今夜の星
よく働く犬である。
太り肉で、象牙色の短毛の老犬である。
他の犬が引き上げた後、いつも掃除場所を見回る。
終わると洗い場に入って、壁際に置いた白いスチール製のハンガーに乱雑にかけてある雑巾を直す。
茶人が茶巾を畳むように、一枚一枚雑巾の両端をピンと伸ばして持ち、左右交互に前後に傾けて扱く。
一本のハンガーに二枚ずつ等間隔に乾し直したら、体の割に大きな手を分厚い前垂れで拭き、膝の前で両手を揃える。
それからしばらくその雑巾を眺める。
少し背中が丸い。
成弥の実家は山形の天台宗の寺であった。
小学校へ入学した日から、家へ帰るといつも山門の脇の鬱蒼とした大蘇鉄の下の闇に、黒御影の石碑が見えた。
江戸時代に寺に滞在した文人が揮毫した扁額を表装し直したときに転写した「一隅を照らす」という文字を彫ってある。
小学校では入学するとすぐに「雨ニモマケズ」を暗唱させた。
毎夜、風呂で父と向かい合って湯船に浸かり、雨ニモマケズ風ニモマケズと繰り返した。
校長先生の前で間違えずに言えれば、首に折り紙で作った金色のメダルをかけてくれる。成弥はクラスで四番目にメダルをもらった。
今でも正確に言うことができる。
「 雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ」
ある時から、本当にそんな生き方を望む人間がいるだろうかと思い始めた。
小学校五年生の夏休みの終わりのことである。
子ども会の三十人近い小学生が集まって、父が本堂で使っているラジオをかけてラジオ体操をした。
解散した後、地面から一メートルほどの高さの根上がり松の根の上に立って松林の向こうの海を見ていた。
砂浜に寄せる波が白いのは、夏が盛りを過ぎたからである。
境内から松林まで一面に広がる蝉の声を聞いていると、耳が遠くなったような気がした。
百日紅の木に繋いだ犬が盛んに地面を掘っている。
そこへ小学校へ行く途中にある、塀の南隅に装飾瓦の戎さんが乗っている家のお婆さんが盆礼を持ってきた。
仏んさんのような人と言われるいつも静かな父と母が笑って頭を下げるのを見た時、ふと謙虚を良しとする謙虚は虚勢ではないかと思ったのだ。
寺の生活はいつも成弥を憂鬱にしていた。
線香の匂いのする本堂と庫裏をてくてくと行き来して、子どもが必ずすべき遊びをせずに太陽の下で夢中になって過ごす少年時代を持たなかった成弥は、自分の内面に関心を向ける子どもになっていった。
嫌な思い出があるわけでもなく、自分が父や寺を嫌悪する理由がわからなかった。
しかしここへ来て、好きになるのに理由はいらないのと同様、嫌いになるのにも理由はないことに気が付いた。
二十六になっていた。
寺への強い嫌悪を抱きながら仏教系の大学へ進学したのは、父母に真正面から説明するだけの大義名分がなかったからだ。
大学の勉強が嫌ではなかったが、研究職に就くほどの興味を持てなかった。
寺を継ぐ気はないのでここへ来たのである。
ここで、研修生はそれぞれ事務棟を与えられていた。
二階建てのコンクリートの建物で、建物の管理者を兼任している。
一階には1から9までの数字で始まる電動式の集密書架と、壁際三面の天井までの高さのA~Fの記号で始まる書架がある。
二階のモニター室で、成弥は一日映像の監視をする。
週の初めには前週分の報告書を提出する。
平日は毎日昼前に、年配の女性事務員が各棟を回ってモニター室の隣の事務室へ郵便物を届けにくる。
時々まとめて置いていくA4のプリントには、左側に縦に二つに折った跡と穴あけパンチで開けた穴がある。
今でも全部手書きで、事務員は月末に全棟のプリントをファイルに綴じて神に渡す。
まだパソコンが使えない神が何人か幅を利かせているからだ。
プリントの右上に年月日と曜日を記入する欄がある。
下の表には、縦に名前、横に評価の基準を印刷してある。
「遅刻の有無」とか「作業のスピード」とか「正確さ」とかである。
それに毎日、AからCまで評価を記入する。
基本的にはすべてBだ、と成弥は教わった。
今日も四時少し前に、中型の若くない雑種が十頭あまり来た。
成弥はいつものように、隣の大型モニターのある部屋から出て、ロビーのソファーで犬たちが働くのを見ていた。
みんな陽気で大雑把である。
昔からこんな性格だったのだろうと思う適当さで、さっさと済ませてわやわやと帰っていく。
今、成弥は開いたドアの間から洗い場で雑巾を乾し直して前垂れの前できちんと両手を揃えた犬を見ている。
