家事代行先は無口で不愛想と評判な推しのアイドルの家~話をするうち実は弱点だらけだということを知ってしまった俺は、なぜか慕われて悩みを相談される仲になった件~
康行にとって推しのアイドルは全てだった。
崇めるべき神だと言っていい。
推しのあらゆるグッズは経典であり、聖遺物であるから集めなければならないし、礼拝するためにも必要だ。
どんなに小さなイベントであろうと網羅するのは信者としての義務だろう。
しかし康行の信仰の道を遮るものがあった。
お金である。
一介の高校生にとってお小遣いは有限。
鑑賞用と保存用を躊躇せずに買うファン、購入特典をすべて網羅するファン、グッズ売り場で商品すべてとどや顔で言い放つ、それらのファンをどれだけ羨ましく思ったことか。
ならばバイトして稼ぐのは当然。
むしろ信仰のためにと嬉々として家事代行のバイトする康行は、先輩が片付けに躊躇するごみ屋敷の現場でも先陣を切ったり、口うるさく指示が飛び交う依頼主を前にも嫌な顔せず神対応、幼児が遊びまわり作業に支障をきたす場面でも面倒を見ながらせっせと働く。
そんな康行は内外でも評判がよかった。
だがこの日の現場は、その康行をして大きな嘆きの声を上げざるを得なかった。
「あ、あぁあああぁああぁ……っ!」
「ひぅっ!?」
依頼主の少女の肩がビクリと震える。
そこは所謂オタクの部屋だった。同じドルオタなのだろう。
折れ曲がったポスター、空になったコンビニ弁当の上に無造作に積み上げられたグッズの数々、埃をかぶってしまっていて、もはや誰のグッズかもわからないフィギュア。
康行が推している同グループのメンバーで人気ナンバーワンのアイドルの哀しそうな顔が目に浮かび思わず膝をつく。
「こ、こんなことってあるか……」
「えっ……?」
無造作に放られているポスターグッズなどをかき集め、優しく胸に抱くと一層悲しみが溢れて来る。
「ごめん、ごめんな」
「ひ、ひぃ」
ごく自然と出る康行の嘆きの言葉に少女は身を強張らす。
そんな彼女に康行は強い視線を向ける。
「おい、このポスターを見てみろ。せっかくの笑顔に皺が入っちゃってこれじゃあ泣いてるみたいじゃないか。いやきっと扱いの惨さに泣いている。君が泣かせたんだぞ」
「そ、そんな……ほ、保存用は、べ、別のところにあって、だ、だから」
「違う、普段使うからこそ丁寧にしなきゃ推し本人に失礼だろ。床に放っておくとか論外だ!」
「うっ、うっ……」
「そこのグッズもせっかく購入してもらったのに、食べ終えた弁当箱を上に置かれたら何のグッズかわからないし、推しが見たら悲しむ」
「だ、だから、片付けようと……」
「全然片付いていない! 部屋が汚れてしまうのは仕方がないが、推しグッズはいわば特別。それそうおうに扱わなければ罰が当たる」
「あ、あうう」
「本棚の上の二次元化フィギュアを見てみろ。埃被っちゃってるじゃないか。毎日磨くどころかほったらかしている証拠だ。もし推しがそれを見たらどう思う?」
「うううっ」
少女は康行の熱のこもった言葉に反論するが、すかさず畳みかけられ視線を彷徨わせる。
少し怯えているようにも見えた。
そんな挙動不審にも見える彼女に対し、緩めることはない。
服装を見れば、前髪で目元は隠れ、部屋着なのかジャージ姿なのも気にかかり自ずと口に出てしまう。
「推しはただ見るものじゃない。ポスターやグッズの視線から見られているかもしれないと意識を持つべきだ。推しの前で正装は基本事項だ。君、その姿で推しの前に出られるのか?」
「そ、それは……」
「俺なんてお高い美容室に毎月通って、私服もばっちりと決め、推しの前ではくしゃみも我慢するぞ」
「っ! そ、そっか……そうやっていつも……れば…………しなくなる」
「んっ?」
「あ、ありがとうございましゅ……わ、わたしが、いかにポンコツだったか、身に沁みました」
「わかったなら……って、ちょ、どこへ行く?」
綺麗にお辞儀をすると、なにを思ったのか、彼女は部屋を出て行ってしまう。
本来は立ち会ってもらうべきなのだが、隣の部屋でガサゴソと音がし出したので、まあいいかと整理整頓の作業を開始する。
一通り綺麗にして、折れ曲がったポスターをきちんと伸ばし、部屋に入って正面に見える場所に変え、積み上げられていたグッズとフィギュアは埃を拭き取り高さの不釣り合いなどがないように綺麗に並べる。
徐々に推しを崇拝するための清らかな部屋へと変貌を遂げて行く。
作業をしている間に康行も冷静になり、人見知りであろう少女に対し少々言い過ぎたかと反省した時だった。
「ふぁあ!」
小さな拍手とわずかな声が背後から漏れる。
「これが本来推しを迎える……な、なっ、はあっ!?」
どや顔で振り返った康行を見ていたのは、変貌を遂げた少女だった。
首元にはリボンをつけ、制服にも似たボーダー柄のワンピース姿。
おでこを出して、髪は後ろできちんと束ねている。
整った顔立ちと印象深く残る鋭い目元、見るからに美少女なのだが……。
その恰好、いや衣装は見覚えがあるどころの話ではない。
それは、康行が応援している推しのグループのステージ衣装。
さらには目の前に毎日神と崇めていた人物と至近距離で対面していることで完全に思考が停止しかける。
信じられない光景。本物はいつも見ているより、より眩しく尊く映る、神というべき存在だ。
