第5話 はじめて見えた靄と重い思い
翌日の朝、教室に入った陽が席に着いたのとほぼ同時に、
「はる、おはよう」
と琴美ちゃんが登校してきました。
「……おはよう」
「はるさあ、きのうも先にかえったよね」
「……」
「二組の子とかえったの?」
陽は、昨日の真尋ちゃんの言葉を思い出してどきりとしました。
「二組の子って?」
「休み時間になるとよく会っているじゃない」
「みなこちゃんのこと?」
「さあ? 名前は知らないけれど」
「ねえ、ことみちゃん」
「なに?」
「みなこちゃんのこと……いじめているって、本当?」
「はあ? なに、それ」
「二組の子に聞いたの」
「ふうん。コトミがその子をいじめているって? だれに? もしかして、みなことかいう子?」
「ちがう! みなこちゃんじゃないよ」
「だれがそんなことを言ったのかわからないけれど、コトミはいじめてないよ。だって、二組でしょ? どうやっていじめられるの?」
そう尋ねられ、陽は言葉が出てきませんでした。陽にも、クラスの違う琴美ちゃんに、どうやったら美菜子ちゃんをいじめることができるのかわかりません。それに、目の前でそう語る琴美ちゃんの表情は自信に満ち溢れていました。
『もしかしたら、まひろちゃんの思いちがいだったのかも……』
そう思えてきた陽は、
「……そうだよね。ことみちゃんが、いじめることなんてできないよね」
とつぶやくと、
「何かのまちがいだったのかも……。ごめんね」
と謝りました。すると琴美ちゃんは、
「べつにいいよ」
と、意外なほどにあっさりと許してくれたのです。
「それじゃあ、今日はいっしょにかえれるよね?」
ついで琴美ちゃんの口から出た言葉に、陽は渋い表情を浮かべつつも、先程の自分の発言を思うとただ黙ってうなずくしかありませんでした。
『まひろちゃんのかんちがいだったのかなあ』
琴美ちゃんを家の付近まで送って行った帰り道、西日を背にした陽は、周囲で鳴いているキンヒバリの声も相まって追い立てられるような心持ちで家路を急いでいました。
『ことみちゃんはわがままだけれど……』
それだけで美菜子ちゃんをいじめているとは言えないのではないかと、陽は思ったのです。
『それに、どうしてみなこちゃんをいじめるの?』
美菜子ちゃんとまったく接点のない琴美ちゃんが、美菜子ちゃんをいじめる理由が陽にはわかりません。
「ふう……」
考え過ぎたことと、いつもよりも多めに歩いたこととで疲れてしまった陽は、その場に立ち尽くしました。動きを止めてぼうっとしていると、キンヒバリの声が先程よりもはっきりと聞こえてきます。声を辿って見れば、川原が目につきました。
『あ、ここ……』
そこは、陽にとって思い出深い場所です。まだ陽が幼稚園に通っていた頃、この場所で片翼の紳士と出会ったのでした。
「あ、ケンタロー!」
川原には先客がいました。
頭の先から足の先まで黒い毛に覆われた、大きな犬です。その大きさは、立ち上がったなら、陽の身長などゆうに超えるだろうと思われるほどでした。
陽は、白猫の親子と同じ時期に、この黒い犬と知り合ったのです。
初めは、この犬を「ケン」と呼んでいたのですが、それでは物足りないと思った陽は「タロー」をあとからつけました。「タロー」は強い、というイメージが陽にはあったからです。
「ケンタロー」
呼びながら近づき、まったく恐れることもなくその硬い毛並を撫でてやりました。ケンタローは、ただ黙ってされるがままになっています。
陽は、まず脇腹の辺りを撫でました。その後、頭を撫で、背中を撫で、尻の辺りまで手を伸ばします。ふさふさの尻尾に触れた時、ケンタローは初めて短い唸り声を上げました。そこで、陽はぴたりと手を止めます。
「ケンタロー、しっぽはいやなの?」
ケンタローは何も言わず、目を細めて、そよそよと吹く風を感じているようでした。
「そっか。されたらいやなことって、あるよね」
ケンタローの背中に手を置いたままうつむく陽を、ちらりと、振り返ったケンタローの黒い目が見つめました。
「……ことみちゃんは、本当にみなこちゃんをいじめているのかな。でも、いじめって、いじめられた人はいやな気持ちになるよね。されたらいやなことだって、知らないのかなあ……」
されて嫌だと思うことなら人にするはずがないと、陽はそう思いました。ですから、もしも琴美ちゃんが美菜子ちゃんをいじめているのだとしたなら、琴美ちゃんはいじめが良くないということを知らないのではないかと思ったのです。
「あ、そうか……」
陽は思い出したように、自らの胸にそっと手を当てます。すると、白い光とともに現れた望遠鏡は、どんどんと地平線の彼方まで伸びていきました。しばらくして、接眼レンズの部分が陽の目の前ににょきっと現れます。
『……みなこちゃん』
レンズをのぞきながら、陽は美菜子ちゃんに思いを馳せました。
「あ、みなこちゃん……」
美菜子ちゃんの姿が見えてきました。久しぶりのことに、映像が見えた瞬間、陽は思わず望遠鏡から手を放してしまいました。しかし、望遠鏡が地に落ちることはなく、ふわりふわりと宙に浮かびながらゆっくりと下降していきます。それを、陽はそっと受け止め、再び望遠鏡をのぞき込みました。
「みなこちゃん……」
陽がつぶやきます。
「……どうして……?」
困惑する陽の目の前で、美菜子ちゃんは一人で泣いていました。両手で顔を覆い、わんわんと泣いているのです。
「やっぱり、いじめられているの……? まひろちゃんが言ったことは、本当だったの?」
