第6話 五年生になって
「ねえ、美菜子ちゃんはどうしているの?」
お母さんにそう尋ねられたのは、ある日の夕食時でした。
「最近、美菜子ちゃんの話が出ないわね。今も仲良くしているの?」
「……クラスがちがうから、あまり会わないの」
「あら、そうなの? 今度のクラス替えで、一緒のクラスになれたらいいわね」
陽は、今はもう四年生です。もうすぐ五年生になります。五年生になると、再びクラス替えが行われるのです。
陽は、三年生の時に、望遠鏡を使ってたくさんの人とその心をのぞきました。
初めは、美菜子ちゃんをいじめていた男の子たち。次に、琴美ちゃん。それから、美菜子ちゃん自身のことものぞきました。その時に、陽は初めて、人の周りを取り巻くように靄が存在していることを知ったのです。
それは、色も濃さも範囲も、人によってさまざまです。男の子たちの周りに見えたのは、黒とまでは言えないような灰色の薄い靄でした。一方、琴美ちゃんの周りには、男の子たちのものよりはっきりとした黒い靄が立ち込めていたのです。
この靄は誰にでもあるものなのかと疑問を持った陽は、他の人ものぞいてみることにしました。まずはお母さんをのぞいてみましたが、周りには何も見えません。次に道を行く猫をのぞきました。やはり何も見えませんでした。
その時、誰かの怒鳴り声が聞こえてきました。びっくりしてそちらを見ると、二人の大人の男性が陽の家の前で言い争いをしているようです。一人は怒鳴り散らし、もう一人がそれを宥めている様子でした。
陽は、恐る恐る望遠鏡を二人に向けます。
すると、怒鳴っている男性の口からは炎のような赤い煙が吐き出され、その周りを赤黒い靄が包み込んでいました。もう一人の男性の周りには、緑とも青とも赤ともつかないような色が混ざり合った黒っぽい靄が、儚げにゆらゆらと揺れているのです。
この時、陽はあまりの恐ろしさに望遠鏡を落としてしまいました。
それから幾日が経ち、陽は再び望遠鏡を手にします。
それまで羽のように軽かった望遠鏡に、重みを感じました。
ノート一冊分ぐらいの重さでしょうか。
重くなってもまだまだ軽い望遠鏡を目にあてがいます。
その後、陽はすぐに望遠鏡をしまいました。見続けていることが、あまりにも辛かったからです。
陽は、見ました。
悲しそうにうつむく美菜子ちゃんと、その周りに漂う靄の存在を。
しかも、その靄は、いじめっこたちよりも黒く濃く……はっきりとした存在として、美菜子ちゃんを取り巻いていたのです。
それから一年半、陽は望遠鏡をのぞいてはいません。のぞくのがすっかり怖くなってしまったからです。
「どうしたの? 陽」
突然黙り込んだ陽を、お母さんが心配そうに見つめています。
「……なんでもない」
陽はそう答えると、箸で摘まんだままになっていたご飯を口に運んだのでした。
五年生になり、陽は再び一組になりました。けれども、そこに琴美ちゃんの姿はありません。ほっとしながら、いつものように窓際の席へと着きました。
『美菜子ちゃんは四組かあ……』
昇降口に張り出されたクラス替えの名簿を確認したら、四組の欄に美菜子ちゃんの名前がありました。
『でも、よかったあ。今回は、ことみちゃんとも、美菜子ちゃんをいじめていた男子たちともちがうクラスになったみたいで』
そう思いながら、ふうと息を吐いたところで、
「どうしたの? 朝からため息ついて」
と声をかけられました。
「あ……まひろ、ちゃん」
驚いて顔を上げる陽に、真尋ちゃんが笑いかけています。
「おはよう」
「……おはよう。まひろちゃん、同じクラスだったんだね」
「みたいだね。わたしも、クラス替えの名簿を見た時にはびっくりしちゃった。同じクラスになるの、幼稚園以来だよね」
「そうだね。しのちゃんは何組になったのかなあ」
「しのは四組みたいだよ」
「四組……!」
「うん、そうだけど……どうかしたの?」
「あ、うん。美菜子ちゃんと同じクラスなんだなあって思って」
「あ……そうなんだね」
「わたしね、美菜子ちゃんとは一、二年の時に同じクラスだったの。それから仲良くしていたんだけれどね」
「うん。知っているよ。ねえ、今も?」
「え……?」
陽は口ごもりました。
「ことみちゃん」
真尋ちゃんの発した名前に、陽はびくりと肩を震わせます。
「陽ちゃん、ことみちゃんと仲がよかった?」
「……」
「ことみちゃんね、陽ちゃんは自分の親友だって言いふらしていたんだよ」
