成長した少女と片翼の紳士
あんなに小さくて、あんなに無邪気で無垢だった少女も、もう十八歳になりました。
高校も無事に卒業し、今年の春からは大学生です。
そんな節目にあって、陽は一人、思い出の川原に来ていました。
「静かね」
陽のつぶやき以外に聞こえるものと言えば、そよ風が草花を揺らす音と鳥の鳴き声ぐらいです。
近くの小学校も春休みに入っているので、近所の子たちが川原を遊び場代わりにしているのではないかと思ったのですが、この時は誰もいませんでした。
陽は、手の中にある望遠鏡を見つめます。
それまではじっくりと見たことがなかったのですが、その望遠鏡はアンティークな造りをしていて、レンズの周りは輝くばかりの金で縁取られていました。しかも、その中には、よく見ると天使の羽根のような模様がいくつも彫り込まれています。
これまでレンズは、目に届かないぐらいずっと先にあったので、こうして望遠鏡の全体像を目にしたのはこれが初めてでした。
今、陽の手の中にある望遠鏡は、長さ五十センチ、周囲十五センチほどのものです。重さは、広辞苑一冊分ぐらいはありました。
『いつの間にか、こんなに短くなっている……』
久しぶりに取り出して見た望遠鏡の姿に、陽は驚きました。
二年あまり、陽は望遠鏡をのぞいていません。望遠鏡をのぞくたびに重さが増すことは以前から知っていましたが、その長さも縮んでいることを知ってからは、できるだけのぞかないようにしようと思ったのです。のぞき続ければ、それだけ早く望遠鏡が陽のもとから消えてなくなってしまうように思ったからです。
『最後に見た時は、まだ、ずっとずっと長かった』
重さも、今よりもずっと軽かったはずです。
のぞいていないのに、望遠鏡は短く、そして重くなっていたことに、陽は少なからず衝撃を受けました。
「あ、そっか……」
唐突に得心がいきました。
『のぞいていなかったわけじゃ、ない』
そう、思ったからです。
陽には、ずっと見えていたのです。
人の、心の乱れが。
小学生や中学生の頃には、望遠鏡をのぞかなければ見ることができませんでした。けれども、高校生になってからは、望遠鏡なしに視認することができるようになっていました。ですが、それもきっと、胸の内にしまった望遠鏡をのぞいて見ていたにすぎないのです。だから、望遠鏡は力を使った分だけ短くなり、そして重くなっていったのでしょう。
望遠鏡が陽に見せたのは、心の乱ればかりではありません。心の豊かさもまた、望遠鏡を通して感じることができました。
陽は、人の心の闇に触れた時、いつも考えました。
この闇を打ち払うにはどうしたらいいのか。この人はどうしたら幸せになれるのか、と。
望遠鏡は、そのために陽が何をするべきなのか、そのためのヒントをたくさんくれました。
――君は、知る必要があるようだね。
光の世界しか知らなかった頃。
闇が存在することなど考えもしなかった、純粋無垢な幼い少女の頃……。
この場所で出会った、自分のことを天使と言っていた、片翼の不思議な紳士……。
彼は、自分の片方の翼を望遠鏡に変えて陽に託しました。
『こんな話、誰も信じないわよね……』
陽自身、あのできごとは夢だったのではないかと思うこともあります。けれども、望遠鏡は確かに陽のもとにあるのです。
望遠鏡を見るたびに、あれが夢ではないことを、何度も思い知らされてきました。
「私に教えたかったことって、なあに?」
陽は、虚空に問いかけます。
ざざっと、風が草花を揺らしながら、陽の頬を撫ぜていきました。
「私は、この力のおかげでいろんなものを見てしまった。気づかないままでいられたなら、楽だったかもしれないのに」
陽の脳裏に、これまで望遠鏡を通して関わってきた人たちの顔が次々に浮かんできます。
初めは、犬と猫の喧嘩でした。望遠鏡をのぞくことでそれぞれの思いを知ることができ、犬と猫を仲直りさせてあげることができたのです。