雑巾をもったままその場に立ち尽くしている康行に、彼女は言葉を掛ける。
「あ、あの、こ、これが、せ、正装でしゅ」
「…………ま、まさか、さっきの子?!」
彼女の言葉を受け、少し顔が赤くなっているのを自覚しながらも、まじまじと見つめてみる。
印象はまるで違うが、さきほどのジャージ姿の子と背丈は変わらない。
康行の問いに、コクコクと頷く。
「……」
「う、う、嘘だろ!?」
驚愕の声が静かな室内に響き渡る。
目の前にいるのは、紛れもなく推しの子、白崎真希だった。
☆☆☆
康行は混乱の最中にいた。
え、本物? どうしてここに? もしかして彼女が? そういった疑問がぐるぐると頭を駆け巡る。
しかし制服にも似た衣装姿に、特徴的な目元は見間違うはずがない。
なにより記憶の中に鮮明に焼き付いている神の姿と一致する。
彼女はどこからどう見ても推しである白崎真希にしか見えない。
白崎真希と思しき彼女は変貌した自らの自分の部屋《推し部屋》に足を踏み入れ、目を大きく見開き頬を紅潮させる。
「す、すごいです……」
「えっ、ああ……ポスターは発売日順に並べて、推しの服装で1年を感じられるように配置しなおして、雑誌も発売日順に……」
「ふぁあ」
「……」
彼女の部屋は先ほどまでの汚部屋とは随分様変わりしている。
壁にはポスターとカレンダーが一定の間隔を空けて貼られ、棚には二次元化フィギュア、推しが表紙のファッション雑誌、それはグッズで構成されたいわば推しファンのための小さなテーマパーク。
先ほどから彼女がだらしない笑顔を向けて、その光景に驚くのも無理はないだろう。
だが驚きという点では康行も負けていない。
見た目はまんま白崎真希の彼女は、舞台で見る氷結としか評されないクールな姿とはまるで違い、喜怒哀楽を発揮している。
イベントやインタビュー動画では見られないこれが素の彼女なのか。
その姿を目の当たりにしているだけで嘘みたいに鼓動が脈打つ。
「はわっ、うっ、ううっ……」
「刺激が強すぎたか……あ、足元きをつけ」
「えっ……」
部屋の真ん中であらゆる推しの視線にさらされていた彼女は、あたふたしていた。
だがその表情は赤く染まり嬉しそうだ。
推しの存在を確かめるように部屋をゆっくりと回っていたが、前しか見ていなくてコードに足を取られ、机の上に並べてあったリモコンを床に落としてしまう。
その弾みで映像が再生された。
それは彼女のグループのライブで、観客の声援がまず聞こえたがその瞬間にスイッチが入ったようにクールな表情になり、
「静かにしなさいよね!」
「す、すいません! ……って、やっぱり、君は……」
それはイベント時でもよく見る注意喚起みたいなもので氷結を纏ったような彼女の第一声みたいなもの。
いつしかそれはお約束になり、その言葉で会場はシーンと静まり返る。
「……はっ、す、すいません。私ったらつい本番みたいに……」
「い、いや……」
「そ、その、わ、私、白崎真希です……実は、推しの岡島宏実さんと同じグループにいるんです!」
「えっ、あっ、うん……」
もじもじしながら告げる彼女。
やはり本物なんだと思うものの、どう反応していいのかもわからない。
推しがすぐ傍にいるこの状況にやたらと緊張して体が少し震える。
自分の推しは君と告げようか迷って、頬を掻いていると、彼女は停止していたDVDを再生させようとしていた。
「ちょっと待ってください……わかりませんよね、ふぁあ、このすごく可愛くて、明るくて、優しい推しさんの隣でちょっとどんくさい動きしているのが私で……」
「……」
「そうですよね、超絶可愛いざアイドルな広実さんに比べると影が薄くて、ううっ」
「い、いや、さすがにそんなことはない。君にもたくさんファンいるし、そもそも個人じゃなくてグループ全体が好きって人もいるし……」
「っ! ……あ、あの、せっかくなのでこのままライブ映像を」
「……」
神聖な推し部屋に佇んでいれば、より一層推しを感じたくなったようでそんな提案をしてくる。
その言葉にまだ戸惑っている康行は無言で頷く。
テレビに映される推しのグループ。
『♪♪♪~』
センターを務める真希の推しである岡島宏実がその歌声と華麗なダンスを披露する。
それだけで綺麗に背筋を伸ばし正座して食い入るように見ていた彼女は目を輝かせて拍手した。
「可愛い……うっ」
「やっぱそうなるよな、慣れれば大丈夫」
さらに何か言いかけようと口を開きかけたが、推したちの視線に気づきクールな目つきになったりと表情をころころと変えていた。
そんな反応を示す彼女にドキドキしながらも、康行も映像を見つめる。
端に映る推しが歌と一生懸命に振り付けを披露していて、その姿を見せられればぴくりと体が動いてしまう。
「え、えっ、そ、それは……!」
「これも推し活で舞台上の動きを模倣するんだ……ほらこの曲、振り付けはシンプルだからこそファンも一緒になれて、最初の頃の路上ライブでめっちゃ盛り上がって、メディアでも取り上げてくれただろ。君もやってみ」
「っ! さすがよくご存じです。はいっ」
こっちの動きと映像の推しの動きに合わせ、彼女も振り付けを披露し始める。
もともと振り付けを完璧に覚えていたこともあるだろう。
その動きは徐々にスムーズにキレのいいものになっていき、表情も活き活きとしてくる。
