第4話 はじめての不思議な友達
「お母さん、行ってきます」
ランドセルを背負った陽が元気よく玄関に向かいます。
「もう行くの? 今日は早いのね」
お母さんも、そんな陽を追って玄関に向かいました。
「うん。今日から三年生だもの」
「そうね。今日からクラス替えだものね」
「うん」
「今日もお母さんは仕事で遅くなるから、家に帰ったらしっかり戸締まりをするのよ」
「うん」
「おやつは冷蔵庫に入れておくからね」
「うん」
陽の家にお父さんはいません。
陽がずっとずっと小さい時に、病気で亡くなってしまったのです。
ですから、お母さんは陽のためにも働かなければなりませんでした。
お母さんは、陽がまだ小さい時には時短勤務で早めに帰宅できていたのですが、一年ぐらい前からは通常の勤務時間に戻っていたのです。
陽は、二年生の頃から「鍵っ子」です。
「美菜子ちゃんと同じクラスだといいわね」
「うん!」
ひときわ元気良くうなずくと、陽は手を振りながら家の扉を閉めたのでした。
学校に着くと、昇降口に人だかりができていました。
「次、三年生、五年生になる生徒は、自分の名前の書かれたクラスに入りなさい」
と、男性の先生が声を上げています。そこで、陽も人だかりをかき分けて前へ出ました。そこには木製の看板が立っていて、三年生と五年生に分けて名前がびっしりと書かれていたのです。陽の名前はすぐに見つかりました。
「あ、あたし、一組だ」
三年一組の列の二番目に「一ノ瀬陽」の名前がありました。
「自分のクラスがわかったら、そのクラスに入りなさい。あとで新しい先生が挨拶に行くからな」
先生がそう言うので、陽は人の波からなんとか逃れて階段を上がりました。三年生の教室は二階にあるのです。
「あ、みなこちゃんのクラス……」
美菜子ちゃんのクラスも確認するつもりでしたが、今さら戻ることはできません。仕方なく陽は、階段を上ってすぐの三年一組の教室へと入ったのでした。
『また窓際だ……』
そう思いながらランドセルを机の横にかけます。一年生や二年生の頃は、学年の初めは必ず窓際の一番前の席でした。けれども、今回は陽の前に別の女の子がいます。彼女はもうすでに席に着いていて、ふわふわのツインテールの後ろ姿がとても可愛らしく、印象的でした。
陽は短い髪形しかしたことがありません。
しかし、それを髪形といってよいのかすら怪しいものです。なぜなら、陽の髪は、「ただ短くする」ということだけを求めているお母さんの手によって切られているものだからです。
ですから、切るたびに髪形が変わります。ただ、お母さんはもともと器用なので、髪を切ることに失敗したとしてもそれを隠す技量も持っていました。時折、陽が髪飾りをつけてくるのはそのためです。
可愛い髪形に見惚れていると、ゆらりとツインテールが揺れました。そして、
「おはよう」
くるりと振り返った女の子は、これまたえくぼの愛らしい子でした。
「お、おはよう」
「ねえ、前は何組にいたの?」
「三組」
「そうなんだ! コトミは五組にいたんだよ」
「五組! なら、まひろちゃんとしのちゃんのこと、知っている?」
「うん。同じクラスだった」
「なかよかった?」
「べつに。ふつう、かな。だって、いつも二人でいるんだもん」
「へえ、そう……」
「はる、っていうの?」
ツインテールの女の子は、陽の机に貼られた名札を見つめています。
「そうだよ。……ことみちゃん、っていうの?」
先程、女の子が自分のことをそう呼んでいたのを思い出して尋ねますと、
「うん! あいざわことみっていうの」
と言いながら、自分の机を指差しました。見ると、そこには「相沢琴美」の名札が貼られています。
「なかよくしようね。ね? はるちゃん」
そう言って見つめてくる琴美ちゃんは、本当に愛くるしい笑顔を湛えていました。
「はる、帰ろう!」
前の席の琴美ちゃんと友達になって一週間、陽は毎日琴美ちゃんと一緒に学校をあとにするようになりました。
「ことみちゃん、今日もいっしょに帰るの?」
「あたりまえでしょ」
陽は琴美ちゃんの言葉に渋い表情を浮かべました。
「おうちが近い人と帰ったらいいんじゃない?」
「どういうこと? はるはコトミと帰りたくないの?」
「だって、あたしのおうちと方向がちがうんだもん」