老犬の割に背中の骨格ががっしりしていて、筋肉の輪郭がわかる。
「保護犬が老い先の短い老人にでも引き取られて、それを地上に残してきたものだから、ああやって功徳を積むのだろう」
と思って、その素っ惚けたような少し鼻面の反った顔を見ていたとき、おやと思った。
ポーカーフェイスに見覚えがある。
成弥は子どもの頃、図書館で借りて読んでから、今江祥智が好きである。
読み込んだと言えるほど繰り返し読んだ「ぼんぼん」や「兄貴」は成弥のバイブルだ。
太平洋戦争最中に小松家で共に生きた佐脇さんは、洋と洋次郎兄弟の亡き父親に誰かから匿ってもらった恩がある元やくざである。
喧嘩出入り、料理、ふすま絵制作と何でもできて、度胸のある小柄で粋な老人だ。
二人に釣りや恋のアドバイスをし、荷物疎開を仕切る。
ある時、佐脇さんは左傾化してゆく洋次郎に言った。
「なあ、洋次郎ぼん、ちゃんと生き延びてちゃんといいお嫁はん、もらいなはれや」
その言葉はいつか成弥の座右の銘になっていた。
「ちゃんと生き延びること」「いいお嫁さんをもらうこと」、そのどちらも成弥には困難なことに思われた。
鴎のような横顔だ、と描かれている佐脇さんに犬は似ている。
「ロンちゃんだ、ロンちゃんがお爺ちゃんになってここに来ているのだ。」
去年の年末、娘は店長から一万円札が三枚入ったボーナスを貰い、同僚とファミレスへ行った。
長いことかけてドリンクバーのついた定食を食べた後、カラオケへ移動した。
両肩に穴の開いたデザインの水色のセーターを着た娘は、モニターの前で「ウイスキーがお好きでしょ」を歌った。
いつの間にか大人になるものだなと成弥は思った。
七時過ぎには解散していつものように八重洲北口から入り、傘に付いた滴で白茶けた上着を濡らしながらチラシスタンドの前に立った。
チラシを選っていた娘は、ふっと顔を横に向けてガムを吐いた。
駅のあちこちに、夏休みに都内の小学生を対象に募集した絵画と標語の入選作品で作成した「ガム・つばの吐き捨てはやめよう」とか「みんなの町はみんなできれいにしよう」とか書いたポスターを貼ってある。
変わったなと成弥は思う。
犬が死んでから、娘は町にごみを捨てるようになった。
公園から帰るまいとして暴れる雑種犬に引っ張られながら、娘は犬が掘った穴を短い太い指で埋めたものである。
「ロンちゃん、いけないよお。ちゃんとしないともう遊びに来れなくなっちゃうよお」
と言いながら、砂場の土を均す。
ダイエットになど興味がなかったし、日焼けも気にしない。
十数年前のある日、娘はしっぽりと毛の濡れた触れると砂が落ちる子犬を抱いてアパートへ帰って来た。
ワンコ、ワンコと呼んでそれは可愛がった。
週明けの月曜日、仕事帰りに地下鉄のホームで流れる「レイニー・ロンリネス」に合わせて小さく体を揺らしながら、
「そうだ、ロンリネスだ、ロンちゃんにしよう」
と言って犬の名前は決まった。
前日の夜も、顔を寄せて眠った子犬の名前に「ロンリネス」はなかろうと可笑しかったが、娘の学力からすればそんなものだろう。
長い前髪を簾のように垂らして、目立たぬようにいじめられぬように高校を出た。
成弥が天国行きの審査不要職種のアンケートで「教師」の欄にチェックを入れなかったのは、娘の担任の教師の生徒との関わり方を見ていたからだ。
二百二十インチのスクリーンは画質が粗く、そこに映し出される娘と犬の生活は古い映画を見ているように感傷的だった。
白犬が汚れたのだか元々象牙色なのだかわからない野良犬の子の命を、娘がどれほど有難いものにして抱いて守ったか成弥は見ていた。
甘やかすものだから、大人になっても娘の言う事はきかない。
それでも群の動物の本能で、散歩のときにはいつも先に立って歩いて、娘に猫一匹近づけなかった。
夜は夜で一つ布団で、土間のある玄関に顔を向けて見張るようにして眠る。
丸まった背中を娘の背中に押し付けている。
上から見ると娘と犬は、味方同士背中合わせになって、敵から身を守っているように見えた。
夜中に風でバケツが転がりでもしようものなら、起き上がると同時にあたりかまわず吠えたてる。
娘が仕事に出た後は、靴脱ぎ場のビニール袋を広げた上に敷いた新聞紙に用を足しながら、一日畳の部屋をうろうろしている。
昼からは日の当たる窓際に座ってしばらく道路を見下ろした後、長々と伸びて夕方まで眠る。