感心しながらも康行とて動きを止めない。
隣の彼女に引っ張られながらも、いつも以上に気合いが入り徐々に表情が緩んでしまう。
「誰かと一緒だとより満たされるな」
「すごいです……そっか、いつもファンの人ってこんな気持ちなんだ!」
他のメンバーの推しと共有する推し活はライブではあるものの、少人数では康行も初めての体験。
そしてなによりも推し本人との推し活は夢のような時間だった。
やがて曲はフィナーレを迎え、最後は決めポーズで締めた。
お互い全力の応援をし終わると、激しい動きをしたわけではないのだが肩で息をしている。
だが疲れを感じるよりも、やりきったという充実感でいつも以上に心は満たされていた。
「やっぱりいいな……」
「いいですね。なんか夢中になったら広実さんが応援してくれているみたいで……す、すごい、すごい。これが推し活なんですね。わ、私、グッズ買うことしかしてきてなくて」
「それも立派な推し活なんだけど、もっと上があったろ?」
「はいっ! なにか一体になった気がして、推しさんにも伝わる気がしますね」
「そうそう……んっ!」
にっこりと微笑んでいた彼女だが、段々とその表情は陰っていく。
康行の方もつい推し活に熱を上げてしまったが、推しを前になんてことをと頭を抱える。
「うーん……」
「やっちまった……」
「……あの、ステージ上にいると今みたいにファンの人と一緒に盛り上がるような推し活は出来ないんじゃ……」
「えっ、いや……当事者だろうと推し活ができないなんてことはねーよ。それが本番中でもだ。ほらここの映像にもあるけど、最前列のファンは今の俺たちみたいに一緒に振り付けやってくれてる」
「……ほんとだ」
「この人たちの動きを、推し活の起点を、君が作ればいいんだ。ステージにいる君は、会場の雰囲気や特に盛り上がって欲しい場所を把握しているだろうし。ここってときに一体感を生ませやすいだろう。えっとつまり、君がファン全体の先導者になるってこと」
「っ! わたしが……そ、そんなこと考えたこともありませんでした」
少し想像したのか、彼女は小刻みに震えだす。
「それが出来れば、もっと盛り上がるし話題にも上がり、なにより自分と推しのためにもなる」
「うわぁ……し、ししょうっ! そうお呼びしても?」
「いや、なんでだよ……」
推し活について少し助言を、当たり前のことを言っただけなのになぜか敬意をこめた眼差しで見つめられる。
頭の中のクールな推しと目の前の感情を豊かに見せる推し、その違いもあって本物とわかっていても、未だ困惑したじろいでしまう。
頬を赤くしてなんだか恥ずかしくなって頬を掻くしかなかった。
どうやら家事代行先が推しの家で、なぜか推しと師弟関係になってしまったらしい。
☆☆☆
あれから10日。
康行はすっかりいつもの日常に戻っていた。
学校に行き、バイトに励み、推しの曲を聞き、推しが出る番組や動画をチェックしたり、SNSでファン同士で交流したり。そんな今までと変わらない毎日。
結局あの後は何の音沙汰もなく、先日、白崎真希の家であったことは、夢か幻だったのかもしれない。
そんな風に思いつつあったある日の夕方、グループから緊急重大発表がされた。
「う、うそだろ……っ!?」
自分の部屋で事前にシャワーで身を清め、正装に身を包み正座待機していた康行は、思わず身を乗り出しモニターの画面を掴む。
そこに踊っている『1周年武道館開催決定!』の文字。
にわかに信じられなかった。
武道館ライブといえば1万人を動員出来て、1周年とはいえまだまだ発展途上のグループでは異例のこと、だが今売れに売れているグループとのコラボということで妙に催す説得力が出てくる。
このイベントの成否はグループの今後を左右するといって過言じゃない。
すぐさまSNSやスレッドを覗けば、そのことで持ち切りだ。
いたるうところで、
「ある意味博打だぜ」
「成功すればトップグループ確定」
「でも失敗すればそのままフェードアウトもありえる」
といった議論が活発に交わされている。まさに彼らの言う通りだった。
「絶対成功させなければ……前売り券は!? どうせならいい席で……!? うわっ、軍資金が心もとない、もうちょっとバイトを増やして……んっ!」
モニターに映る推しがいつもとはどこか違うようなわずかな違和感を覚える。
なんだろ? と考えてみれば、その表情が、先日ジャージ姿で対面したようなおろおろした時と重なって見えた。
「き、気のせいだよな……」
☆☆☆
そんなことがあり、バイトの日数を増やしさらに精を出す。
この日も学校終わりに意気揚々と仕事に出かけたら、珍しいことにご指名だと言われた。
首を傾げる康行。この仕事にそういった制度はあるにはあるが先輩たちでも実際に指名されているのを見たことがない。働き始めて僅かな自分にいったい誰がと思う。
だが現場に駆け付けるとその疑問は氷解すると共に、頬を引き攣らせる。
「……夢じゃなかったんだ」
そこは康行の推し、白崎真希の家だった。
「……」
「……」
そして無言で出迎えた彼女に招き入れられ、沈痛な空気の中、今にも泣きそうな彼女と向き合っていた。
一大イベントを控えているにもかかわらず何か落ち込んでるように見える。
あの違和感はやっぱり気のせいではなかったのか。
一体何があったのだろうか?
