに鳴る。
「……別に、あんたらの背中を見るのに、飽きただけ」
ミルは目を逸らしながら言った。
拗ねたように聞こえるその声に、魔王はわずかに微笑み、再び歩き出す。
「なら、慣れるまで後ろを歩け。前はそのうち空けてやる」
何気ない一言だった。
だけどミルは、小さく目を見開いた。
——そのうち、空けてやる。
自分が追いかけるのではなく、並ぶことを当然のように受け入れてくれている。
そんな言葉、今まで聞いたことがなかった。
「……ホント、変な魔王……」
ぽつりと呟きながら、ミルは再び歩き出す。
足取りは少しだけ軽かった。
◆
森は静かだった。
ただ、何かがおかしかった。
鳥の声がしない。風が止んでいる。
代わりに、何かの気配が、空気を震わせていた。
「……この空気、嫌な感じ」
ルシアが眉をひそめる。
そのとき、森の奥から“音”がした。
「……気配がする。三人以上、こっちに向かってる」
ルシアが銃を構えた瞬間、茂みが激しく揺れた。
「——奴隷狩りの連中だ!」
ミルが叫ぶ。
現れたのは、黒鎧をまとった男たち。
勇者軍の下部組織、「浄化部隊」の兵士たちだった。
「このあたりで逃げた女奴隷が目撃された。——あれか」
男たちの視線が、ミルを射抜く。
「抵抗するなら、今ここで殺すまでだ」
刹那、空気が震えた。
ミルの背に、赤い魔力の光が宿る。
「……二度と……あたしを“商品”扱いするなよ」
地を蹴った。周囲の土が爆ぜ、紅の魔力が火花のように舞う。
彼女の腰に携えた二本の刀が、炎を纏って輝き出す。
「《双炎牙・紅蓮裂き(そうえんが・ぐれんざき)》ッ!」
ミルの踏み込みと同時に、二本の刃が紅蓮の風を巻き起こす。
交差する斬撃が一人目の敵兵の胴体を十字に切り裂き、爆風と共に吹き飛ばした。
「くっ、魔族の分際で……!」
二人目が回り込みながら剣を振るう。
三人目は背後を狙って接近。だが、ミルの身体は炎と共に旋回する。
「《双炎牙・火車断》!」
大地を踏みしめたその一撃は、片刀を水平に振るいながら回転し、輪のような火輪を生み出した。
その火輪が接近していた二人を巻き込み、瞬時に爆ぜる。
しかし——
背後にいた男の剣が、ミルの脇腹を掠めた。
「……ッ!」
血が飛ぶ。
瞬間、ミルの意識がわずかに遅れる。
(やばい……! 間に合わな——)
——ガギィィィン!!
耳をつんざくような斬撃音。
「……反応が遅いぞ」
割って入ったのは、魔王だった。
太刀が一閃。
黒い残光を引くその刃に、闇の魔力が纏う。
「《斬夜・黒閃》」
深く、鋭く、冷たい斬撃が敵の胸元を貫いた。
刃の先から奔った闇の波動が、敵兵を内部から砕くように爆ぜさせた。
もう一人の敵が、恐怖のあまり森の奥へ逃げ出す。
だが——
「……逃がさない」
ルシアが、腰の銃を片手で構えた。
銃口に蒼い魔力が集束し、術式が展開される。
「《氷牙術式・壱式──凍鉄穿》!」
放たれたのはただの氷弾ではなかった。
空気を貫く音と共に地を這う氷の杭が連続して放たれ、逃げる兵士の足元に次々と突き立つ。
ガキン、ガキン、ガキン!!
氷柱が敵の膝、脛、足首を貫き、瞬時に固定する。
逃げ場を失った男が絶叫と共に凍りつく。
すべてが一瞬だった。
敵の呻きが消え、静寂が森を包んだ。
だが、ミルは立っていなかった。
肩を震わせ、拳を握り、地面に膝をついていた。
「……思い出したんだ」
魔王が近づいてきた。
ミルは顔を伏せたまま、ぽつりとつぶやいた。
「父さんが……あたしを庇って、刺されて、連れていかれたときのこと。……ずっと、思い出さないようにしてたのに……」
彼女の視界に、焼けた村の記憶がよみがえる。
獣人の村が燃えていた。
叫び声。連れて行かれる母。抵抗しようとした父。
その背に剣を突き立てた勇者軍の兵士たち。
血を流しながら、父は娘に微笑んだ。
“逃げろ、ミル。お前だけでも——”
ミルは歯を食いしばった。
「何もできなかった。怖くて、逃げることしかできなかった。
ずっと、自分を責めるのもやめて、見ないふりして生きてきた」
「……そういう奴ほど、強くなれる」
魔王の声は、静かだった。
「怒りを捨てるな。火に変えて、戦え。——それが、お前の力になる」
ミルは目を開いた。
その瞳に、赤い火が宿る。
「……だったら、あたしもあんたと一緒に戦う。父さんのために。母さんと弟のために。
あたしを“商品”にした世界を、燃やすために!」
二刀が再び炎を宿す。
紅蓮が、森の霧を押しのけるように燃え上がった。
「行くよ、魔王……!」
その言葉は、もう臆病な少女のものではなかった。
魔王は、静かに頷いた。
「お前の火は、まだ消えちゃいない」
ルシアが横目でミルを見て、くすりと笑った。
「いい火だね、うさ耳。……仲間って感じがしてきた」
ミルは少しだけ顔を赤くしながら、そっぽを向いた。
「うるさい、トマト女……」
どこか、微笑ましい空気が流れる。
森の奥から、やっと鳥の声が戻ってきた。
——過去は変えられない。
でも、その痛みを知る者たちが手を取り合えば、未来は変えられる。
この日。
ミルの火は、本当の意味で燃え始めた。