小学生の頃に一番望遠鏡の力を使ったのは、琴美ちゃんに対してでしょう。それから、美菜子ちゃんに対してです。琴美ちゃんにいじめられている美菜子ちゃんを助けたいという思いから、何度も望遠鏡をのぞいては、幼いながらに解決方法を考えたことを憶えています。
中学生の頃は、小学生の頃以上にいろんなことがあったように思います。思春期特有の悩みというのでしょうか。複雑な思いをたくさん見て、感じてきました。
高校生では、性の悩みが多かったように思います。大人でもなく、もう子供でもない。そんな中途半端な肉体と精神の間で揺れる友達を、陽は目の当たりにしてきました。
靄だったり、光だったり。
靄の中にも、いろんな色があることを知りました。
見てきたもの、見せられたもの。
それらを、一言で呼ぶとしたなら……。
「愛のかたち」
声に出してみました。透明なその声が、心地よい響きを帯びて自分の鼓膜をくすぐります。
愛……。
一口にそう言っても、人によって愛の定義はさまざまです。
みやびちゃんの彼氏は大学を辞めました。今は、何かと理由をつけてはみやびちゃんにお金を出させて、好きな音楽活動に熱中しているとのことです。
それを話すみやびちゃんはとても誇らしげで、献身的に尽くす良き妻のように自分のことを認識しているようだったと、人伝に聞きました。
『でも、それじゃあ、本人のためにならない』
陽は思います。彼氏は、みやびちゃんと出会わなければ、今も医大生のままだったかもしれません。医大に入るには大変な努力と、そしてお金がかかったことだと思います。それを棒に振って、現実離れした甘い夢に魅せられて、ミュージシャンになるだなんて……。
「ばかげている」
口に出してから、言い過ぎたかなと思いましたが、それでも後悔の念は湧いてきませんでした。
『だって……』
そうでしょう? と陽は思います。みやびちゃんが彼氏に渡しているお金は、みやびちゃんのおうちのお金なのです。みやびちゃんが両親の目を盗んで、持ち出しているお金なのです。それを知りながらも、彼氏はそれを受け取っているのです。そして、大学を辞めてしまったというならば、これからもみやびちゃんに貢がせ続けられると思ったからに違いありません。
「互いに貶め合う愛なんて、間違っている」
美菜子ちゃんの友達が監禁されたという話も、思い出しました。
「相手の自由を奪うことは、愛じゃない」
お隣の家のはるかさんと菜々緒さんのことも、思い出されます。
「同性愛は、神様の目から見た正義に反する。だから、いけないのよね」
神様がこのようにありなさいと言ったことに背くことだから、その愛も間違った愛なのだと、陽は思いました。
「私は、望遠鏡を手にしてからの十五年、さまざまな人の思いに触れてきました。そして、その都度、いろんなことを考えさせられてきました。これからは、望遠鏡がなくても、その力に頼ることなく生きていけると思います」
「だから、お返しします」……と、陽は最後にもう一度、望遠鏡をのぞきました。
まず、初めに見えたのは、光です。
純白、という言葉がぴったりの、混じりけのない真っ白な光です。
陽は、この光を知っています。
小学生の頃、一人で思い悩んでいた美菜子ちゃんが解放された時、その頭上に降り注いだ光です。また、中学生の頃には、陽のクラスの学級委員長だった蓮音君を包んだ光でもありました。
次に、翼が見えました。
大きくて、豊かな、純白の羽です。ただ、それは片方にしかありません。
右肩にだけ、その翼は生えているようでした。
「お返しします」
再び口にした時、陽の手の中からぱっと望遠鏡が消えました。それと同時に、ずっしりとした重みが胸に広がります。
次の瞬間、目の前に現れたのは、純白の光をまとった紳士でした。
紳士は、もう片翼ではありません。
両肩に、立派な白い翼を生やしていました。
「やあ、久しぶりだね」
紳士が言います。
「……いいえ」
陽は、紳士の肩から生えるふたつの翼を見つめて答えました。
「ずっとそばにいたでしょう?」
