10話 パン屋の息子
「旨いだろォ、そのパン」
全身びしょぬれの上半身裸のタカバが、いやらしく笑っていた。厚い胸板が水滴を弾いている。あちこちの生傷が見るに堪えないものの、タカバは一切気にしてないようだ。だから、私も食事の手を止めて、睨むだけにする。
「なによ、ニヤニヤ気持ち悪いわね……」
「まぁまぁ。もう一個食えよ」
へらっと笑ったタカバが、嬉しそうに紙袋からパンを取り出した。
今度はクロワッサンだ。あいだに生クリームと果物が挟まっているらしい。
「お兄ちゃーん! また遊ぼうねぇー!」
噴水から上がった子供たちが、タカバに向かって笑顔で手を振っている。隣の母親も会釈をしていた。
タカバも「おぅ!」と手を振り返しているうちに、私は食べかけのコッペパンを口の中に押し込み、タカバの持つクロワッサンを奪う。そしてすぐさま、一口かじった。
「あんたは何で軍事クラスにしたの? 実家がパン屋なら、調理クラスか……経営を勉強するって手もあると思うんだけど」
「どーせ、オレは頭悪いしさ。パン作りは兄ちゃんらがやってるし。オレは身体張って、現金稼いで、借金を返そうと思ったワケよ」
女神様が平等に水を与えているつもりでも、民衆に同じように行き渡るわけではない。水瓶から出た水は、強き者が奪い、弱き者は涙を流すのだ。
「お店の繁盛のほどは?」
「……聞くな」
「なるほど」
首都では煌びやかで写真映えするような店のほうが繁盛する。家族経営の個人店はなにかと経営も難しいのだろう。
私はクロワッサンの最後の一口を頬張った。
「ん、ほひひい」
「そりゃ、良かった」
私がお礼の代わりに感想を述べると、タカバは嬉しそうに笑う。
とりあえず、今の私が出来ることはこのくらい。
「さて、おかげさまでお腹も膨れたし、やることやりますかね」
大きく手足を伸ばして、鞄からモバイルを取り出す。すると、三個目のパンを食べ出したタカバが首を伸ばしてきた。
「なにすんだ?」
「さっきの中二病の奴らのこと調べようと思います」
「メグちゃんたちの尾行は諦めんのか?」
「居場所は掴んでるわよ」
「どこだよ?」
鬱陶しいけど、パンの恩義がある。
私がは鞄の中から取り出すのは、筒が二つくっついたような物体だ。
「なんだこれ?」
「昔懐かし、双眼鏡ってやつよ」
渡しながら、私は女神が向く先を指さした。
女神が見つめる先は、天まで届くエクティアタワー。その地上から少し離れた太くなっている部分には、近頃有名な店がある。エクア屈指の食糧産業を率いるブライアン社が出店した、今大流行中のレストランだ。小さいながらもお洒落な内装。リーズナブルかつ高級感のあるメニューが人気を箔して、なかなか予約が取れないらしい。
ちょうど道行くカップルの女性もそちらを指差し、青年にせがんでいるようだが、青年は首を横に振っていた。彼女を宥めるように、白い猫の着ぐるみが風船を渡している。
タカバは双眼鏡をあちこち弄んでから、ベンチの背もたれに手を付いて双眼鏡を覗いた。
「スゲー! 店の中に金ピカなシャンデリアが見えるぜ。こんなしょぼいのによく見えんな!」
「特殊な電磁レンズを使ったからね。もうちょっと拡大するわよ」
私はタカバが喜々と覗いている双眼鏡とモバイルをコードで繋ぎ、ちょこちょこっと操作する。すると、タカバは目的の人物を発見したらしい。
「お、いた! すげー旨そうなモン食ってんだけど!?」
「リーズナブルと言っても、学食の十倍はするみたいだからね」
「それ、本当に安いか?」
「学生の背伸びで手が届くんだから、お手軽なんじゃない? 一ヶ月前からでも予約が取れないプレミア付きだけど」
「あいつら、そんな前から付き合ってたっけ?」
双眼鏡を外して顔をしかめるタカバに、私は苦笑しか返せなかった。
「まだ三日目……だってことくらいは信じたいものね」
縋る価値のない希望なのかもしれないが、それでも楽しかった頃の全てを否定できるほど、私はまだ大人になりきれていないらしい。
「なにかコネでもあったんじゃない? 現役学生の素性は特に学園のロックが固いから、私でも調べるのは難しいし」
「そのくせ、オメーがアバドン通信販売の娘だってのは、有名だよなァ」
鼻で笑ってくるタカバに、私も同じような顔を返してやる。
「あんただって、パン屋の息子だって有名じゃない」
「……なんでだろうな?」
「しょせん、私たちはその程度だってことでしょ。いい学園のいいクラスにいたって、全員が一流になるわけじゃない。考えようによっては、素性を隠さなきゃいけないほど後ろめたい人生みんな送りたいのかって話よ」
「後ろめたいねェ……」
そんな雑談をしながらも、私はモバイルの操作を進める。
もちろん学園データに不正アクセスだ。
真剣な作業中に、タカバは横槍を入れてくる。
「あんなオシャレな場所で、オメーは何するつもりなんだ?」