そうです。陽と琴美ちゃんとでは、帰宅の方向がまるで正反対なのでした。
陽は正門から帰りますが、琴美ちゃんは裏門から家へと向かいます。陽が琴美ちゃんと帰る時、いつも裏門から帰るのですが、それだけで琴美ちゃんは満足しません。何だかんだと駄々をこね、必ず琴美ちゃんの家の近くまで陽に送らせるのです。そのあとで陽は自分の家に帰るのですが、道に迷わないように来た道を戻って帰ろうとすると、一度学校に戻ることになります。それから家路に着くので、だいぶ遅い帰宅となってしまうのでした。
「お母さんにもね、もっと早く帰りなさいって言われているの」
この間、たまたまお母さんの方が早く帰宅していたことがあったのです。その時に、学校が終わったらまっすぐに帰って来るよう言われたのでした。
「なんで!」
陽は目をぱちくりとさせました。琴美ちゃんが、突然大きな声を上げたからです。
「やっぱり、はるはコトミと帰りたくないんだ! コトミといっしょがいやなんでしょ!」
あまりの大声に、クラス中の視線が陽と琴美ちゃんに集中しました。
「なに、なに? どうしたんだ?」
「ことみちゃん、どうしたの?」
クラスの子たちが集まってきました。
「はるが、コトミといっしょに帰りたくないって言うの!」
そう叫ぶ琴美ちゃんの目には涙が浮かんでいます。
「え、なんで?」
「ひどいな」
「なんでそんなこと言うんだよ!」
陽の話も聞かずに、集まってきた男子たちがこぞって陽を責め立てます。
「だって、方向がちがうから……」
「ことみちゃんがかわいそうだろ!」
話をまったく聞いてもらえないことに悲しみを感じたものの、涙は不思議と出てはきませんでした。悲しみよりも、得体の知れない違和感を強く感じていたからかもしれません。
それは、陽が感じた初めての感情でした。
そして、それを陽は、ただ漠然と「気持ち悪い」と感じていたのです。
仕方なく、陽はこの日も琴美ちゃんと一緒に帰ることとしました。
翌日から、陽と琴美ちゃんの関係は微妙に変わりました。
これまでは、休み時間ごとに琴美ちゃんと一緒に過ごしていたのですが、休み時間になると陽がすぐに席を立ち教室を出て行くようになったのです。そうして向かったのは隣の教室でした。
ちらりと、開いている教室から中をのぞくと、窓際から三列目、前から二番目の席に座っている女の子が見えました。
美菜子ちゃんです。
「だれかさがしているの?」
そう声をかけてきたのは、そのクラスの男の子でした。その声が美菜子ちゃんの耳にも届いたのでしょう。がたりと椅子を引くと、美菜子ちゃんが廊下まで出て来てくれました。
「はるちゃん、ひさしぶり」
「うん。春休みもあったものね」
「はるちゃんは何組になったの?」
「あたしは一組だよ」
「じゃあ、となりだね」
「うん。きのう、みなこちゃんを見かけたの。二組に入って行くのが見えたから」
「そっか。それで来てくれたのね」
「うん」
そう言って二人は笑い合いました。そして、陽は気づきます。
『なんか、かるい……』
心が軽くなるのを、陽は感じていました。それは、たとえるなら、持たされていた荷物を下ろした瞬間のようです。また、まるで背中に羽でも生えたかのような軽やかさでもありました。
十分にも満たないわずかな時間でしたが、美菜子ちゃんと過ごすひと時は陽の心を軽くし、ぽかぽかとした陽だまりのような温かさで包み込んでくれたのです。
休み時間が終わって自分の席に戻ると、
「どこに行っていたの?」
と琴美ちゃんが話しかけてきました。目を吊り上げ、口をへの字に歪めています。この表情を陽は知っていました。
「二組だよ」
「何をしに?」
「友だちと会っていたの。……ねえ、どうしておこっているの?」
そう、琴美ちゃんは目に見えて怒っています。一年生の時に怒らせてしまった美菜子ちゃんと同じ表情で、陽を睨みつけているのです。ただ、あの時と違うのは、怒らせた原因がどこにあるのか陽自身がわからないということでした。
「友だちってだれ?」
「……みなこちゃんっていう子だけど。ことみちゃん、知っているの?」
「知らない! そんな子」
陽には、まったく訳がわかりませんでした。
琴美ちゃんがいったい何を言っているのか、何を言おうとしているのか、考えれば考えるほど混乱するばかりだったのです。