尋ねる陽に、紳士は笑顔を向けるだけで何も答えません。陽としても、尋ねながら、紳士の頭上に輝く黄金の輪っかを見つめて、『こんなものあったかな』などと、場違いな思考を抱いていました。
「私ね」
と、十八歳にしては少し幼さを残す口調で、陽は話し出します。
「私、寂しいって、意味がわからなかったの」
片親で寂しいとか、お母さんが仕事から帰って来なくて寂しいとか。
それで、寂しさを埋めるために援助交際に走ったり、あるいは嘘を吐いたりして両親の気を引こうとしたり。
陽は、小学二年生の頃にはすでに鍵っ子でした。
お父さんはいないし、お母さんは仕事だし。
それでも、寂しいなんて思ったことは一度もありません。
思えば、ずっと不思議だったのです。どうして、自分は寂しさを感じないのか……と。
「簡単なことだった。だって、私、ずっと一緒にいたのだもの」
陽の言葉を、紳士はただ黙って聞いています。
「ねえ、お父さん」
そう言われて、微かに紳士の目が見開かれました。紳士のまとっている白い光が、さらにその強さを増したようです。ですが、それには目をそらしたくなるほどの刺激はありません。「まぶしい」とは感じますが、目は開けていられます。
その光は、温かく、ふわふわとしていて、とても心地の良いものでした。
「お父さん、なんでしょう?」
尋ねると、
「大きくなったね」
ずっと見守っていたよ……と、そう返されました。
やっぱり!
思うやいなや、陽は目を大きく見開くと、まるで幼子のようにその瞳からぽろぽろと滴を溢れさせました。
「私、愛なんていらないって思っていた。愛なんて、重くて、苦しくて、嫌い……」
なんでこんな言葉がでてきたのか、陽にもよくわかりません。ただ、目の前の紳士は、変わらずに微笑んだまま、
「愛は、透明だよ」
と口にしたのでした。
きょとんとした表情の陽に、紳士は続けます。
「愛は、風のようなものだよ。風は目に見えないけれど、吹けば木の葉が揺れる。頬に触れれば、ああ風が吹いているのだとわかる。見えないけれど、確かにそこに存在している」
「……」
「今の人たちは、目に見える形での愛を求める。目に見えなければ、愛ではないと思う」
ふと、美菜子ちゃんの友達のかなえちゃんが思い出されました。彼女は、束縛の激しい彼氏に監禁されたことがあるようですが、それを喜んでいたらしいのです。
……愛されている、と。
「本当の愛は、目に見えた時点でその力を失う」
「……力を、失う……?」
「愛は、愛だと気づかれた時に死ぬ。また、ひとつの場所に留まり続けてはいけない。愛は、流し続けなければならない。留めておこうとすれば、その時にも力を失う。愛を溜めておくことなどできないのだから」
「……愛を、流す……」
「愛を流すとは、愛を与えるということだ」
「……与えよ、さらば与えられん」
聖書の中の一節を思い出しました。紳士は微笑むと続けます。
「愛は、相手を思い、相手をよりよくしようとする心に生まれるもの。つまり、相手によってその形を変えていけるもの。そうであるならば、愛は決して、何人にも嫌われるものではないのだよ」
「……」
「重いと感じるなら、その愛は本物ではない。愛は、羽根よりも軽い。ただ、その軽いとは、軽視するということではない。さまざまな悩みを打ち消し、心を軽やかにするものであるということだ」
「……」
「そして、愛は尊い。なぜなら、愛とは神そのものであるのだから。愛を知るとは、神を知ると言うことに等しい」
「……神を、知る……?」
「陽」
その瞬間、陽は打たれたように紳士に向き直りました。
「もっと知りなさい」
紳士が言います。
「もっと学びなさい。人の心を。そして、神の心を」
「……」
「ここがゴールではない。ここからが、お前の人生のスタートなのだから」
陽は、まるで白昼夢でも見ているような心地でした。
本当に、この紳士は、かつて陽に望遠鏡を託した紳士なのでしょうか。
本当に、この紳士は、今日までずっと、自分のことを見守っていてくれたのでしょうか。
本当に、この紳士は、自分のお父さんなのでしょうか。
本当に、お父さんは天使なのでしょうか。
