第2話 小学校、はじめての友達
女の子の名前は、一ノ瀬陽と言います。
彼女は、この春、小学校に上がりました。
「いってらっしゃい」
玄関の扉を開け、笑顔で見送るお母さんに黄色い帽子が振り返ります。そして、大きな目が、そんなお母さんを不思議そうに見つめていました。
「おかあさんは?」
陽が言います。
「おかあさんはいかないの?」
「お母さんは行けないのよ」
苦笑するお母さんを前に、陽はまたも首を傾げました。
「お母さんは生徒じゃないから、学校には行けないの」
「だって、きのうはいっしょにいったでしょ?」
「昨日は入学式だったでしょう?」
「……ふうん」
「特別な日だったからね」
「とくべつだといっしょにいけるの?」
「そうね」
「なら、きょうもとくべつじゃだめ?」
お母さんは笑って、
「だめよ」
そう言いました。
「陽ちゃんだけお母さんと一緒に学校に行ったら、みんなに笑われちゃうもの」
「でも……」
「ほらほら、顔を上げて。もうお姉さんなんだから」
「うん……」
「陽ちゃん」
お母さんはしゃがみ、陽と目線を合わせると、
「下を向いていてはだめ」
と言いました。
「神様の光はここから入ってくるのよ」
お母さんが陽の頭の頂きを撫でます。
「地面ばかり見ていたらね、光が流れていかないの。そうしたら、神様の光が充分に伝わらなくなってしまうのよ」
「……そうなったら、どうなるの?」
「暗くて、悲しい思いばかりが込み上げてくるようになるの。そんなの、嫌でしょう?」
「うん」
「なら、顔を上げて」
「うん」
陽はうつむいていた顔を上げました。そして、にこりと笑うと、
「いってきます!」
お母さんに手を振りながら、元気に出かけて行ったのでした。
「あ、ミイちゃん!」
途中、土手に白い子猫を見つけました。近くには、同じ毛並みの母猫と、茶色の子猫もいます。
陽に気づくと、白い子猫は「みぃ」と鳴きながら、陽の足にすり寄りました。
「チロちゃん」
そう呼んだのは、母猫の後ろに隠れるようにしてこちらをちらりとのぞいている茶色の子猫のことです。
「キラリちゃんも、おはよう」
その言葉に、母猫は目を細めると、「にゃあ」と一声鳴きました。
この子たちは、陽が数ヶ月前に知り合った猫の親子です。
母猫の目は金と緑のオッドアイで、目を動かすたびにキラキラと光っているように見えることから、陽は「キラリ」と呼んだのでした。
「くすぐったいよ」
ミイが体をこすりつけるので、陽はそっと頭を撫でてやりました。その光景を、キラリは目を細めて見ています。
けれども、それもほんの五分ほどのことです。
「あ、そうだ……!」
つぶやいた陽は、猫たちに別れを告げると再び歩き出します。学校に行く途中だったということを思い出したからです。
学校に着くと、陽は「一年三組」の教室に入るように促されました。
おうちから学校まで、陽の足では四十分も歩かなければなりません。それでも迷わずに来られたのは、道中、黄色い旗を振って誘導してくれた保護者の人たちの助けがあったからこそです。また、校門の前では、優しそうなお兄さんやお姉さんたちが笑顔で出迎えてくれました。
そうして、開け放たれた「一年三組」の教室へ入ると、自分の名前が書かれた窓際の一番前の席に着いたのでした。
陽が来た時には半分以上の席が空いていましたが、その後、同じように黄色い帽子を被った子たちが続々とやって来て、席を埋めていきました。それに伴い、教室中が明るい声でいっぱいになります。
すべての席が埋まった時、スーツを着たおじいさんと、お母さんよりも少し若い女の人が一緒に入って来て、教室の戸を閉めました。
「みなさん、こんにちは」