かれこれ10分はこうして無言でテーブルの上のお茶を眺めている。
そわそわしながらぱっと周囲を見回してみるも、前回康行が徹底的に掃除をした時から特に変わりはない。家事代行として呼んだというわけじゃないのだろう。
よくわからない状態だった。とにかく落ち着かない。
真希は以前訪れた時と違い、ジャージ姿でなく完璧にピシッときめたアイドルの姿そのものだから、なおさら。
やがて何か話の取っ掛かりが無いかと思っていると、机の上のあるものに気付く。
「……あれ、この万年筆は!? こ、これ……」
見覚えがあったこともあり、信じられず思わず大きな声になる。
「ち、違うんです! と、盗ったわけではないんです!」
やはり彼女の推し、岡島宏美の私物のようだ。
デビュー当時から、愛用していることもあってファンの間では有名で、姉からの贈り物とインタビューなどでもたびたび答えていたのを康行も知っていた。
「い、いや、別に盗んだなんて思ってないよ。でも、なんでここに……?」
「……その、この間、楽屋のすぐ近くに落ちていて、拾ったんですが……」
「そ、それで……?」
「返そう、返そうと思っていて、でも周りに誰かいたりして、なかなかその機会がなくて……」
「ま、まあそういうのってその場じゃないと、なかなか返しづらくなるのは俺も経験あるよ……」
「で、ですよね……」
ようやくと話が始まったかと思ったら、なんだか大事の話のような嫌な予感がした。
1ファンの自分にはただ聞くことしか出来ない。
弱ったなと腕を組む。
それでも話すことで推しである彼女の気が晴れるならまあいいかと、康行は頭を掻いた。
「それで、返せずに今に至っているわけか……」
「はい……そ、その、それだけならまだいいんですが……」
「他にも何か?」
「いつの間にか窃盗騒動になってしまってて……」
「っ! ま、まあ、大事なもんだしな……でも、それは随分とややこしくなったな……」
顔面蒼白になりながらも、両手を握りしめ、状況を途切れ途切れに彼女は伝える。
なかなか返せないでいると、宏実の方も失くしたというより、取られたと思ったのか、周りが騒ぎ出したのか、詳細なところははっきりしないが、騒ぎになったということらしい。
厄介なことだなとため息をつきそうになる。
「犯人探しみたいな言葉も飛び出して、宏実さんも落ち込んじゃって、グループ内の雰囲気も悪くなってしまって、練習にも影響が出ちゃって……このままじゃ来月の1周年のライブも上手くいかな……」
その言葉を聞いて、それまで相槌や話の先を促すだけだった康行だが、瞬間的に眉を顰め、勢いよく立ち上がる。
「っ!? それは一大事じゃないか!」
「はい、ですから……」
「武道館でのライブだぞ。しかも君たちよりも人気があるグループとのコラボライブ。周年とはいえ、人気を考えれば会場のファンの数は劣勢だろう。おまけとしか見られてもないかもしれない。それでも、大勢の人の前で、存在会を示すいい機会じゃないか。トップアイドルへ駆け上れるかもしれないのに、そんな小さな揉め事みたいなものでチャンスを棒に振るのかよ……ダメだ、ダメだ、そんなの絶対にダメだ」
「で、でも、私じゃどうしたらいいか……」
「君が1人で抱えることはない。落とし物を拾った。ただそれだけのことだ」
「あ、あの……た、助けてください!」
「任せろ! 俺が絶対に何とかする!」
「し、師匠!」
少しほっとして背負っていたものが軽くなったのか、彼女は僅かに表情を緩める。
それと同時に康行も冷静さを取り戻していく。
あれ、またやってしまった……と、康行は頭を叩いた。
☆☆☆
真希に相談を受けてから数日が経過し祝日を迎えていた。
ここまで色んな万年筆返却作戦を考え試してきたがどれも失敗に終わっている。
鞄の中にこっそり返そう作戦は、返す前に中身の推しグッズの山に目がくらみ断念。
家に訪問して返してしまおう作戦は、家に向かう途中で自分が推しの家に行くのは恐れ多いと狼狽えこれまた断念。
何事もなかったように手っ取り早く返してしまおう作戦では、喋りかけることすら出来ずに……。
そんなこんなあり、真希に泣きつかれた格好で返すことを直接手伝うことになった康行は一般でも入れるという収録スタジオへとやって来ていた。
「ここ、だよな……」
オフィス街に立つそこは、モダンな外壁でなんだか大人な雰囲気を醸し出していている。普段通いなれているコンビニやアニメショップ、書店に入るのとはわけが違い、その入り口に足を踏み入れるのすら気後れする。
真希に許可されているとはいえ本当にいいのだろうかと挙動不審になりながらも無事に受付を済ませて来場者カードを下げて中へと通された。
「ママ、ママ、お姉ちゃんいる。いつもよりなんか綺麗」
「メイクしてるからよ。ほら、いい子だからこっちに座ってなさい」
「もう受付もしたし、ここに居てもいいのよね……」
場違いとも思ったが、収録ブースが見える隣室には同じようにあたふたしている人も見受けられちょっと安心する。
関係者の身内の人だろうか、年配の人や小さな子も兄弟姉妹で来ていてグループが幅広い年齢層に支持されているのがわかり、康行はなんだか嬉しくなって笑顔になった。
まずは新規のPV撮影から行われる。
メロディが流れ始めれば辺りから歓声と拍手が聞こえ、康行も真希の姿を視界に捉えると自ずと一緒に盛り上がる。