そして、何より、これらはすべて、現実なのでしょうか。
……次に目を閉じ、目を開けたら、一気に夢から覚めてしまうのではないか……そんな思いが胸に押し寄せてきました。
「あ……」
そこで、思い出したように胸に手を当てます。
温かく、ずっしりとした重みが胸の奥から感じられるようでした。
『……ある』
陽は思います。
望遠鏡は今も陽の胸の中にある、と。
『消えたわけじゃ、なかったんだ……』
そう思うと、なんだか無性に嬉しくなりました。
その時です。
「あ、一ノ瀬」
男の子の声に振り向きます。
振り返って、しばらく考えて、ようやく彼が誰なのか思い出しました。
「……蓮音君!」
言ってから、
「あ……如月君、だよね。ごめんなさい」
と謝ると、蓮音君は苦笑を浮かべながら歩み寄り、
「いいよ」
と言いました。
「中学生の頃は、この名前が嫌いだっただけだから」
それは、陽が初めて聞くことです。
「……かっこいいのに」
陽がつぶやいたのを聞いて、
「日本人離れしているから」
と蓮音君が答えました。
「キラキラネームっていうのかな。俺、嫌いだったんだ。だって、普通に読んだら、レンオンかハスネ、だろ?」
蓮音君を「レンオン」とか「ハスネ」と呼んでいるのを想像して、陽は思わず吹き出しました。蓮音君も笑って言います。
「でも、今は嫌いじゃないんだ」
「どうして?」
ここ数年でどういう心境の変化があったのかと思い尋ねると、
「去年、留学していたんだ」
と言うのです。
「アメリカに」
と続けるのを聞いて、陽は本当に驚きました。
「向こうでは、レオンってすごくメジャーな名前なんだよな。この名前のおかげで、周りともすぐに馴染めたんだよ。だから、もういいんだ」
そう答える蓮音君は、三年前よりもずっと大人びていて、さらにかっこよくなっていました。
そう自覚した途端、陽は蓮音君から目をそらします。
かっかっか、と……急激に熱を帯びていく頬を撫ぜながら、恥かしさのあまり、陽は蓮音君に背を向けました。
そこで、はっとしました。
先程まで確かにいたはずの紳士が、もうどこにもいなくなっていたのです。
喪失感に肩を落とす陽に、
「一ノ瀬?」
蓮音君が心配そうに語りかけます。
「なあ、一ノ瀬」
それから、少しばかり上擦ったような声に、陽は蓮音君に目を向けました。
「今から時間ある? 良ければさ、うちに来ないか?」
何を言われたのかぴんときていない陽に、
「海音も会いたがっているから」
と蓮音君が続けました。そこで、ようやく、家に遊びに来るよう誘われているのだと気づいたのです。
「……いいの?」
「……うん」
短い返事のあと、二人は並んで川原をあとにしました。
二人の間に、一人分の距離を保ちながら。
天候気温ともに穏やかなこの日、頬をほのかに赤く染めた一組の男女が去って行きます。
その二人のうしろ姿を見つめながら、私は思いました。
成長した娘への祝福。
そして、その娘を、素直なままに育ててくれた妻への感謝。
「愛のかたちは、人の数だけ存在する。これから先、もっと学んで、もっと知って、しっかり考えながら生きて行きなさい」
――人の心を豊かにする方法を……。
きっと、もう聞こえてはいないでしょう。
でも、届いてはいるはずだと、私は思いました。
もう、陽に……娘には、私の姿は見えません。声も聞こえません。
けれども、私は語り続けました。
「これから先も、ずっと、見守っている」
ざざっと、風が吹きました。
この風が、ずっと向こうまで吹いて行って、私の住んでいた家の方にまで吹いて行って、そして、庭に出ている妻の頬を撫でたらいいなと、想像したらくすりと笑ってしまいました。
「お前たちのことを、ずっと見守っているよ」
天を仰ぎます。
雲ひとつない青天がそこには広がっていました。
私は、ようやくそろったふたつの翼を、目一杯に広げます。
そして、まるでひと仕事終えた父親のような気持ちを胸に、白い光の中、私は大空へと駆け上がって行ったのでした。