「……」
「でも、本当はちがうんだって、わたしは思っていた」
「まひろちゃん……」
「だって、陽ちゃん、二組によく美菜子ちゃんの様子を見に来ていたでしょ? 美菜子ちゃんのことずっと気にしていたから。陽ちゃんの親友は、美菜子ちゃんなんでしょ?」
「……うん」
「そうだよね。だから、きっと、ことみちゃんの気分を悪くさせないようにいっしょにいるのかなって、そう思っていたの。ことみちゃんは、嫉妬深いから」
「しっと……?」
「うん。陽ちゃんの気持ちが、他に向くことがいやだったんじゃないかな」
真尋ちゃんは、時々難しい言葉を使います。陽は首を傾げつつ、最も気になっていることを尋ねました。
「まひろちゃん、美菜子ちゃんはどうしているかな」
「……どうって?」
「ずっと、いじめられ続けていたの?」
「……そうだね」
「だれか、助けられなかったの?」
「……ごめんね」
陽ははっとし、大きく首を振りました。
「ちがう! そうじゃないの! だって、それは、わたしも同じだから」
「陽ちゃんは、助けていたと思うよ」
「……どこが?」
「ことみちゃんといることで、ことみちゃんの嫉妬心が美菜子ちゃんに向かないようにおさえていたんだよ。わたしは、そう思うよ」
真尋ちゃんは大人です。
この時、陽は本当にそう思いました。
幼稚園の頃は、陽と真尋ちゃんと志乃ちゃんの間には差がなかったと思いますが、小学校に上がると変化が起きてきました。それは、真尋ちゃんのおうちに新たに男の子と女の子の双子が産まれた辺りからかもしれません。
一気に三姉弟妹の長女に押し上げられた真尋ちゃんは、目に見えて成長していったのです。その差は、一人っ子の陽や末っ子の志乃ちゃんとは歴然でした。
そんな真尋ちゃんは、陽と志乃ちゃんの間ではまさにリーダーであり、また頼れるお姉さん的な存在でもあったのです。
「でも、もう美菜子ちゃんをいじめる人はいないよね。みんな、別々のクラスになったみたいだし」
陽は、同意を求めるように真尋ちゃんを見ました。
「美菜子ちゃんとしのちゃん、同じクラスなら仲良くならないかなあ」
「わたしたち、去年まで同じクラスだったよ」
「あ、そうか。仲は良くなかったの?」
「悪くはないよ。美菜子ちゃんが悪い子じゃないのは知っているもの。でも、美菜子ちゃんがね、仲良くなりたがらないの」
「……どういうこと?」
「美菜子ちゃん、だれとも話そうとしなくてね。いつも一人で本ばかり読んでいるから」
そんなことを話していると、朝の会開始のチャイムが鳴りました。気がつけば、いつの間にか教室は新しいクラスメイトたちで満たされています。立っていた生徒たちはみな席に着き、真尋ちゃんも自分の席に着きました。そして、新しい担任の先生が教室に入って来て、五年一組として最初の朝の会が始まったのです。
五年生となり、夏休みが終わって二学期が始まりました。
クラスが変わってからというもの、あれほどしつこかった琴美ちゃんがまったく姿を見せなくなったことに驚きましたが、陽は心からほっとしていました。ただ、美菜子ちゃんとは廊下ですれ違うぐらいで、いまだに会話らしい会話もできずにいます。
『美菜子ちゃん、まだ教室にいるかな……』
帰りの会が終わり、日直としての仕事を終え、ランドセルを片手に廊下に出ました。その足で四組を目指します。
『でも、もう帰っていそうだよね』
そう思いながら四組をのぞくと、やはりそこに美菜子ちゃんの姿はありませんでした。残っているのはおしゃべりに花を咲かせている女の子数人だけで、あとは全員下校したようです。
『今日は日直だったからなあ。明日、もう一回来てみよう』
そして、階段を下りるために再び一組の教室の前を通りかかった時です。
「どうしてっ?」
女の子の大きな声が聞こえてきました。
「リコちゃん、わたしと帰るって言ったじゃない!」
そう叫んでいるのは、クラスメイトのさつきちゃんです。
「リコちゃんはわたしと帰るんだよ! 今、約束したんだから!」
さつきちゃんに反論しているのは、こちらもクラスメイトの奈々ちゃんです。さつきちゃんと奈々ちゃんはいつも一緒にいるので、陽は二人のことを親友同士なのだと思っていました。
そして、二人の中心にいるのはリコちゃんです。リコちゃんは、ひとことで言うならクラスの人気者でした。
「ねえ、リコちゃん! リコちゃんはどっちと帰りたいの?」