おじいさんが明るく挨拶をしました。「こんにちは」と、方々から間延びした大きな声が上がります。そんな中、陽は消え入りそうな小さな声で、「こんにちは」とつぶやいていました。
「はい、こんにちは。進学おめでとう。私は、この学校の校長先生です」
おじいさんは校長先生でした。校長先生が軽く挨拶をしたあと、促されるように女の人が教壇に立ちます。彼女は、校長先生にも負けないぐらいの明るい声で、
「こんにちは!」
と挨拶をしました。また、あちこちから「こんにちは」という声が響きます。女の人は微笑み、背後の黒板にチョークで文字を書き出しました。そこには、「やまもとれい」と書かれています。
「やまもと、れい!」
後ろの席から声が上がります。
「あら、平仮名が読めるの? 凄いわね」
声を上げた子へ拍手を送ったのち、
「そう。私の名前は、山本玲です」
と言いました。
「今日からみなさんの担任となります。私のことは玲先生と呼んで下さいね。みなさん、仲良く、元気に、一緒にお勉強していきましょう」
先生がそう言うと、また一斉に教室中が賑やかな雰囲気に包まれたのでした。
陽は、内気で引っ込み思案なところがあります。
ただの一人とも口を利くことなく、とうとうお昼休みになってしまいました。
周りを見れば、他の子たちはもうすでに仲の良い友達グループを作りはじめています。
いたたまれない気持ちでじっとしていると、
「はるちゃん」
と呼ばれた気がしました。振り向くと、教室を出たところに二人の女の子が立っています。
「はるちゃん!」
陽が気づいたのを知って、きゃっきゃと飛び跳ねて喜ぶ女の子たち。陽は席を立つと、彼女たちの方へと駆け寄りました。
「まひろちゃん、しのちゃん」
二人を前にして、その日、登校して初めて陽は笑いました。彼女たちは、幼稚園で仲良くしていた子たちです。
「はるちゃんは、さんくみになったんだね」
真尋ちゃんが言います。
「しのとまひろちゃんはね、ごくみなんだよ」
志乃ちゃんが教えてくれました。
「そうなんだ。おなじで、いいね」
「うん!」
真尋ちゃんと志乃ちゃんがにこにことうなずきます。そして、すぐに二人は、
「じゃあね」
と手を振ると、自分たちのクラスへと帰って行きました。
取り残された陽の胸には、言い知れない不安と悲しみが沸き起こります。気がつくと、涙が頬を濡らしていました。
「えっ、どうしたの?」
たまたま通りかかった女の子が、突然泣きはじめた陽を見てびっくりしています。
「どこかいたいの? だいじょうぶ?」
陽は、両手で涙をぬぐうと答えました。
「うん。だいじょうぶ……」
「ねえ、おなまえは?」
「いちのせ、はる」
「はるちゃんね。あたしは、さくらみなこ」
「みなこ、ちゃん……?」
「うん。それでね、あたしはこのクラスなの」
そう言って佐倉美菜子ちゃんが指し示したのは、「3組」の教室でした。
「え……みなこちゃん、さんくみなの?」
「そうだよ」
「……いっしょだあ」
「え? はるちゃんもさんくみなの?」
「うん」
「おせきは、どこ?」
「あそこだよ」
陽は、窓際の一番前の席を指差しました。
「うそお!」
美菜子ちゃんが黄色い声を上げながら、教室の中へと飛び込みます。そして、
「あたしは、ここだよ!」
と言ったのが、陽の席からひとつ置いて隣の席だったのです。
その日から、陽は休み時間のほとんどを美奈子ちゃんと過ごすようになりました。
陽が小学校に上がって半年が経ったある日のことです。
小学校の正門を出ると、すぐ脇に小さくて古びた書店があります。そこは、下校途中にある小学生たちの憩いの場となっていたのでした。
書店の名前は「わたぬき」。
ですが、訪れる小学生の誰もが、その店を本屋さんとして認識してなどいなかったでしょう。なぜなら、小学生たちの目当ては本を読むことではなく、他にあったからです。
