ミル=フレイラ
焦げた空気と鉄の匂いが鼻腔をくすぐる。
少女が目を覚ましたのは、崩れかけた廃屋の一角。粗末な寝床の上で、喉の奥からかすれた声が漏れた。
「……ん……」
瞼を上げると、薄暗い天井がぼんやりと揺れていた。
全身が重い。関節が軋むように痛む。腹は、空腹で冷たい石のように沈んでいた。
「気がついたか」
低く、落ち着いた声がした。
その声の主——黒髪の青年が、壁際に腰を下ろしてこちらを見ていた。
「……あんた、誰……?」
少女、ミルはゆっくりと身体を起こしながら問いかけた。
体力は限界。だが瞳にはまだ、警戒と怒りの炎が残っていた。
「俺は魔王だ」
魔王は率直に名乗った。
その言葉を聞いても、ミルは驚かなかった。ただ、眉をひそめた。
「魔王? ふん、冗談にしては質が悪い……」
「冗談じゃない。君を助けたのは、俺と——秘書のルシアだ」
ミルの視線が動いた。
部屋の隅で、赤い瞳の女が静かに頷いた。手には魔法銃。戦いの気配を残したままのその姿に、ミルはまた身構える。
「……勇者の回し者じゃないって、証拠は?」
魔王は目を細めた。
まるで、彼女の過去を見透かしているような視線だった。
「証拠はない。だが、こう言おう。——俺は、勇者を殺すつもりだ」
その一言に、ミルの瞳が揺れた。
長く乾ききっていた心に、にわかに水が落ちたような、音もしない動揺だった。
「勇者……を……?」
「そうだ。俺たちは“正義”の名で支配する奴を許さない。
君の家族も、“正義”に焼かれたのだろう?」
その瞬間だった。
胸の奥に張りついていた蓋が、静かに崩れ始めた。
——あの日の記憶が、蘇る。
***
それは、夏の始まりだった。
風はぬるく、草原の香りが鼻をかすめ、妹の笑い声が遠く響いていた。
母は畑で草を編み、花冠を作っていた。
父は薪を割りながら、日焼けした腕で汗をぬぐって笑っていた。
「ミル、今日はお前の好きなシチューだぞ」
その言葉を聞いて、ミルは小さく笑った。
けれど、空の色が変わった。
遠くから白銀の軍馬が現れ、金色の旗を掲げた兵が村に入ってきた。
勇者軍。《救済者》セリオンの旗印。
「この村に魔族の血が混じっているとの通報があった」
「異端を正す。我らはその使命のもと、執行を行う」
それは一方的な通告だった。
男たちは拘束され、女は列に並ばされ、子供すら選別された。
その時、父が前に出た。
「待て! この子は関係ない! ミルには魔族の血は流れてないんだ! だから、頼む……」
父は剣を抜き、ミルの前に立ちはだかった。
その背中は大きく、温かかった。
それが、ミルが父に触れた最後だった。
「お前たちの“正義”が何だってんだ……!
家族を、こんなやり方で奪っていいわけが——!」
父の叫びを、槍が突き刺した。
「……ッ、父さん!!」
目の前で、血が噴き出す。
よろめきながらも、父はミルを庇い続けた。
「ミル……生きろ。お前は、生きなきゃいけねぇ……」
勇者軍の兵士たちは、無理やり父の腕を引っ張った。
「この男は反抗の意思あり。調査対象として、拷問施設へ搬送する」
血を流しながらも、父は抵抗しなかった。
ただ、振り返って、笑おうとした。
「ミル……いい子で、いて……な」
その瞬間、兵士の拳が後頭部を叩きつけた。
そして父は連れて行かれた。
ミルは、声を出せなかった。
その背中が闇に消えるまで、何もできなかった。
母は殴られ、妹は叫び、家は燃えた。
“正義”という名の炎で。
***
「……全部、奴らがやった……勇者軍が……家族を……」
ミルの声が震えた。
「その痛みを、俺は知っている」
魔王の言葉は、静かに響いた。
「仲間も、家族も、世界も、“正義”という言葉のもとで奪われた。
だから俺は、もう見ていられない」
彼は手を差し出す。
その掌は、ごつごつと硬く、剣を握るために鍛えられていた。
「俺の“正義”は、君の過去を無かったことにしない。
怒っていい。泣いてもいい。戦ってもいい。
その全部を、受け止める仲間になりたい」
ミルは、震える指先で、その手を見つめた。
父が最後に伸ばしてくれた手と、どこか重なった。
「本当に……勇者を、殺すんだな?」
「必ずだ」
その言葉に、嘘はなかった。
ミルは、そっと手を伸ばした。
魔王の手を、確かに握った。
「……少しだけ、信じてみても……いいかもしれない」
ルシアが、微かに目を細めて笑った。
魔王は何も言わず、ただ頷いた。
その日。
名もなき少女は、ほんの少しだけ、未来を信じることを選んだ。
光なき世界の片隅で、誰にも知られぬ希望が生まれた。