「そうだよ! リコちゃんが決めて」
「わたしでしょ? わたしと約束したんだから!」
「わたしとも約束したよ!」
「たった今でしょ? わたしとの約束の方が早かったよ!」
「順番なんて関係ないよ!」
普段は仲良しのさつきちゃんと奈々ちゃんが、リコちゃんを挟んで喧嘩しています。その時です。
「あ、陽ちゃん」
陽はびくっと肩を震わせました。そう声をかけたのはリコちゃんです。その声に、言い合いに夢中になっていたさつきちゃんと奈々ちゃんまでもがこちらに目を向けます。
「陽ちゃん、今から帰るの?」
「え……? うん」
陽は、リコちゃんと話したことはほとんどありません。
突然に呼びかけられて驚いてしまいました。
陽と違い、何事にも積極的で開放的なリコちゃんは人気者で、休み時間になるとリコちゃんの周りには人だかりができます。その輪が気にならないわけではないのですが、内気で人見知りな陽に、その中に入って行こうという勇気はありませんでした。だから、陽のことなど、リコちゃんは気にもかけていないだろうと思っていたのです。
「ねえ、陽ちゃんはどう思う?」
首を傾げる陽に、再びリコちゃんが尋ねました。
「わたしはみんなと仲良くしたいんだけど、どうしたらいいかな?」
「どうって……」
「どっちと帰ればいい?」
「どっちかじゃないと、だめなの?」
「それって、三人でってこと?」
「うん。だって、三人とも同じ方向でしょ?」
「そうだよ。だからね、わたしも三人で帰ればいいかなって思っていたんだけれどね」
そう言いながら、リコちゃんがちらりと二人を見ました。すると、
「いや!」
「二人で帰ろうって言ったじゃない!」
と、さつきちゃんと奈々ちゃんが声を張り上げます。
「だめなんだって」
困ったように肩をすくめるリコちゃんに、陽も困ってしまいました。どうしたものかと悩んでいると、
「陽ちゃん、いっしょに帰らない?」
と言うなり二人から離れたリコちゃんは、廊下にいた陽のところまで歩み寄るとその手を取ったのです。そのあまりの自然さに、驚くタイミングを完全に逃してしまった陽は、
「え!」
「どういうことっ?」
さつきちゃんと奈々ちゃんの声に我に返りました。
陽は、突然のことに声を上げることもできず、ただリコちゃんの顔をじっと見つめてことのなりゆきを見守ることしかできません。
「だって、どっちと帰っても、もうひとつの約束は破ることになっちゃうもの。わたしは三人で帰ればいいと思っていたの。それがだめなら、わたしはどちらとも帰らない。じゃあね。バイバイ!」
それだけを告げると、反論もできずに固まっているさつきちゃんと奈々ちゃんを教室に残し、リコちゃんは陽の手を引いて歩き出したのです。
校舎を出て、校門を出たところで、ようやく陽の手は解放されました。
「ごめんね」
にこりと笑って、リコちゃんが謝ります。
「ああでもしないと、あの場はぬけられそうになかったから」
そんなリコちゃんの言動に、陽は違和感を覚えました。
「……一人で帰れば良かったんじゃないの?」
「え、一人で?」
「……」
「……そっか。それは考えたことがなかったなあ。一人でなんて、帰ったことがないから」
「……そうなの?」
「だって、さびしいじゃない?」
「……ただ、家に帰るだけでしょ?」
「そうだけど、さびしいよ。わたしは、友達にはトイレにだってついて来てほしい」
陽は休み時間の風景を思い出していました。トイレに行くと、そこには用もない女の子たちが必ず何人かは鏡を占拠しているのです。陽にはそれがなぜなのか理解できませんでしたが、リコちゃんの話を聞いてそういうことかと思いました。
「すごいね」
その言葉にリコちゃんを見ると、見たこともないような真剣な眼差しを向けています。
「陽ちゃんは、一人が平気なんだね」
「え、べつに……」
「一人でもさびしくないんでしょ?」
「べつに……ずっと一人でも平気なわけじゃないよ」
「でも、一人で帰れるんでしょ? 休み時間だって、よく一人でいるし」
「だって、ちょっとの時間だよ?」
「それでも、わたしはいや」
そう話すうちに分かれ道に差しかかりました。
「それじゃ、また学校でね」
手を振りながら、リコちゃんは笑顔で帰って行きます。
「また明日ね」
陽も声をかけます。そして、笑顔で手を振りました。
ですが、なぜでしょう。
その時の陽の心は、もやもやとした感情に満たされていたのでした。