そう、駄菓子です。
店の扉を開けて入るとすぐに、ところ狭しと並べられた駄菓子の山が子供たちを迎え入れてくれていました。
その奥には、文房具が置かれています。
キャラクターを象った消しゴムに、ラメをあしらった鉛筆。華やかなデザインのノートに、色とりどりのメモ帳までが置かれていました。鉛筆の先が折れないように保護するためのキャップは、まるで宝石のようにきらきらと輝いています。
子供たちの目を引くような物ばかりで溢れているのでした。
「ねえ、入ろうよ」
下校途中、「わたぬき」の前で美菜子ちゃんが言いました。
「え、でも……」
陽は思い出します。帰りの会の時に、玲先生が言ったことを。
「よりみちしたらだめだよ」
「なんで? だって、みんないるよ?」
「でも、せんせいが……」
「だいじょうぶだよ。だって、みんないるもの」
そう言われて、陽は何も言えなくなってしまいました。
「はるちゃん、はやく」
美菜子ちゃんが扉の前で手招きしています。そこで、陽は、後ろめたい気持ちを残したまま美菜子ちゃんと一緒にお店の中へ入って行ったのでした。
「こんにちは」
お店に入ると、店員のおばさんがにこにこと迎え入れてくれます。
「おや、君たちは一年生だね。一年生のお客さんは珍しいねえ」
陽はどきりとしました。慌てて辺りを見回します。おばさんの言葉を裏づけるように、黄色い通学帽を被った子は自分たち以外には一人もいませんでした。
「み、みなこちゃん……」
もう帰ろう、と美菜子ちゃんの袖をつかみかけた時、彼女は他の物には目もくれず、どんどん奥の方へと歩いて行ってしまいました。
「あ……っ」
置いて行かれたくなかった陽は、小走りで美奈子ちゃんのあとを追います。美菜子ちゃんは、店の奥の文房具売り場のところで立ち止まっていました。
「みなこちゃん。やっぱり、もうかえろうよ」
「ねえ、はるちゃん。おかねもっている?」
唐突な言葉に、陽はきょとんとして首を振ります。
「ないよ」
「だよね」
「なにかほしいの?」
「うん。このけしゴム」
美菜子ちゃんがそう言って手にしたのは、星型のキャラクターが描かれた黄色の消しゴムでした。
「ひゃくえん、あればかえるのに」
「え、そうなの?」
「うん」
「なら、おかあさんにいってみたら?」
「いったよ。でも、だめだって」
「え……どうして?」
「わからないよ」
「でも……ひゃくえん、だよね?」
陽には、百円というお金は高価なものではないという認識がありました。
それなのに、美菜子ちゃんのお母さんは、どうしてそれを美菜子ちゃんに与えないのでしょうか。もしかして、美菜子ちゃんのおうちは、とても貧乏なのでしょうか。
いろいろと考えているうちに、陽は、美菜子ちゃんがとてもかわいそうに思えてきたのです。
「おかあさんにいってみる」
意を決したように陽が言いました。
「おかあさんなら、きっとだしてくれるよ」
「ほんとうに?」
びっくりしたような美菜子ちゃんの大きな目が、陽を見つめています。
「うん。おうちにかえったら、おかあさんにひゃくえん、もらってくるね」
「いいの?」
「きっと、だいじょうぶ! またあとで、ここでね」
そう言うと、陽は美菜子ちゃんと別れました。
『ひゃくえんぐらい、おかあさんがだしてくれる!』
陽は、そのことを、まったくといって良いほど疑いませんでした。お母さんを説得できると、完全に信じ切っていたのです。
なぜなら、陽にとって、これは人助けだったからです。人助けは良いことであり、これは決して悪いことのはずがないという思いがあったからです。
だからこそ、陽は大きな衝撃を受けました。
「だめよ」
陽の話を聞いたお母さんは、真面目な顔でそう告げました。
「え……?」