「うわっ、あの子凄い目立つ」
「彼女がいることでこのグループの華やかさが増すよね」
「綺麗……」
そんな中で見学者の視線を多く集め、話題に上がるのが康行の目的の相手である岡島宏実だった。
白い肌に、ゆるふわのセミロングの黒髪、モデルのようにどこにいても人目を引くほどの容姿。
ファッション雑誌にも顔を出すほどに華があり、歌も上手く常にセンターを務めているのが彼女。
「っ……んっ……っっ!!」
ここまで順調にスケジュールをこなしてきているのをみて、自力で乗り越えたのかとほっとしかけていたら、新曲の収録となった途端に宏実はどういうわけか急に言葉に詰まり何度もリテイクを繰り返していた。
「それじゃあ最初からもう一度」
「す、すいません……」
そんな様子を間近で見ていた子供たちは、
「なんかあのお姉ちゃん、いつもと違うよ……」
「なっ! いつもは失敗したりしないのに……」
心配しているような声が上がり、
「またあの子のとこ……」
「いつもはこんなことないのにね、どうしたのかな?」
「センターの子でしょ、しっかりしてもらわないと……」
見学者の大人たちからは不満が滲む言葉が聞こえてきていた。
失敗するごとに宏実を見る真希以外のメンバーの視線もきつくなっていく。
やがて指折り出来ないくらいのやり直しをむかえ――
「~♪♪ ~~♪ こほっ、ごほっ……っ」
「だ、大丈夫!?」
メンバーの一人が歌いすぎたのか咳き込み喉元を押さえうずくまる。
心配そうに駆け寄った宏実が手を差し伸べたが、その手は冷たく払いのけられた。
その場の空気が凍り付く。
広実はぐっと唇を噛み、手を払いのけた彼女はため息交じりに頭を掻く。
それを皮切りに周囲の温度は冷え込んだまま、宏実に向く視線があんたのせいだとも言っているほどにきついものになっていく。
そこからさらに失敗を繰り返せば、もう我慢ができないと不満は表へと爆発し漏れ出てきた。
「ちょっと宏実、いい加減にして! 何回やり直しさせるの」
「そうだよ。あなたがいつも言ってるんじゃない。誰かの失敗はそのまんまグループに迷惑がかかるって。ソロでやってるんじゃないのよ……」
「そりゃああなたは潰しが効くから、いいかもしれないけど……グループにとって今が一番大事な時でしょ。しっかりしてよ!」
「ご、ごめんなさい……」
周りから攻められている宏実はただ謝り悲痛な顔で唇を噛んだ。
この空気を作り出してしまったのは彼女で、自分だけならいざ知らず、周りに迷惑を掛けていることが浮き彫りになり、その悔しさは表情へと表れていた。
真希はといえば、そんな彼女を見て涼し気な表情は変わらなかったが、彼女以上に心を痛めているように俯いて両手をぎゅっと握りしめていた。
(これ以上みていられねえなぁ)
康行はディレクターらしき人に近づき声をかける。
「あ、あのっ」
「んっ?」
「いったん休憩挟んだ方がよくないですか? このまんまじゃ大きな失敗に……仕切り直せば彼女も切り替えられるかも」
「そうだな」
プロの現場でただの一般市民の自分がいっちょ前に意見を言うことは躊躇われたがこれ以上推しの辛そうな顔は見たくない。
「みんな熱くなりすぎだよ。いったん休憩にしよう」
その声を聞いて、宏実は飛び出していく。
返すなら今しかないかと思い、真希に指で合図して他のメンバーが話し合いをしている背後で宏美の春用のコートのポケットに万年筆を返す。
「ふぅ~、もうこれで大丈夫だろ」
「はい、でも、その……」
真希の目は走り去って行った宏美の姿を見つめていた。
「任せろって言ったろ。彼女の様子は俺が見てくる。君はこの雰囲気の悪さをちょっとでも改善してくれ」
「はいっ!」
探し始めて数分、自動販売機の前の休憩所のような場所で彼女を見つけた。
周りには誰もおらず、1人ソファに座り俯いている様は明らかに落ち込んでいる様子で、なんとなく声を掛けずらい。弱ったなと頭を掻く。
岡島宏美。
ここまで想像も出来ないくらいの努力で駆け上ってきたことは、インタビュー記事などに目を通せば一目瞭然。
何と言っても推しの真希が推すくらいの人物。
「……」
そんな彼女をもってしてもここまで……。
それは宏実にとって、あの万年筆がそれほど大切なものだということ。
今ここで手元に戻ったと言うべきだろうか。
だが追求されたら、真相を話してみても真希の立場が危うくなるかもしれない。
どうするべきかと、考えが頭の中でぐるぐる回ってその場に佇んでいると、
「お、お姉ちゃん、ここ、さっきも通った……もしかして迷った?」
「そうだったかな……だ、大丈夫だから」
あたふたし、道に迷っているような小さな姉妹が休憩所の傍を通る。
その二人の声に彼女は顔を上げたかと思ったら、どういうわけかさっきまでの表情とは一変していた。
目を見開いて、不安で今にも泣きだしそうな姉妹に駆け寄ったかと思ったら、
「大丈夫? 道わからなくなっちゃったの?」
「は、はい……う、うっ」
「な、泣かなくても大丈夫。お姉さんが助けるから……~♪♪ ~♪♪」
励ましながら微笑み、子供たちが誰でも知っている歌を美声で披露する。
それは、さっきまで声が出なかったのが嘘のような、心に響く声だった。
妹の方は途端に泣き止んで笑顔を作る。
周りにいた人は宏実の豹変に目を釘付けにしていた。
(ど、どうして……?)