「おどろおどろしい音楽が流れて、シャンデリアがパリーンって割れて、ちょっと煙がムクムクする感じ。突然のホラーにおもらしでもすればいいわ」
「相変わらず考えることがセコイな」」
「とりあえず奴らの正体がわかったわよ」
ロックが固いのは、あくまで在校生のみ。
去った者には興味がないとばかりに簡単に調べられた退学者の記録に、私は口を尖らせた。
「ふーん……あいつらを三年前、退学へ追い込んだのがルキノなんだって。許可なく学園外へ出たとか、夜中に広場で花火したとか、小さいことを積み重ねて追い込んだらしいわ」
「あいつ、そんなみみっちいことする奴だっけか?」
「あまり聞いたことないけど……基本、みんなの王子様だし」
「オレらはさっき痛い目に遭わされたけどな」
「それはノーコメント」
デートの尾行をされて気を悪くしない人はいないだろう。
その仕返しとして恥をかかせられたのだって、自業自得といえる。
タカバもそこには触れず、お茶を飲みながら話を進めてくるようだ。
「だったらあいつらはもっとルキノに目を付けられるようなことをしたってのか?」
「それは――」
「拙者らが邪魔だったからでござる」
私の言葉を遮ったのは、おかしな喋り方をする男だった。声がした方向を見ると、右隣のベンチにはくせ毛の傷だらけな中二病が座っている。
「オメー、気付けよ」
「人のこと言える? てか、今日でこんなの何回目よ、私たち」
「とりあえず、オレらには尾行とか向いてないみたいだぜ」
「え?」
クイクイと後ろを指すタカバ。私が彼の肩越しに見やれば、反対の隣のベンチにもニヤニヤとこちらを見てくる小汚い男が四人。右隣の中二病に、そいつらを指差しながら首を傾げてみると、笑みを強めて頷き返される。
私は肩を落としながら、モバイルの画面で名前を確認する。
「えぇと……あなたはパブロさんね。退学の時期的に……邪魔扱いされたのは、三年前の進級をかけたサバイバルゲームのことかしら? あ、私と同じグループのはずだったんだ?」
「そうでござる。クラスは違ったが、拙者らも同じ学年だったでござるよ」
くせ毛の爆弾魔パブロが暗い顔で応える一方、タカバは「あれかー!」と表情を明るくした。
「あの山に引き篭もったヤツだろ? 楽しかったよなァ! ルールもわかりやすかったし」
「そう? 三日間も虫が蔓延ってる中で寝たり、どっかの馬鹿タカバに殴られそうになったり……ろくでもなかったと思うけど」
「日頃の恨みを込めた渾身の一撃だったんだけどなァ……まさかどっかの黒髪にコショウ爆弾を投げつけられるとは思ってもなかったぜ。武器は持ち込み禁止のはずだったのになァ!?」
「あのあと口封じのために尽力したルキノには、ちゃんと頭を下げといたわよ……確かね」
正真正銘、生き残りをかけたサバイバルゲームで、私とルキノは同じグループだった。クラス問わずの学年全員で行われた進級試験は、各種の特性を生かして、身体のどこかにつけた風船を割られないようにするゲーム。支給された最低限の水や食料以外はすべて現地調達という厳しい試験は、私の記憶にも鮮明に残っている。
私たちが昔話に花を咲かせていると、パブロが自嘲する。
「それで、あいつは拙者らを邪魔だと判断したんだ。しかし、中央機関部の決定事項はあいつも変えられない。だから、班員から拙者らを削除するために――退学さ」
「退学、ねぇ……」
学園を退学した者の末路――中途半端に投げ出された者は、故郷に帰って暮らしていけるなら幸せというもの。帰る場所がない者たちが行き着く場所は、路地裏しかない。すぐ隣の眩しい世界を羨ましく思いながら、たまに迷い込んだ輝かしい人々に恐る恐る手を伸ばし、振り払われる運命だ。
「……で、このキンキンしたやつらと、ツルんでるわけね」
「さっきまでのオメーも、負けてねーぞ」
「半裸の男に言われたくないわよ」
タカバの戯言を一蹴しつつも、私は状況を確認する。
敵はチンピラ含めて計五人。先の様子から、爆弾やナイフ等、武器は持っていると考えるのが妥当だろう。
対して、こちらに武器はない。しかも、基本的に私は喧嘩が得意ではないし、肝心なタカバも負傷している。
けっこう、詰んでる?
とりあえず、散らかしてあった荷物を鞄に押し込む。
「隙を見て、逃げるわよ」
小声でタカバに告げた時である。タカバが私の背中を強く叩いた。
「らしくねェんじゃねーの」
「ちょっと、痛すぎるんだけど!?」
だけど見上げたタカバの表情が険しい。
「この様子だと、大好きな男も危ねーかもしんねーぞ?」
そのときだ。鼓膜を揺るがすほどの大きな爆発音が、背後から響く。
町中のあちこちからたなびく灰色の煙に、白い鳥たちがサイレンを鳴らして、あちこちに四散した。
私が慌てて双眼鏡を除けば、タワーのレストランも何者かに襲撃されているようだった。先程調べたもうひとりの爆弾魔、直毛のケナンダと対峙しているのは――金髪の美青年。
「ルキノ!?」