はじまり
世界が静かだった。
耳が痛くなるほどの静寂。
空気は淀み、冷たく、死んでいた。
ここは──滅びた魔王城の最深部。かつて、闇の王が座した地。
「……ふっ……は……」
喉が焼けるように乾いていた。
視界は霞み、天井すらよく見えない。
けれど、朽ちた石の匂いと焦げた血の臭いが、ここが戦場の果てであることを思い出させてくれる。
「……まだ、生きていたのか……俺は……」
あの日、勇者の放った光にすべてを焼かれ、死んだはずの存在だ。
けれど——彼は、確かにここにいた。
死に損なった、亡霊のように。
彼の傍らに、一本の太刀があった。
漆黒の鞘に包まれ、周囲の魔力を吸い込むように静かに佇むそれは、彼の魂と呼応するように脈打っていた。
「……お前も、生きていたか」
その太刀の名は、《黒刃・夜哭》。
闇の王にのみ従う、“呪われた刃”。
魔王はそれをゆっくりと手に取る。
「……セリオン……勇者……」
記憶が、断片的に蘇っていく。
燃える街。
嘆き叫ぶ民。
無抵抗の者を斬り捨てる“正義”の剣。
そして、神のように民から崇められる勇者の姿。
「……あれが、正義か……ふざけるな……」
魔王はゆっくりと立ち上がる。
体は重い。だが、心に宿る闇は鋭く、今にも溢れ出しそうだった。
「……ならば、もう一度やるしかないな。
この手で、“偽りの正義”を斬り捨てるために」
魔王が歩を踏み出した、その瞬間だった。
ガララララッ!
崩れた扉の向こうから、無骨な金属音が響いた。
現れたのは、勇者軍が後に放った“掃討部隊”の自動兵たち。
かつて魔族を狩るために作られた、魔導装甲兵の残骸だ。
だが、その数は十を超えていた。
「……掃除くらいは済んでると思ったが……見逃されていたか」
無機質な仮面が彼を捉え、赤く光る。
敵認識——即、殺害。
自動兵が魔力弾を放つ。
爆音が鳴り響き、瓦礫が舞い上がる。
だが次の瞬間——
「……遅い」
魔王の声が冷たく響く。彼の手に握られた太刀が、静かに震え始めた。刀身から黒い霧が立ち昇り、その先端で小さな闇の渦がうごめく。
「闇の力よ、我が刃に宿れ――」
彼が太刀を振りかざすと、闇の霊気が一気に爆発した。影が奔流となって敵を包み込み、辺りは一瞬にして闇に染まる。虚空を切り裂く音とともに、太刀が敵の防御を切り裂き、黒い炎のような闇属性の斬撃が炸裂した。
その声とともに、魔王の姿が霧のように掻き消えた。
ドガァッッ!
ひと振り。
ただの一閃で、自動兵の一体が真っ二つに斬り裂かれた。
魔力強化された鋼鉄の装甲ごと、音もなく断たれる。
「次」
瞬間移動のような速さで魔王が跳躍する。
重力を感じさせない滑らかな太刀捌き。
残りの兵たちが反応する暇もなく、次々と切り伏せられていく。
「お前たちに、正義は語れない。
お前たちに、救いを与える資格はない」
最後の一体を背後から斬り捨て、魔王はゆっくりと太刀を鞘に収めた。
静寂が戻る。
かつての魔王城は、また闇に沈んだ。
「……始めよう。
あの偽りの勇者を……この手で殺すために」
闇の王が、世界に再び歩み出す。
今度こそ、“美しい世界”を取り戻すために。