驚きに目を見開く陽。しばらく言葉が出てこない彼女でしたが、お母さんが別の仕事に戻ろうとするので、それを急いで引き止めて言いました。
「……どうしてっ?」
お母さんがこちらに振り返ります。
「だって、みなこちゃんがこまっているんだよ? どうして?」
はらはらと、大粒の涙が陽の目から溢れ出します。それを見つめながら、お母さんは苦笑を浮かべてその場に座りました。
「陽、ここに座りなさい」
陽は、びくっと肩を震わせました。おそるおそる言われたようにすると、お母さんは真面目に、けれども穏やかな口調でこう言ったのです。
「お母さんはね、美菜子ちゃんのおうちにお金がないとは思わないわよ」
まるで、陽の心を見透かしたかのような言葉に、陽は涙を浮かべた目でお母さんのことをまじまじと見つめます。
「美菜子ちゃんのお母さんが買わないと言ったのはね、それが美菜子ちゃんにとって不要な物だと思ったからなのよ」
「ふよう……?」
「要らない、ということ」
「でも、みなこちゃんはほしいって……」
「美菜子ちゃんは、きっと、たくさん持っているのかもしれないわね。同じものではないと思うけれど、似たような物をね」
「……」
「だから、美菜子ちゃんのお母さんは、もうこれだけあれば充分でしょうと思っているのかもしれないわ」
「……」
「だからね、美菜子ちゃんのお母さんが要らないと言っている物を買ってあげることはできないの」
「……うん」
陽は、一応はうなずきました。そして、乾いた涙をぬぐいます。それで一件落着したと思ったのか、お母さんが仕事の続きをするために立ち上がりました。
「おかあさん……っ」
「どうしたの?」
「あたし、がっこうにいってくる」
「え、どうして?」
「いかないと……」
「何を言っているの。だめよ、もう夕方だから」
「でも……」
その時、都合の悪いことに電話が鳴り響きました。お母さんが電話機まで駆け寄ります。
「おかあさん!」
陽が声を上げます。
「あたし、やくそくしているの……っ」
直後に、お母さんは受話器を取りました。それはお母さんのお友達からの電話です。陽の声は、電話に出たお母さんの声に、無情にもかき消されてしまいました。
陽は、階段を上り、とぼとぼと自分の部屋へと向かいます。この電話は、すぐには終わらないだろうことがわかっていたからです。
ランドセルを床に置いて、ベッドに腰かけます。そして、美菜子ちゃんのことを思いました。
「みなこちゃん……」
陽が胸に手をあてると、白い光の筋が伸びてきます。それは、どこまでもどこまでも伸びていき、しだいに望遠鏡の形となりました。眼前に現れたレンズに片目を近づけてのぞき込みます。その向こうには、美菜子ちゃんの姿が見えました。
美菜子ちゃんは、「わたぬき」のお店の前にいます。辺りをきょろきょろとしています。彼女は、何かを待っているようです。いえ、何か、ではありません。待っているのは、陽です。陽のことを待っているのです。
「みなこちゃん……っ」
冷めたばかりのまぶたに、また熱がこもります。先程流した涙の痕を辿るように、またもとめどなく涙が零れ落ちていきました。
携帯電話も持たされていない陽にとって、美菜子ちゃんと連絡をとる術などあるはずもありません。お母さんからはお金をもらうこともできませんでしたし、美菜子ちゃんに消しゴムを買ってあげることもできないのです。けれども、それならそれで、せめて美菜子ちゃんのもとに行ってあげたい、と陽は思いました。約束を破った上に、美菜子ちゃんを一人で待たせ続けていると思うだけで、陽の胸はトンカチで叩かれているかのように痛んだのです。
それでも、現実として、陽にはどうすることもできません。
ただ、ここで、レンズの向こうの美菜子ちゃんの様子を眺めることしか、陽にはできないでいたのでした。