困った人が居れば放っておけないのか、姉妹ということに何か意味があるのか、子供好きなのかはわからない。
だが、瞬間的にアイドルの顔になって周りの空気を一変させたのは確かだ。
「お姉さん、お歌も踊りも上手な人だ」
「そっか。2人も見学してたんだ……外に出たいの?」
「うん。お母さん近くのデパートで買い物してて、もうちょっと見ていきたいから……」
「デパート……えっとね……あ、あの?」
「……どうかしたの?」
すっかり元気になった姉妹は道を教えてもらえると喜んでいたのだが、自信満々だった彼女の表情はみるみる曇り、その様子を見ていた康行に助けを求めるような視線を向けた。
「私も方向音痴で……。この子たちが行きたい場所わかったりする……?」
「…………」
「あの?」
「えっと、わかると思う。案内は俺がするから。大丈夫なら君は戻っていなよ」
「うん、君……どこかで私と会ってない?」
「お、俺は白崎真希の連れだから」
「真希ちゃんの……そうなんだ……またね。お姉さんを、妹さんを大切に、仲良くするんだよ」
姉妹にそう告げると彼女はスタジオへと踵を返す。
その後ろ姿を見送りながら、裏表がないというか、なんとなくファンが多いのもその容姿以外のところで納得する康行だった。
☆☆☆
新曲収録を終え、1週間が過ぎた週末。
今日は武道館ライブのPRを兼ねた他グループとの合同イベントが都内の某ショッピングモールのイベント広場で行われる。
用意された100を超える席にはすでに空きはなく、立ち見も多く、二階や三階の吹き抜け部分から見ている人も居て、まだまだその人数は増えるばかり。
スタッフの話では今日は開店前から大勢の人が並んでいたらしくここまで盛況なのは珍しいと話してくれた。
真希がステージ袖から客席を見渡せば、ペンライトを持ち意中の推しのうちわやタオルを身に着けているのが目につく。
聴こえてくる会話はグループや推しについてともなれば徐々に広場の熱が高まっているのが窺える。
その想像以上の人の多さと熱量に圧倒させられっぱなしだ。
「っ!」
「へえ、すごい集まってくれてる。みんなにも見せたかったなあ」
「そ、そうね……」
今回はPRイベントということで少数精鋭で都内と横浜に別れてのもの。
こちらの会場は宏実と真希の担当だった。
「あっ、いたいた。なかなか準備で忙しなくなっちゃって話せなかったけど、今日はお互い頑張ろうね……」
「ええ、こっちこそバタバタしちゃっててすいません」
ステージ裏に戻り、本番の準備していると他グループの人がギターを下げながら真希たちを見つけ駆け寄ってきた。
「ふふっ、ばっちりお客さんを温めておくので火傷しないでね」
「あはは、ならこっちはさらにみんなの熱を高めるように歌わなくっちゃ」
「言うねぇ……じゃあ先行ってくるね」
宏美は心のままに言葉を噤み、口元に自信に満ちた笑みを浮かべる。
「……」
康行に万年筆を返してもらって以降は、それまでよりも彼女はなんだか輝いてみえた。
♪♪♪〜
始まるイベント。
他グループのレベルの高いギターの生演奏と歌を聴くと心臓の鼓動がさらに増す。
ちらっと宏美の方を見れば、彼女は闘志を掻き立てられているかのようにその口元はますます緩み本番を心待ちにしているのが窺えた。
「向こうもやるなぁ……でも、ライブが終わるころには私たちのファンにも絶対なってもらうから!」
「……え、ええ」
そんな彼女の姿を魅せられれば、嫌が応にも足を引っ張っちゃいけないという想いが強くなり、ついに体が震えだしてしまう。
(お、おかしい……)
自分は人見知りで宏美の前では特に緊張しやすいが、アイドルのクールな仮面を付けている間はそれも緩和される。それなのに、どういうわけか今日はそれが上手く行かない。
大きなイベントを控えているから、推しと二人だからか、大勢の人を前に怖気づいてしまったのかはわからない…。
「あっ、真希ちゃん向こうはもう終わったって……すごい盛り上がりで上手く行ったってさ」
「そ、そう」
そんな中でメンバーからの成功メッセージを聞けば、さらにさらに緊張は高ぶってしまう。
なんとか落ち着こうと演奏と間に挟まれる軽快なトークを聞きながらも、ステージの袖をうろうろとさまよってみたりしたものの全くいつも通りにはならず……。
「そろそろ出番です」
そのままに、出番の時がきてしまう。
もうジタバタなどできない、なんとか深呼吸してステージに飛び出していく。
そこに立てば、観客がより近くなり、そして有言実行のように暖められた空気を肌で感じる。