「あ、はるちゃん」
ある日の放課後、二組の教室をのぞいて最初に目が合ったのが真尋ちゃんでした。
「まひろちゃん! まひろちゃんも二組なんだね」
「そうだよ。しのちゃんも同じなの」
「そうなのね。あ、ねえ、みなこちゃんはいる?」
「……もうかえったよ」
「え、そうなの?」
一緒に帰ろうと誘いに来たのですが、ひと足遅かったようです。
「はるちゃん、いいの?」
「なにが?」
「だって、はるちゃん、いつもあの子とかえっているじゃない」
「あの子って、ことみちゃんのこと?」
「うん」
「まあ……でも、いつもいっしょにかえらなくてもいいでしょ?」
「それをあの子がゆるせば、ね」
「ゆるすって、どういうこと?」
「はるちゃん、知らないの?」
「え、なに?」
「あの子ね、去年まで五組だったの」
「聞いたよ。まひろちゃんやしのちゃんと同じクラスだったんでしょ?」
「うん」
ふと、真尋ちゃんが辺りをきょろきょろと見回したかと思うと、教室から離れて廊下の隅まで陽を連れて行きました。そして、小声で続けます。
「だから……ねえ、はるちゃん。あんまりなかよくしない方がいいよ」
「……何かあったの?」
「んとね、あの子……わがままなの」
同じクラスになってから半年あまりが経ちます。なので、真尋ちゃんの言うことが事実であることは、陽にもよくわかっていました。琴美ちゃんは、自分の思い通りにならないとすぐに癇癪を起こすのです。
「あとね、すっごく『おひめさま』なの」
「おひめさま……?」
「あの子って、かわいいでしょ? かわいいから、何をしてもいいって思っているみたい」
「え、そんな……」
そんなことないでしょ、と言おうとした言葉を陽は呑み込みました。
同じクラスになって間もなくのこと、一緒に帰宅することを拒んだ陽に対して、琴美ちゃんは大声を上げて泣き喚き、激しく非難したことがありました。しかし、陽はごく当たり前のことを主張していたのです。それは、両方の話をしっかりと聞いた人ならば、どちらが正しいのか容易にわかる内容でした。
たとえ、陽と同じ年頃の子供だったとしても。
けれども、その場にいたクラスメイトたちの多くは琴美ちゃんの意見を支持しました。
「男子はとくにそうだよ」
真尋ちゃんの言葉に思い返してみると、琴美ちゃんが癇癪を起こした時、そばにいて慰めているのはたいてい男の子たちだということに気がつきます。
「だからね、あの子には女子の友だちがいなかったの」
「……」
「はるちゃんは、目をつけられちゃったのよ」
「……だから、なんだね」
「え?」
「だから、どうしていいかわからないんだ」
真尋ちゃんは、琴美ちゃんには女の子の友達がいないと言いました。幼稚園以前のことはわかりません。けれども、少なくとも小学校の中にはいないのでしょう。
陽は思いました。きっと、琴美ちゃんにとっては陽が初めての女の子の友達だから、どういうふうに接したらいいのかがわからないでいるのだろうと。
「ことみちゃんはわがままだけれど……でも、いいところだってあると思うの」
とは言うものの、陽にもまだ確信はありません。
『ことみちゃんにも、いいところ、あるよね……』
そう思っていると、
「あの子にいいところなんか、あるかなあ」
と、真尋ちゃんがぼやきます。そこで、陽はこくりとうなずきました。
「あるよ。きっと。いいところのない人なんかいないんだって、お母さんが言っていたもの」
「ふうん」
にこりと笑った陽に、真尋ちゃんは反対に目つきを険しくして言います。
「なら、教えてあげるね」
そう前置きをしたあとで語られた真尋ちゃんの言葉に、陽は全身を固まらせました。
ちょうどその時、下校のアナウンスが校舎内に響き渡ります。速やかに帰りましょうと、落ち着いた女性の声が告げていました。
「それじゃあ、はるちゃん。またね。さようなら」
手を振りながら帰って行く真尋ちゃんの後ろ姿を見つめながら、陽はしばらくの間動くことができませんでした。頭が、ぐるぐると何度も真尋ちゃんの言葉を反芻します。
――みなこちゃんね、ことみちゃんにいじめられているよ――
重しのようなその言葉を胸に抱きながら、陽はとぼとぼと下校の途に着いたのでした。