尋ねても返事などあるはずがありません。ただ、あんなふうに泣きじゃくる美菜子ちゃんの姿を見るのは初めてでした。
「みなこちゃん。なんで……なんで、ないているの?」
そうつぶやいた時です。突如、望遠鏡の向こうの映像が途切れました。
「え、あれ……?」
壊れてしまったのかもしれない……そう思って焦る陽の目に、ほどなくして別の映像が飛び込んできたのです。
それは、昼休みの教室のようでした。そこには美菜子ちゃんがいます。美菜子ちゃんは、唇を噛みしめてうつむいていました。よくよく見ると、目の前の席に座る男の子が、美菜子ちゃんの前に置かれた皿の上のパンに牛乳をかけて遊んでいるのです。にたにたと厭らしい笑みを浮かべながら、それにスプーンを突き立てているのでした。
陽の目に、涙が込み上げてきました。
と、次の瞬間、また映像が切り替わりました。
今度は、体育の授業風景のようです。みんな体操着に着替えて校庭に出ていました。かけっこの授業のようです。
「あ……っ!」
陽は思わず声を上げました。美菜子ちゃんが転んだからです。けれども、それはただ転んだのではありません。隣を走っていた男の子が、明らかにコースをはみ出して美菜子ちゃんに体当たりしてきたのです。
その後も、何度か映像が切り替わりました。そのたびに、陽は、美菜子ちゃんが男の子たちに陰湿ないじめを受けているところを見せられたのです。
「なんなの……なんなの、これ!」
堪えきれなくなった涙が、陽の頬を濡らしました。
陽は、これまでにもたくさん泣いてきました。悲しくて泣きましたし、嬉しくて泣いたこともあります。ですが、この涙は今まで流してきたどの涙とも違うものでした。
「なんなの! みんなして! みなこちゃんが何をしたっていうの!」
陽は、いじめられている美菜子ちゃんの気持ちを考えて悲しくなりました。そして、大好きな美菜子ちゃんをいじめている男の子たちへの怒りの感情が、陽に涙を流させていたのです。
「ひどい……ひどいよ!」
陽は、もうこれ以上、美菜子ちゃんが酷い目にあっているのを見たくないと思いました。ですが、それと同時に、男の子たちはどうしてこんなことをするのかということが気になったのです。すると、望遠鏡の向こうの映像が切り替わりました。
まず、いじめっこの一人が映し出されました。
その子は、まだ小学生だというのに塾通いをしていました。
近所の友達は学校から帰ると遊びに出かけられるのに、自分だけ行けないという気持ちが重く伝わってきました。
二人目は、お父さんとお母さんらしい人たちが喧嘩をしているのを隣の部屋で見ながら、頭を抱えていました。
三人目は、薄暗い部屋の中、コンビニで買ったお弁当を一人で食べていました。
まったく違ったこの状況ですが、ただひとつ共通して感じたのは、
「みんな、悲しいんだ……」
ということです。
「あ……あれ?」
陽は目をこすりました。
何度もこすりました。こすっては望遠鏡をのぞき、またこすってはのぞくという行為を繰り返します。
「……あれ?」
陽は首を傾げました。
この時、陽の目にはうっすらと靄が見えていたのです。
レンズの曇りかと思って拭いてみたりもしたのですが、その靄は一向になくなりません。
黒っぽい、灰色のような薄い靄が、男の子たちの周りを取り囲むように見えていたのでした。
それから、靄の他にもうひとつ、男の子たちに共通して見えるものがありました。
「……ことみちゃん」
そうです。美菜子ちゃんをいじめていた男の子たちはみんな、琴美ちゃんと仲良さそうに話していました。
『うざい子がいるの』
琴美ちゃんの声が頭に響きます。
『みなこって子。コトミのこと、ばかにするの』
陽は驚きました。
馬鹿にするも何も、美菜子ちゃんと琴美ちゃんはお互いを知りません。話したことなどなかったはずなのです。
『コトミちゃん、そいつにいじめられているの?』
『ひどいな、そのみなこってヤツ』
『仕返ししてやろうぜ!』
「やめて……!」
男の子たちの話が聞こえてきて、陽は堪らずに叫びました。
「まひろちゃんの言っていたこと、本当だったんだ……」
そう確信した瞬間、陽は思わず望遠鏡から目を離しました。
早まった鼓動が耳元で聞こえるようです。がたがたと肩を震わせ、それでも望遠鏡を手放すものかと両手でしっかりとつかみました。いろんなものを見せられて心が疲れているのでしょうか。望遠鏡がいくらか重みを増したように感じました。
「……ことみ、ちゃん……」
もう一度望遠鏡をのぞきます。琴美ちゃんが映し出されました。ですが、一分もしない間に目を背けてしまったのです。
足に生温かいものが触れました。
そちらを見ると、ケンタローが大きな舌で陽の脹脛辺りを舐めています。
陽は、ケンタローの心遣いを感じて、その頭をそっと撫でてやりました。その途端、望遠鏡はみるみる縮んでいき、陽の胸に吸い込まれるように消えていきました。
ふと辺りを見渡せば、いつの間にかキンヒバリの声がやんでいます。空を見上げると一番星が目につきました。それを見つめながら今見たものについて考えます。
「黒かった……」
つぶやきました。
「男子たちとは、ちがう」
琴美ちゃんの周りにも、靄が漂っていました。
「黒い……黒い……」
そうつぶやいた声を、風がさっとさらってどこかへと運んでいきます。それきり、陽は黙り込んでしまいました。
そうして、これまで感じたことのない重い思いを抱きながら、陽は夕闇の押し迫る道をとぼとぼと帰って行ったのでした。