ある冬の日は、娘はよく肥えた小さな手でドアを開けるなり
「ロンちゃん、ドーナツだよ」
と叫んだ。
犬は伸びをすると大きな身震いをして出て来た。
「ロンちゃん、セブンイレブンのドーナツ、買ってきたよ。
お昼にみんなに聞いたんだよ。
人気過ぎて売り切れで、二つ目のセブンイレブンにあったんだよ。
ロン、あげるよ。セブンイレブンのドーナツを食べる犬なんてロンちゃんくらいだよ」
と言って、インフルエンザの流行っている東京で手も洗わずピッと縦に袋を破った。
犬が脇から口を突っ込んで、袋を引っ張る。
畳の上に砂糖粒がザザッと散らばった。
箪笥の前までドーナツが転がる。
犬はまるで捕らえた獲物を守るように、背中を怒らせてがつがつとドーナツを食べた。
娘はいつものようにきゃあきゃあ言いながら、取り上げようとして唸られ、噛まれて悲鳴をあげ、それでもかろうじて二個を食べた。
娘はスーパーのバックヤードで、袋に入ったわさわさしたレタスや一日中扱っていると結構肩が凝るズッキーニやジャガイモを、赤いバックシーラーでとめる仕事をしている。
「ドアに誰か来ると先に出て行くし、ロンちゃんはいつも私を守ってくれるよ」
娘は犬の話をしていた。
「犬は群れの動物だから、目下の者を守るんだよ。しいちゃんを守るのは目下だと思っているからだよ。」
と先輩は言った。
娘は珍しくしつこく
「でも、目下だから守るのはいい上司だよ。そんないい上司にあったこと、私、ないよ。まあちゃんはある?」
と言い返した。
いつかの年の暮れ、娘はタンスの一番上の引き出しを空けて、広告の白い面を表にして畳んで敷いた。
その中に三万円を入れた封筒と、犬に手紙を書く便せんと封筒と筆ペンを一緒に入れた。
次に、無作為に発信される撮影指示に従って人工衛星が娘の部屋を映したのは、翌年の三月の初めだった。
町が静まり返った冷たい夜、横たわった犬の傍で娘は手紙を書いていた。
ミミズが這ったような字と言う例えがあるが、ヘビがのたうち回るような太い下手な筆ペンの字だった。
「ロンちゃんへ
コンビニの角を曲がると、いつもロンちゃんのワンワンいう声が聞こえました。
お帰りと言っているようで嬉しかったです。
ありがとう。
お姉ちゃんにお家ができました。
ありがとう。
振り向いたら、いつもロンちゃんと目が合いました。
すごいな、と言っているようでお姉ちゃんはがんばりました。
ありがとう。
ロンちゃんが迷子にならないで、特攻隊もいかなくてよかったのでお姉ちゃんは神様に感謝しています。
これからは恩返しをします。
ロンちゃんのところへ行く日まで、お姉ちゃんは立派な人になるようがんばります」
成弥は、特攻隊に行かなくてよかった、と言うところで苦笑いしたが、犬が事故や災難に遭うことをいつも心配していた娘にすれば本心だっただろう。
マイクロチップが話題になり始めたころ、病院や知人に随分聞きまわった挙句、痛いのがかわいそうでできず、自分が守ってやろうと決めた子である。
翌朝は、エリンギの平たい箱に昨日洗ってやった毛布を敷いて犬を寝かせ、いつも仕事に来ていくコートで巻いて、一筋向うの停留所へ行った。
三時間ほどバスに揺られて、昨夜眠っていない娘がうとうとし始めた時、バスは海岸沿いの道で停車した。
降りた海岸通りのバス停は、晴れているとは言えまだ海風が冷たかった。
コートで包んだ箱を両腕で捧げるように持って、九十九折りの急な坂を折り返し折り返し上がっていく。
娘の後ろに見える相模湾がびっくりするほど青い。
安楽寺の裏山にあるペット霊園で犬を火葬にする間、娘は泣かなかった。
そして正面だけ水色の地にマーガレットの刺繍の入った白い納骨袋をかけた骨壺を受け取って、またびっくりするほど青い相模湾へ向かって九十九折を降りた。
いくつめかの曲がり角を過ぎて、道が山の方に窪んでいる所で隠れるようにして初めて泣いた。
風の強い日で、犬と一緒に火葬にした一張羅のコートが他人事ながら惜しかった。
その日から娘は、八重洲北口を入った一つ目の角のチラシスタンドでチラシや冊子を持ち帰るようになったのである。
真ん中をホッチキスで閉じた二つ折りの冊子などは、何冊も持って帰る。
部屋へ入るとひっそりと食事を作って、一年中出している炬燵の前で食べる。
何が楽しみで生きているのかと思うくらい、季節感のない食事である。
食べ物に執着がない。
部屋の中に明るい色の服や飾りはなかった。
食べ終わるとすぐに洗い物をして、炬燵の前に座って爪で冊子のホッチキスを外す。