なんだか視界がいつもよりも狭く、体が強張ってしまってマイクだけは落とさないよう咄嗟に強く握った。
「……」
「ほら、真希ちゃんいつものやつ」
「えっ、あっ……し、静かにしなさいよね」
「「「おおっ」」」
そんなだからお約束事さえも頭の中から飛んでしまっていた。
ざわざわとしていた会場の空気は一瞬で静寂に包まれる。いつもならこの瞬間に落ち着くことができるのに……。
「さすがの真希ちゃんも緊張してるね」
「……」
「今日は新曲とライブのPRベントということで2人だけですがこんなにたくさんの人を前にして……嬉しいです」
「……」
宏実は新曲の紹介と武道館に向けての決意表明、ファンへの感謝の気持ちをすらすらと心のままに言葉にして紡いでスムーズに進行していく。
待ったなしで新曲の音楽が流れだした。
「~♪♪♪」
彼女の歌いだしは完璧。いや、いつもよりもさらに心に響き見ている人の心を掴む。
対する真希はといえば唇が震え、体が重く感じて難しくない振り付けでさえやっとの状態。そんな中来てしまう自分の歌いだし。
「……」
何度も何度も自然と出るように、推しの足を引っ張るわけには行かないと練習してきたにもかかわらず本番で初めて歌詞を間違えて2番の歌詞から口にしてしまう。
「~♪♪」
「っ!」
それにすぐに気づいた宏実は2番の歌詞からアレンジして何事もなかったかのようにサビへとつなぐ。
こういう状況を一番危惧し、そうならないようにレッスンを積んできたのに自分への不甲斐なさで視界はさらに狭くなり歓声も静かになってしまう。
ミスは続く。
なんでもない動きの中でも足をもたつかせていると、大丈夫というように宏実が手を掴んで、まるで演出とでもいうようにフォローし立て直してくれる。
いつもこうして他のメンバーのミスも1人でカバーしてくれていたのかと思えば、さすが推しと心が燃えてそれがパフォーマンスへと変わるのに今日はそれも出来ない。
「「っ!」」
こんなんじゃ駄目だと自分を責めながらもどんどん声は小さく、動きも縮こまった物になっていく。
そんな中、もう止めろとでも言うように突然スピーカーから流れる曲が消えた。
「なになに、どうしたの……?」
「いいとこなのに…」
「機材トラブルか……」
客席がざわつきそんな声が聞こえてくる。
すぐ直るだろうと思ったが簡単ではないようで、数分が経過しても曲は再開されない。
「もうちょっと、も、もう少しだけ待ってください」
宏実が必死に場を繋いでいるが、その表情はさきほどまでとは違い不安そうな表情がのぞく。
(私のせい……)
これはミスばかりする自分への罰かもしれない。
顔が真っ青になっているのを自覚しながら、そんな後ろ向きな考えまで浮かんできてしまう。
「……」
この場にいるのすら怖くなる。
逃げ出したいと後退りそうになるのを必死に堪える。こんな気持ちは初めてだった。
その時だ。ざわつきた会場の中で客席からの声が響く。
「~ならなくて大丈夫~♪♪」
「「っ!」」
それは、いつまで経っても再開されない不満の声を打ち消すかのように、最前列から二人を励ますかのように包み込む。
聞き覚えのある声。いったい誰が……。
そこにはペンライトを振りながら顔を真っ赤にして一生懸命に歌詞を紡ごうとしている康行がいた。
真希から見える1番目立つところに彼がいた。
いつから居たのだろう、最初から観てくれてた、康行に気づかないほど自分は……。
彼の声に、そのアカペラに呼応するかのように、周りのファンが一人、また一人と歌いだす。
その光景にどうしようもないくらい励まされ、奮い立たされ、そして勇気づけられる。
(……あ、ありがとうございます!)
気がつけば自然とファンに頭を下げていた。
なんだか体も軽くなり、いつのまにか視界が広がっていて、遠くまで見渡せる。
「あの人この前の……すごいことするなぁ……真希ちゃん、このハーモーニーに合わせて行こう、行ける?」
「もちろん」
宏実の小さな声に大きく頷いてみせた。
先程までは違いお腹のそこから声が出る。
ファンのハーモニーに宏美と共に声を被せればそれだけで会場が1つになりつつあるのを感じた。
でもまだ何か足りない、今ならまだ何か出来るような気がしてならない。
宏美と動きをシンクロさせ、歌いながら康行をみれば、力強いペンライト捌きで周りを先導していた。はっとして、彼の言葉を思い出す。
ステージ上にいても推し活を、それを実行する時だった。
このファンの人たちを自分が先導する。
真希はついてきてと言わんばかりに左手を大きく上げながら形作ってくれた雰囲気に歌詞に気持ちを込めさらに応えていく。
♪♪♪〜っ!?
「うおお、なんかすごいっ!」
「これ、やばっ!」
「こんなこと出来んのかよ!」
「♪♪♪~」
ファンと一体になってステージを形成していったところで音楽も再開された。
一段落ついたところで感謝の気持ちをこめて、遠慮がちに客席に拍手すれば、途端に歓声と拍手が木霊する。
今日1番の大盛りあがり。
その後も前半の失敗を取り戻すかのように真希は躍動しファンの心を満たし、この日のステージは大きな話題となりイベントは大成功で幕を閉じた。
☆☆☆
合同イベントから1週間足らずが過ぎた。
トラブルがあったものの、しかしそれがきっかけとなって注目されることになり、2人の知名度は日に日にうなぎ上り。
現に教室内でも耳をすませば、クラスメイトたちの間からも真希たちの話題が上っている。
「あっ、そのファッション雑誌宏美ちゃん表紙じゃん!」
「まじ美人だよね!」
「ほらこの動画見てみ、クールな真希ちゃんとの相性良すぎ」
「今度武道館でライブだっけ? 今からチケット取れるかな!?」
その内容は初期の初々しい彼女たち、1番の推しは誰か、PRイベントでの印象に残った場面など。教室内はどこもかしこも彼女たちの噂で持ち切りだ。
そんな光景を目にした康行は、真希たちが全然売れていなかったデビュー当時のことを知っていることもあって、感無量で思わず涙ぐむ。
うんうんと頷き、彼女たちの話題を優しく見守る、いわゆる後方腕組み彼氏面になってしまうのも仕方がないというもの。
ふと考えてみると、万年筆の件以降、真希からの連絡は何もない。
それが当たり前なんだ。所詮は一介のファンと推し。アレはただの偶然であり、いわば神様が見せてくれた夢のようなもの。
そのことに一抹の寂しさを覚えるものの、以前に戻り、これからもただ推すだけである。
やがて予鈴がなり、皆自分の席へと忙しなく戻っていく。
そして担任教師が入ってくると共に、大きく目を見開いた。
「今日は急ですが、転校生がいます。じゃあ、自己紹介よろしく」
「あ、姉崎真希です。マ、マカロンズの宏美推しですっ!」
「「「おおっ!」」」
教室が一気に騒めき出す。康行の心の中も同じく騒めいている。
真新しい少し大きめの制服に身を包み、前髪で目元が隠れた地味な相貌は、あの日バイト先で初めて訪れた推しである真希そのもの。
なぜここに? いったい何をしてる? 夢か幻か……? ぐるぐると思いが錯綜する。
「静かに。それじゃあ姉崎さんは……坂井君の隣の席が空いてますからそこに。坂井君、休み時間にでも校内を案内してあげてね」
「は、はい」
こちらに気付いた真希と目があい、彼女はパッと瞳を輝かす。
見間違いではない、彼女は推しである真希本人だ。
朝のホームルームが終われば即座に真希はクラスメイト達に囲まれ、転入生への先例とばかりに色々と質問を投げかけられる。
「ねえねえ、宏美ちゃんのどこが好きなの?」
「えっと、立ち振る舞い、性格、その見た目すべてです!」
「わっ、わっ、やっぱ推しがいる人はそう答えるんだなあ……いいよねえ宏美ちゃんあこがれるなあ……」
「女神さまみたいです」
「あたしさ、今度宏美ちゃんと同じ髪型にしようと思ってるんだ……」
「か、髪質も似てますし、す、すっごくセミロング似合うと思います」
「そうかなあ……あっ、真希ちゃんってマカロンズについても詳しいの?」
「は、はい……たいていのことはわかると思います! なんでも聞いてください!」
そう言って胸をドンと叩く真希。
そりゃそうだろう、と頭を抱える康行。正体を隠す気があるのやらないのやら、ハラハラしてしまう。
「それじゃあさ、この前のイベントの時大活躍したって謎のファンXってもしか知ってる?」
「えっ……」
そんな中、ファンX《康行》についての話題が飛び出した。目をぱちくりさせた真希は、どうしましょうと言いたげに視線を投げかけてくる。ドキリとした康行は、即座に言葉を被せた。
「……あ、姉崎さん、ちょっと校内案内するよ」
「あっ、はい……」
「おい康行、自分だけ転校生独占とかずるいぞ」
「そうだそうだ!」
男子たちの歯がゆいような視線を受けながら、廊下へと飛び出す。
真希はキョロキョロと物珍しそうに周囲を見回している。
そして教室の喧騒が聞こえなくなった辺りで話を切り出した。
「何やってんだよ、一体。その、正体とかバレたらどうすんだ?」
「はあ……えっ、私はこの格好なら気づかれたことないですよ」
「……そりゃあ、そうかもだがあまりに無頓着すぎてもだなあ……」
確かに、ガチ勢である康行も最初は気付かなかった。そうなのかもしれない。
しかし、他にも気になることはあった。
「で、これはどういうことなんだ?」
「これ……?」
「転校だよ。いきなり過ぎるというか、なんていうか……」
すると不意に真希の纏う空気が変わった。神妙な顔で周囲を見回し、誰もいないことを確認してから重々しく口を開く。
「その、実は武道館ライブを中止しろって脅迫が事務所にありまして……」
「はぁ!?」
「警察とかにも連絡して、悪戯か何かだと思うんですけど、どうも嫌な予感が拭えなくて……一応、規模を縮小して警備を厚くという案も出ているのですが……でも私、せっかくの武道館をちゃんと盛り上げたくて!」
「…………っ」
康行の頭の中は真っ白になっていた。
武道館ライブの規模縮小、それは事情を知らないファンから見たら始まる前から白旗を上げたとも受け取ってしまう。
せっかく合同イベントが大成功して、満員御礼の舞台で躍動する推しを想像できるのに、今更規模縮小なんて……そんなの絶対にダメだ!
「くそ、そんなことはさせない! 俺に出来ることがあれば言ってくれ!」
「し、師匠っ!」
こうしてまたも康行は厄介ごとの渦中へと自ら踏み込むこととなった。
文字数が少し多くなってしまいましたが、ここまでお読みくださりありがとうございました。
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