一度三角に折ってから開いて正方形に切る。
それで羽風船を折る。
タンスの上には大小の羽風船がうず高く盛ってあった。
横にある犬の写真の傍には、麻紐が切れて前の道に転がった時に割れた焼き物の風鈴の欠片がある。
風鈴は、海沿いの駅で降りた犬の生まれ故郷の焼き物の里のものである。
娘は盆に帰省した叔母の家から東京へ帰る途中で
、駅名の上に「海に一番近い駅」と書いてある無人駅で降りた。
線路の向こうへ渡り、松原を過ぎて少し南へ歩いたところのテトラポッドの間から出てきた犬を拾った娘は、まだ十代だった。
何年後かの帰省の時には、もう一度その駅で降りて焼き物の風鈴を買って帰った。
犬や「これがロンの生まれた町の風鈴だよ」と言って振って鳴らして見せたのである。
その頃は、もう女性といっていい年になっていたが、やはり色の浅黒い童顔だった。
娘はコンビニの角を曲がって、犬の声が聞こえ始めると「ああ、家へ帰って来たな」と思ったものである。
その辺りで、一年中吊るしている風鈴の音が聞こえはじめる。
犬はいつも、娘が作ってやった羽風船をひどく喜んだ。
息を吹き入れて投げ上げてやると、飛び上がって体の割に大きい手で挟んでパンと潰す。
落ちてきたのをぐちゃぐちゃに噛み千切る。娘が取り上げようとすると唸る。
娘と犬は対等か、または犬が上位であった。
今日も、監査院の職員は見回りに来ない。
神が来ることはまずない。
来るはずがない。
タレントの山野みおの愛犬は面接も評価もしないまま、毎晩神のベッドで寝ているのである。
「そうか、ヤマミーの彼はマンションへ遊びに来るの。週に何回くらい?」
などと言いながら、神は水色の羽根布団を掻いて作った窪みで丸くなった白チワワを撫でる。
神の手の平よりも一回り小さい、ティーカップチワワという種類である。
あの犬は、ここから出られないだろう。
「はい、ロンちゃんロンちゃん、言ってくれました。
布団もご飯もみんなお姉ちゃんと一緒でした。
植木鉢の横に目高がいて、風鈴が鳴っているのですぐわかると思います。
コンビニの角を右へ行って、アパートの二階です。
お姉ちゃんは好きな人がいて、お肉売り場のお兄さんです。
野呂さんが彼になったら、ロンちゃんに美味しいお肉をいっぱい食べさせてあげるよ、と言いました。
野呂さんと結婚したらいいと思います」
と答えた犬は、その大切な人のために神に何もしてもらえなかった。
娘は今も褪せた畳の部屋で寝ている。
僧侶でも神でも同じだ。
何年後かに神になっても、自分は一心に祈るように掃除をしている犬には気が付かない。
その頃には、この社会の秩序に馴染んでしまっている。
細かすぎてはいけないのだ。
夏が終わろうとしている。
夕方になっても蜩が鳴かなくなった。
六年間の研修の四年目だった。
やめようかな、と成弥は思った。
明るい内に施設を出たが、山肌のよく手入れされた芝生の上に座った時には、薄青い空に星が見え始めていた。
思った以上に荷物は少ない。
ここには季節がないので、夏服と下着が二、三組あるだけだった。
本は読んだ傍から捨てることにしているので一冊もない。
すぐ下に駅の屋根が見えた。
塩ビの波板を張った駅舎を見下ろしていると、娘のアパートが思い出された。
「犬っころでも部屋に放り込んでおいてやったらよかったな」
ICカードは昨日の昼、総務課へ帰してしまった。
もう日本列島の中で娘の居場所を探す方法はない。
あの万華鏡のように方々を映して、時折屋根を透かして娘の部屋を見せてくれたスクリーンの前に成弥が座ることはない。
やがて、南の空に現れた流れ星が一筋の尾を引いて駅舎に入った。
ぽっと明かりが灯る。
白い波板を通して、一頻り人の影が動くのが分かる。
影はだんだん少なくなって、やがてなくなった。
ボオと柔らかな汽笛が鳴って、列車が駅舎からゆっくりと出る。
暗闇に消えた列車は、一筋の流れ星に変わった。
成弥は立ち上がった。
一時間後に出る今夜の最終便に乗らなければならない。
天の川が見えてくる辺りで、成弥は四年間の記憶を失う。
明日の朝には、大学を卒業した三月末の東京駅に着く。
山形まで三時間、そこから実家まで二時間半である。
一隅を照らすほどの人間には、自分はなれまい。
しかし、一隅に根を下ろすくらいの人間にはならなければ、と思った。
そして出来ることなら娘や犬のようなものを温めうる存在になれれば、と願った。




